徳川家康が崇拝してた偉人
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マジレスすると、今川家での人質時代に世話になった雪斎禅師 家康の頼朝崇拝に比べれば武田信玄なんて下の下だろ
武田旧臣を自分の部下にして先陣切らせて酷使してたくらいだし 帰参した家中で先陣を仰せつかるのは武門の誉れなんだが >>20
下の下まで行かねえよ
頼朝の下であることは事実だが
家康が頼朝の次に参考にしてたのは武田信玄
その証拠に家康は頼朝以外で信玄ほど多く言及してた武将なんていないよ。 >>1
源頼朝と武田信玄はよく聞くエピソード
中国の劉邦は初耳 慶長記に記述がある
「大明にてハ高祖、寛仁大度を御褒め、唐の太宗、魏徴を御褒、
張良、韓信、太公望、文王、武王、周公、日本にてハ頼朝と」 家康は三国志には興味がなかったみたいだな。
孫権と比較されることが多いのに。 >>22
家康が源頼朝を崇拝してたのは本当だと思うけど
人生経験上、人物洞察力が抜きん出た家康が
武田信玄なんかを尊敬してたとはとても思えないな なにしろ家康は武田家を再興して甲府城を天領にしてる位の入れ様 自分にとって不都合な実父を武田信玄は追放したりしてるけど
道理と言うかそういう機微に家康は敏感な御人だから
人物的にはそれなりに見てたと思うよ
使える物はどんなモノでも使う主義の家康はあくまで甲陽軍鑑は
大久保長安の例でもわかるように家康の側近達は
長安の日頃の行いの悪さに徳川家で用いるのは反対してたけど
鉱山開発のスペシャリストだった長安を利用する手はないとの判断で
側近達の反対を諌め使える者は利用するだけ利用するとういう
家康は冷徹な経営哲学を持っていたので
甲陽軍鑑も使えるトコだけ参考にしただけでしょ
家康の思慮深い判断で用がなくなれば使い捨て主義を徹底してたし 徳川家の家来としてでしょ
あくまで家来としての立場 ウィキで武田信玄の項目を読んだが。
江戸幕府での信玄は最高級に神格化されたと。
やはり家康の信玄に対する崇敬感は頼朝を超えていたかもしれない。 >>40
ウィキってw
信頼性が弱い資料を
さも重要かのように貼り付ける行為が横行してるwikiは
そこまで信用性ないね >>34
歴史マニアみたいだけど
天領という語源は江戸時代にはなかったよ
明治時代以後にレベル低さが目立つ史学の歴史家が勝手に拵えた造語
徳川幕府の単なる米供給が目的だけの百姓領を天領なんて美辞しだしたのは 江戸幕府下で武田信玄が神格化されてたのは事実やで
なぜかって? 家康が崇拝してたからに他ならない 信玄の軍略の高さや武田精鋭部隊の強さを身を持って体験し
信玄を我が師匠とし尊敬してる
当時、武田の赤添え部隊の強さが諸大名たちにもイメージ定着していて
武田の遺臣や山県隊の旧臣達を匿い井伊直政軍に配備、それに習い直政も赤添えにし井伊の赤鬼として敵を震え上げさせる作戦を取った 秀吉は信玄謙信を嘲笑ってたからね
川中島とか馬鹿じゃねーかと
単に家康は三方ヶ原や長篠でやりあった当事者として無視できなかった重視しただけ
反対に秀吉が無視できなかった毛利や島津に徳川は滅ぼされるから
知らないか知ってるかが重視するかしないか決めるだけだな
頼朝は関東で政権を作った先達だから評価した
畿内に根を張る織豊政権とは違う
北条はもろパクリだから言えない
無様に滅んだ武田は持ち上げるのに丁度いい
いつ噛みついてくるかわからず実際やられた毛利や島津は持ち上げるわけにはいかない 無様に滅んだ武田は持ち上げるのに丁度良い
リピートアフタミー 家康にとって人生の師は信玄
信玄なくして徳川幕府の天下泰平もなし! 武田信玄を参考したからこそ徳川家康は天下統一を完成させた 家康が武田を手本にするのは石川和正出奔以降の事だろ? >>54
それで天下を取ったんだから信玄さまさまだな 徳川は関東に重きを置きすぎる。幕府朝廷がながいと弊害が出る。 そんな事よりも『河童の三平』のタヌキ?だよ
『右の頬を叩かれたら』(左の頬)
みたいなコマが出てきたりするし、何なんだと思う 本当に、家に同じような写真があるんだけどw
『キュウリ』のような葉?に
『葱の華』・・・などが写っている写真
むかーし、寺院に通っていたみたいな事を言っていたり
『松傾』
ちなみに、こういう名前の家の写真 家康の愛刀はソハヤノツルキウツスナリ
坂上田村麻呂の愛刀は騒速(ソハヤ) 邪魔だったんだろ?
一応は同盟関係でも目の上のたんこぶ
日本の内政干渉に激しい同盟国アメリカみたいなもん >>31
頼朝を研究すると、清盛や奥州藤原氏の国作りや外交、義経の軍事にも至るんじゃないの?
頼朝の武士社会の基礎として一番の手本、弱点は、世継、外交、資産作り。 >>69
頼朝と信玄、ともに後継者育成に失敗した代表だな
対して家康は後継者育成で藤原氏に次ぐ成功例を作った
二人は反面教師だったか タイトル戦にある勝ち負けが変わるような変化を示した鬼才現る
https://www.losershogiblog.net >>1
日本人以外では特に劉邦を気に入ってたようだな
家康以外でも中国の史記を読み漁り劉邦、張遼、韓信を好んでた日本の武将は多いが
なぜか三国志の武将たちの名は出てこない
戦国武将だけでない源平や室町幕府の武将や知識人たちも項羽と劉邦の時代ばかりで
三国志の武将の名が出てこないのは何故なんだ?
今と違い江戸期までは三国志は全く日本では人気がなかったのか? 徳川家康が崇拝してた人物は「惟宗忠康」で間違いないよ。(平安末期)
彼の「康」を徳川家康が付け源氏の偽装までしたくらいだから。
惟宗忠康は晩年大隅国へ行って第四子を残してるし大隅国の
流鏑馬は彼が持ち込んだものと年代が一致する。
惟宗忠康(橋口右衛門尉忠康)の、お印(おしるし)は
弓月君と反対の「太陽」と「弓」です。天皇直属の武士なので、お印があります。
なので徳川家康は御旗に日の丸を入れてますよねw
佐竹義宣の鎧胴にも「日の丸」があり、武田信玄も日の丸を所有してます。
織田信長は惟宗忠康の長男、忠広の千葉上総介の「上総介」を幼名に使用してます。
小笠原家は「弓」で忠義を誓った家なんです。なので、名前を使用したり日の丸を入れてる
武将は惟宗派なんです。徳川家康の「伊賀越え」も伊賀の国は惟宗考言の土地なので
奇蹟的に家康が助かったのは名前に「康」を使用してたからです。そして、なぜ織田信長は
家康から討たれたのかは織田信長は惟宗に忠義を誓ったハズなのに、その惟宗の領地である
伊賀の衆を皆殺しにしたから織田信長は徳川家康から明智光秀に討たせたのです。
その後、島津忠恒に「家」の文字をくれてやったのは、お前の先祖の「康」をもらって
付けて、伊賀超えで助かったからです。だから島津家久になったんですよ。 >>77
武将じゃなくて日本で有名なのは魏の文帝。
曲水の宴、重陽の節句、薄葬令、文章経国など平安朝廷の行事の模範になった三国志の人物。
他はしらん。 今ではおなじみの曹操、劉備、孫権だが戦前まで中国史通の間でも人気なかったみたい。
江戸後半から日本でも三国志演義が広まったが、そこはさすがに演義の影響で関羽だけが大人気だった
新撰組の近藤勇は自己を関羽になぞらえてた
曹操、劉備、孫権が日本の中国史通でも主役に踊り出たのは戦後からだな。 やっぱ現代に繋がる三国志ブームの火付け役は吉川英治でしょ
孔明は江戸時代から儒学者の間では好評だったみたいだけど
だが儒教に心酔してた家康や信玄が孔明に言及してないのを見ると16世紀までの日本では孔明は有名ではなかったのか 江戸以前での日本で中国史の主流は始皇帝から項羽と劉邦なのよ。 >>26
当時でも「頼朝」と呼び捨てにするなんてあったのか
この時代なら鎌倉右大将家とか右幕下将軍とか婉曲に表現するのがマナーかと思ってた。 >>84
文書だと普通に諱書くよ
後世のものならなおさら 曹丕「日本人に讃えられた三国志は朕以外いないからwwww凌雲新集の序や道真の漢詩で讃えられる朕最強wwww」 曹操劉備孫権も若いうちの職能が大事だろう。軍師なのか武将なのかだよな。ポイントは。兼務なのか。 >>86
正確には江戸期までは孔明と曹丕と関羽の三人だけ。
この三人が江戸期までの日本での三国志の旧主役。
曹丕だけでなく関羽と孔明もすでに日本では崇拝されてた。 史記を読んでた武将は多かれど三国志を熱心を読んでた武将などいない >>90
イエッチにとっては身近な人物ではあっても「偉人」じゃなかったんでは? 戦国武将では信玄公であるが
わりと北条早雲も好きだったみたい 神田明神を熱心に参拝してたみたいだから
平将門もだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています