♪邪馬台国ドンと来い!♪141
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九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
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前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535130067/l50
♪邪馬台国ドンと来い!♪140 半島南部の東西4千里 対馬〜壱岐が千里 壱岐は径3百里
この対比で倭人伝の里程が示されてることは変わらんだろね。 >>426
>倭人伝の里程を計算したら
>短里になるからね
>仕方がない
ならないんだって
そういいながら、実際の数値は示さないだろ? お察しってやつだ
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
渡海3つで、二倍の開き
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
陸行2つで、四倍の開き
何か基準となる長さがあって、実際に測ってたらこんなことにはならないよ
この辺の数値は、適当に机上で作った数字
実測値とは関係のない数字だよ
これを比定地探しに使おうとしても、最初から無理な話
短里は捏造
短里を使う理由のある人は、どこにもいない >>421
240年に公孫氏が滅びた
246年に韓王朝が滅びた
これを知って纏向に王都を建設
重農の銅鐸文化を終了して、中央集権と軍事帝国の古墳時代に突入
反中華親韓政策の朝廷は九州平定で邪馬台国と魏の外交は247年で終った。
この10年間の九州の歴史だけは、倭人伝が証明している。
考古学も証明してるし、筑紫平野王の卑弥呼は倭王じゃないだけで、全然謎なんてない。
この九州平定以前、当然越東海関東に進出していないと古墳時代は始まらない訳で
245〜246年辺りで、筑紫に一大卒を置いた、ってのは妥当なところと思うね。
卑弥呼の鏡は当然畿内から出ても良いし、
卑弥呼はまともな執政してない様子なので後の百済の例のように
238年当時から、筑紫を楽浪外交フロントの傀儡にしてた可能性もある。
263年蜀滅亡
265年司馬炎戴冠
280年呉滅亡
この間は中国無視で馬や鉄の富国強兵、半島南部の足場固めしてたんだろ。
313年楽浪帯方滅亡
朝廷勢力は半島に全面進出 対高句麗戦を後援
350年百済新羅建国
400年 倭の五王外交開始
倭人伝から空白の4世紀は、半島進出の時代であって
この歴史で、本当のことを言うと半島国と歴史の話は出来なくなる。
それだけの古代史の真実。 >>431
場所の比定があって、特定可能な2地点間になっているのは
対馬国〜一大国(壱岐)70km/1000里=70m/1里
だけってのが、里程の誤差を指摘するための資料として悲しくないかwww >>433
さて、誤差を減らす基本は
複数の点を取って平均化することだけど
釜山から唐津までの三点を取った場合
平均距離はどのくらいになるでしょうか? >>434
修正
釜山、対馬、壱岐、唐津の四点間の
3つの距離の平均ですね。 釜山と唐津ってのは確定しない。
と言うより、距離が合わないなら間違っている。 釜山から対馬、壱岐、唐津で
港を伝う距離だと210km程度ですね
これらの距離が3000里なので
1里は70mというところでしょうかね。 短里説?の一里が何メートルか? を求める必要が無い
半島の東西は4千里
対馬海峡は3千里で対馬壱岐で3等分程度だから各千里
これだけが、倭人伝の里程の必要十分な基準であって
(壱岐は方可300里もマクロで補足かな)
では、九州上陸から2千里がどの範囲になるか。
筑紫平野で熊本の北、みやまだろw
求める答えの為に、一里は74mである必要は無い。
上陸から南東5百里が伊都で奴国(ほぼ福岡平野内)に100里なら
伊都を特定してから北西5百里の張政上陸地を求めればいい。
それだけの事。 糸島半島北岸だろw 卑弥呼は女帝だよ
鹿児島や奈良はブスしかいない、女帝なんかいない
福岡か長崎なら女帝はいたかも知れない >>438
>糸島半島北岸
東松浦半島北岸の間違い? >>437
韓が方可4000里(韓国の面積100,339km2)だし
東松浦半島北岸の呼子や名護屋浦から日向峠が50qくらいだから
1里=80mくらいでしょう。 >>438
>さて、誤差を減らす基本は
>複数の点を取って平均化することだけど
>釜山から唐津までの三点を取った場合
>平均距離はどのくらいになるでしょうか?
また出たよ、インチキが
問題は平均を求めてどうするのって事だ
AからBまで10キロ、BからCまで30キロだったから、
じゃあ次のCからDまではその平均の20キロになるはずだなんて事にはならないだろ たとえば、3センチと2メートルと15センチの棒があったとして、
この3,200,15と言う何の関係のない数字であっても、
平均を計算することはできるんですよ。
72.7センチになりますが、この数字にどんな意味があると思いますか?
あなたのやっているのは、これと同じです。 邪馬台国が南にあるとしたのは
倭人にとって魏と結ぶには呉を牽制する位置に首都があったほうが都合がいいからだろ、常考
実際には邪馬台国が東にあって当然 九州説は短里がなくなるとその時点で終了だから必死だなww
だがその前に
「報告書を短里で書く人」はどこにいるんだい?
建忠校尉の梯儁さんも、塞曹掾史の張政さんも、魏の役人だから魏皇帝による
公定度量衡以外の尺度を使うはずがない
公孫氏ももともと漢人であり最後の瞬間までは漢の官職(左将軍の官位)に就いていたのだから
漢尺の度量衡で育っているし、漢尺の度量衡を使う
倭人は里を知らないと書いてある
どこに短里を使う人がいるんだい?
短里を知っている人も、使っている人もいないのに、
報告書が短里で書かれるってありえないだろ?
こういう基本を無視して論立てするから、九州説はトンデモになる >>447
帯方郡から七千余里進んでから海に出るという記載の説明ができないように思うが。 >>444
>誤差考えても畿内には届かないから諦めろ
届くよ?
九州上陸後の距離で見ると、50メートルと200メートルで4倍違う
これを誤差だというなら、
短里説の言う標準的な短里=77メートルを4倍したら300メートルを超えてくる
九州上陸まで一萬里で、残り2000里をこの308メートルをかけると
616キロになって、九州から畿内までの450キロより長くなるよ
届くだろ? >>448
>帯方郡から七千余里進んでから海に出るという記載の説明ができないように思うが。
畿内説では、短里はなく、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績をヨイショするために
公孫氏討伐の結果可能になった倭国からの朝貢を、より遠距離にするために
机上で作った誇張した数字が書いてあると考える
要するに、数字が盛ってあるんだよ
誇張分を実際の距離に合わせてみると、誇張した分短い数字になる
それだけのこと
机上で適当に数字合わせしただけだから、区間ごとに実際の距離と合わない齟齬が出るのは
ここまで示してきた通り
3倍も、4倍も異なる長さになる単位なんてないんだよ
短里は捏造 机上の数字を作るときの下敷きになる数字があって、
1.倭国の本土に上陸するまでが1万里 ⇒万里の修交をうたう
2.1日分の渡海は一律で千里 ⇒実距離は測れないから遠い距離とを示す数字で代表させる
3.女王国までの距離は、淮南子等に見られる世界の果てまでの距離、萬二千里とする
これだけだよ
これに合わせると、朝鮮半島で10000-1000×3で、7000里使わないといけないけれど、
それを南北四千里、東西は東の端まで行かないから三千里として、韓地方四千里が出てくる
3.の萬二千里は曹真が西域の大月氏に朝貢させているので、それに対抗するためにも
萬二千里という数字が必要ということもある
大月氏は漢書西域伝で「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」で萬二千里弱 長い距離で取った方が誤差は小さくなるかもね。
朝鮮半島の長さや幅で80メートルというのは一番正確かもしれない。 >>450
全くその通りだと思うよ
だから邪馬台国までの里数は全行程から九州上陸までを引いた分を考えれば良い
でもそこまでとそこから先の比率は守れよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>450
>>451
要するに畿内説ってのは魏志倭人伝は行程に関してはフィクションだとするんだね。
じゃあ、報告書が短里だ洛陽でわからないとかウソの距離を報告したら首が飛ぶとか言ってたのはなんなの? >>449
何で1300里で計算しないんですかねえ
そして最大値ではなく平均値で出すべきですよねえ >>450
数字を盛ってるってのは同意
対馬壱岐間も日数で表現してたら渡海一月としただろうねぇ 朝鮮半島沿岸も含めて、水行10日だよ。
対馬海峡はそのうち3日。 レベルの低さに泣けた。
邪馬台国論争って、これで良いの?
2〜10に、なんて書いてある?
倭人伝の話し する? 以前に唯の馬鹿なの?
まあ、ぶっ壊せばいいんだろw
もう遅くネ?
さあ、みんな、始まるよ!
よっしゃぁ〜〜 倭国上陸 末蘆国 草生えるぜ おまけ↓
wwwwwwwwwwwwwwwwwww >>440
過疎スレへの ご投稿感謝ですw
ご理解いただきたい基本は
魏使来日は240年の梯儁と247年の張政しかないということです。
九州説には奴国や伊都は絶対九州という 存在が重要と思いますが、
240年の梯儁は魏軍の行軍であって、伊都の一大卒に拘束されるわけが無い
この時、伊都は無かった。 と、読めるはずです。
247年の張政は、倭人船便乗だから、伊都に拘束された。
これを、考慮してください。
九州説は、>>2 と >>3 の段落は読めていると思いますが
それは、たった二回の使譯の記録なのです。 何を言ってるかわからないの?
梯儁は、卑弥呼に皇帝の命で魏の軍隊を率いて印綬の為来日した。
張政は、日本が245年の帯方郡の制韓戦に参加しなかった理由の査察に来た。
邪馬台国が九州なのは 漢文読めれば 当たり前だし、
アタシみたいな、現代日本の中学生歴女レベルで
なんで、日本の古代史うやむやにしたい奴が いるのかが謎。 それで
ひみこ?というのは、どこの国の人間だと書いてあるんだ? >>461
>邪馬台国が九州なのは 漢文読めれば 当たり前だし、
邪馬台国が九州でないのは 倭人伝読めれば「其山有丹」で 当たり前だし、 @阿波 神武以来、日本の中心は大和でないといけないと信じている皇国史観を妄信している人たちがいるのです。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 距離的には合うんだけどな
まあ記述にもう一回海を渡ったってのは無いから
そういう俺も阿波人 >>455
>要するに畿内説ってのは魏志倭人伝は行程に関してはフィクションだとするんだね。
いいや、いろんな情報の錯綜、混同があって不正確、と見る
魏志倭人伝の旅程は「あてにならない」、だよ
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか >>456
>何で1300里で計算しないんですかねえ
それはね、末盧国から東南五百里に伊都国がないからだよ
この「末盧国から東南五百里」の陸行は、おそらく漢代の倭面土国への旅程
確実なのは、上陸地点の末盧国だから、そこを基準にしている
>そして最大値ではなく平均値で出すべきですよねえ
いや?
>>449が、>>444の「>誤差考えても畿内には届かないから諦めろ」に対する
返事だってのを無視しないこと
こっちが、区間によって4倍も異なるって示しているのに、
それを誤差だと言い張り(ココ笑うところ)、その「4倍の誤差ww」で畿内に届かないというから、
誤差が4倍もあったら楽に届くところを示しただけ >>457
>対馬壱岐間も日数で表現してたら渡海一月としただろうねぇ
話がそれるけれど、それは考えられない
当時の航海で船上で夜明かしなどしたら、遭難必至だから、渡海は常に1日だよ
水行は沿岸航行だから、夜になったら岸につければいい
だから、渡海と水行は別に扱われている >>468
>佐世保に水銀鉱山があった。
それ、弥生時代に見つかってないから
見つかってないものは、あるとは書かれない >>470
>それはね、末盧国から東南五百里に伊都国がないからだよ
上陸後の距離が正しくないと仮定するのならこの残り2000里も意味をなさないのでは?
>こっちが、区間によって4倍も異なるって示しているのに、
末盧国から伊都国の距離を省いたら区間4倍の根拠がなくなるのでは? >>462
240年 梯儁が金印紫綬を届けた時の王宮は 邪馬国 みやま市でほぼOK
247年には卑弥呼は死んでいるが、伊都が有る。
伊都= 丗有王皆 統屬女王國郡使 往來常所駐
女王に属する21王、その使者も往来、常駐する首都。
ここで魏使張政が駐留、検察を受けている。
240年 卑弥呼は自国土極南界の王宮にこもり、自為王以来少有見者 である。
伊都において、国家に関する執政をとっていない。
どういう国なのだろう? 傀儡王または宗教指導者?
240年の梯儁は卑弥呼領土から、南の狗奴国にも踏み入っている
男子為王 不屬女王 を確認 その官 狗古智卑狗 による情報である。
卑弥呼の領土の国勢が 列記21王国 で全て 7万戸と報告している。
この時の行程は、自郡至女王國 萬二千餘里 である。(張政は万5百里+a)
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
張政は伊都までしか来ていないので、この情報も南限を見た梯儁
参問倭地は梯儁が女王の国勢を調べた際の21王国のことであり、
これが九州島の筑紫平野 周旋可五千餘里に収まっている。
倭王で無かったことを知り、ガッカリ、だったのではないかな。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>472
そうなの?
そんなことが確かにわかっているのなら
http://motamota.hatenablog.com/entry/2018/08/15/100442
こんな論は出てこないと思うけど。
弥生時代に「なかった」ことなんて証明できるの?
一般的には悪魔の証明だけど。 >>417
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析によると、ちょうど朝鮮人とオロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の
中間あたりの位置を示す。
オロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の分布位置と朝鮮半島のちょうど中間あたりはウデヘ、ナナイの
住む沿海州南部あたりで、これは弥生開始土器の示す沿海州南部と整合している。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg
http://f.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110813183224 >>471
一月行は概ねで2千里である可能性が高い。
梯儁の場合、特に日行は行軍日数で言ってる気もするけど
京畿湾から済州島 3月行
九州南北 3月行
九州と奈良までを見た裴世清の日本国土
三月行=九州 5月行=九州〜奈良から見た東の山
基本的には漢〜唐代まで継承した、東夷の軍事的概略図が有って
その、座標として月行と言う基準があると思う。
船の問題は、黒齒國在其東南船行一年可至
という信じがたい記録が有って、
これ12月行だと、2万4千里で九州南岸、種子島〜小笠原で合ってるんだよ?
魏はこの時、楽浪帯方は遼東からじゃなくて奇襲で占領だから
黄海帆船で渡ってるはず。
だから240年の梯儁の行軍も帆船だと思う。
未開地で幕営より珍島から対馬は直行したんじゃないかね?
上陸は、荷物多いし、王へのお届けだから、今宿五郎浜あたりw まあ、博多湾。 >>476
「真説」と謳うものはたいていはトンデモ >>479
リンク先の説を信じているわけではない。トンデモだろうとも思うが、
佐世保の水銀鉱山が弥生時代に見つかっていないことの証明を示してほしいんだが、そっちの方は? >>472
見つかっていないという根拠は?
魏志倭人伝に書いてあるのだから、見つかっていたのでは? >>481
>魏志倭人伝に書いてあるのだから、見つかっていたのでは?
そうだね、間違いなく見つかっていた。 倭国(阿波)で。 @阿波 そもそも、有、だけの記述だから、有ればどこでもええ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 辰砂は縄文からだし、真珠もだけど、卑弥呼の筑紫が弥生に対して
唐津以西、長崎、佐世保、五島は卑弥呼系弥生と言うより
縄文人文化地域と言うイメージなんだけどね。
でも、甕棺墓制や、朱が水銀からだと渡来人いないとできないのかな。
BC2〜300で青銅器あっても、鏡のメッキみたいのは国産出来たの卑弥呼以降?
縄文の朱で水銀から、ってのはいつからだろう。一緒に出るから判らないか?
徐福みたいな仙薬方士くらいしか水銀なんて知らなくないかな?
渡来人自体の意味は土器より水銀が固いような?
おもしろいかも・・・ あっ、スレチ、だなwww ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>487
そこで国津神としての肥国王家の卑弥呼なんですよ。
でも王都が筑紫の伊都だったので、そこに葬られた。
卑弥弓呼は実家の叔父さん、または従兄弟。
これで全て説明がつく。 出雲王家の口伝では
なくなった王は風葬にしていたが
徐福伝来の朱による遺体保存技術を取りいれて
累代墓参りをしていた模様。もがりを取り入れたという。 >>490
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜と、日常食だった蒸し餃子とワンタンと、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
. >>487
水銀から朱じゃなくて、
辰砂=水銀朱(硫化水銀)から水銀を作るんだよ >>473
>>449が、>>444の「>誤差考えても畿内には届かないから諦めろ」に対する
返事だってのを無視しないこと >>485
>そもそも、有、だけの記述だから、有ればどこでもええ
たしかに「倭国の範囲内」であれば、どこでもいいんだけれど
九州説の人は、より地域王権の発達した吉備、出雲、丹波、畿内と比較されると
その瞬間に死亡するから「倭国は九州島のみ」という主張なんだよ
そして、倭国が九州島のみなら、弥生時代に丹の見つかっていない以上、
明確に矛盾することになり、九州島のみの倭国説は破綻する >>480
其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
『邪馬台国の卑弥呼
卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。
その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の
出る山があったと言うことである。
どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る
必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと
市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。
市毛勲氏の「日本民族文化体系3」だそうだ 出雲、吉備、畿内、越、尾張、毛野などにも邪馬台連合と同じかそれ以上の勢力を誇る連合国家はあっただろう。
たまたま九州西北部を中心に広がっていた邪馬台国が魏と通好したというだけのこと。
自分は出雲の産だが、当時は邪馬台国よりも出雲のほうが強い勢力だったと考える。
出雲連合国家の勢力は不弥国のすぐ隣、遠賀川流域や宗像まで広がっており、邪馬台連合の動きを見ていたのだろう。
しかし邪馬台国は南九州に勢力を張る狗奴国連合との戦いに敗れ、滅び去った。 >>495
九州の辰砂が採掘あるいは採取されてい「なかった」ことの証明はどうされているのでしょう?
「卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されて」いたことの記録があるはずがないが(その時代の記録があれば誰も魏志倭人伝など読まん。)。
根拠はどう書かれているのかご存知の方教えてください。 >>502
文献的には丹は"出"じゃないから、山に存在すればokな話
これは個人的な考えだからどうでもいいが、
北部九州では水銀朱の存在はかなり前からあるので、全部を中国産とするのはどうかと思う
九州内の鉱産では中国と近い値を持つ山もあり、採掘した跡が見当たらない、との事で却下されてたりする
もう少し研究が必要ではないかと思うね ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>497
>しかし邪馬台国は南九州に勢力を張る狗奴国連合との戦いに敗れ、滅び去った。
根拠なし。
出雲が栄えていたことは間違いないが、その出雲を倒して筑紫に王都が築かれたと記紀に記録されていることは注目に値する。 >>501
>出雲が栄えていたことは間違いないが、
だだし、その「出雲」は島根じゃないよ。
その「出雲」は徳島の阿南市周辺で「狗奴国」。
「狗奴国」も強大だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「黒潮の恵み」と「海洋航行技術」。 @阿波 出雲は日本海の交通の要所だから。
基本、弥生時代は海に面したところであることが栄えるための条件。 >>492
そうなんですが、アタシが興味を持ったのは
佐世保は縄文時代から自然水銀が出た、のかな? ということ。
辰砂は朱ですが、水銀そのものは朱じゃない。
鍍金に使うか、不老長寿の自殺仙薬でしょ?
これが、徐福が探してたものだし、飲めば死ぬけどw
弥生渡来人って何だろう? 縄文朱、甕棺は中国じゃね?
と言う疑問に、面白いテーマが有るんじゃないかな、ってこと?
徐福は水銀で自殺。 稲籾は残るよね? 桶だと思うけど・・・
土器厨のキッドは飽きちゃって真剣につまらなくなってるwww
税金としての米なんて、古代日本にどんだけ要るかね?
チラ裏なん だってよw
学問より、ラノベで、♪ドンと行こう ぜwww >>496
>畿内に丹が見つかってないくせに。
??
「卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと
市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている」 >>497
>出雲、吉備、畿内、越、尾張、毛野などにも邪馬台連合と同じかそれ以上の勢力を誇る連合国家はあっただろう。
いや、それが倭国だから
邪馬台国=ヤマト国は、女王の都がおかれた地域の地名(国名) あまりにも基本的な事を聞いても良いかな?
九州説と言うのは、卑弥呼の筑紫国が東遷しないと
卑弥呼は倭王にはならない、で良いのかな?
朝廷は、纏向とか、畿内でしょ?
卑弥呼は247年に九州で死んだから東遷はしてない。
で、良いのかな?
どう考えても、247年当時、卑弥呼が倭王では無くて
筑紫王だった。 倭王は、畿内に居た、で辻褄は合うのではないかな?
ただ単に、魏志の倭王は卑弥呼が筑紫王だっただけにしか見えん・・・
反論が欲しいんだけど・・・ この時、倭王は畿内に居るだろwww
倭人伝はちゃんとそう言ってるんだが?
なんで、論争がある? >>508
>反論が欲しいんだけど・・・ この時、倭王は畿内に居るだろwww
畿内のどこに? @阿波 >>505
その市毛さんって方は何を根拠に卑弥呼の時代に大和と阿波の鉱床が開発されたと断言しているのでしょう?
なんて書いてるか教えてください。 >>508
>反論が欲しいんだけど・・・ この時、倭王は畿内に居るだろwww
いないよ。 >>508
すみません。
魏志倭人伝のどのくだりにそのようなことが書いてあるのかわかりません。
「どう考えても」って何を材料に考えました? 邪馬台国の東遷は有り得ないが狗奴国は「東遷」したかもな。
伊予の海人族、河野氏の祖、河野越智彦こそ狗古智卑狗。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>2 〜 >>3 の段落
二人しか来日していない魏使の行程
これがちゃんと理解できてる、九州説の場合 って言ってんだけど?
阿波とか畿内説の場合? そりゃ、話にならんよwww
倭王は卑弥呼だと思って、金印紫綬しちゃいましたwww
これは、ただの筑紫王だったんで、帯方郡の馬鹿が間違えてました。
って、倭人伝にちゃんと書いてあるのに 何で読めて ないの?
話しにならん、と言う意味が判ってないでしょ。 筑紫にいた王を中国が倭王と呼んだんだよ。
畿内の勢力はあまり知られてなく、そっちにも倭人がいるという意味で倭種と書かれている。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>511
考古学を前提とした畿内説っていうのは基本的に、
卑弥呼時代の倭王は畿内にいて、王都は畿内にあった
と言う、考古立証だと思うんだけど、これを否定する気は無いんだ。
卑弥呼の存在証明は、金印と卑弥呼の木簡でも出ない限り無理だし
240年の梯儁が報告の為 便宜的に使った、
邪馬台国と言う名前の国、漢字名の21王国は日本史に無い。
奴国王=自称大夫だけど 升米が 難升米 になっちゃう、限定的、当て字の類だよ。
漢字伝来後の筑紫で那珂川の那、那の津の那になった可能性は否定しない。
伊都国と言う名も 張政の247年が初出であって、
金印の漢倭奴国王は倭王じゃないし、 伊都国でも、有り得ない。
倭人伝には本州に関し、東の倭種以上の事は書いてない。
240年の金印印綬の際、邪馬台国は福岡、筑紫平野にある21王国7万戸が
卑弥呼を共立王としていた。と言う話。
>>6 で、
女王国が筑紫の小倭であったから、大倭が本州勢力を意味する、
と言う仮説の上では、一大卒は倭を本州にも広げた目線で、
考古学的検証を加味すれば、古墳時代に向け日本を統合しつつあった勢力が
後に王都とする奈良、つまり畿内という名称で代表する勢力である、が有力。
これを九州と畿内の並立と言った。 小倭と大倭で良いかもネ^^v 歴史もっと進んでください。歴史のメディアでの登場でも人生プロデゥ―ス
できるのだから。南北朝室町足利がおススメ。 大倭は九州北部を統一した広域連合。現在の福岡佐賀長崎。
都は博多湾沿岸の邪馬台国。現在の福岡県西北部。 >>522
>宗像末盧国説
へぇ〜、こういう常識人もいるんだね。 @阿波 作家の高木彬光が宇佐に邪馬台国を持ってくるために宗像を末盧国にしてたな。
末盧国は未開の、官さえいない国。宗像族の末裔がこんな与太話聞いたら怒るわ、俺のことだけど。 >>524
>末盧国は未開の、官さえいない国。宗像族の末裔がこんな与太話聞いたら怒るわ、俺のことだけど。
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 >>524
伊都国王が素戔嗚なら何の不思議もない。
英彦山に居た素戔嗚が三女神と大己貴を宗像に行かせたって伝承もある。 >>525
>大陸からの玄関口 末羅國
張政は敵性国家の帯方郡使
国の玄関ではない、末羅國に入国させたのは、軍事的事情。
首都伊都には、対外検閲機能が有る。
なんで、草ぼうぼうの国を5百里歩かせる首都港が有るwww
なもん、アホでも判る。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています