【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 江戸時代、かごに乗れる身分、馬に乗れる身分。なにも乗れない身分と決まりがあるのか?あればどのような階級で分けられているのか教えて頂きたい。 >>15
武士の身分は「侍」と「徒士」に大きく分けられる。侍は本来の武士であり馬上で戦う。徒士は南北朝時代あたりからの
集団戦が主体の戦いに対応するために増員された身分であり徒歩で戦う下士である。江戸幕府で言うと旗本は
侍であり御家人は徒士である。足軽は士分に入らず徒士より下となる。町奉行所の与力は「侍」で同心は「徒士」で
ある。時代劇で大捕物の時に奉行とか与力は騎馬だけど同心は走っていくのはそういう訳だ。
駕籠はいろいろややこしい。だいたいこうらしい。
武家諸法度に、「乗輿ハ、一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、
或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、
ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。」とあり、「乗輿」は、「乗物」と理解されますが、
「或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ」の条文は「駕籠」にも適用され、江戸初期には
厳しく遵守を命じる法令が出ていますが、逆に言うと守られないことが多々あったので、禁令が出されたことでもあります。 子どもの頃に、大きな庄屋だったという親戚の家で甲冑を着させてもらったことがある。農民なのに何で甲冑があったのだろう。他に刀、火縄銃があった覚えがある。 百姓が庄屋になるのではない
地方の豪族というべき旧家が庄屋に任ぜられる
元は武装して領主を張っていた家だ
そこらの侍が及びもつかない旧家
大庄屋となればその格式たるや大層なものだ
家に何が伝わっていようと驚くものではない
明治を迎えればはばかることもなく甲冑でも何でも出してくるだろう 江戸時代の大名達の官職名に国名に守てのは凄い一杯いますけど
たまに中務大輔、大膳大夫とか変わった官職名を名乗ってる人達がいます
その名乗りの基準的な物はあるのでしょうか? 伊達政宗
従五位下・左京太夫、越前守
従四位下 右近衛権少将 陸奥守
正四位下 参議
従三位 権中納言
浅野長矩
従五位下 内匠頭
井伊直弼
従四位下 玄番頭、左近衛権少将、掃部頭
そうせい侯 毛利敬親
従二位 権大納言
‥大名でもなんとかの守でない人多いよ そうせい侯の従二位権大納言は明治維新の功績で明治2年に叙されたもので江戸時代の
毛利家としては破格。江戸時代の歴代は従四位上参議とか従四位下侍従とかでしょう。 >>22
井伊は同じ官位で3つも貰ってるのは何か使い分けみたいな物があるんでしょうか? >>23
幕府での役職を得たときに、役職によっては相応の官職名がつく
官職名には幕府内で一定の基準がある、内容までは知らないけど。
だれか続き頼む 弘化3年(1846年)12月16日:従四位下侍従兼玄蕃頭に叙任。
嘉永2年(1849年)12月16日:左近衛権少将に任ぜられる(玄蕃頭兼任)。
嘉永3年(1850年)12月27日:玄蕃頭から掃部頭に遷任(権少将如旧)。
安政2年(1855年)12月16日:左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する。
安政4年(1857年)12月16日:従四位上に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
安政6年(1859年)12月15日:正四位上に昇叙。左近衛権中将掃部頭は留任。
最初が侍従兼玄蕃頭
次が玄蕃頭兼左近衛権少将
次に左近衛権少将兼掃部頭
次に左近衛権中将兼掃部頭
次に従四位上に昇進して左近衛権中将兼掃部頭
最後に正四位上に昇進して左近衛権中将兼掃部頭
つまりほとんど兼任で箔をつけるためですね。 室町時代の最大の悲劇のヒーロー足利義嗣は上杉禅秀の乱と連携して山城国高雄へ出奔したのかな
臣下に無理やり連れられた可能性もあるか >>26
のへーっと生きてたら世襲の官職だけ
幕府に貢献したらバシバシ追加される感じですかね >>28
井伊直亮 正四位上左近衛権中将兼掃部頭
井伊直中 従四位下侍従兼玄蕃頭>掃部頭>少将>中将
井伊直幸 従四位下侍従兼玄蕃頭>掃部頭>少将>従四位上>中将>正四位上
直弼の兄で先代藩主である直亮は11代将軍家斉の大老として最終的に正四位上左近衛権中将兼掃部頭だった。
その先代で直亮・直弼の父である直中は老中松平定信の老中就任の要請を断って従四位下侍従兼
玄蕃頭>掃部頭>少将>中将とゆう官暦。
その先代直幸は田沼意次とともに10代将軍家治の大老を務めた。上昇志向が強くて度々幕府に働きかけて
50歳を機に功績も考慮して正四位上を貰った。
そういうわけで井伊家の伝統として従四位下侍従兼玄蕃頭からスタートして掃部頭を経て左近衛中将という
流れで、功績や幕府への働きかけで兼任したり官位が少し上がったりということですね。 徳川慶喜
慶応二年 正二位、大納言、征夷大将軍
慶応三年 官位剥奪
明治五年 従四位
明治十三年 正二位
明治二十一年 従一位
中曽根康弘 従一位
正一位 稲荷大明神 室町時代の庶民は髷を結っていましたか?
髷の機嫌はカブトをかぶるときに頭がむれないように髪をそって
髷でかぶとをうかせたとのことですが、
江戸時代はともかく室町時代もカブトをかぶらない庶民が髷をしていたと思えないんですが 〜□位なんて関係ないんだよ、
そういう制度などを採用、取り入れたりする以前に・・・
(大げさにいうと神)・・・だったという家があって
そういう家や人々などは、すべてを超越している、
知っている人は知っているはずなんだけど
他の国から倣った、取り入れたものだとするなら、
取り入れた先の国の人々のほうが・・(上)・・になるでしょ >>29
もう世襲で先代の官職をなぞってるだけなんですね >>31
兜をかぶった時に頭が云々ってのは髷じゃなくて月代な
成人男性のほとんどは飛鳥〜奈良時代くらいから髷を結っていたみたい 髪は長く伸びるものであるから、まとめて括っておかないとザンバラ髪になって見苦しい
異性へのアピールにもかかわる
縄文、弥生の人たちに短く刈っておけと言っても難しいだろうから髷を結ってもらうしかない 平安時代の貴族は何故、
頑なまでにいついかなる時も帽子を被ってたの?
(´・ω・`) 平安時代には烏帽子にいくつかの種類があり、使い分けて格式を表した
次第に庶民も被り物をするようになり、鎌倉から室町前半には成人男子が被り物をしないのは恥と思うようになっていた
被りものは男性の象徴と捉えられるようになったので、これを取られて髷を露出させてしまうことは大変な恥辱であった
このような特に実質的な理由からというのではなくある習慣が根強く支持されるというのが文化というものであろう
だが、戦国時代以降は日常生活から次第に何も被らなくなっていった
それでも、明治、大正のころには外出時に男性が帽子をかぶることはごく普通のことだった
今は制服の中に帽子着用が残っている 明治以降の帽子は西洋に倣って被るようになったんだが、その後の世界的無帽化の趨勢で日本でも廃れた 細川氏が戦国時代になってからも将軍から名前の一字を貰ってるってなんのポーズなの
忠誠するつもりがない相手から名前貰って嬉しいか >>36
ハゲが隠してたからまわりもそれに合わせたんだよ 武官束帯姿の?って目の風よけであるんでしょうか? 弓でねらいつけるときにあると便利なんですかね・・
http://costume.iz2.or.jp/costume/34.html 女の割礼なんてアフリカの中央部くらいのもんだ
男でもここらでは朝鮮くらいだわ Wikipediaの千利休のところに
秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」と
よばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、
利休が信楽焼の茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉はその茶碗を処分するよう利休に命じたが、
利休が全く聞く耳を持たなかったために秀吉の逆鱗に触れたという説。
とあるのですが信楽焼だとなぜ怒るのですか? >>47
秀吉は派手な黄金の茶室や北野大茶会のような大掛かりなイベントが好みでワビサビは貧乏くさくて嫌い。
信楽焼はワビサビを体現する焼き物であり秀吉の好みではない。
だから貧乏くさい侘び茶はやめてもっと派手にしろ、と命令した。
利休が到達した侘び茶という高みを否定されたので利休も黙って受け入れるわけにはいかない。
という説なわけだ。 秀吉の派手好きって自らの出自に対する劣等感だよな
それに加えて人間不信もあるし
天下人になってはいけない人間だった >>48
ありがとうございます 信楽は地味なんですね
>>49
今でも例えばスカイツリーをあえて地味に3メートルで作ろうとか言ったら
問題になりますし、単に政治と芸術の折り合いがつかなかったんじゃないでしょうか
とはいえ茶人の功績は生活全般にわたってると言われますね 秀吉流の「大名茶」とか言うのは、当時としてはむしろ詫び茶以上のレベルの完成度、1つの到達点だった!
と言う意見だってあるんだぞ。
後継者なく消滅した大名茶と違って詫び茶は連綿と引き継がれてるから、歴史の重さでは間違いなく詫び茶の圧勝ではあるが。 大名茶(武家茶道)は武士階級だけの楽しみであって、庶民には縁が無いからなぁ。
>>50
>信楽は地味なんですね
桃山時代の焼き物では織部焼なんかが造形や絵付けに凝ってて面白いけどわざと形を歪ませたりもするので
その辺は秀吉の好みじゃないかもしれない。もしかしたら秀吉はキラキラ光る曜変天目とかが好きかもしれん。
一方利休の好みは真っ黒い黒楽茶碗とか。信楽も割と素朴な作りです。 今はお布施は封筒に神のお札をつつみますが江戸時代はどうでしたか? 地方によって風習も違うが、葬祭で現金は大して使うこともなかった
百姓なんか現金など持ってない
裕福な者では野辺の送りの途中でも銭を撒きながら進んだりしたが、菩提寺へも銭撒きとして二貫、三貫の銭を送る者もあった
懇意・近隣・町内の者は香典として香、饅頭、赤飯、米などを持参(何も持参しない者も多かった) >>54
なるほどお金じゃなかったんですね
なんか大根とかを渡してる姿が浮かびましたw 昔は紙幣がなかった
(原則から外れて藩札が一部であったりしたが)
その頃、人に手渡す紙と言えば、手紙、書き付け、書状の類だ
現代の香典を包む紙はこうした書状の包みを応用しているのではないか 昔は葬儀業者などなかったので、葬儀は村内近隣、町内の協力で執り行った
村八分を受けている家も、残りの二分のうちの一分で葬儀は皆から協力を得た
田舎では1960年代にはまだ葬儀業者は居なかったので、葬式の祭壇を飾る花から紙細工、木工まで近隣の人が手作りしていた、 戦いの名前って誰が決めてるんですか?関係ないかもしれないけど。 徳川「姉川の戦い」
織田・浅井「野村合戦」
朝倉「三田村合戦」
ワーテルローの戦い(仏語読み)
ウォータールーの戦い(英語読み)
ラ・ベル=アリアンスの戦い(独呼称)
声の大(多)さじゃねぃ? 太平洋戦争の大本営発表で、日本軍のかくかくたる戦果発表と共に、この戦いを〇〇航空戦と呼称するなんて放送があったと思う
軍当局が戦いを名付けたと言っても、その名前も誤認だらけの戦果と共に後の世では否定されてしまったりする
結局、後の歴史家‥に限らず、歴史を眺める目が戦いの名前も固めてゆくんじゃないか 大東亜戦争とか支那とか満洲とか中共とか、言葉狩りで一時廃れた言葉はあるけど、
否定された戦いの名って何?
あと、米も英も負けてる間は「誤認だらけの戦果」で自国民を騙してるけど、誰も否定しないね。
寧ろWWUで負け戦の最中でも正確に報道した国ってどこよ?
俺はそっちを知りたいわw 日本海海戦みたいな戦艦同士のガチンコ対決って世界的に他にもありますか? ジュットランド沖開戦とか?
ド級戦艦辺りなのかポストジュットランドなのかww2なのか… 1942年11月、ガダルカナル島をめぐる第三次ソロモン諸島沖海戦では戦艦を含む日米の艦隊が夜間、探照灯を点じての砲撃戦を展開
先ず、戦艦比叡が沈没して日本初の戦艦喪失となった
翌日夜にも夜戦があり、戦艦霧島は米戦艦サウスダコタに損害を与えて戦場離脱させたが、戦艦ワシントの砲撃により航行不能に陥って沈没した
比叡は、2019年1月31日、故ポール・アレン氏の探索チームにより海底に沈没しているのが発見された 日露戦争ン時、近代海軍の世界の海戦史上ではじめて、砲戦による沈没が起きたとかいってなかったっけ
それまでは航行不能による廃棄に際して爆薬で沈める自沈ぐらいしかなかったとか? ホントなのか知らんけど。 砲弾は大体は喫水線より上に当たるものだから、船体に穴が開いて浸水沈没と言うのはしにくい
比叡、霧島も共に砲戦で被害を被ったあと随分後に航空機や駆逐艦による魚雷攻撃を受けて開いた水線下の穴から浸水して沈没している
日本海海戦でも、砲戦で動きが鈍ったところへ日本の水雷艇による肉薄魚雷攻撃で沈めたものも目立つ
砲戦の被害で降伏したり沈んだものもあったが >>65>>66
ありがとうございます調べてみます
航空戦力が無い時代の海戦が知りたかったです 畠山義就と斯波義廉どこで差がついたんですかねえ?
どちらも応仁の乱の敗者になって下国したところまでは一緒なのに、義就は討伐令もお構いなしに大暴れを続けているのに対して
義廉は一時は管領まで務めたというのに討伐令がだされると支持者を失って、行方不明という末路
似たような立場なのに何がどう違ったのやら 領地の武士たちをきちんと被官化してなかったからでしょ
斯波家と無関係な外部から無理矢理養子入りさせられたから、一部の有力者、甲斐とか朝倉とかの重臣としかつながりがなかったんじゃね
斯波家の一門、親類たちとすら没交渉では、凋落が早いのもしかたない 細川政元や上杉謙信は何故家督争いを起こすような養子を迎えたのでしょうか? 政権運営の都合で、必要だから養子に入れたんでしょ
謙信の場合だと、後継者候補はひとりに決めていて後継争いが起きるとは思っていなかった可能性が高そうだけど。
謙信生前の景勝の立ち位置を見る限り、景勝は後継者候補とみられてはいなかったとしか思えない。 >>39
内裏に住まう貴い方の風俗を真似る
平安朝の十二単だったりするが、髪は江戸時代になって可能になった型をしていたりする
ひな壇の一番上の男女が「内裏様」で、そのほかに官女や囃子方などのひな人形を追加する
童謡「ひな祭」では♪お内裏様とおひな様、二人並んですまし顔‥となっていて、作詞のサトーハチローは勘違いしたと恥じていた由 正解! 『萬葉集』から
命令に従っておけば平和だよって意味か
安倍首相が口出し「新元号は日本の古典から」の無知と不遜
ttps://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248652 その記事を書いた記者の無知と不遜が無残なまでに顕となった。 この記事はひどい…
安倍憎しのあまりこんなバカの極みのような記事を書くのか… >>77
麻生叩きやってた時、北海道新聞は「ホテルの中にある〇〇というバーで高級生ビールを飲み」
とか書いて叩いてたけど、そこに掲載されたバーの写真には、「生ビール500円」って書いてたよ 日本人は「ハレとケ」を何より尊重するんだよ。日経連とは違うのさ。 田中角栄といえば政治的功罪+人間的魅力で語られることも多い傑出した首相の一人だと思うのだが、
山川日本史を読んでいると、「日中国交正常化」という見出しの中で3行だけ記載されていただけだった
一方、田中義一は「金融恐慌」の見出しの中で3行、「田中外交」の見出しの中で10行、
「金解禁と昭和恐慌」の見出しの中で3行も記載があり、さらに「満州某重大事件」というコラム欄の中で
そこそこの量の記載があった
現代人から見ると田中角栄のほうが首相(政治家)としていろいろ語るべき部分が多いように思うのだが、
歴史を俯瞰的に見た場合、田中義一のほうが語るべき部分が多いということなのだろうか?
触れられているのは日中国交正常化のみで、日本列島改造論や内政での様々な政策、金権政治、今太閤、
ロッキード事件などの記載はゼロだった >>80
同時代のことを知らないから分からないだけで、義一の影響は絶大だろ
記述量の差に相応の、絶大な影響を残してるじゃん >>81
あと何十年か経って角栄の時代が現代史から日本史に変わった時に
角栄関連の記述量が増えたりするもん?
増えるどころか減るんじゃないの、年々教科書のボリュームは増える一方だから
>>83
勉強不足で田中義一の功罪に詳しくないけど、そんなに重要な首相だったの?
満州某重大事件のことは知ってるけど
田中角栄は比較的現代に近いという点はあるけど、現在の行政制度の大枠を構築したって
言われるくらい功績は大きい
土建国家と揶揄されたりするけど、日本の土建行政、電波行政はまんま角栄が作ったと言われる
プラス面だけでなく、金権政治っていうマイナス面も大きい
当時の圧倒的カリスマ首相が失脚したロッキード事件もインパクト大きい
あとは首相政治家だけでなく、人間田中角栄の魅力もよく語られている
部下や有権者の心をがっちりと捉える人心掌握術、小卒から首相へ登りつめた今太閤、
頭の回転とタフな行動力を例えたコンピューター付きブルドーザー、
死後数十年、何度か繰り返された角栄ブーム
まあ人間的魅力とかは教科書に書かれる類のものじゃないけど、そういうことも含めて
田中角栄は傑出した首相の一人じゃないのかなって思うわけ
功罪含めていろいろ語れる要素が多い首相 >当時の圧倒的カリスマ首相が失脚したロッキード事件もインパクト大きい
ロッキード事件云々は田中退陣の後だよ。
田中より吉田や池田・佐藤の方が記述量は増えるだろうね。
田中は総選挙で勝てないし、対ソ連・中東で米を怒らせたから経済界からの心象が悪い。
田中のマイナス面の筆頭は土地の高騰と公害。
好意的に評価できる点は、在任中に様々な批判を浴びたが、それらへの一定の手当てを行ってきたことかな、俺的には。
田中義一はなぁ…とっくに嘘なのが明らかなのに未だに田中メモを事実として吹聴する現役教師がいるから、
サヨク教師は田中を語るのが大好きなんだよwそして歴史教科書の大手はどこの社も日本へのヘイトが大好き。
アトは分かるな。(テキトー 例外はあるとしても、本来、歴史教科書の記述量の大小は重要度に比例するよね 金融恐慌にしろ金解禁と昭和恐慌にしろ、近代史の転換点として比類なく重要じゃん
それと比べたら、ロッキード事件なんて鼻くそほどの価値しかない 田沼意次の賄賂政治が教科書に載ってるんだから、田中角栄の金権政治が教科書に載ってもいい 田沼の賄賂政治は松平定信の寛政の改革の前フリとして載せてんだろ。 政治家が金にクリーンになった時に、その対比として角栄の金権政治がクローズアップされる だが、世間が好景気に沸くことができるなら政治家が金権政治で儲けまくってても気にならんだろ
世間が不況なのに政治家だけ儲けてたら怨みが募って暴動ものだろうけどさ
いまみたいに、好景気とかいうのが口先だけで生活に反映されてないような状況だと田中政治が懐かしいと思う人が出てもしかたない 平成の首相では小泉、安倍あたりが重要っぽいけど、田中角栄でこんな評価なら
小泉さんでは出る幕ない?
小泉さんも功罪含めて語るべき要素はそれなりに多いと思ってるんだけど
まあそれこそ現代史すぎて、評価はまだ固まってないけれどね 歴史に与えた影響の大きさでいって、明治や大正頃の政治家ほどじゃないだろ
そんな明治や大正頃の首相が何人ぐらい教科書に載ってるか。
そう考えたら、小泉安倍あたりでも教科書に載る期間はせいぜい数十年、いずれ教科書には載らなくなる程度だよ ずっと教科書に載ってる紀貫之とか蘭渓道隆とか山崎闇斎とか
やっぱりそこまで重要人物なんでしょうか 紀貫之は文化人枠だけどね。
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒
と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは
人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。
他にも「土佐日記」で日記文学と仮名文学を創始してるし。 象徴天皇制が続く限り、今後の天皇は誰も歴史教科書の本文に記載されないのか?
歴代系図みたいなのは掲載されるだろうけれど
為政者や統治者としてではなく、象徴として掲載されるケースはあるだろうか? 明治維新の時、明治天皇はまだ14歳位の少年だったわけだけど、
維新政府は天皇を新国家の中枢に据えようとしていた
明治のほとんどの庶民は天皇がまだ少年、未成年であるという認識を
持っていたのですか?
まだ少年、未成年だけれどすごく神聖で偉い人と認識していたのですか >>100
天子様なんだから普通の人間じゃないでしょ
江戸っ子あたりだと家内安全商売繁盛なんかの御利益を授けてくれる神様みたいなもんだと思ってたというし >>101
始皇帝みたい
始皇帝も即位してから死ぬまでの期間の過半を巡行の旅路で過ごしたほどに巡行続きだし それまでの御簾の内に鎮座おわします存在を脱して英国王室のように国民に姿をさらして歓呼を受ける存在にしようとした
昭和天皇の戦後の全国津々浦々への巡幸もたいしたものだった
人間宣言をして国民の前に近しく姿を現すことにした 明治初期に断髪令が出たとき月代を剃っていた人はどうしたのだろうか?
いったん月代を伸ばしてから髷を切ったのだろうか?
それとも月代のある状態でいきなり断髪したのだろうか? 二番目の人は月代が無精ひげ程度に伸びた上に髷を固めずに平べったくのせてるのかな
不自然な髪型だ 2番目と3番目の間に戊辰戦争か何かで右目を負傷してるのか >>101
自己レス。えー、巡行じゃなくて巡幸でした。天皇がどこかに行くのを行幸。複数の目的地を回るときは巡幸。
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の場合は行啓/巡啓。天皇と皇后が揃いの時は行幸啓/巡幸啓。
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