織田信長は過大評価されすぎ!
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真実の信長は日本の半分も支配できないで部下にぶっ殺されたマヌケだろ
こんなマヌケが天下人のごとく扱われる昨今の風潮は異常 >>503
信長の基本路線の中核は、天皇と貴族による世俗政権への介入の排除にあった。
秀吉、家康もこの路線をもって政権の基軸とした。
この路線は、現在の天皇の象徴制、貴族の廃止などにつながっている。
信長が創始した路線だね。 >>503
秀吉も自分が生きている間は家康を制していたが、
自分が死んだら制するどころか逆に制されてしまった >>504
貴族と武家政権の関連で言うなら、
足利将軍は京都に本拠を置いたこともあって、
一部の公家は公家でありながら天皇よりも将軍に近侍する者が現れるようになった
これを昵近公家衆という 有名な所だと日野勝光や葉室光忠など
織田信長にも陣参公家衆といって、信長に家来のように仕える公家衆がいた
豊臣政権にもその伝統は引き継がれ、関ヶ原戦で豊臣家は天下を失ったが、
その後も大坂城へ伺候する公家は残っていた
持明院基久のように大坂の役で豊臣に味方して大坂城に入城し戦死した公家もいた
逆に江戸幕府になると江戸と京都が遠いこともあり、
貴族と武家政権は疎遠になり、直接公家と将軍、大名が私的に面会する機会も
めっきり減ったといえる
(ただ貴族の娘が大名家に嫁ぐなど血縁関係は残ったが) 軍事貴族というのはすでに平安時代からあり、平氏や源氏などがその軍事貴族の筆頭に当たる。
かれらが軍事面における臨時政権を担うまでなったわけ。
しかしながら、政治のおおもとはやはり天皇や貴族による朝廷にあったもので、源頼朝は幕府という軍事分野の臨時政権を担っただけ。
こうした軍事貴族の武門における流れはその後も続き、信長のときには長篠の戦にも参陣した者もいた。
しかしながら、かれら軍事貴族は信長らの世俗政権にはまったく参入できていず、単なる格好だけの参陣にすぎなかった。
一方、足利の室町幕府は朝廷から任命された将軍が世俗政権を運営したものだが、天皇と貴族による朝廷政治の手足であるという建前から脱したものではなかった。
そこに登場したのが信長であり、信長は朝廷政治を無視して、信長の世俗政権には介入させなかった。
これは画期的な出来事であり、信長は朝廷から何の位階も受けず、無位無官のままに自らの政治を行った。
秀吉は関白という位階を朝廷から受けて世俗政治を行い、また家康は大将軍の位階をうけて幕府を開いて軍事政権を樹立したが、朝廷政治の介入は退けて信長の路線を継承した。
信長の登場によって何が起こったのかということについては、著しい例が朝廷政治の排除だったということになる。
ここから日本の近世がスタートして次の明治の近代へと進むわけだが、明治になっても朝廷政治は復活しなかった。
天皇は国家の象徴的元首となり、貴族は帝国議会の議員となった。
朝廷が復活したわけではないのだ。
こうしたことから俯瞰すれば、現在の日本の体制のそもそものスタートは、信長にあったことは明白。
妄想型神経病者の光秀が、ある日突然皆がどん引きするような凶行に打って出たあとも、その信長が始めた路線の流れは決して止むことはなかったのだよ。
それが歴史なのだなあ。
わははははは。 毛利上杉を同時に敵に回して戦力体力気力と時間を無駄にした馬鹿信長
その二勢力と同盟して無傷で自陣の戦力を増強した秀吉
二人の器の違いがよくわかる >>508
信長は、種付け馬だな。
種つけられた秀吉、家康ともども信長の後塵を拝しただけ。
今のおめらも、信長の種の一人。
あはははは。 その意味なら信長も清盛頼朝義時尊氏義満などの後塵を拝しただけだよな >>509
秀吉は、毛利や上杉が頭下げてくればそれでよかったのよ。
毛利は、秀吉の五大老の一人となった。
一方、家康は信長的なところがあって、やはり一戦を必要とした性格だった。
関ケ原を行うことでもって、武威による決着をつけた。
そして、その家康は天皇から征夷大将軍の位をもらって幕府を開くと、そのあとはもう天皇と貴族らとは関わらなかった。
干乾にあった天皇と貴族は、年間の予算にもこと欠いた。
その非情さは、信長とよく似ているな。 >>511
その決定的な違いが、朝廷をどう扱うかだったのだね。
頼朝から足利までは、朝廷が権威権力を持っていた。
それを、信長が世俗政権に関われなくした。
政権の根源の問題がそこにあった。
信長は、世俗政権の運営に天皇はいらないと断じたのよ。
そこが信長と頼朝らとの決定的な違いだな。 そんなの、大陸じゃ普通
カビの生えた神輿をいつまでも大事に戴いてる日本が特殊なだけ
信長はそれを変えようとしたが抵抗勢力に消された >>514
この点が、日本と大陸と決定的に異なるところ。
信長は、朝廷を消し去らなかった。
秀吉も、家康も同じ。
ただ、朝廷を世俗政治から排除しただけ。
それで、朝廷は宗教的な祭政にのみ特化することとなった。
大陸の東アジアでは、宗教的祭祀者はすでに古代から世俗政治への介入を排除され、迷信世界で存在するだけのものとなった。
一方、中東や西洋では、普遍宗教として国家を超越する存在となり、世俗政治を従える超越的な独立性を保持することとなった。
しかし、西洋においては、近代になってようやく宗教的祭祀者に対して日本と同じように世俗政治への介入を排除する流れとなり、キリスト教の教皇は世俗政治の圏外に立つこととなった。
中東においては、依然として宗教的指導者が世俗政治に全面的に介入を続けているのが目立つのである。
つまるところ、西洋は19世紀になって信長の路線にようやく追いついたということになるのよ。
大陸といっても、このようにいろいろなバリエーションがみられるのだ。 >>516
その抵抗勢力は、目的を達することができなかった。
信長の路線の勝利だよ。 >>507
面白いと思うけど、
朝廷の官位に依拠しない、朝廷の高位高官で統治を正当化しないのは信長後期固有の特徴
秀吉から現代には受け継がれなかったと思う
世俗政治から天皇を切り離したのは、むしろ足利義満だと思う
朝廷の行政権力が義満から形骸化が目立った >>518
秀吉も家康も朝廷政治の排除を進めており、この路線は信長の路線を引き継いだもの。
官位を受けたのは世俗政権の根拠をそこに求めたのであって、信長ほど天下布武に徹するつもりがなかったということだろう。
世俗政治への朝廷の介入を排除できればそれでよかったということになる。
足利義満が世俗政治から天皇を切り離したとするのは、どうか。
通説では、義満は公武一体化をめざしたとされる。
世俗政治を朝廷政治に格上げ一体化させようとしたのが義満だと解釈するのがよいようだ。
南北朝の二朝分裂を解消したその余勢をかって、朝廷から預託されている世俗軍事政権である幕府を朝廷の機関として格上げしようとしたということだろう。
これは、信長の世俗政治からの朝廷排除とは真逆の在り方であって、義満と信長を同列に置くのは妥当ではないと思われる。 >>517
南北朝動乱の商社は後醍醐天皇、なぜなら明治政府に正統と認められたから。
くらいに負け犬の遠吠えだなw >>520
長い間かかったもんだ。
草葉の陰で…。 部下に焼き殺された負け犬のマケナガは過大評価されすぎたなw 部下に焼き殺された負け犬のマケナガは過大評価されすぎたなw 部下に焼き殺された負け犬のマケナガは過大評価されすぎたなw 秀吉は信長の真似をしなかったからこそ天下を制したのである
その証拠に信長が保護したイエズス会を排除して信長が弾圧した仏教勢力と和解した 信長なくして秀吉、家康なし。
冷厳な歴史の真実。
歴史を直視したまえ。 そのとおり。信長公との接点は猿と狸の人生に多大な影響を与えている。 い〜や秀吉と家康は信長配下じゃなくても天下を取れたけど
信長には秀吉と家康がいなければ勢力拡大は無理
その証拠に何度も信長は窮地を秀吉と家康に助けられた >>529
信長だって父親からの領土を引き継がなかったら何もできなかった まあ、秀吉や家康の人生に影響を与えたのは事実だけど、
だからって二人の偉業まで信長の手柄にするのは明らかに間違ってるんだよなwww >>531
秀吉は信長配下じゃなかったら、
他の大名に仕官してもただの百姓上がりの雑用係で終わりだよ
槍働きで敵将を討ち取る武勇もないし
家康も桶狭間で信長が義元を討ち取ってくれないなら、ずっと今川配下のままで終わり 秀吉と家康がいなかったら信長の天下布武は成り立たなかったかもしれないが、
逆に信長がいなかったら秀吉と家康の天下はなかったとも言えると思う こういうふうに頭のいい人がいるのは、すがすがしいな。 信長なんかいなくても秀吉は天下取れたよ
実際に信長抜きで天下取ってるしな秀吉 徳川家康なんか元は今川家人質で今川家の教育が非常に有効だったわけで信長は関係なさすぎw 徳川家康が最も参考にしてたのは武田信玄と北条早雲。
信長なんか負け犬は関係ないんだよ 徳川家康は武田信玄の旧臣を取り入れて天下統一を完成させたのだ。
信長なんか負け犬は関係ないんだよ 秀吉は信長なんかいなくても天下をとれたし実際に信長なんかいなくて天下を取ってる まあ明らかに徳川家康の天下に影響を与えすぎてるのは武田旧臣 武田信玄なくして徳川家康の天下は無し
織田信長は関係ないよ >>535
秀吉がもとから信長の地位にいたら、もっと早く天下をとっただろうね。
信長が秀吉の地位からスタートしていたら足軽どまり。 >>539
その今川が、目の前で信長に倒されてしまって、今川ワールドが瓦壊消滅したのだから、どうしようもない。
家康は、今川壊滅のどさくさに紛れて独立した。
家康の目先の読みの良さが光るな。 >>540
家康が武田を参考にしたのは領国経営のやりかた。
また、家臣の統制については武家諸法度が設けられたが、これは家光が発布したもの。
武田の甲州法度之次第を参考にしたとされるが、そもそもは発布4年前に家康が大名から受けた誓紙3か状が元になっている。
武田の遺臣を受け入れたのは、なにも家康だけではなく、上杉なども遺臣を家来に入れている。
家康の立場が強固だったのは三河以来の家臣団の忠誠心が高かったからで、武田の遺臣の役割は無ではなかったが伝えられるほどでもなかった。
こうしたことよりも、家康の眼目は禁中並公家諸法度にあり、初めて朝廷の在り方を規制する画期的なものだった。
この禁中並公家諸法度の制定は武田の家臣統制の法度とは関係がなく、朝廷の介入に楔を打ち込む最大の法的根拠となったとされる。
家康の世俗政権への朝廷の介入を排除する画期的な法であった。 >>546
信長に取り上げられなかったら、秀吉は夜盗の類になっていただろうと言われるな。 秀吉は足軽から天下人に上り詰めた大英雄。
家康は太平の世の礎を築いた偉人。
いくら信長が「オレのおかげだろ」とほざいても、
二人「はいはいありがとね〜pgr」ってところよ。
信長信者の負け犬の遠吠えがむなしすぎるね。 >>551
何が歴史の実相かちゃんと把握しとかないとな。
関白秀吉の側室の淀、二代将軍の徳川秀忠の正室の江は、ともに信長の姪。
秀吉も、秀忠も信長の妹市の娘を取り込むことで、自分の政権のよってきたる正統性をアピールした。
信長なんて関係ね〜よ、とは言えない秀吉、秀忠なのであった、というのが実相なのよ。
信長様あっての私めでございます、と頭を畳にすりつけるのが秀吉、秀忠ということ。 信玄を崇拝してたのは家康だが
信長を崇拝してた武将なんぞ一人もいないよ
秀吉ですら信長には知恵が足りないから殺されたという始末 秀吉も家康も信長の才覚を自覚していたから家臣になったんだろ
(家康は同盟者だが実質信長の支持通りに動く家臣
危険な先陣ばかり切らされ直臣よりも扱い悪かった)
部下が社長の悪口言ったところで社長の才覚には及ばない 社長が会社を潰し、部下が建て直し、さらに事業を拡大させたんだけどな。 そもそも信長の部下だったら誰でも天下人になれたわけじゃないし
秀吉や家康だから出来たこと
他の信長軍団武将で勝ち組なんて前田と細川しかいないから
やっぱり凄いのは秀吉であって信長ではない >>556
信長死んだあとなら、何とでも言えるしな。
生きてる間は、信長さまさまだろ。 >>559
信長は、会社隆盛期に暗殺されたの。
全然潰してない。
まだ伸びしろあったから、秀吉、家康がその伸びしろへ登って天下取っただけ。 >>562
まともな社長なら暗殺されない
その時点で戦国時代の負け組だよ >>558
古文書にも残ってるが家康が心底崇拝してた武将は武田信玄と北条早雲だぞ
信長なんか仕方なく嫌々で付き合ってただけだろ? >>558
古文書にも残ってるが家康が心底崇拝してた武将は武田信玄と北条早雲だぞ
信長なんか仕方なく嫌々で付き合ってただけだろ? 信長には人望がゼロ
だから光秀に殺されるわw秀吉からも智慧ないとバカにされるわw家康からは無きものにされてしまうわw 徳川家康が参考にしてたのが信玄である以上。
信長なんぞ見習うべきものが何もないと断言できる。
事実に幕末の勝海舟までもが信玄と早雲を褒め称えてる。 しょせん部下に焼き殺されたザコナガなんだよw
そんなザコから学ぶべきものなどないだろw 家康は信玄はもちろん、今川義元や豊臣秀吉についても多くを語ってるが
織田信長については殆どコメントしていない。
関ヶ原で敵対した佐竹義宣についてでさえ
「律儀もいいが、あれほどの律儀者も考えものだ」
みたいなコメントしてるのに… なにがなんでも信長が負け組だということを認めたくないんだろうけど
負け組だよ >>563
前にも言ったように、ある日突然型神経病者の突発行動は、誰にも読み切れん。
光秀がその病者だな。
しかし、信長の天下思想は秀吉、家康に受け継がれ、さらに明治から現代に至っても続いているのだから、信長が勝者なのは明らか。
二度と同じこと言わないーにチェック入れておくように。 >>565
家康が尊敬していたと言えるのは、源頼朝。
家康は鎌倉幕府が製作した「吾妻鏡」の写本を入手しこれを愛読しただけでなく、木活字による「新刊吾妻鏡」を出版して世に広めたくらいだ。
一方、信玄については、家康はいろいろ参考にしたらしいが、尊敬していたというのは初耳。
見習ったりはしたのだろうがな。 >>570
そらそうだろう、ご主人をあれこれ言わんさ。 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を刺されて笑われてるザコ 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を刺されて笑われてるザコ 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を指されて笑われてるザコ 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を指されて笑われてるザコ >>570
家康には信長なんて思い出したくもないゴミだったんだろ。 >>580
我が子秀忠に信長の妹の娘を正室として迎えた。
毎日、信長の顔を思い出していたんだろうなあ。 >>580
長男の信康を切腹させられたからには実は家康にとって最大の仇敵は信長なんだろ。 武田信玄の隠し子伝説があるぐらいに家康は信玄を崇拝してたとさ あくまでも隠し子の噂は伝説にすぎないけど
そんな伝説が生まれてしまうぐらいに家康は信玄を畏敬してた証拠だろ 誰も焼き討ちにされた織田ザコナガを崇拝してませんでしたww >>582
むしろ秀吉との姻戚関係重視だろ
お前さんは大河ドラマお江の見すぎw >>586
家康自身は新田源氏だと主張してるんだから甲斐武田は無関係 >>583
近い時代の史料だと家康のほうから信長に不忠な長男信康を処分したいと申告してきて
信長は好きにしろと言っただけになっている
信康を切腹させたのは家康で江戸時代に東照大権現様の息子殺しの罪をなくすべく
暴君信長によって切腹させられた尾ひれがついた
同様に江戸時代には築山殿は悪妻とされた
江戸時代についた尾ひれですら信長は築山殿の処分に口を出したことはなく
築山殿殺害は家康の意を汲んだ家臣が勝手にやったこととされた
しかも家康は築山殿を殺した家臣を処分していないため実質これを承諾している >>582
江と秀忠の婚姻を決めたのは秀吉
理由は江が信長の姪だったためではなく江が豊臣秀頼の叔母だったから
江は豊臣秀吉の養女となり豊臣の姫御前として秀忠に嫁いだことは
「徳川実紀」にも誇らしげに書いてあるし
江と秀忠の娘・徳川和子が養源院に納めた江の位牌にも
徳川家、豊臣家、天皇家の家紋が刻まれていることからわかる
(江は豊臣家の娘という認識)
だいたい江は3度目の結婚だったんだし
信長の実娘だって大勢いたのに織田の姫でもない姪にいくわけない >>591
江を秀忠と婚姻させたのは秀吉だが、その理由が豊臣秀頼の母淀の妹だったからというのはバイアスかかり過ぎ説。
江は、浅井長政滅亡後に信長の庇護のもとに岐阜で暮らしたが、されている信長横死の後、秀吉の意向で織田信雄方の佐治一成に嫁いだとされている。
しかし最近の資料では、鳥取池田家に伝わる佐治氏由緒書では、江と一成の婚姻は信長存命時の天正12年と書かれており、秀吉の意向という線は揺らいでいる。
佐治一成の父の信方は、信長の妹(お犬の方)を室としていた織田一族で、その佐治信方の子の一成と信長の妹市の娘を信長が婚姻させたということは、江が信長の姪であることが極めて強く作用しているわけ。
このように、江は最初から信長の姪であることを宿命的に背負っていることが分かる。
その後、江は豊臣秀勝と婚姻するが、この婚姻も信長の姪であるという宿命的ブランドによるところが大きい。
そして、この秀勝が朝鮮の役で病没し、江は秀吉の意向で徳川秀忠と婚姻することになる。
この流れをみると、江は信長の姪である宿命的ブランドによって秀忠の正室として嫁いだことがわかる。
豊臣秀頼の母淀の妹だから説が、いかに軽々しく間違ったものであるか分かる。
また、徳川将軍の正室であって将軍生母(三代将軍家光の母)でもあるのは、この江ただ一人である。
三代将軍家光は、徳川家の血と織田信長と同じ血を引き継いでいるということなのである。
このことをみても、信長の姪であるという宿命的ブランドをいかに江が背負っていたかが分かるのだ。
これが、歴史の実相なのだよ。 >>592
江と佐治一成は従兄妹同士、初と京極高次も従兄妹同士
両親を失い孤児となった浅井三姉妹は佐治や京極といった親戚に庇護された
佐治は織田家の親族だが、京極高次は浅井家の親族だ
(高次の母親が浅井長政の姉)織田家ブランドによる婚姻ではない
織田ブランドならば茶々や初も織田家親族と婚姻していなければおかしいからだ
秀吉の側室となっていた姉の淀殿が鶴松を産むと一転
最初の夫と離縁させられていた江は秀吉の命令で秀吉の甥・豊臣秀勝と再婚する
鶴松の叔母である江を豊臣家結束に使ったためだ
江は秀勝の一女を産むが秀勝は朝鮮で病死、江は未亡人となる
江は鶴松が夭折してしまった姉の淀殿のもとで娘と暮らす
しかし淀殿が再度懐妊、秀頼を産むとまたまた江の需要度は増す
秀頼の叔母である江に再婚話が持ち上がり秀忠と三度目の結婚をした
織田家とは無関係であることがわかるな 秀忠は最初信長の孫(信雄の娘で秀吉の養女)と婚約してる。早世してしまったので、お江と結婚した。
天正12年には信長は死んでるぞ >>589
だが家康が甲斐武田家を再興させるぐらい信玄信者だったのは事実 長男の松平信康を切腹させた信長なんぞ家康には恨みしかないよ 長男の松平信康を切腹させた信長なんぞ家康には恨みしかないよ 家康は信玄を参考してたが信長は毛嫌いしてた。
信長に焼き討ちにされた延暦寺再興を武田旧臣の南光坊天海に任せたのもそれ。 戦国期だけなく幕末の志士連中も信長崇拝者なんて一人もいないしな。
過激な薩長までもが信長をガン無視。
大久保利通は徳川家康を崇拝していて
勝海舟は武田信玄と北条早雲を讃えてた
信長崇拝者は21世紀のネトウヨ引きこもり連中に多すぎるんだわ 人望なさすぎるキチガイだったことは北尾光司にも似てるw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています