(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
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資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう >>184
>卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
>緩やかに連合している状態であり
妄想過多。 各地で「忌部はん」が活動・活躍しているだけのこと。 @阿波 >>184
そもそも畿内説って言葉の時点でセンスがない 大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。 >>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。
それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 忘れない内にコピーしとこ
: 09/05(水)23:12 AAS
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた 【筑紫の日向】
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 クジフルとは久智古?久智振?
あと津の意味は、港?船着き場?市場?
どなたか教えてください 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>195
漢字がなかった頃の地名だから、漢字は全て当て字。 >>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。
それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。 @阿波 >>195
本来の意味は船着き場です。でも発展すれば港にも市にもなるでしょ 猿田彦
実は、猿田→さるた→去る田
天照の領地の古代米を配った、もしくは苗を配った人
古代米をサルタと言う場所も有るんだよ
やっぱり人間だもの
食べさせてくれる人(農業指導者)が初期の神になったはず
もちろん妄想だけどね、当たってる気もする 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 「忌部はん」 はみんな農業神でもあり、最先端のスーパー頭脳集団なんだよ。 @阿波 >>193高祖村24戸
これよく読んで思ったのは
倭人伝の住民2万などの表記は嘘かも。無理がある
何人が調べたのか知らないけど
万の数字を数えるのは想像以上に難しいぞ
筑前国郡絵図 福岡県立図書館 怡土郡
これに高祖村の椚地区が何処なのか記してある : 09/05(水)23:12 AAS
>「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべ>しと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
>其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
>民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
>田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
江戸時代にこの状況だったから、三世紀の高祖村なんて、どうだったんだろうね。
此処に出てくる原田家というのは、中世以来のこの地の領主・旧家だろ。原田大六も其の家系だったのかな。 逆に、今の椚集落はかつての五郎丸とやらの中にあるということだな。
つまりは高祖城の城郭の中ということだ。
高祖城、怡土城の城域は200ヘクタールとされているが、椚は含まれていなかったように思う。
しかし実は椚やその傍を通る日向峠も城域に含まれていたのだろう。
そうでないと伊都の防衛に不足するもんな。
伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。
読んでて哀れになるから、妄想の九州説を書き連ねても無駄だと思うよ?
高祖城なんて、3世紀以前にはあるはすもないんだから >>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。
妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 筑前・高祖城 (別名:高祖山城,原田城)
>形態・朝鮮式山城(416m/380m)
>建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は元・怡土城の一部を利用して築かれている。 筑前・高祖城主の原田一族は、中国人の血筋だった、、、 伊都城と書いたほうがいいのか?
もともと中国の国邑は城壁を持つのが普通だしな。
奴国は城壁など持たない広域都市だったろうけど。 「年魚あり」これってどの古文に書いてあるのかな
忘れて見つけられない 筑紫の日向のクジフル山にある宮なら、高千穂宮と呼ぶべきかな。
魏志倭人伝も記紀も、伊都が倭の王都ということで一致していることになる。
そもそも、これだけの大国?で王都の場所がはっきりしていないなんておかしいけどな。
隋書や唐書を読んでも、倭の王都はそもそも筑紫なんだよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 西向きの伊都・高祖・日向ではねえ
糸島は、博多奴国から監視されてたんじゃないの 西向きだからいいんだよ。
神武が長髄彦と戦った時の言葉に、天神は太陽を背にするべきだとある。
高祖宮はまさにその通りの配置なんだよ。
糸島平野から見ると、高千穂の神奈備を日の出る方角に仰ぎ見ることになる。
これは神仙思想や天照の太陽信仰にも通じる。 >>227
ウソはイカンぜよ
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 西は日の没するところ
ま、仰ぎ見るということは、臣下だったということだな 糸島平野は、筑紫平野の1/30ほどしかない。しかも西向きのどん詰まり。
笑わせんな。 >>233
まぁまぁ、トンデモ九州同士、喧嘩はおよし。 @阿波 怡土城の城郭は、山頂と西麓にあるので、三雲地区から見上げることになる。
福岡側からは見えない。
臣民は東を仰ぎ見て、天神は太陽を背に君臨する構図になる。 雑穀か。
古代の中原の主食はアワ、アワめしが一番の御馳走だったのだ。 福岡の出城で、糸島の監視台だったのだろうな。
そう考えると配置が良くわかる。 もめないで答えてくれ
年魚ありってどの古文にのってるのさ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>238
>年魚ありってどの古文にのってるのさ
ヨコだが、「年魚あり」の記述は知らないが、「年魚」は
延喜式(巻7、神祇7)[践祚大嘗祭式]の「由加物」条に有る「らしい」。 @阿波
・阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬 各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四具 鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女等量程造備
・凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京之日 路次之国掃道路祗承 >>240ありがとう、だけどその年魚ではないのよ
そっちの年魚は鮎
古代の年魚は鮭
ソースは和妙 高祖山の望楼跡に登ると
福岡市内や博多湾がよく見える。
白村江のときの博多湾の監視に使われてたそうな。 当時の国境は
川から川までが国境、川向こう側は別の国
太宰府の町も川を渡ると別の景色
たぶん遠賀川と那珂川が鍵
昔の川はもっと大きく、入江も内陸奥まであった
そうだね、
川から川で分けるから、郡や郷も細長が〜〜かった、 >>244
>そっちの年魚は鮎
>古代の年魚は鮭
邪馬台国(西日本)なら、「鮭」はない。 年魚は「鮎」。 @阿波 >当時の国境は
>川から川までが国境、川向こう側は別の国
農耕系の民の場合にはあたっている
漁労交易系の海の民の巣は汽水湖の周辺沿岸域ぐるっととか 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 アワは、農林漁業にも、地理学にも、考古学にも弱い。
ただ一つ強いのは宗教。 >>252昔は福岡にも鮭が来てたらしいよ
福岡には鮭神社もあるんだよ 各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。
「阿波国風土記」 @阿波
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa
通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか?
役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」で済まされる話ではない。 @阿波 福岡県地理全誌(明治5)も入れて下さい
当時は小倉県田川と福岡県に含まれていなかった為
田川周辺の古墳や神社は生き延びたと思っています
(明治の軍隊によるアレもすくなかったのかも)
盗掘や発掘も福岡県中心地より少ないと思っています
だから、のちの時代に大発見があるかもしれません←希望的観測w なんで明治頃の陸軍あたりが
神社の巻物や古文書などを
回収したのか?
どこにあるのか >>258
>筑前國続風土記 巻之二十二 怡土郡
なかなか面白い内容だった。
原田某は、我が氏は光武帝の遠孫と自称していたが、さにあらず。源頼朝卿のころに土着した人物、とか。
ちなみに伊都国の気配なぞ、まるきりないねえ。 >>259
続風土記ね。江戸時代前半に益軒先生が書いたやつ。
阿波さんだと読むといろいろ結びつくことあると思うよ。
>>260
豊前地域は熱いですね。
東九州道関連やら再開発やらでポコポコ出てますね。 >>261
全部燃やしたらしい。
高良大社では七日間に渡って古文書を燃やし続けたとか。 ほう、そんなことがあったのか。
薩摩は、天孫降臨の地を領内に引っ張ってきたりしたからねえ。
日本の歴史を薩摩に都合よく書き変えようとしたのだな。 なんでアワストーリーが出てくるんだよ、
この曲の話?
TWINZER『OUR LOVE STORY』
そういう業界のことは知らないけど、
エックスのハイドが何やらと言ってる人がいたり
数年前のとあるオカルト関係のスレ たしかサカキバラ事件と同じようなことを言っていたよ
(さかきばら『SHOOLL KILLER』すくーる?)
エックスのハイドが何やらとか、 古代史の史料の大規模な喪失は三回ある。
白村江の後の畿内への政権移行
戦国時代の戦乱
明治維新 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 余談だが、日本語の文法は大きく二回の変化を遂げている。
いわゆる古文は平安文学が中心だが、室町時代まで大きくは変わらない。
江戸時代から現代までは大きくは変わらない。
奈良時代より前はいわゆる上古文となる。
この変化はなぜ起きたのだろうか。
古文の時代は、政治や文化の中心が畿内にあった時代だろう。
江戸時代以降は、都は京都だが政治や文化の中心地は江戸または東京にあったわけだ。
では奈良時代より前の上古文の時代とは何だろう。
政治や文化の中心地が筑紫にあった倭国の時代ではないか。 『.。o○ LOVE STORY』
魔法のペルシャとか、本当に凄い話、
おかると? 『シャボン・カッター』
日本の話なんですよwwwと言ってる人がいたり、
漫画、アニメ・・・ゲームの話なのかな このような作品があるから観て、あと曲も聴いてみて(youtube)
『Wizardry 1 [OVA] ウィザードリィ Toshiya Shinohara 1991』 それにしても老婆なんだよ、なぜ詳しかったんだろう
『歌舞伎』や『芝居』が好きで・・・ナニヤラ〜という話とか
軍人なのか何なのか、わからないけど、
『松傾』の・・・・子供の頃の写真があって、何かの制服のようなものを着ている
でも戦争には行っていないよと言っていたり 肉は食べなかったと言っていたり、
たしか母親の話
本当に、どういう事なんだろう 話を作りすぎ
本当はシュテンドルフ(酒呑童子)の話でしょ、
きざくら〜という曲とか
『松傾』 しゅてんどうじ?
むかーしの偉い人だという話でしょ、
何かの王子(皇子)? 誰かの本名なのかな、後の名前、名字
『聖徳太子 日本人ではない』 鳳凰?輿〜?
あの写真の話でしょ
『葱の華』
『松傾』
このような名前の家の写真 それにしても老婆談だよ
本当に、おかしな話ばかり、
古代ローマ?の話が出てきたり
どこで勉強したんだろう 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ほとんど合致している
『聖徳太子 ペルシャ』
『平家 赤 百済』 百済スレの妄想ヒトモドキ>>270が書き込むと、セットで松傾の基地外も付いて来る謎現象(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています