♪邪馬台国ドンと来い!♪141
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′
ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ < ヤダヤダー!!
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535130067/l50
♪邪馬台国ドンと来い!♪140 >>105
>最近は那珂八幡は箸墓より古いとするのが主流だよ
どうでもいいけど、
その古墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな? @阿波 >>105
>最近は那珂八幡は箸墓より古いとするのが主流だよ
横レス失礼
それだと北部九州がヤマトの傘下に入る時期が従来の説より早かったという結論にしかならない >>108
>ヤマトの傘下に入る
それは、ない。 その当時の奈良にそんな力はない。 @阿波 その「合意」が年前なのか10年前なのかわからなければ意味がない。
少なくとも、確認できる事実によらずに、想像で補ってしまっていることは間違いない。
それは年代前倒しの根拠とならない。
考古学的事実が邪馬台国と一致しないという矛盾を誤魔化すためのレトリックに過ぎない。
言い換えれば嘘つき。 >>108
那珂八幡が副葬品からは平原遺跡よりかなり下位なので、そうは言えないよ。 >>111
九州説の自己否定だな
九州説を前提にした場合、玄界灘沿岸地域を含む広域連合の証拠って全くないだろ? >>114
どこがだよw
3世紀には伊都国や奴国でさえ干上がってるというのに 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 西日本に関しては 銅鐸時代の連携が存在して、
それが、九州平定以降に大陸の古墳の継承を決め古墳時代に突入した。
これは、邪馬台国外交を知ったことによる重農政策から富国強兵への政策転換である。
250年以降、九州平定から古墳時代、313年高句麗の郡制圧、
350年、百済新羅立国、倭の五王に至る日本の立ち回りはクレバーすぎる。
帯方郡漢人在留の313年を待たずとも、
張政を送り返した際、あるいは249年司馬氏のクーデターあたりで
帯方郡で冷や飯喰らった、ある程度の軍師を招請している可能性はある。 また転写保存
>>399
>>だから、宝賀氏は、柳田や都出の「古い方」という解釈で、発掘報告の土師器は、庄内の事であった、と判定した。
>柳田も都出も、 祇園山の土器が土師器の古い方だなどとは全く言ってないんだが?<
もう一度、wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htmを転写して上げよう。
土師器は全て墳丘裾部外周から出土している、弥生式土器片はまず採取されていないとして良い、と報告書に記述される。・・・
「土師器」は古墳時代の素焼土器とされており、そのなかで布留式がはじめに置かれ、その前の庄内式や西新式は弥生終末期とするものが多かった。
最近では、庄内式を古墳時代初期におく説(最古の土師器とみる説)が一般化しているともいわれ、西新式を庄内式や土師器と併行とみる説もある。
柳田康雄氏は、西新式土器を弥生終末期から古墳時代の土器と考え、その大半を土師器T型式(庄内式に併行する土器)と考えている。
宇佐の赤塚古墳では、周溝から出土した土器は布留式あるいは庄内式の新しいところといわれている時期のものとする。
都出比呂志氏の表でも、赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期(纏向3式=庄内2式。最近では布留0式とするのが多い模様)において、
それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
なかでも祇園山のほうを最古としている。 >>404
>>「自昔・・・東征毛人五十五國」は、倭王武の上表文という史料事実だ。<
>そして九州は倭国王に「西服」された異民族の国だよ 九州倭国なんて架空の妄想だ<
ダメだ。
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州であって、
大和ではない。 >>118
>西日本に関しては 銅鐸時代の連携が存在して、
>それが、九州平定以降に大陸の古墳の継承を決め古墳時代に突入した。
バカジャネーノ
銅鐸が打ち捨てられ、九州北部からの銅鏡銅矛文化が西日本を制圧したんだよ。 >>105
>最近は那珂八幡は箸墓より古いとするのが主流だよ
>つまり、バラバラの時代の墓になるね
日本語読めますか?
すぐ上の>>102に
「奴国の首長墓も「纏向型前方後円墳」の那珂八幡古墳として造営されている」って
書いてあるよね?
「纏向型前方後円墳」は、当然「定型化古墳である箸中山古墳」よりも古いよ?
でも纏向遺跡の「纏向型前方後円墳」である纏向遺跡石塚古墳よりは新しい
つまり、纏向遺跡で作られた「纏向型前方後円墳」の様式に従って
「那珂八幡古墳は作られている」
同様に「纏向遺跡で作られた纏向型前方後円墳の様式」に従って作られた多くの
古墳が列島の広い範囲で見られる
http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8Caa~1.jpg
北部九州が、畿内で作られた様式に従って墳墓祭祀を行っている時代を
古墳時代(草創期)と呼ぶんだよ
つまり、ばらばらの時代はもう終っている >>121
>平原遺跡を無視しても説得力なし
無視してないよ
平原1号墓は、古墳時代(草創期)に入る前の2世紀の伊都国有力家系の女性の墓だ
巨大鏡(破砕供献)を副葬(?)していることから、伊都国内の鏡作りの一族かもしれない
そして、平原遺跡を無視するなという人に限って、
平原5号墓及び付属する大柱
平原2号墓
平原3号・4号墓
曽根遺跡群(ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳)を無視する
これらは、平原1号墓と同一家系の一族の墓地に当たり、
伊都国王(首長)家の三雲遺跡群の墳墓群とは別系の家系であることが分かる
そういうの、まったく知らずに平原1号墓がすごいんだーって言ってるのが、バカみたいw >>124
>北部九州が、畿内で作られた様式に従って墳墓祭祀を行っている時代を
>古墳時代(草創期)と呼ぶんだよ
どうでもいいけど、
その古墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな? @阿波 ん?
>これらは、平原1号墓と同一家系の一族の墓地に当たり、
伊都国王(首長)家の三雲遺跡群の墳墓群とは別系の家系であることが分かる<
卑弥呼さんは在野の人やろ?三国志のまんまやん >>124
>北部九州が、畿内で作られた様式に従って墳墓祭祀を行っている時代を
>古墳時代(草創期)と呼ぶんだよ
卑弥呼より後の時代。 >>125
>平原1号墓は、古墳時代(草創期)に入る前の2世紀の伊都国有力家系の女性の墓だ
個人の妄想です。 まあ平原に一点買いはせんが下限はせいぜい3世紀真ん中で女子実力者のお墓やろ?
金持ちも財産1/10は賭けるな? >>128
>卑弥呼より後の時代。
残念でした
九州説としては「そうじゃないと困る」から、そう言い張るしかないんだろうけれどww
根拠をまったく挙げられず、ただ「違うんだー」と連呼しても無意味だよ
根拠を挙げられない時点で、反論として成立していない
このスレの発端が、その古墳時代の始まりの時期の定点の絶対年代が
AMS法による桃核の14C年代測定で以前から言われていた値より古いことが分かったって
ことなんだから、どんどん古墳時代の開始は卑弥呼の死よりも前になってる >>129
>個人の妄想です。
鏡作り云々は個人の感想だけれど、
曽根遺跡群および平原遺跡の累代造営墓は、伊都国内の特定家系の存在を意味している
そして三雲遺跡群の累代造営墓と平行して営まれていることから、伊都国首長家系とは
別系であることが明白
ここまでは、妄想でも感想でもなく、遺跡から分かることだよ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>131
>まあ平原に一点買いはせんが下限はせいぜい3世紀真ん中で女子実力者のお墓やろ?
平原1号墓が3世紀という根拠は、「耳璫がちょっとくびれてる」ってだけなんだよ
びっくりだろ?ww
平原1号墓は2世紀の墓
そのあとに、古墳時代に入る前に、3号・4号墓が方形集溝墓として
築造されていることから見ても、2世紀が相当 AMS法による桃核?
あー畿内説一押しの辻地区真っ向否定した奴やな?
投了? 纒向型前方後円墳ってのは日本中にあって
別に纒向のものが最古のものじゃないよ。 >>137
>纒向型前方後円墳ってのは日本中にあって
>別に纒向のものが最古のものじゃないよ。
その最古は倭国(阿波)の萩原2号墓だよ。 @阿波 東京の弥生町の遺跡が
弥生遺跡の語源だが
これも別に最古の弥生遺跡って
言うわけじゃないからね 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 もうええよ
降参せえはもういわんし
そっと消えれ? >>133
王権の世襲が確立されてないからこそ、100年くらいのサイクルで
その国における同年代最大規模の墓の場所が移動するのではないの? そうですね。
平原遺跡の卑弥呼が、三雲の先代男王達(おそらく倭国大乱で筑紫を出た天孫族)とは別の家系であるという証拠でしょう。
さらに卑弥呼の後は久留米や河上などに倭国の中心が移動するのでしょう。
伊都国だけの王などというものを夢想する畿内説は何の根拠もありません。 >>124
みんないいかな? 前方後円墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな? @阿波
「那珂八幡古墳」や「津古生掛古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波 卑弥呼の死後に何らかの政治的影響が畿内にも及んだということかな? >>148
>平原遺跡の卑弥呼が、三雲の先代男王達(おそらく倭国大乱で筑紫を出た天孫族)とは別の家系であるという証拠でしょう。
平原遺跡の卑弥呼、というのがどこまでもバカ
平原1号墓は2世紀
平原遺跡で3世紀となると、3号・4号墓になるが、10メートルない方形集溝墓で
副葬品もめぼしいものはない
>伊都国だけの王などというものを夢想する畿内説は何の根拠もありません。
卑弥呼のほぼ同時代に、隣の奴国では那珂八幡古墳を作っていてそのサイズが
墳丘長75メートル
平原遺跡のどの墓よりも立派だよ
奴国も含めた倭国女王の墓が、どうしてそんなにしょぼいんだ?
寝言は寝て言え >>152
>卑弥呼の死後に何らかの政治的影響が畿内にも及んだということかな?
「何らかの政治的影響」? そんな気の利いた理由なんかないんだよ。
ただ、パイオニア精神が働いて、全国へ拓殖に出かけただけのこと。 倭国(阿波)国内だけでは、キャパシティの限界だから。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>152
>卑弥呼の死後に何らかの政治的影響が畿内にも及んだということかな?
逆だ
土器の流入、前方後円墳祭祀の受入れ等、畿内から北部九州への政治的影響は2世紀から明白
北部九州から畿内への影響は皆無 >>156
>畿内から北部九州への政治的影響
畿内にそんな力は、ない。 @阿波
>>137
>纒向型前方後円墳ってのは日本中にあって
>別に纒向のものが最古のものじゃないよ。
そのうち、庄内0期の纏向石塚古墳よりも古いのはどれ?
「どの古墳がいつ頃だから古い」って「具体的に示して」ね! >>159
あのねぇ、前方後円墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?
「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波 >>157
>戦時だからだろ
平原遺跡周辺、あるいは伊都国の範囲全体でもいいや
3世紀の戦乱の様子が分かる遺跡・遺物はありますか?
具体的に示してくださいね!
何度も書くけれど、卑弥呼の宮室には侍女千人(以婢千人自侍。)と
書いてあって、卑弥呼の都に戦乱が迫っている様子は見られない
侍女が千人動員できるなら、墓の造営にも男子千人くらいは動員できるだろ?
侍女千人は常時だけど、墓つくりの臨時動員ならさらに容易
戦時だから小さいというのは根拠がない >>159
石塚は久住では庄内2式期
寺澤薫の「王権と都市の形成史論(吉川弘文館)」(以下「寺澤論文」という)によれば、
石塚古墳は、周濠内から出土した土器から庄内3式期に築造されたとされる方形周溝墓を破壊して築造されており、
同様に周濠内出土土器から布留0式期に築造されたとされる方形周溝墓は、石塚古墳に規制されて築造されている。
これはどういうことだろうか?
庄内3〜が妥当かもね
すると、那珂八幡と同時期になる >>162
>庄内3〜が妥当かもね
>すると、那珂八幡と同時期になる
あのねぇ、そういう議論もいいけど、前方後円墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?
「那珂八幡古墳」の朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波 >>164
>倭人伝くらい読め
その倭人伝に、
「卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。」と書いてあるんだから、
戦時中だから墓が小さいとかいう寝言は通らないって言ってるんだよ
http://livedoor.blogimg.jp/sakumaru40-ryokufudo/imgs/6/1/610a0c3b.jpg >>165
もう周回遅れだろ、それ
大作であり大塚じゃないことと、同じ三国志の孔明の遺言の記述から大きな墳でない可能性も十分にある >>156
そこで2世紀を持ち出すのは、完全に妄想。 >>161
九州説では伊都を中心として筑前が邪馬台国、肥後が狗奴国だから、前線は筑後平野。
傷ついた兵の遺体、鏃など、戦乱の跡はたくさんあるよ。
伊都は高祖山の日向峠を守りきればいいから防衛には有利だね!
纒向は魏志倭人伝にあるような防衛施設の跡がないのはおかしいよね。
田舎の倉庫か市場だったかな? >>168
>傷ついた兵の遺体、鏃など、戦乱の跡はたくさんあるよ。
しかし、平和で豊かに栄えた跡は皆無というお粗末。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>169
しかし、平和で豊かに栄えた跡は倭国(阿波)だけという現実。 @阿波 >>167
>そこで2世紀を持ち出すのは、完全に妄想。
だから、なぜ妄想なのか具体的な根拠を付けろ!と
つ「2世紀の根拠」
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
畿内第V様式甕の頃から、九州で畿内様式甕が出てる
畿内第V様式というのは、弥生時代後期という意味だから、1世紀末から2世紀にあたる >>169
>傷ついた兵の遺体、鏃など、戦乱の跡はたくさんあるよ。
それ、甕棺墓時代
邪馬台国の時代より100年単位で古い
3世紀の戦乱のあとなんて、北部九州にはないだろ? 九州は3世紀どころか4世紀も5世紀も戦い続けているよ。 >>176
>巨大な前方後円墳は平和の象徴だろうな
全くその通り。 平和な倭国(阿波)の反映だからね。 @阿波 >>176
地域が安定していないとできませんからね。
魏志倭人伝にある倭国は不安定な政情の修羅の国です。
九州北部に他ならない。 >>166
>同じ三国志の孔明の遺言の記述から大きな墳でない可能性も十分にある
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命「因山為墳、冢足容棺」は、
「山に因りて墳となし」=「山を墳に見立てて」
「冢は棺を容れるにたる」=「冢は棺が入る程度の小さなものにしなさい」
という意味
墳と冢の大きさを解説してたものじゃないよ >>178
>魏志倭人伝にある倭国は不安定な政情の修羅の国です。
>九州北部に他ならない。
少なくとも台与を立てた後は落ち着いてるよな?
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王「國中遂定」
ずっと修羅の国を続けているところは候補にもならない 三国志の用例では冢のイメージはそんなに大きな物ではないとわかる >>172
247年に邪馬台国の主権終了と同時に畿内も筑紫も古墳時代が始まった。
畿内から九州への土器の流入も増大した。
畿内第V様式甕の編年で畿内が180年からでも
筑紫に入るのは250年でも良くないか?
比恵那珂が2世紀というなら大乱時、
奴国が瀬戸内海国家とも通じてたか?
まあ、瀬戸内海国の影響が強く非卑弥呼国の
筑紫以東への侵入は、筑紫平定前の200年そこそこでも良いわけで。
前方後円とか巨大古墳時代化は、
畿内が卑弥呼の中国外交見た後からだよ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 寒いんで、投入。
(⌒▽⌒)o/ ̄ ̄ ̄~ ⌒。チャポン!!
邪馬台国=女王国に属する国は21国である。
>>3 次有 以下列記21国 此女王境界所盡
皇帝の命で、帯方郡から南、水行30日と陸行1月の行軍によって、
卑弥呼に金印紫綬を届けた梯儁は、同盟国卑弥呼の所属国の国勢を尋ねた。
それが、21国であり、これを列記し総人口7万戸と記録した。
其餘旁國遠絶 不可得詳 については、
名さえも知らない、海の東や狗奴國以南の国である。
この21国は、卑弥呼を共立した、大夫=代々の王の有る筑紫の国々である。
末羅国、不彌国、伊都国は同音異字国も無いので、ここに含まれていないようだ。
張政によって記録された、王の無い都市名であると考える。
從って、世有王は、伊都国に王が有るではなく、21国の王が皆女王に属する、である。
対馬、壱岐、狗邪韓國、狗奴國も女王国に含まれない。
梯儁の行程による投馬国は梯儁が命名した邪馬台国と同様、
数十国を連ねる概念の国であり、半島南岸の倭人領の国である。 ちと、水分多杉の燃料じゃないかな。火付きイマイチ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 誰かが、
伊都国は伊邪那岐の伊であるから、「伊氏」の国ではなかったかといってたな。
であるならば、邪馬国・邪馬台国・投馬国・斯馬国・対馬国は、「馬氏」に連なる国々だったのではないか。
というわけで、伊氏と馬氏を探ってみると、
伊氏は「伊籍」、馬氏は「馬氏の五常(常の字を持つ優秀五人兄弟)」と呼ばれ、
いずれも三国志時代の劉備に仕えた高名な政治家だったようだ。
陳寿は劉備のファンだったそうだから、倭国の伊氏と馬氏の活躍ぶりにも、いたく感激したのではないか。 倭国〜日本国内を見渡したとき、地名でいえば、伊万里、伊予、伊賀、伊勢などを思い出す。
しかしただちに伊氏につながる土地・氏族は見当たらぬようだ。
しいて例を挙げるなら、伊勢氏ということになる。
その伊勢氏は、元は伊勢の国造で中臣性であるから、藤原人脈ということになる。
先に伊都国は、末羅国からの方角・里数からして、佐賀の川上がピッタシと述べたが、
その故地である川上の遺構には、今も藤原氏の祖を祀る五社大明神があり、
しかもこの一帯は、6-8世紀のころにはイ寺(椅寺)とよばれたという。
此の「イ寺」のイこそ、伊都国を治めた「伊氏」の名残だったのではないであろうか。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>191
なるほど!
伊氏の祖を伊尹とすれば、伊尹は商(〜殷)に仕え、その国の礎を築いた。
一方、馬氏の祖を馬韓とすれば、馬韓を建てたのは箕子朝鮮であるから、
その祖もまた殷に由来する。
よって伊氏(伊都国)と馬氏(邪馬台国)は、祖を共有していたことになる。(いかが?) 卑弥呼以死大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に大いに冢を作る、径100歩余り、殉葬者の奴婢100余人
径100歩余りも殉葬者の奴婢100余人も冢に掛かる
冢の大きさが径100歩余りではなく
冢の径100歩余りに殉葬者の奴婢100余人を埋めたんだろうな。 陳寿は、倭国の方角・位置に関し、
夏氏の故事を引いて、会稽郡東治山の東と述べている。
伊都国・邪馬台国に関しても、なにがしかの中華との縁起を述べて、読者の親近感を呼ぼうとしたのであろう。
なかなかの演出・脚本家でもあったようだ。
夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、、、、計其道里、当在会稽東治之東。 中臣氏:
春日神社神主家(社家)
鹿島氏(社家)
伊勢氏(武家) など
>古代日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族.
>天児屋命(アメノコヤネ)を祖とし、現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。
>中臣鎌足は645年の大化の改新で活躍し、669年の死に臨んで、藤原姓を賜った。
>以後鎌足の子孫は藤原氏を名乗ったが、本系は依然として中臣を称し、代々神祇官・伊勢神官など、神事・祭祀職を世襲した。
なお、佐賀川上(伊都国)のイ寺の伊氏と、中臣氏・藤原氏の守り神(祖)とは何らかの所縁があったのではないか。 >>194
伊尹の子孫が渡来したかわかりませんが公孫か仲達の部下が倭人の風習見て殷連想したのかも?(卜いやら殉殺やら青銅やら >>197
>>4 が、素で読み取れたんですか?
倭人が漢代の朝貢時の奏上で呉の太伯の後、と言った記録を引いて
魏が呉との決戦を控えている状況から、同盟?冊封した倭の
倭人の刺青も、呉の太伯にちなむのか?
と 言う原典があったものを
>夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
に改めた、文だと思うんですが?
陳寿が改訂したとも思えない悪文なのでは?
計其道里當在會稽東治之東
に、至っては、この刺青の理由の文章に道里が必要な意味が判んない。
道理の起源が会稽にある、
もしくは
前段の 万二千里が 帯方郡から女王まで
で、洛陽から会稽はその道里に当たる、
と言う読みは有るが、
この文を、入れる必然性が無いと思うんですが?
倭人との親近感? 太伯の後 の跡を消す、改竄の失敗でしょ? 伊邪国も「伊氏」の国だろうな。
おそらくは伊万里湾に本拠を置き、南は五島列島、北は末盧国まで勢力を張っていた強国。
大宰府天満宮に伝わる古書を例にひくまでもなく、松浦氏も「伊氏」の一族。
われわれが東シナ海と呼ぶ海域を手の内におさめていた有力な海人一族。
系列は違えど同じ海人国家であったと思われる投馬国とはまた別の系統の海人国。
この有力海人国家、伊邪国をも配下に従えるほどの実力を示したのが、外来の勢力、邪馬台国であろうね。 ちなみに自分の姓は「松浦」.。
わが「松浦」は、アホの高麗が偉大なるフビライ・ハーンの配下として日本を侵略したまさにそのときに
全滅したんよ、アホの高麗をぶっ潰す次元と引き替えにね。
松浦一族は、アホの朝鮮を未来永劫許さんよ、いやホントに。
朝鮮人の卑劣さ、低劣さを知るのは博多の商人たちの末裔たちばかりではない。
わが祖先は、そりゃ海賊さ。でもね、海賊にも海賊なりの「倫理」いうものは有るんよ。
人として人間として、オイお前それ何や?いうほどの卑劣ぶりを示したのが「チョン」。
九州人のほとんどがチョン、もとい朝鮮人に怒りと憎しみを持っているんはね、偶然やないいうことや。
覚悟せいや、アホチョンどもめ! 魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/upEVM8cM4dp
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地は高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>194
なるほど?wwwwwww
馬韓は箕氏が落ちのびて、韓王を名乗った場所。
箕氏の韓王家は246年に滅び郡は臣智による官制を敷いた。
247年の邪馬台国フロント終了以降、
日本は半島に進出し、313年高句麗による四郡崩壊の背景となった。
350年には、百済、新羅の対高句麗保護国として、対中で傀儡建国を果たしている。
燕、伊氏、箕氏、衛氏、公孫氏は中原貴族として
馬は北荻東夷氏族と言うより、日本の高句麗馬 移入経路の地名だろ?
韓伝では、馬韓にも乗馬文化は無く喰ってたw
古代韓は日本の植民地化で発展している。
伊氏ってのは、伊藤博文かいw 当時の半島?
中国の人(漢人)だと書いてあるだろう、
何が嫌なんだよ。
それとも一部、上のほうの人だけが中華だったのかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています