>>591
江を秀忠と婚姻させたのは秀吉だが、その理由が豊臣秀頼の母淀の妹だったからというのはバイアスかかり過ぎ説。
江は、浅井長政滅亡後に信長の庇護のもとに岐阜で暮らしたが、されている信長横死の後、秀吉の意向で織田信雄方の佐治一成に嫁いだとされている。
しかし最近の資料では、鳥取池田家に伝わる佐治氏由緒書では、江と一成の婚姻は信長存命時の天正12年と書かれており、秀吉の意向という線は揺らいでいる。
佐治一成の父の信方は、信長の妹(お犬の方)を室としていた織田一族で、その佐治信方の子の一成と信長の妹市の娘を信長が婚姻させたということは、江が信長の姪であることが極めて強く作用しているわけ。
このように、江は最初から信長の姪であることを宿命的に背負っていることが分かる。
その後、江は豊臣秀勝と婚姻するが、この婚姻も信長の姪であるという宿命的ブランドによるところが大きい。
そして、この秀勝が朝鮮の役で病没し、江は秀吉の意向で徳川秀忠と婚姻することになる。
この流れをみると、江は信長の姪である宿命的ブランドによって秀忠の正室として嫁いだことがわかる。
豊臣秀頼の母淀の妹だから説が、いかに軽々しく間違ったものであるか分かる。
また、徳川将軍の正室であって将軍生母(三代将軍家光の母)でもあるのは、この江ただ一人である。
三代将軍家光は、徳川家の血と織田信長と同じ血を引き継いでいるということなのである。
このことをみても、信長の姪であるという宿命的ブランドをいかに江が背負っていたかが分かるのだ。
これが、歴史の実相なのだよ。