【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ >新元号の話になると、いつも明治(M)、大正(T)、昭和(S)、平成(H)の直近4つが
大きくクローズアップされます
>その理由は
これに対する回答だ >>126
某大在学生でも知らない人はいたんだよなw「何で大学名が明治と並列で載っているの?」って不思議がっていた
>>127
最高齢が116歳なので 践祚改元がこの4つで続いてるからねえ
あと政治主体が明治以降と慶応以前で全く変わってるってのもある
明治天皇の前の孝明天皇時代を考えても元号だけで弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と変わってるし、
「これ以前とこれ以降とは全然違う時代なのだ」というのを表すのに「明治以降」は有効なのでせう >>133
123の内容的には1つ目と2つ目が大きいってことやね 生年月日の記入欄で「明治」の選択肢は消さないから
書類でよく目にするという理由です >>127
平成27年の国勢調査データによると、改元のあった1912年生まれとそれ以前の合計が、
1万3000人以上 大隈重信が選ばれることはないなぁww
でもさぁ
大隈重信が選ばれない理由をはっきりとマスゴミは述べないよなww
そんなに中凶に忖度をしなければいけないのかねぇww 大隈重信はなぜ「お札」になれないのか 幻に終わった「10万円紙幣」
ttps://www.j-cast.com/2019/04/09354783.html?p=all >>133
明治の頃の日本が明や清のごとく一世一元制を導入したからでしょ 元号の存在感が明治以降大きくなってるのはやはり一世一元制の影響が大きそうだね
天皇在位=(同じ)元号っていう公式と明治からの天皇の存在感の大きさがリンクしている
平成や令和でも元号の存在感は維持されるだろうけれど、天皇の存在感が相当に
大きかった明治、大正、昭和の元号は別格だろうね 退位間近の平成天皇の表情は最早、御隠居の表情
もう天皇の金看板を張る表情ではない
終身天皇とは随分違うものだ 「昭和天皇」のように呼ぶときの呼び名は死後に追贈されるものであって生前につけられる名前ではない、はずだからな
存命なだけでなく退位すらしてないうちから呼ぶのは、むしろ悪意の発露と言える せめて「明仁」か「継宮」よねえ(一般人風に表すと継宮明仁さんみたいな名前になる)
その継宮明仁さんに「平成居士」と呼びつけるような莫迦さと不敬さがあるようなもんだ
不敬以上に「何も分かっちゃいない超莫迦」みたいな感覚を覚える https://la-sente.com/minoh/files/no27_image01.jpg
この髪の変な模様になってるところはなんでしょうか?
髪ですか、それともなにか布をかぶってるのでしょうか 徳川14代将軍争いで徳川斉昭や松平慶永ら一橋派は井伊直弼や松平容保ら南紀派に負けたのに
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると
一橋慶喜に将軍後見職が松平容保には京都守護職が転がり込んで彦根藩は10万石没収された
そこから徳川家茂が主導権を失って一会桑政権が主導権を握った流れや
松平容保が徳川家茂から一橋慶喜にすり寄った経緯がよくわかりません
簡単におしえてください 幕府水戸間の調停と幕政参画[編集]
万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こる。老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を
出させようとしたが、容保はこれに反対し、徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との
調停に努めた。これには家茂も容保の尽力に感謝した。これに続き容保は、問題となっていた水戸家への直接の
密勅の返還問題に着手する。家臣を水戸に派遣し武田耕雲斎・原市之進らの説得にあたらせる一方、容保は
委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせる[5]。
つまり容保は桜田門外の変の後、幕府と水戸藩の間を調停することで将軍家茂の信頼を得た。また春嶽や
慶喜としても火中の栗を拾う京都守護職を押し付けるのにちょうどよかった。 >>153
>松平容保が徳川家茂から一橋慶喜にすり寄った経緯がよくわかりません
ここは鞍替えしたんじゃなくて家茂が死んだから新将軍に従っただけ。 大老を暗殺した水戸藩や軍勢を率いて江戸に来た薩摩藩,御所に濫入した萩藩を懲罰しなかったのは何故か?
だな。水戸藩は潰しとくべきだったね 長州藩は征伐したけど尾張公が総大将の権限で勝手に放免したんだよ。 百五十七の謂ふ所、時世を計る漏刻全く止まりたるが如し
百年も二百年も昔の幕閣の言にも似たり
御公儀の威光、既に昔日の如くあらず 江戸時代って武士の家を継ぐのって長男だけだったとしたら、
他の兄弟姉妹は、商人や職人農民にでも成ったんですか?
士農工商の人口比って江戸時代を通して、ずっと一定だったのですか? 養子に出ることも多い
たとえば、赤穂事件で殺された吉良上野介の子どもは母の実家である上杉家の養子に入っていて、事件当時には吉良家から離れていた
当時は意外と子どもの数は足りてなくて、跡を継がせるべき息子が生まれてないから婿養子を迎えたり、娘もいないとかで養子を迎えたりすることは多かった
相続の3割程度が息子以外(養子か婿養子が多い)だったと言われている
庶民だと家を継がせる為に養子を迎えることをせず絶家になる事例も数多かった
人口比は変動する。
変化が大きかったのは、被差別部落の人口が大きく伸びたとかかな、収入的に有利な生業を独占できた関係で、江戸時代にはけっこう裕福だったとかで人口が伸びやすかったっぽい >>161
返答ありがとうございます。
>被差別部落の人口が大きく伸びたとかかな
差別されたら増えるなんて意外だな。
江戸時代は、戦争が無くて人口が増えたなんて言うけど、
「農民に対してそれ以外の身分が増え過ぎたら食糧問題が発生しそうだ」なんて思っていた。 家の次男以下は他家へ養子に出るか、武芸、学問に優れて特に別家を立てることを認められるかである
どちらも無理なら「厄介叔父」として、一生を生家で暮らすこととなる
長兄から小遣いをもらって家の隅でひっそり一生を過ごす
武家に限らず、江戸をはじめとした都市に出た者でも結局独身者として終わる者は多かった
農民の次男以下でも家を出ることなく、農作業の担い手として生家に厄介となる者も珍しくなかった
今は嫡男でも「子供部屋おじさん」となりもするが >>163
×家の次男以下は‥
〇武家の次男以下は‥ 農家だって家督を継ぐのは長男だけだから次男三男は養子の口を探したり商家に丁稚奉公に行ったり
大工などの職人の弟子になったりだよ。真面目に奉公して商才もあれば暖簾分けして商人になれる。
武士で養子にならない場合は絵師(酒井抱一)とか茶人とか兵法家とか、芸は身を助くで一芸があれば
それで身を立てることもできる。井伊直弼は14男で32歳まで養子の口が無かったんで茶人として身を
立てようと思っていたら兄である藩主が急死して家督を継ぐことになった。 武家も町人、百姓も、家を興すのは大変
結局、奉公人として終わる者多し
会社で出世が誰でもできるわけではないのと‥‥ あと幕末の儒学者安積艮斎は安積国造神社の宮司の三男だったが学問で身を立てようと江戸に出て、
佐藤一斎や林述斎に学んだ。 >>166
もちろんその通りです。茶人になったら弟子が付くとも限らないし、剣道場を開いたら弟子が付くとも決まってません。
文筆で稼ぐのも不安定で滝沢馬琴が初めての専業作家と言われてるくらいだし。馬琴以外は大抵他に職業が
あって副業としての文筆活動。例えば太田蜀山人は旗本だし山東京伝は商人だし。 質問というか疑問なんですが、令和って諡りづらくないですか?
別に明代より前の武帝や文帝みたいに諡れってわけじゃなく、明治・大正・昭和みたいな雰囲気のがイメージしやすい感じがします 諡の読みは音読みで「し」または訓読みで「おくりな」であって「諡り」とか「諡れ」という送り仮名のつけ方には違和感がある。
ググった範囲では「諡する」または「諡される」しか見当たらないように思う。 倭と日本は同一の国なのでしょうか?
倭と言うのはJapanみたいな他称で
日本を指しているのですか? 倭は英語のJapみたいな侮蔑的な
表現なのですか?
英語のJapは侮蔑でJapanは侮蔑じゃない。
とすると倭は侮蔑だけど
和は侮蔑じゃない。
と言うことですか? そもそも倭は国名じゃない
Japは侮辱的な表現とも限らない 昔、中国の役人が周囲の国々を調べてるとき、お前らは何という国の人間かと問うと、問われた方は国の概念もない人々で、お前らは何者かと言われてもワ(一人称)なんですがと答えるのみ
じゃ、中央にはワで届けるから、えーと、字は矮小とかの意味の倭にしとこう、お前ら背が小さいから
こーんな感じで倭と呼ばれるようになったんだろうかしら
言われた方はその後、字の意味が良くないことを知って、和と書いたり、大きく大和と出たり、最後には倭て呼ぶな、国号は日本に変えたからな、こっちかて王ちゃう、天皇で同格なんやからなとやった
今になって倭などと呼ぶのは馬鹿にしたり、あるいは倭奴と恨みをこめて呼ぶ国もある感じ 倭は中国の王朝が付けた表記です。漢書地理志(漢書という歴史書の中の地理を扱う部分)が
最古とされています。侮蔑的な表現という説とそうではないという説と諸説あります。卑弥呼の「卑」に
卑しめる意味があるという説と邪馬台国には金印を授けているのに卑しめるのはおかしいという説と
あり、論者によって意見が分かれているのと同様です。時代が下ったヤマト王権は歴史的に中国の
王朝が「倭」と表記してきたことをそのまま受け入れましたが、その読みはヤマト王権の自称である
「ヤマト」であると国内的には定めました。中国や朝鮮にとってはそんなことは知ったことではないですが。
さらに時代が下って7世紀くらいになると「倭」という表記を「日本」と改めることに決めました。日本と書いて
「ヤマト」と読みます。日本書紀に「日本、此云耶麻騰。下皆效此(日本、ここにはヤマトと云ふ。
下は皆これに傚(なら)へ)」と書いてあります。日本という表記自体は聖徳太子の「日出ずる処の天子」とかで、
その頃に国内的に広まった自己イメージかなと思われます。
変更の理由は旧唐書に書いてある説によればイメージが宜しくないからです。「或いは曰く、倭国
自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」と書いてあります。日本側の資料は無いので
本当にそうなのかは不明です。さらに時代が下ると「日本」と書いてそのまま「ニホン」と呼ぶように
だんだんなっていきました。
まとめると日本側の自称である「ヤマト」を表記する文字はもともと無かった。中国側で「倭」という
字を付けた。日本はそれを受け入れたけど、ずっと後になって「日本」に変更した。 「倭」はバカにして付けた説の人は、なぜ金印をもらえたと思ってるんだろう? >>177
倭風みたいなもんだな
>>178
支那の周囲はみな野蛮だとして良くない意味の字ばかり付けてた
倭国は倭国と呼ばれて何ということもなく受け入れてたから、金印もらっても素直に喜んでたんじゃね
モンゴルなんて蒙古という悪い字をつけられてたし 「倭」は人偏がついているからな。
少なくとも魏王朝の人間は倭人は人間扱いしなければいけないと認識していたのでないの? 「倭」の表記は漢書以来の伝統だから前漢王朝からの認識だよ。 >>162
身分的に差別されてはいるけど、その生業たる「斃牛馬」の処理とか皮革の製造加工など、社会的に需要があり収入も多い仕事を独占的に請け負っていたので、
一般農村よりもむしろ裕福だった。
明治に入って特権(生業の独占)は廃止されたけど差別は維持され、他の生業に写ることができないことで貧しくなって今に至る。
という側面があるのと、江戸時代後半の農村で人口が伸びにくくなった理由の一つに若者が年季奉公に出て帰ってきてから結婚出産していたことによる出生数の減少がある
被差別部落からは都会に出稼ぎに出ることがないので年季あけてから帰って結婚というコースがない分だけ早くから結婚するのではないか、
だから出生数が多くなり人口が増えるのではないか
町へ出稼ぎに出て定着しちゃった人の多くは子孫を残せてないらしい
当時の都市部は農村よりも栄養状態が悪いのと人口密度が高いので伝染病の拡散が速いことから死亡率が高く、周辺農村からの出稼ぎを吸収し続ける傾向があった
それで都市周辺の農村は遠隔地の農村と比べて人口が伸び悩んだ
江戸周辺や機内周辺は江戸時代後半になって人口が減少傾向になった一方、遠隔地(中国地方西部とか九州南部とか)の人口は伸び続けた >>179
そうじゃなくて、「日本は中国にバカにされてた(キリ」っていう人は、
日本が金印をもらえた理由をどう解釈してたんだろうって話。
普通に考えて、バカにする相手に金印なんかあげないだろうし 実際卑弥呼が使者を送ったのは三国時代の魏で、周辺国からの使者は王朝としての正当性を主張する上で
非常に嬉しかったとされている。それなのに卑しめて卑弥呼と表記したというのは如何なものか? 周り全部、変な字を付けてるからな
当たり前すぎて文句言う気も起こらんかったやろ
ぶっちゃけ、文字というものも良う分からんかったし
なにしろ燦然と輝く中原の文明やからな
後にちょっと知識と自信つけてくると文句言うたけど 卑が昔は悪い字ではなかったという説もある
鮮卑なんかは鮮が良い字であれば矛盾しちゃうからね 詩歌など韻文で使う用に同音の文字を集めた字書があって、卑を含んだ同音グループでの先頭の文字が卑、同様に邪を含んだ同音グループでは先頭の文字が邪
ということで、同音グループの先頭の文字を拾っただけとの説がある
難点は、その字書の存在を確実にさかのぼれる上限より三国時代の方が古いので、物証がないこと ところで日本が物作り大国に成れたのって、渡来人の影響だったりする?
中国の技術や文化を学ぶ為に中国から誰かを連れてくるとしたら、
主に技術者だから、その子孫にあたる今の日本人の技術力が向上する・・・
昔の日本の人口が少なかったなら、ボトルネック効果も働いているのでは・・・ 戦前から戦後しばらく、日本はサルマネがうまいと言われてた
欧米の製品を器用にコピーして安く輸出する
だが、やがてそういう安易な戦術は段々と通用しなくなる
そうすると今度は品質の良さで売るように戦術転換してきた
そこには古代の刀鍛冶から戦国期の鉄砲鍛冶、江戸期の職人へと、技術者へのリスペクトの伝統があると思う 現代の状況に直結してるのは明治にお雇い外国人と言って欧米人を超高給で呼んできて
技術指導させたことだろう。「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士もその一人。 そして日本は技術発展していき
世界一でなく世界トップクラスという言い方を変えて
すごい国と勘違いしていった
その結果、世界ランキングの年収平均が低いのにいまだに気づかないひどいことになった そういやぁ
纏向遺跡からカエルの死骸が多数発掘されたな。
てっきり卑弥呼の鬼道や大和朝廷の祭りごとは
中国の張角や張魯と同じ系統の道教系の祭りごと
思っていたのだけどな。
諏訪大社系の縄文系の神様だったとはなぁ。
諏訪大社は今でもカエルをなぶり殺しにして、その年の作物を出来を
占う儀式があるからな。 そういや、渡来人の影響で日本人の顔つきが変わったなんてテレビ番組で放送されていた事があったけど、
アレは、左翼御用学者による嘘らしいな 出土する人骨の顔形が縄文と弥生で違うと言われてたのは本当だよ
食生活が変わったことによる環境性の変化なのか遺伝的に違う別人種なのかどちらだろうと、長年にわたって議論されてきた もともと日本は複数の民族の溜まり場だったんじゃないか
グレートジャーニーの終着地として 島津義弘が伏見城の鳥居元忠に助太刀しようとしたら門前払いされ仕方なく西軍に付いたとの事ですが
このエピソードは本当でしょうか?
戦後の釈明での作り話ではないでしょうか?
鳥居方に生き残りの証人はいましたか?
仮に入城を許されていたら死んでたと思うのですが名将義弘がそんな死地に乗り込むようなことをしたのでしょうか? >>201
ありがとうございます
家康義弘内々の話でもなく会津征伐時の正式な軍令に基づいた行動だったのですね
話が違うと言えるのは義弘の方で非は徳川にあり
寧ろそこからの生き残り戦略こそが義弘の知謀が冴え渡った物だったのですね 天皇制が腐敗したのっていつなんでしょうか?
自分は奈良時代には既に「なんかよくわからんけどえらい人」
いうふうに教義など皆忘れて権威だけ認められている状態になっていたと思っているのですが。
もし教義が残っていたら中国や朝鮮の文化をあんな節操もなく取り入れたりしないと思います。
古墳時代には宗教としての意義が残っていたのでしょうか? >>203
蘇我蝦夷・入鹿親子は大王(おおきみ)に取って代わる勢いだったのでこれを成敗して大化の改新と
呼ばれる改革を行って大王の権威と権力を強大化した。それが頂点を迎えたのが天武天皇の頃で
天皇という称号もこの頃に始められたと考えられている。「古事記」や「日本書紀」の編纂も天武天皇の
時に始まったとされる。天孫降臨を中心とする日本神話の体系化もこの頃に始まったんじゃないのかと
疑う余地は十分ある。つまり今考えてるような体系化された日本神話はこの頃からじゃねってことね。
個別の話はもっと古いかもしれないけどさ。そして遅くとも聖武天皇の頃には天皇の宗教的権威は
既に形骸化していたから仏教に国の安定を頼る必要があった。宗教的にはそんな感じ。
政治権力としてはその後も院政という形で上皇が摂関家に取って代わって実権を握る時代が来る。 天皇陛下が豪華絢爛たる生活に傾いたという話は聞かないですね
強いてあれば,大陵墓を造営した仁徳天皇では。朝鮮人の血を受け入れた桓武天皇や仏教を受け入れた推古天皇は大したことは 【韓国紙】 日本人は子供の父親が誰か分からないので最後の性交場所を苗字にした
次に近い国、日本を調べてみよう。調べると日本の姓氏は約30万個を越える。
我が国より人口が2倍以上多いことを勘案してもだいぶ多い数値だ。
なぜこのように多様な姓氏が存在するのだろうか。
日本で数えきれない程多種の姓氏が突然生じた背景にはそれと関連した興味深い説が伝えられている。
それは過去、壬辰倭乱を起こした張本人・豊臣秀吉と深い関連がある。
豊臣秀吉は日本を統一する過程で長い戦乱により男の数が急減し、すぐに人口増加政策で苦心した。
少し後、人口を増やして日本社会を安定させるという名目で次のような王命を下した。
「すべての女たちは外出する時、常に毛布をまいて行くことを肝に銘じよ。下着は絶対着てはならない。
どこでも男に会ったら赤ん坊を作れ」 日本の伝統衣装「着物」がここで由来すると分かった。
このような背景のせいで現在でも女性たちは着物を着る時、下着をつけない風習がある。
豊臣秀吉の王命以後、戦場で生き残った男たちは気に入った女を望み次第獲得できる機会が与えられた。
また、日本の男女は王命を敬って時と場所を分かたず性交した。
この過程で数多くの女たちが身ごもったが、女たちは子供の父親が誰なのか分からず「最後に性関係を結んだ場所」を名前にしたという。
私たちに良く知られた「山本」は山と根本をあわせたもので、これを解説すれば「山中で会った男の子供」という意味だ。
同様にタケダ(竹田)は「竹畑で会った男の子供」、村井は「村の井戸の周りで会った男の子供」と知られた。
このように生じた名前が伝えられ、降りてきて日本の姓氏になったという説が大半の意見だ。
もちろんこのような主張に反旗を翻す一部学者もある。彼らは「漢字意味が歪曲されて伝えられた風説にすぎない」と指摘した。
姓氏の由来を明確に明らかにする歴史的な証拠や関連情報が不足したているために、いくつかの推測性仮説が存在するのは事実だ。
それでも多くの人々は日本の開放的な性文化、着物の由来などが結びついた興味深い主張に関心を見せている。
キム・ヨンジン記者
ソース:インサイト(韓国語) 日本の姓氏「山本」とは「山で楽しんだ性関係」を意味する?
http://www.insight.co.kr/news/133206 >>203
豪族・貴族間への仏教の普及定着より前の古代前半までは宗教には教義が伴っていない
古墳時代までは教義のある宗教などなく、ないものが残ることはない >>204
ありがとうございます 真実味がある話だと思いました
>>207
動くものと動かないものという対比があり
前者が生者、後者が死者を意味し、
天皇という不動の象徴のみがこの2つの世界の橋渡しができるとされるという
話をどこかで読んだ覚えがあり、なるほどと思ったのですが、
教義がないというのは「汝なすべし」という形態に教義を定義づけした場合ではないでしょうか
ハイデガーがキリスト教に対してやったように神道の哲学的な骨格を考えることはできると思います >>208
俺は204だけど天武持統朝で古来の信仰を体系化して天孫である天皇家を中心として
豪族たちとの結びつきの親疎で豪族たちを格付けするために神道という宗教が作られた。
これには仏教の影響もあるんだけど、仏教到来以前の信仰は原始的な祖先崇拝とか
自然信仰であって論理的な教義は無かったのよ。 >>208
神道での戒律とか教義とかは鎌倉時代頃にようやく整備されたもので、仏教を参考にして作られてる
哲学的な骨格と呼べるようなものは発達していなかった まあ今でも神道は人によって言うことがばらばらだと国学院の教授が明言しているしな。 仏教は宗派によってばらばらだと既に周知されているのになぁ
何故神道は一つという妄想が生まれたのでしょうか? だから国家神道はになりかねませんか >>212
神道は教義がないのが神道だと言われているからなぁ。 平城京からは若草山が善く映えますが
何故古代においては御蓋山(春日前山)の方が有名になるのですか? 藤原氏が春日大社を作って神の山にしたからでしょう。 天皇(皇室)と神道の関係ってどういうものですか?
自分はこれまで多少の変化はあるにしろ、基本的には
古代〜現代に至るまで天皇は神道のトップだと思っています
つまり、神官のトップ、あるいは日本人の代表として日本の神々を祀る存在
現にそういう趣旨の著述や言説は多くあります
しかし、色んな本やネットの書き込みの中には「天皇が神道のトップだったのは
明治〜敗戦までの国家神道の時代だけであり、それ以外の時代は神道の
トップではない」「国家神道以外の時代は天皇と神道を直接つなぐものはない」という
趣旨のものを見聞きします
特定の天皇で仏教に帰依した方がいるのは存じてますが、それでも当時は神仏習合的側面が
強かったのと、「仏教に帰依=神道を放棄」ではないと思います
また、現代においても、皇室最大級の重大祭祀の大嘗祭は神道形式に則っていますし、
現代の天皇も神道のトップ(表現が不適切なら代表)な気がします
どなたか詳しい方、天皇(皇室)と神道の関係についてご教示くださいませ 現在の皇室は国家と国民の幸福を祈っているけれども、その立場は全国の神社に号令したり
命令したり指示するような上下関係があるわけではありません。宮中祭祀に限って言えば代表者ですが
伊勢神宮でさえちゃんと別に宮司が居るので皇室とはいわば親戚付き合いみたいなもんです。
政教分離令のおかげで国や地方自治体などのお金は宗教に使うことができません。だから
大嘗祭を始め様々な儀式が宗教儀礼だと国家予算から支出できないのでいろいろと困ることが起こります。
だから宗教じゃなくて慣例(伝統行事)としてやってますという感じでお茶を濁す必要がある。
だから天皇が神道のトップと思われるのははっきり言って迷惑でしょう。
古代については俺は>>204に書いたように天孫降臨や国譲りの神話は天武天皇の時代に作られたと考える。
元々はそれぞれの豪族が大神神社みたいな地元の山や森に自分たちだけの神様を祭って個別に拝んでいた。
それがヤマト政権という形で連合する過程でそれぞれの神様をみんなが拝むようになり、さらにそれぞれの神様の
関係(続き柄など)を説明する系図や神話がだんだんと作られる。それがさらに高度に体系化されたのが
天武朝である。天武天皇は柿本人麻呂の歌に「我が君は 神にしませば」と歌われているから
ある意味現人神だった。戦前の昭和天皇のそれとは違って例えだけどね。
しかし天武天皇のひ孫の聖武天皇の時代には早くも天災続きで神道では国家を守れない事態となって
国家を鎮護するのは仏教しかないと鑑真を招来して自ら戒律を授かって僧になった。この時代はまだ神仏習合
してない。 日本民族の慣習・伝統・宗教=神道です
だから日本人(神道の実践者)の代表たる天皇陛下は神道のトップともいえる
しかし,日蓮正宗やら朝鮮人やらが私は神道ではないと騒ぐから,黙っとこになっている
あとはマッカーサー憲法という日本の伝統を逸脱した憲法の所為 >>218
いや、飛鳥〜江戸時代まで天皇は熱心な仏教徒で
仏教徒の埋葬方法である火葬が行われ寺が陵墓を管理していた 仏教徒だからと言って日本人を止めることは出来ませんよ >>219
聖武天皇より前の天皇・大王で熱心な仏教徒って誰?
火葬は持統天皇からだな 鎮護仏教の後も、歴代の天皇は日本の神々を祀る祭祀はしていたのですよね
こういう時、まさに天皇と神道と仏教の関係がすごく気になる
真偽はともかく以前読んだ書き込みでは、天皇は神道のトップという側面があるから、仏教に深く帰依した天皇は譲位してから出家したり、法皇になったりしたらしい
現役の天皇のままでは出来なかったとか云々 >>217
ありがとうございます
結論としては、天皇=神道のトップ、はあまり言わない方が良いって感じですね 時代やら視点によってはトップは神祇官の長官や次官の場合もある
長官は神祇伯(白川伯王家)、次官は神祇大副(から、新規の官職「神祇管領長上」と勢力拡大した、吉田家) >>225
ちなみに、国家神道においては間違いなく天皇=神道のトップで良いんですよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています