織田信長は過大評価されすぎ!
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
真実の信長は日本の半分も支配できないで部下にぶっ殺されたマヌケだろ
こんなマヌケが天下人のごとく扱われる昨今の風潮は異常 人生の大部分は関西すらまともに統一できなかった無能 >>330
福知山の御霊神社は光秀を祭ってるみたいだ そろそろ俺たちは光秀を国賊の信長を殺した英雄にすべきだな 平和主義者?のパヨクが揃いも揃って戦国大好きなのは、
「糞ジャップが殺しあってらwwww」
という感覚だから。 >>337
ネトウヨが信長好きなのは「ジャップ大虐殺した信長公マンセー」なんだよなw 評価されることが過大の方が信じられないほどの現実があったことを予想させる。
自分が届いていないと評価はできないから、過大といわれるんだろう。 >>341
信長ってアジア統一したの?
あんたは史実を知らないんだね。 私情を入れすぎる井沢元彦には歴史を語る資格はないよ
まだ司馬遼太郎のほうがマシ 今日発売の歴史探訪で名将ランキング6位に信長だった
やっと信長の過剰崇拝も終了を迎えた 秀吉がいなかったら金ケ崎で戦死していただろ。
いやそれ以前に岐阜すらとれなかった。 秀吉と家康は信長なしでも天下人になれたが信長は無理 本州の半分も支配できずに部下に殺された負け犬がザコナガw 信長だけが突然変異で
江戸時代の織田家当主は
柏原も天童も柳本も芝村もバカ殿のオンパレード >>370
信長の男系で大名になったのは信雄の系統しか残ってないじゃん
妹・市の血筋は天皇家にも徳川家にも入ってるぞ
だいたい頼朝、尊氏、家康の子孫にも馬鹿はいただろう 信長は本能寺で終わった雑魚だから
本能寺がなかったらという設定はありえない 独裁者「通貨が不足しているのに商売人が汚い銭を押し付けあってる?それなら俺が定めたとおりに受け取るようにしろ」
↓
商売人「めんどくせえからバカ相手にするのやめるわ。銭使わず取引しようぜ」
↓
独裁者「助けてー商売人が誰も通貨利用しなくなってしまったのー」 だ〜がしかし、もはや信長ちゃんに対抗できる勢力はいなかったのよ。
それが現実つーおお笑いよ。
やっぱ、信長ちゃんが当時一番だっちゃ。 だいたい、太平洋戦争のときにおってくれたらよかった武将ベスト10を上げるとしたら、そらベストワンは信長やろ。
たいがい頼りになったはずや。
信長以外にはおらんのとちがうか。 >>392
現実には信長が天下を取るどころか部下もまとめられなかったんだけどねw >>394
部下はもう、ご機嫌とるのに大忙し。
信長が何をいってくるか、気が気でないしまつ。
各方面で部下たちは、それぞれ成果を上げなくてはいつ放逐されるかという崖っぷち状態。
信長のリーダーシップがなければ、何一つできなかったのが側近武将たち。 で、最終的に信長が本能寺の変で殺されたこと理解してる? >>396
そらよ、護衛わずかのところを武装兵多数に襲われたらアレキサンダーでも殺されるわな。
近衆わずかのとこへ、圧倒的多数の武装兵士が襲いかかった結果、信長がそれで死んだとしても何の不思議もない。
ごく当たり前のことよ。
そんなことよりも、信長の遺体が出なんだことに驚かんか?
これ、いかに明智がへぼやったか分かるわな。 本州の半分も支配できなかった信長は過大評価されすぎたな >>397
秀吉や家康は部下に殺されるようなマヌケじゃなかった
信長はマヌケw >>399
手つかずは、中国の毛利と越後の上杉だけだから。
いずれかが敗北すれば、残りは戦わずして降伏しただろうな。
要するに、あとは毛利に対する秀吉の成果待ちだった。 >>400
きみら、脳の配線おかしいんじゃないの。 >>401
信長は家康より格が上だったが、秀吉と家康は格がよく似ていた。
この一事でもって、きみらの判断基準に締まりがないことを示しているな。 >>402
信長の事例をみることができた秀吉、家康が脇を固めたのは当然だから。
先例があると、何事も楽なもんだ。
きみらのオツムじゃ、その先例さえ見誤ってしまうがな。 >>407
信長は何度も裏切られた自分の先例すら糧とすることもできなかったんですけどww 信長信者って、信長が天下統一どころか部下の統率もまともにできなかったことすら見えてないんだね。 >>412
“盟友”の細川藤孝すら「ほえぇぇぇ〜」と引いた光秀のわけわかんめ襲撃。
「で、どうすんの。わし、知らんから〜」と藤孝は嫌疑かけられるのを避けてひたすら蟄居。
最近、なにやらもっともらしい光秀論が出てきてるが、もともとからある神経病んでた説が一番リアル。
信長に反逆した松永久秀もその反逆の理由は不明となっているが、光秀のわけわかんめさと比べると、一応その反逆の在り様はいかにもそれらしいところがある。
光秀は、松永より劣る小者臭さがあるわな。 いくら連戦連勝で敵を倒すことは出来ても、治める能力がなきゃ天下人としては失格なの。
中国の項羽や董卓がその典型的な例。
99勝しても最後の1敗でアボンしただけ。
天下人秀吉や家康は信長とは格が違う。 >>414
だんだん論理がおかしくなってきてるな。
秀吉や家康が治めるのは、敵がいなくなってから。
敵がいたあいだは、そら戦時体制ファースト。
信長が死ぬ直前は、まだ毛利や上杉が敵対していた。
信長は、戦時体制最優先だから。
まあ、毛利や上杉を下したあとの信長の平時の政治手腕をみたかったのは、国民全員の希望だろあな。
ただ、どうも国内平定したあとはチャイナ侵攻を計画していたとされるから、信長にそうした平時の政治手腕を期待するのは無理だな。 しょせん明智光秀に寝込み襲われて焼き殺されたクソナガw しょせん明智光秀に寝込み襲われて焼き殺されたクソナガw >>414
信長は敵を減らすことが出来なかったんだろ
いつまでもモグラ叩きしてるようでは天下人になんかなれるはずがない
毛利や上杉を平定というけど現実にできなかったんだからその仮定は無意味
信長信者はバカしかいないから理解できないだろうけどな >>418
信長の有利な点は、金で雇った常備兵が主力だったとされるな。
当時のほとんどの大名は兵農分離ができていず、農閑期にだけ戦争していた。
そこへ、いつでも戦える兵力を備えて登場したのが信長よ。
戦いに有利という一点が最優先だった。
槍の柄を長くしたのも、そのほうが有利だったから。
信長の評価については、そういうところに目を注がないとなあ。 井沢の妄想を盲信してるだけのバカだったか
常備兵とかwww 金で雇ったというけど、その兵はどこから来るんだ?
馬鹿井沢の本によれば農家の次男三男を、ということらしいけど、
農家の次男三男は農家にとっちゃ貴重な作男であって、
その人々がいなくなったら国力は下がるんだけどね。
まさか長男だけ農民やってれば作付面積も農作業の負担も変わらないと思ってる?
それに、そこまでいうんだったら、金で雇った常備兵とやらのソースを出してくれよ。
妄想じゃなく当時の史料を出してくれ。 >>422
その当時、あぶれ者や流れ者など普通にいっぱいいたし。
滝川一益なんて忍者くずれの他国者だったそうじゃないか。
秀吉だって、針売りで流していたんだろ。
信長の有力武将て、みなそんなのばっか。
由緒正しい者なんてお呼びじゃなかったわけよ。
一方、武田信玄の兵なんて、春から秋まで農作業に忙しく、戦争どころじゃなかったしな。 だーかーらー
常備兵を抱えていたという根拠を出してくれよ。
そもそも常備兵って言葉はないにしても、その考え方は信長がオリジナルじゃない。
お前の大嫌いな比叡山なんて農閑期関係なく僧兵を数千抱えていたんだし、
源平合戦の時代から農業に従事しない武士なんていくらでもいただろ、
頼朝軍が農閑期にしか戦していないとしたら西国で戦していた東国武士はなんなんだよ。
ウリジナルほざいてる奴ってどこかの国の奴らと一緒だぞ。井沢は実際在日っぽいけど。 >>424
なにも知らんのだなあ。
例えば、秀吉の中国攻めを見てみろよ。
信長から毛利攻略を命じられた秀吉は、1578年から播磨の敵対勢力平定にとりかかり、播磨のあとは但馬、因幡でも平定戦を続行した。
そしてようやく1582年3月から毛利方の備中高松城攻略を始めた。
水攻めで高松城が降伏して毛利と講和がなったのが同年6月。
要するに3年と3か月にわたって秀吉は戦いつづけているわけだ。
高松城攻略を始めたときには秀吉の軍勢は2万だった人とされている。これに宇喜多勢が1万人。
この秀吉の軍勢が田植えや稲の借り入れのために帰郷したということは、まったくない。
この2万人は、3年間にわたって戦いを継続した常備兵ということができる。
これが、信長軍の強さの秘密だったということだな。 >>424
源平合戦などの頃の戦力は、一族郎党と呼ばれる血族集団が基本。
彼らの資力の元は自領の農村にあり、その村で農耕に従事する農民たち自身はそもそも戦に参加していない。
というのも、村の支配層が一族郎党という血縁集団であり、これが戦闘の単位集団だ。
この一族郎党は自領の農耕を指図する立場の者であるから、田植えや稲刈りなどの時期の戦いは嫌がり、例えば源平合戦のそれぞれの戦いをみると、冬場の戦闘が圧倒的に多い。
夏場の場合は、短期間に決着がつく戦いが多い。
戦いが始まる季節をよく見てみるんだなあ。
戦いの本質が分かる。 また信長ウリジナルが始まったな朝鮮人。
源平の時代の長期戦の間、田植え稲刈りのために帰郷したなんてことは全くない。
関東から西に遠征した武将たちが延々と戦い続けてる。
南北朝期にも地元を離れた新田義貞の軍団は群馬に帰郷してない。
すでに兵農分離された軍団がずっと前から存在していた証拠。
信長がやったことの目新しさなんかなーんにもないんですけどね。 北畠顕家だって二度も奥州から大軍率いて長期の遠征しているし、
木曽義仲も田植えのために京都から木曽に戻ったなんて話聞いたことねえな。 >>428
この建武新政前後の戦いは天皇の命による政権奪取を目指す天下分け目の戦いであって、地方勢力同士の抗争ではない。
そこを忘れてはいけない。
農繁期の戦いを避けるというようなことは、この場合起こらない。
決着がつくまで戦いは継続される。
しかしそれでも、戦っているのは一族郎党を基本単位とする武士団であり、その武士団が支配する農民層までが参戦しているわけではない。
そして、その武士団が二極化して激しい合戦となっているもの。
兵農分離はこの時期には生じていない。
各地の武士団はまったく農村に立脚しており、その農事を差配する者たちであった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています