漢委奴国王印 いわゆる金印part2
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有意義なスレだと思ったので
勝手ながらpart2を立てました
前スレから面白い書き込みは
転用しておきますね 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>33
そりゃ違うだろ、長すぎる。
「漢の管理を委ねられた奴国王」って意味だよ。 「委ねる」の目的語がないなんてあり得ないだろ。
馬鹿なの? >>38
目的語を入れなきゃいけないなんて決まりないぞw 金印が重要で 、昔は「漢委奴国王」を
初代天皇として数えていたとすると年代が合うんだよな・・・
西暦57年 漢委奴国王(初代天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦189年頃 卑弥呼が女王になった。 漢委奴国王を初代天皇とすると
漢委奴国王が神武天皇ということになる。
西暦815年に編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
西暦57年 神武天皇が漢委奴国王になった。
西暦57年 稲飯命(神武天皇の兄)が新羅の王になった。 これ言うと怒る人もいるかもしれないが
「カミ」の語源は「漢委」の可能性もあるな。 『三国史記』新羅本紀によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
そして昔氏の始祖は、西暦57年に新羅の王になった倭人の脱解尼師今である。
西暦815年に日本で編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
一致するね! 帥である今が新羅の王
帥である升が倭の王
倭国大乱後に帥(大率)の上に君臨したのが卑弥呼
中国から見た序列ではあくまでも卑弥呼は倭王だが、東夷の世界では王の上に君臨する、皇帝や天皇のような存在だったのだろう。 『魏志倭人伝』にも卑弥呼を佐治する弟(卑弥呼の政治を補佐する弟)のことが書かれているが、
「一大率」は、伊都で佐治する人(伊都で卑弥呼の政治を補佐する人)のことだよ。
伊都佐治(いとさち) = 一大率(いったいそつ) >神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
新羅王の祖土はタバナ国、つまり丹波であり尾張氏の末裔であろう。
白村江の戦いではその新羅に日本が負けた。
天皇の国日本が一豪族の末裔である新羅に負けた。
その屈辱感から、稲飯命を新羅の祖とすることで、
神武天皇の兄の末裔に負けたのなら仕方ないという
劣等感の裏返し、それが真実であろう。 白村江の戦い
倭国は唐に敗けたのであって
新羅に敗けたという認識は無かっただろうな。(新羅は唐の属国だった) 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 倭を委と書くのは、委ねるという意味を強調するためにワザと人偏を落としただけだろうな。
この手のテクニックは仏典にも良く登場している
例えば無性法忍とかね
認ではなく忍としたのは教学的に深い意味があるのだろう
倭奴国を委奴国としたのは漢の支配に委ねられた奴国という含みを持たせて人偏を取ったと考えられる ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 真贋問題は決着
偽だと言って 世界の記憶登録申請を妨害していた人は
素直にここで ごめんなさい 言うとくんだね
歴史学者です て人は恥だからね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 歴史的に人が住んでいなかった所でポロと一つだけ拾われた古代印、
印章は姓名が彫られ、人が持っていたものだから、それにまつわる
歴史ドラマが推察される。
このビデオ 14分に出る北魏鮮卑人の印もそうだ
https://www.youtube.com/watch?v=pUKWvfFkVbI 今年は目出度く金印真贋論争が決着しましたが、金印事情を調べて、あの漢委奴国王が
拾われるまで古代の金印は地上に一つも 無かったというのは意外だった
ま 中国の明清時代の骨董コレクターは知っていたでしょうが 金印は決着したが邪馬台は現状では結論出ない
倭人伝で陳寿さんが邪馬台の場所でワケわからんこと書いた
ワケわからんことあれこれ思い巡らしても結論に至らない
遺跡掘りまくってなにか文字資料掘り出さんといかんでしょう
ズバリ金印親晋倭王か使者の銀印出れば文句なし
纏向で桃の種が出ました そんなもんじゃあかん 3世紀の倭国女王墓である平原遺跡の発見により、ほぼ確定したと思っていますよ。 それ以降も、認めたくない人たちが意地を張り続けているだけでしょ。
老害が消えてなくなれば平原遺跡で決着するよね。 ああ このスレで”邪馬台国はここだ”はこれ以上しないでください キリがないから
ま その当時の出土品で興味あるものがあれば解説など書いてください 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 印章作るのに謎なんか無いよ、戦国時代からロストワックスでやってた
鈕はロー付けだと思うが
古代中国の冶金 金属加工技術は高い 当時世界一だったろう
https://i.imgur.com/B1EJnlV.jpg
漢代には金地金の純度は98%以上と決められていた
兵馬俑にクロムメッキの剣があったのにはたまげたね どうやったのか
しかしその後そんな物は無くなったところ 量産できることではなかったんだろ
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. あれは「シナの属国となる〜」とケツ舐めしたご褒美に投げて寄越してきたもの。
そんなのを大事にしてるのは、対中追従の糞サヨか。 漢の委奴の国王?
漢の委ねる奴国王?
どれが本当? >>77
もはや分からんからいくつもの説があり、どの説も決定打にならない 金印をもらったのは、伊都国に王墓が作られた時代。
実は倭奴国とは伊都国のこと。 本場中国からも三つもない金印が
日本の海っぱたから見つかるとは
すごいロマンだね〜
感心する >>81
ホンダs600cって右ハンドルのヴィンテージカーがあるんだが、現存する400台のうち350台はアメリカにある
ロマンだよなぁ 実は細石神社が江戸時代まで保管していて、志賀島で見つかったということにして世に出したらしい。
細石神社というのは、伊都にある弥生王墓のひとつである三雲南小路遺跡に付随していて、その被葬者は木花咲耶姫とされているのだけれど、実は王と王妃の墓だった。
つまり天孫族の祖であるニニギと木花咲耶姫が被葬者の候補なんだ。
卑弥呼より前に伊都にいた王家こそ、日向三代であり、魏志倭人伝には男王たち70〜80年の時代として書かれている。 >>83
細石
↓
佐々礼石
↓
西方(左)由来の祭礼の石
興味深いな
ちなみに佐々礼(禮)という地名は伊都志摩と宇佐、伊勢志摩にしかない >>84
>ちなみに佐々礼(禮)という地名は伊都志摩と宇佐、伊勢志摩にしかない
卑弥呼つながりというか八咫の鏡つながりというか。
もはや伊都志摩が伊勢の鏡信仰のオリジナルであることは疑いようもない。 >86さざれって君が代に出てくるさざれでしょ?
>>85志摩って、今の福岡県の新日鉄の所も
昔は紫摩って言ってたみたいだよ
昔は大きな湾になっていて
いろんな島があり美しく風情があったとか
妄想ですが
伊勢神宮も元々はこの辺りにあったのでは?
と私は思ってたりします 紫摩かあ。
どうせ漢字は当て字だからなあ。
そっちの方が風情があるかも。
君が代は筑紫王朝の風景を読み上げた歌だという意見もあるね。 >>91
それが元の意味かどうかは不明だよ。
あくまでも通説というか、後世の解釈だからね。
佐々礼の地名が偏っている理由を説明できない。 >>92
この解釈が、上古の言葉遣いでも成り立つのかどうかだよ。
記紀にさざれという語は出てきたっけ? さされいし=細石 ってのが後世の後付けの可能性があるって事だよ >>99
は?何言ってんだお前は?
大和言葉に漢字の意味をそのまま当てたんだぞ >>99
細石で「さざれ」な
「さざれいし」なら細石石な 大和言葉と言っても、せいぜい奈良時代までのことを指すのが一般的。
ただ、記紀や万葉集は上古文を一部に含むから、そこにその用例の証拠がないとねえ。 伊都志摩と伊勢志摩は、細石つながり、八咫の鏡つなかりがあるわけだ。
伊都が神代の王都、筑紫の日向だよね。 >>104
既に書いてあることを繰り返して書きたい衝動はなんなんだ??? 親魏倭王の印はどこらへんにあるの?
見つけたら、どれくらいの価値ある?
10億万円? アホ板にかまってたら、BS-TBS見そこねた!
歴史鑑定は再映あるの? 玉璽は玉ではないよ。
三種の神器の玉は八尺瓊勾玉といって、長さが8尺の紐に通された多数の勾玉のはず。 古田は、細かいところばかりに気をとられる性格だったようだな。
いわば得意技は、他人のあら捜し。
が、大所高所から全体の流れを見るのはさっぱりだった。短里騒ぎはその典型。
それと、古代から筑紫島にはれっきとした倭国王朝があったのに、
いや(それは間違いで)九州王朝があった〜、と叫びまわって、結果的に畿内大和説の延命を助けた。
ま、畿内大和説にとっては、畿内から送り込まれたトロイの木馬みたいな存在だったわけだ、、、、 漢字の意味つながりで聞きたいです
倭の「わ」とは、どんな意味?
のちに倭と呼ばれるのを嫌がって大和とする
とかあるでしょ >>120
チャンコロから見てチビだったってこと以外の意味なんてないだろ 57年の倭奴国印が廃棄された理由だろ?
この 漢、が継続してる時に、倭奴国が滅びた
だから、敵に渡したくなかった、んじゃないの?
北朝鮮製のドルでケツ拭くとか、カリアゲの薪ストーブの焚き付けでもなきゃ
誰が保管しようが 金 なんてもんは、どんな髪型の馬鹿 でも捨てないぞwww
拾った? トンカチで、つぶして売るだろwww
発見者、感動的に偉い と 思うよ。 実は伊都の細石神社が保管していたんだと。
志賀島から見つかったことにしたらしい。 「俺の家では、『裏山に卑弥呼が眠っている』と言い伝えられている」
「これまでは、あまりの事の重大さに秘密にしてきたが、公表することにした」
「つまり、邪馬台国は我が家の周辺である」
とか言い出したおっさんの言葉を歴史的事実だとし、
それをもとに立論する馬鹿は九州説くらいしかいない 細石神社の件は、同時代の王墓が付属するだけに、笑い飛ばすこともできないんだよ。 >>129
自分の都合よく勝手に結びつけてるだけじゃん 福岡沿岸にはオカルト系に人気が出るからと色んな言い伝えを言い出した神社が多いのが特徴 そーかなあ、九州の神社は有名でないけど
巧みの技や歴史を感じる風景と配置があるの判らないの?
観光用に作ったのとは違うのが多いでしょ
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