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♪邪馬台国ドンと来い!♪141

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0001くまモン論者
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2018/09/26(水) 21:24:41.45
            /.: : : : : : : .ヽ   
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
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♪邪馬台国ドンと来い!♪140
0228日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 09:56:54.53
公孫氏とは
>公孫氏政権の創始者となった遼東郡襄平(じょうへい)の公孫度(?―204)は、玄菟(げんと)郡の小吏から遼東太守に任命されると、
郡中の豪族を従えたばかりでなく、高句麗や西方の烏丸(うがん)にまで威を振るった。

>190年、董卓(とうたく)が後漢の献帝を擁して中国が内乱状態に入ると、
公孫度はこれに乗じて領地の拡大を図り、
遼西、中遼2郡と山東半島東莱(とうらい)郡の諸県を治めた。

>公都の襄平には、前・後漢朝の祖、高祖劉邦(りゅうほう)と光武帝劉秀の廟(びょう)を建て、漢王朝の権威を継承する意志を明確にし、
また中国の皇帝の制度に倣って天地の祭祀(さいし)や藉田(せきでん)の礼などを行った。
0229日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 12:56:09.40
公孫康の帯方郡の時代
>204年、黄巾の乱をしのいだ度が死に、子の康(?―221)の時代になると、
その支配地は、遼東郡、玄菟郡から、楽浪郡、及び帯方郡にまで広がり、
韓(かん)、倭(わ)の諸国を服属させ、高句麗、夫余(ふよ)、烏丸にも勢力が及んだ。

>このときから、倭の邪馬台国は、帯方郡に服属することになったのである。
なお207年、公孫康は、遼東に逃れてきた袁尚(えんしょう)らの首を曹操(そうそう)に送って、襄平侯・左将軍の位を授けられているように、
中国の王朝から自主独立したわけではなく、善良なる地方官として勢力を誇っていた。

>康の死後は、弟の恭が遼東太守を拝し、221年には魏の文帝から車騎将軍・平郭侯を与えられている。
0230日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 19:21:53.48
四代目・公孫淵の反逆
>228年、内紛を経て叔父・恭の位を奪った淵ではあったが、魏からは揚烈将軍・遼東太守の官を授かっている。
魏蜀呉の三国抗争が本格化した淵の時代は、淵と魏朝・呉朝との外交関係も複雑に展開した。

>まず232年、呉は公孫淵に使者を派遣したが、淵もこれに応じて呉に内属する旨を表した。
翌年、呉の孫権(そんけん)は、淵を燕(えん)王に冊封すべく、使者を差し向けた。
しかし淵は態度を急変させ、その使者の首を魏に送って、魏の明帝から大司馬・楽浪公を与えられた。

>その後237年、魏はかん丘倹(かんきゅうけん)に命じて淵の討伐をはかったが、
淵はこれを打ち破って魏からの自立を成し遂げ、燕王と称して年号も紹漢と定めた。
しかし238年、魏は太尉司馬懿(しばい)に4万もの兵を与えて、遼東に籠る淵を総攻撃させた。

>淵は父子ともにあえなく斬殺され、首を洛陽(らくよう)に送られて、反逆児・公孫淵の政権は終わりを告げた。
なお翌239年、かねてより公孫氏一族に内属してきた倭・邪馬台国の女王は、魏から親魏倭王の金印紫綬を授けられている。
これは、当時の複雑な三国情勢を反映する象徴的な出来事であった。
0231日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 19:40:56.39
公孫氏については、氏一族の全てが洛陽に歯向かったとの誤解も少なくないようだ。
しかし、表立って歯向かったのは、四代目公孫淵の最後の2年間のみであった。

なお倭国との関係では、 >>229 の通り、
二代目公孫康による帯方郡の開設がたいへん大きな影響を及ぼした。
帯方郡は、支配地を拡大すべく、海を渡って、倭・末羅国東南五百里の佐賀川上に至り、そこに郡使の常駐所を設けたからである。
0232日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 19:51:32.63
渡ったところで十分。
さらに山を越えて佐賀まで行く理由はない。
0233日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 20:38:45.12
漢人の帯方郡になじみがあった漢系種族の伊氏や馬氏の協力を得るには、
肥前・佐賀平野の強国が最適であったからであろう。
その点、根っから倭人のクニの博多奴国や怡土邑は、帯方郡にとって所縁もなく、敵対的ですらあったので、避けたというわけだ。
0234日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 21:37:25.07
佐賀に行くのに山は越えなくて良い。
山と山の隙間を縫って行く道がある。
0235日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 21:47:51.60
>>232
ま、唐津は福岡県内と間違ってる人が多いんじゃないかな。
でも昔から肥国唐津で、今も佐賀県唐津市だ。
地理地形的に、福岡博多より、佐賀市の方が、はるかに近くて便利な関係にあったからだな。
0236日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 23:38:23.14
>>233
糸島が楽浪帯方に所縁がないなんてことはない。
楽浪土器が出土するのだから。
0237日本@名無史さん
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2018/10/09(火) 23:39:59.92
>>235
海路が主な交通手段だった弥生時代においては、唐津はやはり福岡との結びつきが強かったであろう。
玄界灘沿岸地域として1つの文化圏だよ。
0238日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 00:09:35.56
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0240日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 10:08:09.62
倭国大乱はどのような経過で発生したのか。
そして、それはどのような交渉を以て収束したのか。
更に卑弥呼共立後の、倭国内の交流はどのように発展したのか。

このような順序(時系列)を考えれば、倭国大乱前と卑弥呼共立後においては、
松浦ー唐津ー糸島ー福岡ー門司など北部九州沿岸において、
頻繁な政治的経済的交流がなされていたであろうことは、容易に想定できる。
0241日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 10:38:50.44
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0242日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 12:49:37.76
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0243日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 12:50:12.18
【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
0244日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 12:59:48.96
対馬や壱岐を、福岡県と勘違いしている人も少なくないのではないかな。

対馬国は、倭人伝では対海国、記紀においては対馬島(対馬洲、津島)。
今は、肥前の長崎県対馬市で、馬氏のクニに由来するのであろう。
壱岐国は、倭人伝では一大国、記紀においては、伊伎島。
今は、肥前の長崎県壱岐市で、伊氏のクニに由来するからであろう。

つまり倭人伝は、
対馬〜壱岐〜末羅〜伊都(佐賀川上)〜不彌(佐賀神崎・吉野ヶ里・・・、と、すべて肥国に属する地を経由して書かれたわけだ。
さすれば次の南・邪馬台国は、肥後熊本・くまモン論者のクニに相違なかろう。
0245日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 13:09:13.85
つまり倭人伝は、
筑紫をすっとばかし、すべて肥国に属する地を経由して書かれたわけだな。
0246日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 13:48:37.49
久留米の高良山に伝わる言い伝えだと元々はこの山はタカミムスビが支配していたが後に高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)に支配権がうつる。
タカミムスビの姉が卑弥呼。
後に高良玉垂命が九州を支配する。
0248日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 15:23:33.02
なるほど、倭人伝の行程は、
筑紫をすっ飛ばかし、すべて肥国に属する地を経由して書かれているわけか。
0250日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 15:45:22.42
タカミムスビの一族は今の遠賀川(かつては湾)を支配していたので主要な氏族は船で散らばって行った。
0252日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:19:54.48
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0253日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:07:45.83
タカミムスビは、実は帯方郡から倭の伊都国(佐賀川上)にやってきた軍師で、
ほど近い高良山を根城にした。
その裏工作があって、卑弥呼共立に至った。で、卑弥呼は神話の天孫族でよいのではないか。
0254日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:19:09.78
アメノミナカヌシ、タカミムスビノカミ、カミムスビノカミの三柱は造化三神と呼ばれる。
両親はおらず、独り身だったそうだ。
つまり、帯方郡からやってきた軍事政治の指導者だったので、
両親の名前は書けず、また本人は単身赴任だったということではないか。(例によって、子や孫はできたかもしれないが・・・)
0255日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:36:03.70
タカミムスビは英彦山だと思う。
現在は英彦山神宮にはアメノオシホミミがまつられているが神紋は「鷹の羽丸に二引」
0256日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 23:37:45.02
古・遠賀川(遠賀湾)沿岸を治めていたのは出雲系の神々だろうね。
香春岳も出雲系の神の支配下にあったもののように思える。
0257日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 07:46:13.33
出雲系ということは、銅錫に長けた新羅の神々かなぁ?
0259日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 11:22:12.89
壱岐対馬が、現代ではもっとも行き来の容易な福岡県ではなく
長崎県に入れられているのは古代から続くつながりの名残だろうな。

卑弥呼の時代、唐津あたりから五島までを自分たちの海にしていた海人族(松浦氏?)が大陸行路をおさえてたんじゃないか?
筑紫の宗像氏や安曇氏(志賀島)とは別の系統の航海民を邪馬台国が支配下に置いていたとなると
やはり邪馬台国は肥の国の領域に有ったということか。
0260日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 12:44:58.73
>>259
確かにそうおもわれますね。
何しろ海峡の航行は難事業、相当な天文・海潮の知識と、航海技術の蓄積が必要だったことでしょう。
これを苦も無くこなしていた海の民こそ、肥国の松浦種族?であり、
そして公孫氏、ないし帯方郡は、かねてより彼ら種族とも交流を深めていたのではないでしょうか。
0261日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 13:17:15.55
田島の神など唐津から宗像にかけての古い勢力の間に楔を穿つように博多湾沿岸に新しい天孫族が入り込んだようにも思えますけどね。
遠賀川流域の豊国はもともとは博多湾の志賀島から東に追いやられた部族かと。
さらにその天孫族を追い出す形で肥国から卑弥呼が共立されたと考えていますが、西に追いやられた部族と、有明海沿岸の肥国の異同が知りたいところです。
肥国の起源がそもそもなんなのか。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 15:34:54.72
・乗船南北巿糴
・今倭水人好沈没捕魚蛤 とあるように、

対馬〜壱岐〜松浦〜平戸など、多海多島の間で、舟を操りながら暮らす知識民がいたことは、想定できる。
其の頭目首領が伊氏や馬氏だったのか、或は、その頭目首領と誼を通じていたのが伊氏や馬氏だったのかまったく不明ではある。

しかし古代のことであるから、
遠い祖先を共有し、或は言語や習俗も似通った種族血脈が、やがて肥国(日国)を打ち建てることになったように思う。
そして、これまた同種〜同系族であった帯方太守の指南支援を受けながら、倭国大乱を有利に進めたのではないか。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 16:13:53.61
日本語の方言のアクセント区分地図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Japan_pitch_accent_map.png

このうち、九州地方のアクセント区分地図で目を引くのは、
松浦半島〜佐賀平野北寄り〜筑後〜熊本平野東寄り〜日向全般にかけて黄色に塗られた「無アクセント」地帯である。
(無アクセントとは、箸ー橋などの同音異字をアクセントで区別しない平板アクセントの地帯)

従前のレスで述べてきたように、この無アクセント地帯は、
末羅国・唐津〜伊都国・佐賀川上〜不彌国・神崎〜邪馬台国・山鹿〜高千穂・女王之所都〜投馬国・宮崎西都の、
肥国(日国)ルートに見事に沿っている。
言葉の訛りはお国の手形、まさに伊氏・馬氏・松浦氏?など肥一族の面影を示すものであろう。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 18:02:12.70
多氏の足跡に見えるがね。阿蘇香取鹿島。
無アクセント地域はね。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 18:04:40.00
末盧国の「盧」を漢人の姓名(氏族名)とみて検索するのだが、少ないねえ。
でも、秦代から前漢にかけて武将の盧氏や、後漢の学者で政治家の盧氏など有り。
また、唐代になるが、韓国に下って韓国の盧氏一族の祖にもなったらしい。

その末裔からは、ご存知、韓国の盧大統領も現れた。
このように優秀な盧一族が、かって倭地に渡来し、多島海を舞台に航海の技術を蓄積して三世紀の海峡を制覇し、
後世の松浦党(末盧党)にもつながったと解釈することもできようが、
ちと、雲をつかむようなお話ではある。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:09:59.15
漢字も氏姓も無い時代なのになんで、漢字名の話だよ?
氏姓は天皇が家臣に与えたんだろ。 渡来してね〜よ。
400年には倭王も漢字名、名乗ってるから、氏姓制度も始まったかもしれない。

漢字名だの渡来人名なんて記紀でいつから出てくんだ? 
諡号で年号の歴史話してる記紀にも呆れるけど、和名なだけマシ。

皇帝になる司馬氏が、公孫氏の郡侵略して馬韓が国名でも良いけど、
馬だの伊だのの氏姓の豪族が日本にあれば、張政や梯儁や郡での漢字命名が一致するはずだろ?

豚鼻チノ、ブラック、なんとか?
で、二兆パーセント ね〜よ( ^ω^)・・・
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:14:04.36
違うね〜w頭の病院に行け
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:17:54.34
『松傾』のほうが上の存在なんだと言っているんだよw
むかーしから有名な話、誰でも知っているはずなんだけど
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:55:23.70
魏は漢字の無い日本にたった2回使譯を送った。 既出だが、247年
|∩`Д´) / '⌒☆
【倭人伝に見る、諸国名、倭人名考察】

【張政による漢語化 当て字による 和語の固有名詞,人名】

對海/卑狗 卑奴母離 ・ 一支/卑狗 卑奴母離
末盧國/官無し、載斯烏越船の母港?
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 ・ 奴/兕馬觚 卑奴母離
不彌/多模 卑奴母離 ・ 女王/壹與

*對海 一支 国名は魏の東夷概念図や漢古文書を踏襲=表意文字である

張政は遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 の倭人船に同行で来日の査察者
(卑奴母離は現地任命の官ではなく同行者の可能性が高い)

帰国は壹與の遣使 巳百支王/伊聲耆 掖邪拘等二十人 と送政等還因詣臺

つづく
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:59:19.20
|∩`Д´) / '⌒☆  240年
【梯儁 漢語化当て字 による 和語の固有名詞 人名】
投馬/彌彌 彌彌那利
邪馬壹/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮
狗奴/狗古智卑狗
梯儁は郡史だが卑弥呼に金印紫綬の皇帝の使者
魏の正規軍として卑弥呼王宮まで行軍したと考える。
*投馬国は魏の東夷概念図や漢古文書を踏襲=表意文字である

王名 
左 梯儁による国名 / 右 郡の聴取による当て字名)
女王,邪馬台/卑弥呼 ・ 奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利 ・ 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
狗奴王/卑弥弓呼
東夷伝各国の諸国名、官名、職名が中国漢字由来のものが多いのに対し、
倭人伝における、倭人名、諸国名は
一字一音が多く漢字=表意文字文明の影響を示すものは希少。
弥生渡来人が有ったとしても中国文化から遠いと考える。

・梯儁の 漢語化当て字 による国名
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國
彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國
華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 邪馬壹國 狗奴國
躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國 狗邪韓國

末盧、伊都、躬臣は表意文字? 巳百支、好古都は扶余系外来語の可能性。
邪馬壹国 も 金印紫綬時の王宮を見た中国人 梯儁の命名だが
邪馬 は倭人国の音に同じ、壹 は王宮の楼閣の表意文字
邪馬国 にある王の 臺 であると考える。
0271日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 20:07:47.25
本当の話なのかな

天皇?というのも一系ではないぞと言ってる人がいたり、
鏡なども出雲()の話だったり
0272日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 20:12:05.02
立場的なものも同じ

某や誰々よりも上位、優位に立とうとか、
すり替えを行っているがいるというのも
有名な話


実際は『松傾』が一番上(下)
0273日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 20:16:27.77
あとサルタ(仮名でしょ)の話

なぜ百済の神(赤)、新羅の神(白)を祀っていると知ってる人がいるのか?とか
出雲が何やらとも書いてあるし、渡ってきたの?
0275日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 21:10:24.89
>>270
>邪馬壹国/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮

邪馬台国は、馬氏の国だったのかもとの考えを述べてきたわけが、
ななんせ、「馬」官は3名もいるからなあ。
0276日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 21:46:06.29
>>275
梯儁の当て字の癖でしょ。
倭音のま=漢音の馬 

邪馬なんてのは山じゃね? 山の臺
邪馬壱説だと、壱は表音文字だろうけどね。そういう国は21国に無い。

ただ、人名には一〜ニ字 国名の漢字を含むのが多いけど
奴王だの都支王だの、王はともかく、所属が氏姓の代わりなんだと思うんだけどね。
卑奴とかは奴国の役人、家臣とか?
0277日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 21:50:15.56
清水の次郎長とか遠州森の石松とか、三国志だしwww
0278日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 21:59:06.14
カッパ(不明)は、もっと上の存在
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:01:07.25
あのキュウリの葉の写真なんだけど、
呉や孫?そういう名前の家でもない

凄い古い家?
0280日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 22:02:12.73
『松傾』?
0281日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 22:05:29.26
『河童』について調べてみると

『河伯』?みたいなことが書いてあったり
0282日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 22:08:44.34
老婆だよ、なぜ知っているのか?なんだよ

牛を飼っていてという話でしょ、
あと蚕、機織りをしていて・・・


七夕?
0283日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 22:15:21.74
日本の話

むかーし住んでいたことがあるんだよ、
というところに

蓬莱、蓬莱橋・・・?
そういうところがあったり

家に本や書が沢山並んでいたとか、
そういうものも誰かに、あげちゃったのか、売ってしまったのかな〜・・・

老婆談
0284日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 22:26:36.98
本や書なんかも『松傾』?の家に、
あったという話なんだけど、なぜ詳しいんだろう

あまり見たことないような本が、
だーっ(ずらーっ)と並んでいたとかw
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:37:09.32
これも他のスレの話になるんだけど、
家の親戚か何かが書き込みをしているのかな

親戚と言っても、遠い親戚ではなくて、
近い人?
0286日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 22:48:21.85
>>263
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/54/Japan_pitch_accent_map.png

>従前のレスで述べてきたように、この無アクセント地帯は、
>末羅国・唐津〜伊都国・佐賀川上〜不彌国・神崎〜邪馬台国・山鹿〜高千穂・女王之所都〜投馬国・宮崎西都の、
>肥国(日国)ルートに見事に沿っている。

これはおかしい。
非常に面白い地図だが、福岡から宮崎のラインは、天孫族とその分家だろう。
肥国はその西側の九州西部だな。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:49:32.55
ついでに言うと、大和には吉備などの瀬戸内勢力が攻め込んだことがわかるね。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:51:43.89
鹿島香取は祭神を見れば高天原の天津神の尖兵が征服したことがわかるし、そのままの地図だ。
神武の故郷の日向が宮崎だろうが福岡だろうが、本質的には大きな違いではないのかも。
0290日本@名無史さん
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2018/10/12(金) 08:51:05.65
>>286
>これはおかしい。
>非常に面白い地図だが、福岡から宮崎のラインは、天孫族とその分家だろう。

関心を寄せていただいて光栄です。
ただ、もしかしてお気に召さないかもですが、福岡(唐津)ー熊本ー宮崎の黄色のエリヤは、
たしかに天孫族と其の分家であり、言い換えれば、又それが火国・日向国・肥国の馬氏でもあったのでは、という意味です。

>肥国はその西側の九州西部だな。

その西側の薄紫エリヤは、伊万里を頂点に、長崎ー熊本西部ー鹿児島ー沖縄方面へ続いています。
これが、伊佐早・伊佐・伊集院・伊仙・伊良部など、「伊」のつく地名の多い一連の地帯であり、
操船技術に優れた海の(伊の)民の活動エリヤ(根拠地)だったように思えます。
天孫族(=馬氏=肥国)は、この海の伊の民とも誼を通じていたのでしょう。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 08:59:52.24
有明海沿岸の、肥前佐賀と肥後熊本を含む薄紫が肥国でしょう。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 09:42:37.45
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 11:39:23.18
肥前国風土記:
>肥前国はもともと、肥後国と併せて肥国一国だった。
昔、崇神天皇の時代に、肥君(ひのきみ)の祖である健緒組(たけをくみ)は、勅命を奉じて、国内をめぐり情勢を視察した.

>八代郡の白髪山(しらかみやま)に到着し宿を取ったその夜、空に火があり、ひとりでに燃え、しだいに降下してきた。
健緒組はそれを見て驚きあやしみ、朝廷に参上して、天皇に奏上した。
天皇は「今のことは、いまだかつて聞いたことがない。火が降りてきた国だから、火の国と呼ぼう」と仰せになり、
健緒組の勲功をとりあげて、火君(ひのきみ)健緒組として、この国を治めさせた。それで火の国という。

(なお、のちに二つの国に分けて、肥前・肥後となったが、それは7世紀のころのことであった。)
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 11:44:51.36
それ以前は狗奴国とか熊襲の国みたいな呼称なんだろう。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 13:08:01.89
>>293のことから、崇神天皇のころまでには、
火の国の母体、つまり阿蘇山を信仰する(恐れ敬う)人たちの国が一定の広がりを以て、形作られていたことが推定される。
それがどの範囲で、狗奴国や熊襲とどのような関係にあったかは分からないね。

ただ、崇神天皇の時代に
熊本市内健軍神社の祭神である健緒組が退治したという180人の賊は、
緑川湿地帯の南の御船の後方にある朝来山に立てこもり反抗したというから、彼らが狗奴国の末裔だったのかもしれない。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 14:06:58.48
熊襲って逆賊みたいに言われているけど、熊襲タケルは肥前や筑紫野あたりにいたらしくて、ただの逆賊ではないようなんだよね。
肥国の王家なのではないかと。
卑弥呼はよくわからないけど、壹與は熊襲と関係していると思う。
肥前河上の淀姫が壹與でしょう。
そして熊襲タケルの墓も肥前河上にある。
時代も被っている。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 14:28:25.79
鹿児島、宮崎が狗奴国、熊襲でしょ。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 15:22:35.12
>>295
>火の国の母体、つまり阿蘇山を信仰する(恐れ敬う)人たちの国

これが蘇奴国だな。
阿蘇の支配者たちは土蜘蛛や女酋などと呼ばれずきちんと「神」「姫」と呼ばれている。
阿蘇は古い歴史を持つ強国のひとつであったとは思われるが、ここが火の国の母体であったのかはわからない。

>>294
八代はいくつもの河川が流れ込む肥沃な地で当時、福岡平野=奴国にも劣らぬ人口を抱えていたとしても不思議ではない。
まつろわぬ葦北国や球磨国を抑える拠点としても機能していたのだろうか。
自分は、個人的にはこの八代か宇土あたりが火の国の中心、もしくは母体であったように思われる。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 15:27:06.64
「熊襲」は、後世の畿内大和政権のたちばからの呼び方なので、
3〜5世紀のころの吸収のどういう立場の人を指しているのか、関心を持ってる。

熊襲タケルの墓も肥前河上にあるということだから、
必ずしも熊襲は、南九州の球磨曽於に限定というわけではなさそう。
単に、畿内大和朝廷から見て目障りな古代九州地方の豪族ってことだったのかもしれないね。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 16:43:59.17
古事記によると、上代において九州には
筑紫国(白日別)、
豐国(豐日別)、
肥国(建日向日豐久士比泥別)、
熊曾国(建日別)
の四カ国しかない。
肥国だけ複雑な名前で、熊襲と一部が重複している。
熊襲タケルが肥前にいたのなら、実は肥国と熊襲国は同一または同根なのではないか。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 16:53:54.57
九州説の立場からは、肥国王家や熊襲も倭国のいくつかある王家の一つだよ。
特に卑弥呼や壹與は、肥国に特徴的な女性首長の代表的と見なせるし。
天孫族は基本的に男尊女卑だし、豊国は筑紫の天孫族に輿入れする側だし、どちらも卑弥呼を輩出しないだろう。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:32:06.94
アマテラスは平安時代くらいまでは男性と考えられていたらしいよ。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:39:30.07
>>302
それが、先代舊事本紀だと
次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
  筑紫國謂-白日別,
  豐國謂 -豐日別,
  肥國謂 -速日別,
  日向國謂-豐久士比泥別.
次,熊襲國,謂-建日別.一云,佐度島.
となっていて、熊襲国は筑紫島の外の扱いになっている

古事記との対照を取ると
古事記             先代舊事本紀
筑紫国 白日別         筑紫國 白日別
豐国  豐日別         豐國  豐日別
肥国  建日向日豐久士比泥別  肥國  速日別
                日向國 豐久士比泥別
熊曾国 建日別         熊襲國 建日別

日向国の仲間外れ感がすごいけど、
旧事本紀では、熊襲国が筑紫島の外扱いの仲間はずれ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:53:23.69
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 17:56:17.97
佐渡島は無視するとして、やはり肥国と日向国の扱いが不安定かな。
そしてその二つの名前が被っている。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 18:01:25.12
アマテラス wikiより引用

平安時代、すでに大江匡房は『江家次第』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式が男性用の衣装である事を言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。
(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。
京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。
江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。
江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。
京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 18:35:39.51
>>305
誤 アマテラスは平安時代くらいまでは男性と考えられていたらしいよ。
正 アマテラスは平安時代くらいから男性と考えられるようになったらしいよ。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 21:35:06.34
翰苑より(一部引用)
「広志いわく、倭国(末盧国)東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。」

広志には、「(佐賀川上の)伊都国の南には、邪馬嘉国がある、と書いてあるそうだ。
この邪馬嘉国は、前後の記事の文面から見て邪馬台国を指して書かれたと思われるものの、
その方角には熊本県山鹿市があるので、邪馬台国≒邪馬嘉国(山鹿市)のつもりだったようである。
つまり、広志は晋代の書、翰苑自体も9世紀の書であるので、すでに邪馬台国はなくなっており、
その代わり、そこには好字に書き換えられた邪馬嘉国があったのでこのような記述になったのではないか。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 22:07:27.49
熊本県山鹿市(邪馬嘉国)こそ邪馬台国の主邑であったと思われるもう一つの理由として、
今に残る貴重な地名が挙げられる。
この山鹿市街と隣接の菊池市街のほぼ中間にあたる菊池市七城町であるが・・・、

その一帯の広々とした水田の一角に、そう高くはない丘陵がせり出しており、その先端に「臺」城址という遺跡がある。
当に此の地こそ、邪馬嘉国の「臺」≒ 邪馬臺国の「臺(台)」と思わざるを得ない雰囲気である。
またその近隣には、ご丁寧なことに「臺(台)簡易郵便局」という公共的施設まで現存している。

「熊本県菊池市七城町 臺簡易郵便局気付 卑弥呼さま」とでも宛名して手紙を投函すれば、
ほどなく、三世紀の卑弥呼に届けてくれそうなたたずまいの、まことに稀有な土地柄である。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 23:02:03.08
後に菊池氏という有力氏族を出す菊池も、それなりに有力な国だったろう。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 23:20:09.88
邪馬台国は意味的には山の大国だと思う。
英彦山、鷹取山、高良山などの筑豊の山を支配していた国だと思う。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/12(金) 23:22:30.69
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 07:13:13.68
>>318
>邪馬台国は意味的には山の大国だと思う。
>英彦山、鷹取山、高良山などの筑豊の山を支配していた国だと思う。

それらの霊山秀峰をはじめ、背振山、普賢岳、由布岳、阿蘇山、祖母山、韓国岳など、いくつかの神の山に登れば、
九州全島は細部まで見通せる。
古代においては、地域の高山は人工衛星の代わりだったわけだ。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 08:23:24.32
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 11:59:03.36
>>316
『鹿』 だよwww

漢字も氏姓も無い国に 馬氏だの伊氏だの 2兆%ない。
500年も前の天皇に諡号付けて記録も無い時の年号で、
それが歴史だ、と言い張る、記紀信仰よりはるかに馬鹿。

800年に日本書記読んだ唐人が邪馬鹿国 なんじゃね? って言った。に一票。

邪馬臺国 は、前提が、漢字文化圏で初めて卑弥呼宮を見た梯儁の命名と言うこと。
> 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
梯儁の行軍記録の、この一文以外で邪馬台国なんてもんは、歴史に登場しません。
238年から247年に魏の勘違い外交のフロントだった九州北部の小国です。

当時の記紀厨でもない 九州シャーマンにとっては、
日向も高千穂も漢字名だし
山は、火山、阿蘇でしょ?
あそ なんだ、スゴイね(aa略 ←これヒドwww
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 14:12:41.27


ヤマト王朝の古事記とか日本書紀なんかには そういうわけでクマソを未開人あつかいしたり悪人みたいに書いてある



当時のクマソの記録を書き残したとしたら 古代日本の歴史は変わっていたかもしれない



つまり……歴史とはあらゆる角度からあらゆる人間の側から調べなければ ほんとのことはわからないものなのである

火の鳥『ヤマト編』角川ハードカバー版より引用
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 16:22:37.97
>>324
陳寿は蜀の官僚だったが、自分が生きた時代の事実として
240年 梯儁の行軍と247年 張政の倭人船便乗での査察について
280年代に記している。
記紀が記し得ない、実年の日本の歴史なのである。

この間に大和朝廷の前身は瀬戸内海を統合し九州に入った。
中国外交の存在、中原勢力による公孫氏及び韓王家の滅亡を知り
富国強兵による対抗政策をとり、半島進出、高句麗戦、製鉄と牛馬の移入。
350年百済新羅の建国、400年倭の五王の南朝外交デビューに成功している。

この間、司馬氏の魏晋は、蜀呉の平定を果たすが、
三国志の背景にあった倭の半島進出において、その後の荒廃ぶりが当然のごとくに
東夷半島においては、魏―晋は完全に倭と高句麗にしてやられているのである。
倭人伝側の目線はこれを伏せている。

しかし、ホントーの事を書いている。
日本の現代学者が読めてないのは、戦後レジーム、半島忖度で、わざとだろ?
って、教師思いの生徒らしく老婆心で言ってあげてるんだけどね。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 17:09:44.26
文章がたどたどしい
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/13(土) 19:18:38.72
ほれ、ムーのおとなりの、マータイだ ↓

翰苑にいう邪馬嘉国(熊本県山鹿市)こそ、邪馬台国の主邑であったと思われるもう一つの理由として、
今に残る地名が挙げられる。
この山鹿市街と隣接の菊池市街のほぼ中間にあたる菊池市七城町であるが・・・、

その一帯の広々とした水田の一角に、そう高くはない丘陵がせり出しており、その先端に「臺」城址という遺跡がある。
まさにこの地こそ、邪馬臺国の「臺(台)城」であったと思われる。
またその麓にある臺(台)という集落には、ご丁寧に「臺(台)簡易郵便局」の看板を掲げた半公的機関まで実在している。

「〒861-○○○○ 熊本県菊池市七城町臺 臺簡易郵便局・気付 卑弥呼さま」とでも宛名して手紙を投函すれば、
三世紀の卑弥呼に、快く届けてくれそうな雰囲気の土地柄である。
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