織田信長は過大評価されすぎ!
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真実の信長は日本の半分も支配できないで部下にぶっ殺されたマヌケだろ
こんなマヌケが天下人のごとく扱われる昨今の風潮は異常 なにがなんでも信長が負け組だということを認めたくないんだろうけど
負け組だよ >>563
前にも言ったように、ある日突然型神経病者の突発行動は、誰にも読み切れん。
光秀がその病者だな。
しかし、信長の天下思想は秀吉、家康に受け継がれ、さらに明治から現代に至っても続いているのだから、信長が勝者なのは明らか。
二度と同じこと言わないーにチェック入れておくように。 >>565
家康が尊敬していたと言えるのは、源頼朝。
家康は鎌倉幕府が製作した「吾妻鏡」の写本を入手しこれを愛読しただけでなく、木活字による「新刊吾妻鏡」を出版して世に広めたくらいだ。
一方、信玄については、家康はいろいろ参考にしたらしいが、尊敬していたというのは初耳。
見習ったりはしたのだろうがな。 >>570
そらそうだろう、ご主人をあれこれ言わんさ。 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を刺されて笑われてるザコ 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を刺されて笑われてるザコ 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を指されて笑われてるザコ 織田ザコナガは光秀に裏切られてぶっ殺されたザコ
家康にも秀吉にも後ろ指を指されて笑われてるザコ >>570
家康には信長なんて思い出したくもないゴミだったんだろ。 >>580
我が子秀忠に信長の妹の娘を正室として迎えた。
毎日、信長の顔を思い出していたんだろうなあ。 >>580
長男の信康を切腹させられたからには実は家康にとって最大の仇敵は信長なんだろ。 武田信玄の隠し子伝説があるぐらいに家康は信玄を崇拝してたとさ あくまでも隠し子の噂は伝説にすぎないけど
そんな伝説が生まれてしまうぐらいに家康は信玄を畏敬してた証拠だろ 誰も焼き討ちにされた織田ザコナガを崇拝してませんでしたww >>582
むしろ秀吉との姻戚関係重視だろ
お前さんは大河ドラマお江の見すぎw >>586
家康自身は新田源氏だと主張してるんだから甲斐武田は無関係 >>583
近い時代の史料だと家康のほうから信長に不忠な長男信康を処分したいと申告してきて
信長は好きにしろと言っただけになっている
信康を切腹させたのは家康で江戸時代に東照大権現様の息子殺しの罪をなくすべく
暴君信長によって切腹させられた尾ひれがついた
同様に江戸時代には築山殿は悪妻とされた
江戸時代についた尾ひれですら信長は築山殿の処分に口を出したことはなく
築山殿殺害は家康の意を汲んだ家臣が勝手にやったこととされた
しかも家康は築山殿を殺した家臣を処分していないため実質これを承諾している >>582
江と秀忠の婚姻を決めたのは秀吉
理由は江が信長の姪だったためではなく江が豊臣秀頼の叔母だったから
江は豊臣秀吉の養女となり豊臣の姫御前として秀忠に嫁いだことは
「徳川実紀」にも誇らしげに書いてあるし
江と秀忠の娘・徳川和子が養源院に納めた江の位牌にも
徳川家、豊臣家、天皇家の家紋が刻まれていることからわかる
(江は豊臣家の娘という認識)
だいたい江は3度目の結婚だったんだし
信長の実娘だって大勢いたのに織田の姫でもない姪にいくわけない >>591
江を秀忠と婚姻させたのは秀吉だが、その理由が豊臣秀頼の母淀の妹だったからというのはバイアスかかり過ぎ説。
江は、浅井長政滅亡後に信長の庇護のもとに岐阜で暮らしたが、されている信長横死の後、秀吉の意向で織田信雄方の佐治一成に嫁いだとされている。
しかし最近の資料では、鳥取池田家に伝わる佐治氏由緒書では、江と一成の婚姻は信長存命時の天正12年と書かれており、秀吉の意向という線は揺らいでいる。
佐治一成の父の信方は、信長の妹(お犬の方)を室としていた織田一族で、その佐治信方の子の一成と信長の妹市の娘を信長が婚姻させたということは、江が信長の姪であることが極めて強く作用しているわけ。
このように、江は最初から信長の姪であることを宿命的に背負っていることが分かる。
その後、江は豊臣秀勝と婚姻するが、この婚姻も信長の姪であるという宿命的ブランドによるところが大きい。
そして、この秀勝が朝鮮の役で病没し、江は秀吉の意向で徳川秀忠と婚姻することになる。
この流れをみると、江は信長の姪である宿命的ブランドによって秀忠の正室として嫁いだことがわかる。
豊臣秀頼の母淀の妹だから説が、いかに軽々しく間違ったものであるか分かる。
また、徳川将軍の正室であって将軍生母(三代将軍家光の母)でもあるのは、この江ただ一人である。
三代将軍家光は、徳川家の血と織田信長と同じ血を引き継いでいるということなのである。
このことをみても、信長の姪であるという宿命的ブランドをいかに江が背負っていたかが分かるのだ。
これが、歴史の実相なのだよ。 >>592
江と佐治一成は従兄妹同士、初と京極高次も従兄妹同士
両親を失い孤児となった浅井三姉妹は佐治や京極といった親戚に庇護された
佐治は織田家の親族だが、京極高次は浅井家の親族だ
(高次の母親が浅井長政の姉)織田家ブランドによる婚姻ではない
織田ブランドならば茶々や初も織田家親族と婚姻していなければおかしいからだ
秀吉の側室となっていた姉の淀殿が鶴松を産むと一転
最初の夫と離縁させられていた江は秀吉の命令で秀吉の甥・豊臣秀勝と再婚する
鶴松の叔母である江を豊臣家結束に使ったためだ
江は秀勝の一女を産むが秀勝は朝鮮で病死、江は未亡人となる
江は鶴松が夭折してしまった姉の淀殿のもとで娘と暮らす
しかし淀殿が再度懐妊、秀頼を産むとまたまた江の需要度は増す
秀頼の叔母である江に再婚話が持ち上がり秀忠と三度目の結婚をした
織田家とは無関係であることがわかるな 秀忠は最初信長の孫(信雄の娘で秀吉の養女)と婚約してる。早世してしまったので、お江と結婚した。
天正12年には信長は死んでるぞ >>589
だが家康が甲斐武田家を再興させるぐらい信玄信者だったのは事実 長男の松平信康を切腹させた信長なんぞ家康には恨みしかないよ 長男の松平信康を切腹させた信長なんぞ家康には恨みしかないよ 家康は信玄を参考してたが信長は毛嫌いしてた。
信長に焼き討ちにされた延暦寺再興を武田旧臣の南光坊天海に任せたのもそれ。 戦国期だけなく幕末の志士連中も信長崇拝者なんて一人もいないしな。
過激な薩長までもが信長をガン無視。
大久保利通は徳川家康を崇拝していて
勝海舟は武田信玄と北条早雲を讃えてた
信長崇拝者は21世紀のネトウヨ引きこもり連中に多すぎるんだわ 人望なさすぎるキチガイだったことは北尾光司にも似てるw >>593
京極はそもそもが浅井の主家筋。
浅井の正室マリアは京極高次の姉。
下剋上で浅井が主家を乗っ取ったため、高次は浅井マリアのもとで育てられた。
信長が浅井長政を滅ぼしたあと、高次は信長の人質になって育った。
そして、信長が将軍義昭を攻めたときに参陣した功績で近江の奥島5千石を与えられた。
つまり、高次は信長の家来だったわけ。
天正10年に信長が光秀に襲撃されて横死したのち、光秀について秀吉と戦い、それを秀吉にとがめられたが、秀吉の室となっていた姉竜子のとりなしで、2千余石減俸で収まった。
その後功を立ててさらに加増された。
こうして5年後の天正15年には、信長の妹の市の娘初を正室に迎えた。
この天正15年には、初の姉淀はまだ秀吉の室にはなっていず、淀が秀吉の室となるのは翌年の天正16年。
だから、信長の家来となって5千石の領主にしてもらった高次が信長の姪初を正室にしたのは、姉淀とは無関係。
むしろ、信長のもとで人質かつ家臣であった高次と信長の縁が、初が正室となった理由だろう。
また、初の妹の江が豊臣秀勝と婚姻するのも、初が高次と婚姻したあととみられており、高次と初の婚姻が秀勝と江の婚姻に影響した可能性がある。
信長なきあとの混乱をまとめ上げるために、初を含む浅井三姉妹の婚姻が秀吉自身をふくめその周辺で進められたのであり、それが行われたのは信長の姪という大きなブランドゆえのものであったのは、歴史の実相だよ。 そりゃ日本の覇王やけ
比較できる人物っつったらナポレオン、アレクサンダー、曹操、チンギスハン、くらい 589
世良田ってならいるからな(°▽°)
つより世良田しか可能性がない
徳川は藤原姓、得川ってな家名じゃなく一代だけの呼び名 信長なんて実像はミャミャー甲高い尾張弁でヒステリックにパワハラしてたおっさん
あとこいつは物凄い旧勢力や権威に媚びる(笑) いくら馬鹿信者が信長を持ち上げても、本能寺の変で死んだ負け犬という事実は変わらない。 >>610
信長が、近世を開いたそもそもの盟主だった。
今のお前らがあるのは、みな信長のおかげ。
今さら、天皇さんや皇族に政治してもらおうとは思わんだろ。
そういうこっちゃ。 >>602
負け犬のカスナガ崇拝者なんていねえよw >>602
負け犬のカスナガ崇拝者なんていねえよw 信長は敗北者の雑魚野郎がw
だから幕末の志士たちからは相手にもされん雑魚よw 家康にフル影響を与えたのは信玄
信長は焼き殺されたカス >>602
勝海舟の信長評 (氷川清話)
「信長という男は、さすがに天下に大望をもっていただけあって、
民生の事には、深く意を用いて、租税を軽うし、民力を養い、
大いに武を天下に用うるの実力をたくわえたとみえる。
今日、尾州に行って、よく吟味してみなさい。
当時の善政良法が、今なお歴々として残っていることを見出すだろう。」
そういうわけよ。
海舟のみるところ、さすがにおめら凡百の浅はかさとは、まったく異なるということだわ。 とうとう、刀折れ矢尽きたか。
信長誹謗中傷は、歴史の流れに掉さす無謀な企てじゃ。
おめらには勝てん。
わははははは。 そりゃ信長は部下に無残に焚き殺されて
秀吉や家康からも崇拝されなかったバカであったのが歴史の真実w そりゃ信長は部下に無残に焚き殺されて
秀吉や家康からも崇拝されなかったバカであったのが歴史の真実w >>602
勝海舟の評価は武田信玄=北条早雲>>>>>>>>>>>>>>>織田信長 大久保利通は徳川家康を讃えて
勝海舟は信玄と早雲を讃えて
吉田松陰は孔明と孟子を讃えて
誰も信長を一番に讃えた幕末志士はいなかったよ 直近の部下だった豊臣秀吉にすら智慧が足りないと酷評されてたザコナガ
だからこそ光秀に殺されてんだろうなw 織田信長を一番に崇拝してた偉人はなし
よくて勝海舟みたいに四番手ぐらいよ
勝海舟が最大限に崇拝してたのは家康と信玄と早雲の三人だからな オウム信者と信長信者にはカルト信者同士の共通点が多すぎる 家来に焼き殺された人生が負け犬に過ぎない信長の全てなんだろ 天下どころか部下に背かれて死んだマヌケだろ
現実を直視しような 源平時代なら信長は源義円くらいの評価は与えてやってもいい まあ地域管領軍は足利幕府の連中らがやってるからな
足利家家裁高師直軍が後醍醐天皇追討で率いたんが5万言われとるで
足利家の武者所の長官やったからな
北朝天皇の引き継ぎ役が足利直義
両巨頭政治言われたん 633
信長実動期間が短すぎるんだよな
そいから山陰山陽を支配したんが山名
大内はその対抗馬として幕府が採用した 山陽方面を中心に自分らが支配する山名幕府みたいな体勢を取り中国地方の軍事力すべて支配した
足利幕府に参加していなかったんだな
これが義満の代の話
数万の兵で京都に殴り込みかけられるくらいのチカラあった 斯波家は足利幕府に参加したが足利家より家格は下じゃないんだよ
むしろ斯波家の方が足利本家に近いくらいの力あった
吉良今川ってのは足利の家臣の家柄 信長が採用した管領軍てのはすでに足利将軍家の時代にやっとるん
信長がそのやり方を真似した 義満の代になったらすでに南北朝講和に移り変わっていたんだよ
楠木、北畠だの南朝の忠臣らだったやつらはすべて北朝に寝返っていた
新田はほとんど北陸地方を中心に合戦やっていたが討ち死に 新田は義貞のときに越前に拠点を構えて後醍醐を越前に呼んで南朝の拠点にしよ〜としたんだな
ことわられた
これで運命が尽きた 足利が本来支配したん相模と武蔵のみ後醍醐に認められて鎌倉を本拠地としたん
つまり初期に鎌倉に移っていたの
足利の臣下連中
これが鎌倉公方の始まりと言われる家柄ができた所以
尊氏らや直義ら京都に出張していたわけ
二代将軍は鎌倉から送りだしたんだよ
三代将軍義満のときに完全に京都将軍家と鎌倉公方家に分した 鎌倉陥落事件知ってる?
足利将軍が駿河の今川に命じて鎌倉討伐組起こしただ
このあと公方は逃げて古賀に拠点構えた
新たに家臣団みたいなんで近寄ってきたのが結城、宇都宮、佐竹、千葉などのかなり古い時代から存在していた大名連中
この連中の力を背景に東関東をそのあとは支配した
上杉が西関東を支配した 北条がそのあと台頭してきて上杉は没落
長尾景虎が上杉の名跡継いで北条との合戦に突入した
一時は八万近い兵で小田原城包囲
北条は古賀とは婚姻関係を結んで関東を支配しよ〜とした
最後は上杉謙信は関東武将らがまったく従わないんで関東放棄
関東史あまり知らないだろおまえらもなw 北条のバックにいたのが京都の足利将軍家だよ
もともと北条早雲の伊勢氏ってのは室町将軍家の政所の役人やった家柄だからな あまり取り上げないから知らない連中らの多いこと(°▽°)
ドラマ作るにもスポンサーに配慮だのなんだのだろ
これみな一般の連中らが調べて記録が残ってる資料ばかり
つまり一般から発表された資料だよ 足利将軍の中に信長を入れたら実績は
義満、尊氏
義政、義詮、義持、義教、義昭
義晴、義稙、義尚、義澄、義輝
信長 ← このへん
義栄、義量
義勝 室町将軍が自分のライバルになりそおなんみんな亡ぼしちまっただ(°▽°)
室町時代は清和源氏の子孫らの大拡大期って呼ばれてるん
鎌倉は頼朝一代限り まあ短かかったけどな
1300年ころから最後に勢力誇ったのが畿内三好←
三好長慶のやつな
これが信州小笠原家から出て管領細川氏の家宰になり主家が本国にいないときに守護代として変わって政治取ったのが始まり 平安時代以来の天皇あたりの子孫から出たので有名な武将らの子孫はやっぱり守護やらに取り立てられてっからな
佐々木、上杉、西条あたり 六代将軍足利義教ってのがまた凄くてな〜
完全に義満時代の最盛期目指した
かなり強行な将軍で京都にきた地方の武将らを自ら太刀を振りぶった切ったくらいの逸話はある
最後は殺された、信長と似てる クソ信長は本州の半分も支配できずに部下に焼き殺されたザコ クソ信長は本州の半分も支配できずに部下に焼き殺されたザコ クソ信長は本州の半分も支配できずに部下に焼き殺されたザコ そういえば新井白石も信長は清盛と同等の超低評価だった。
これが一流の観察眼 清盛も信長も経済力を握り拡大計った武将だよ
武将としての評価は高くない 自分で戦争参加したん1570年ころまで
あとはみんな部下に投げた 清盛は武将としては大したことないけど政治家としては超一流
信長は武将としては単なる猪突猛進型で政治家としては二流以下 清盛がやったん中国との勘合貿易やる権利を独占しただ(°▽°)
んで清盛により日本内に大量の銅銭が持ち込まれたの 貨幣経済に発展する素地を作ったんだな
商売取り引きだのは清盛から始まった 清盛が活躍したん1040年ころからだから
この時期に中国では大量の銅銭が作られてる話になるわけだわ日本に輸出するためのな
だいたいそんな時代背景だよ
日本で銅銭まだ作ってないから 中近世移行期の研究者である朝尾直弘は、「信長は近世の創始者」としており、また脇田修は「信長は中世最後の覇者」としたそうだ。
ワイの主張は、朝尾学者と同じよ。
近世は、信長から始まったのよ。
みな、その後塵を拝したということだな。
古代、中世、近世現代の3つしかない時代区分のうち、現代につづくその近世を作り出したのが信長。
あまりに大きすぎて、おめらの間尺にはとうてい合わんというだけの話。 >>660
同意する
信長ごときカスは清盛以下だわw
敗北者の信長は清盛に憧れてたみたいだがw
短期間とはいえ全国六十六州を支配した清盛は遠く及ばなかったなw 一時的だが全国制覇した平清盛>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>本州の半分も支配できずに殺された織田マケナガ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています