漢委奴国王印 いわゆる金印part2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
有意義なスレだと思ったので
勝手ながらpart2を立てました
前スレから面白い書き込みは
転用しておきますね あれは「シナの属国となる〜」とケツ舐めしたご褒美に投げて寄越してきたもの。
そんなのを大事にしてるのは、対中追従の糞サヨか。 漢の委奴の国王?
漢の委ねる奴国王?
どれが本当? >>77
もはや分からんからいくつもの説があり、どの説も決定打にならない 金印をもらったのは、伊都国に王墓が作られた時代。
実は倭奴国とは伊都国のこと。 本場中国からも三つもない金印が
日本の海っぱたから見つかるとは
すごいロマンだね〜
感心する >>81
ホンダs600cって右ハンドルのヴィンテージカーがあるんだが、現存する400台のうち350台はアメリカにある
ロマンだよなぁ 実は細石神社が江戸時代まで保管していて、志賀島で見つかったということにして世に出したらしい。
細石神社というのは、伊都にある弥生王墓のひとつである三雲南小路遺跡に付随していて、その被葬者は木花咲耶姫とされているのだけれど、実は王と王妃の墓だった。
つまり天孫族の祖であるニニギと木花咲耶姫が被葬者の候補なんだ。
卑弥呼より前に伊都にいた王家こそ、日向三代であり、魏志倭人伝には男王たち70〜80年の時代として書かれている。 >>83
細石
↓
佐々礼石
↓
西方(左)由来の祭礼の石
興味深いな
ちなみに佐々礼(禮)という地名は伊都志摩と宇佐、伊勢志摩にしかない >>84
>ちなみに佐々礼(禮)という地名は伊都志摩と宇佐、伊勢志摩にしかない
卑弥呼つながりというか八咫の鏡つながりというか。
もはや伊都志摩が伊勢の鏡信仰のオリジナルであることは疑いようもない。 >86さざれって君が代に出てくるさざれでしょ?
>>85志摩って、今の福岡県の新日鉄の所も
昔は紫摩って言ってたみたいだよ
昔は大きな湾になっていて
いろんな島があり美しく風情があったとか
妄想ですが
伊勢神宮も元々はこの辺りにあったのでは?
と私は思ってたりします 紫摩かあ。
どうせ漢字は当て字だからなあ。
そっちの方が風情があるかも。
君が代は筑紫王朝の風景を読み上げた歌だという意見もあるね。 >>91
それが元の意味かどうかは不明だよ。
あくまでも通説というか、後世の解釈だからね。
佐々礼の地名が偏っている理由を説明できない。 >>92
この解釈が、上古の言葉遣いでも成り立つのかどうかだよ。
記紀にさざれという語は出てきたっけ? さされいし=細石 ってのが後世の後付けの可能性があるって事だよ >>99
は?何言ってんだお前は?
大和言葉に漢字の意味をそのまま当てたんだぞ >>99
細石で「さざれ」な
「さざれいし」なら細石石な 大和言葉と言っても、せいぜい奈良時代までのことを指すのが一般的。
ただ、記紀や万葉集は上古文を一部に含むから、そこにその用例の証拠がないとねえ。 伊都志摩と伊勢志摩は、細石つながり、八咫の鏡つなかりがあるわけだ。
伊都が神代の王都、筑紫の日向だよね。 >>104
既に書いてあることを繰り返して書きたい衝動はなんなんだ??? 親魏倭王の印はどこらへんにあるの?
見つけたら、どれくらいの価値ある?
10億万円? アホ板にかまってたら、BS-TBS見そこねた!
歴史鑑定は再映あるの? 玉璽は玉ではないよ。
三種の神器の玉は八尺瓊勾玉といって、長さが8尺の紐に通された多数の勾玉のはず。 古田は、細かいところばかりに気をとられる性格だったようだな。
いわば得意技は、他人のあら捜し。
が、大所高所から全体の流れを見るのはさっぱりだった。短里騒ぎはその典型。
それと、古代から筑紫島にはれっきとした倭国王朝があったのに、
いや(それは間違いで)九州王朝があった〜、と叫びまわって、結果的に畿内大和説の延命を助けた。
ま、畿内大和説にとっては、畿内から送り込まれたトロイの木馬みたいな存在だったわけだ、、、、 漢字の意味つながりで聞きたいです
倭の「わ」とは、どんな意味?
のちに倭と呼ばれるのを嫌がって大和とする
とかあるでしょ >>120
チャンコロから見てチビだったってこと以外の意味なんてないだろ 57年の倭奴国印が廃棄された理由だろ?
この 漢、が継続してる時に、倭奴国が滅びた
だから、敵に渡したくなかった、んじゃないの?
北朝鮮製のドルでケツ拭くとか、カリアゲの薪ストーブの焚き付けでもなきゃ
誰が保管しようが 金 なんてもんは、どんな髪型の馬鹿 でも捨てないぞwww
拾った? トンカチで、つぶして売るだろwww
発見者、感動的に偉い と 思うよ。 実は伊都の細石神社が保管していたんだと。
志賀島から見つかったことにしたらしい。 「俺の家では、『裏山に卑弥呼が眠っている』と言い伝えられている」
「これまでは、あまりの事の重大さに秘密にしてきたが、公表することにした」
「つまり、邪馬台国は我が家の周辺である」
とか言い出したおっさんの言葉を歴史的事実だとし、
それをもとに立論する馬鹿は九州説くらいしかいない 細石神社の件は、同時代の王墓が付属するだけに、笑い飛ばすこともできないんだよ。 >>129
自分の都合よく勝手に結びつけてるだけじゃん 福岡沿岸にはオカルト系に人気が出るからと色んな言い伝えを言い出した神社が多いのが特徴 そーかなあ、九州の神社は有名でないけど
巧みの技や歴史を感じる風景と配置があるの判らないの?
観光用に作ったのとは違うのが多いでしょ
全部とは言わないけど >>133
福岡の郷土史マニアだが、戦後復興時に由緒はあるけど荒廃した神社に神社庁から派遣された宮司が歴史を捏造したりってのは多いんだぜ 考古学的遺跡とセットの場合は、明治も戦後も関係ないじゃん。
明らかに細石神社は王墓である三雲南小路遺跡の祭殿なんだよ。
三雲南小路遺跡は三種の神器や璧などの威信財が豊富な倭王(倭奴国王?帥升?)の墓だから、金印とゆかりがあっても不思議ではない。 >>135
何でそんなに必死なんだよw
戦後復興時に神社庁から派遣された宮司の孫かよwww >>135
お前頭が悪そうだから解説してやるけど、>>134の> 由緒はあるけどって部分がお前の> 考古学的遺跡とセットのことな。
細石神社がそうなのかは知らんが、実際に由緒があるのに代々続いた神主の家が途絶えて神社庁から宮司が派遣されてる神社はごまんとあるし、戦前中後の混乱の中で乗っ取られた神主家もかなりある。
実際に戦前大流行したトンデモ説の多くは断絶した神主家を乗っ取ったヤツが急に発掘してるものがほとんどだし。 そういう残念な神社もたくさんあるだろ。
細石神社の神主の家もどうなのかは知らん。
ただ、倭の王都が伊都国だったとしたら、その中の王墓である遺跡に随伴するお宮に伝世していてもおかしくはないなと。
少なくとも、志賀島から見つかったという方がわけがわからないんだよ。 >>138
全部ifで固めんな(笑)
せめて細石神社の由緒くらい調べて自分的に確信してから推論として語れよ。 >>123の「志賀島から見つかったことにしたらしい。」の出処が分からない時点でアウトな説 金印の時代背景は、漢代だと倭国大乱に入って行くわけだけど
後にさざれ石神社に保管される為には、墓ではなく王宮に有る必要性がある。
漢代だったけど、志賀島に埋めたって言う場合は、倭奴国滅びたんじゃないのかな?
漢代以降で別王朝か誰かに渡れば、地金にしちゃうと思うけどね。 倭国大乱の前の男王の時代だよ。
そしてその時代の王墓は糸島平野に集中している。
つまり、三雲南小路遺跡の王が漢委奴国王印を受け取った王なはずなんだ。
細石神社の金印の口伝に一理あるのはそういうこと。 >>143
細石神社の金印の口伝ってどの程度信憑性があるもんなの?
上でも言われてるように明治〜昭和初期は古い神社の由緒を乗っ取る輩も多かったわけだし信憑性が気になる。
以前、別スレで末盧国=万津浦=勝浦(宗像の少し南側)の根拠として挙げられてた年毛神社が、実は昭和に入ってから永島家ってのが乗っ取って捏造した史料だったってのを見たので非常に気になる。 金印をもらったと思われる王の墓を祀る宮に金印そのものも伝世していたらしいという噂だけ。
信じるも信じないも自由。
ただ、志賀島のどこで見つかったのかと聞かれると、その場所は皆目不明とのこと。 古墳時代以前の話で、神社の由緒がどーたらは無理。
古墳と、仏教神道は共存しない。
古墳時代は、仏教公伝、聖徳太子迄 終わらない。
これに対抗して、伊勢や出雲、豪族系神道は成長してゆく。
神仏習合神宮寺は当然であり、分離の明治政府は日本の宗教史最低の愚。
諏訪のような縄文系というのも、妥協であって神道とは違う。
シャーマンや、自然神が神道ではない。
江戸時代に、金印の歴史の価値を見出せた、元禄文化は素晴らしいが、
有史以前からの戦国で築き上げてきた
日本は、自分では無い、神の国 なのではないのかな?
少々、日韓外交にむかついて、ホントの歴史を語っちゃう気分www
邪馬台国なんて九州だし、投馬国は半島南岸の倭人国に決まってんだろ。 漢委奴国王印が最後に使われたのは卑弥呼が魏に入朝した時に奏上文に封泥に使った。 >>101
細石神社(さざれいしじんじゃ)
細石で「さざれ」または「さざれいし」な >>148
細石神社の与太話はともかくとして、
明確な遺構がないからと志賀島での出土を疑いだすと、
福岡で出たとも言い切れなくなってしまうという…
なお、私個人は通説を疑っているわけではないので、念のため >>151
日本語は難しいんだよw
細石石神社じゃないんだよ。 「さざれじんじゃ」だろ。
広い意味では糸島も志賀島も福岡だよ。
ここが倭の王都であったことは疑いようがない。 >>152
江戸時代後期で今から200年くらい前の話だから細石神社の伝承を与太話とは言い切れないよ。 >>154
固有名詞で細石神社と書いて「さざれいしじんじゃ」だよ。 >>155
江戸時代に言い伝えがあった証拠がないなら
歴史学の上では箸にも棒にもかからない もともと隠そうとして志賀島から出たことにしたわけだから、証拠はないだろうね。
アホか 志賀島から出たというより、細石神社が保管していたという方が妥当に思える。
(あくまでも個人の感想です) 三雲南小路遺跡が同時代の遺跡というくらいの根拠だよね。
でも志賀島よりはありそう。 その細石神社とやらに残ってる伝承?社伝?とやらの「詳細」を教えてくれ。
気になるのは、その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか。
(ちなみに金印が発見されたのは1784年)
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
また最古の出典はいつなのか。
以上の3点よろしく。 >>169
村民に土掘らせるくらいだから少なくとも1822年まで神社側は大切な何かという認識はなかったわけだな
むしろ所有権すらなかったのかもしれんね
やはり後年の捏造の可能性が濃厚だな >>169
ちょこっと調べてみたんやが、伝承と言うか口伝らしいで
しかも、その口伝を聞いた者は不明、それを記録した史料もあらへん 細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい
200年も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー >>171
細石神社の宮司さんから故古田さんが聞いた話だな。 福岡の船山古墳だったかな?
そこで出土した翡翠と金製の首飾りみた人いる?
凄く緻密に金を編んでいて
古代の物とは思えないほど美しい
こんな首飾りがつくれるんだから古代の美的感覚も
素晴らしかったんだなと思ったなあ
金印が出て何にも不思議に思わないよ ごめん間違えた
福岡県周船寺から出た首飾りだったよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています