【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 実際卑弥呼が使者を送ったのは三国時代の魏で、周辺国からの使者は王朝としての正当性を主張する上で
非常に嬉しかったとされている。それなのに卑しめて卑弥呼と表記したというのは如何なものか? 周り全部、変な字を付けてるからな
当たり前すぎて文句言う気も起こらんかったやろ
ぶっちゃけ、文字というものも良う分からんかったし
なにしろ燦然と輝く中原の文明やからな
後にちょっと知識と自信つけてくると文句言うたけど 卑が昔は悪い字ではなかったという説もある
鮮卑なんかは鮮が良い字であれば矛盾しちゃうからね 詩歌など韻文で使う用に同音の文字を集めた字書があって、卑を含んだ同音グループでの先頭の文字が卑、同様に邪を含んだ同音グループでは先頭の文字が邪
ということで、同音グループの先頭の文字を拾っただけとの説がある
難点は、その字書の存在を確実にさかのぼれる上限より三国時代の方が古いので、物証がないこと ところで日本が物作り大国に成れたのって、渡来人の影響だったりする?
中国の技術や文化を学ぶ為に中国から誰かを連れてくるとしたら、
主に技術者だから、その子孫にあたる今の日本人の技術力が向上する・・・
昔の日本の人口が少なかったなら、ボトルネック効果も働いているのでは・・・ 戦前から戦後しばらく、日本はサルマネがうまいと言われてた
欧米の製品を器用にコピーして安く輸出する
だが、やがてそういう安易な戦術は段々と通用しなくなる
そうすると今度は品質の良さで売るように戦術転換してきた
そこには古代の刀鍛冶から戦国期の鉄砲鍛冶、江戸期の職人へと、技術者へのリスペクトの伝統があると思う 現代の状況に直結してるのは明治にお雇い外国人と言って欧米人を超高給で呼んできて
技術指導させたことだろう。「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士もその一人。 そして日本は技術発展していき
世界一でなく世界トップクラスという言い方を変えて
すごい国と勘違いしていった
その結果、世界ランキングの年収平均が低いのにいまだに気づかないひどいことになった そういやぁ
纏向遺跡からカエルの死骸が多数発掘されたな。
てっきり卑弥呼の鬼道や大和朝廷の祭りごとは
中国の張角や張魯と同じ系統の道教系の祭りごと
思っていたのだけどな。
諏訪大社系の縄文系の神様だったとはなぁ。
諏訪大社は今でもカエルをなぶり殺しにして、その年の作物を出来を
占う儀式があるからな。 そういや、渡来人の影響で日本人の顔つきが変わったなんてテレビ番組で放送されていた事があったけど、
アレは、左翼御用学者による嘘らしいな 出土する人骨の顔形が縄文と弥生で違うと言われてたのは本当だよ
食生活が変わったことによる環境性の変化なのか遺伝的に違う別人種なのかどちらだろうと、長年にわたって議論されてきた もともと日本は複数の民族の溜まり場だったんじゃないか
グレートジャーニーの終着地として 島津義弘が伏見城の鳥居元忠に助太刀しようとしたら門前払いされ仕方なく西軍に付いたとの事ですが
このエピソードは本当でしょうか?
戦後の釈明での作り話ではないでしょうか?
鳥居方に生き残りの証人はいましたか?
仮に入城を許されていたら死んでたと思うのですが名将義弘がそんな死地に乗り込むようなことをしたのでしょうか? >>201
ありがとうございます
家康義弘内々の話でもなく会津征伐時の正式な軍令に基づいた行動だったのですね
話が違うと言えるのは義弘の方で非は徳川にあり
寧ろそこからの生き残り戦略こそが義弘の知謀が冴え渡った物だったのですね 天皇制が腐敗したのっていつなんでしょうか?
自分は奈良時代には既に「なんかよくわからんけどえらい人」
いうふうに教義など皆忘れて権威だけ認められている状態になっていたと思っているのですが。
もし教義が残っていたら中国や朝鮮の文化をあんな節操もなく取り入れたりしないと思います。
古墳時代には宗教としての意義が残っていたのでしょうか? >>203
蘇我蝦夷・入鹿親子は大王(おおきみ)に取って代わる勢いだったのでこれを成敗して大化の改新と
呼ばれる改革を行って大王の権威と権力を強大化した。それが頂点を迎えたのが天武天皇の頃で
天皇という称号もこの頃に始められたと考えられている。「古事記」や「日本書紀」の編纂も天武天皇の
時に始まったとされる。天孫降臨を中心とする日本神話の体系化もこの頃に始まったんじゃないのかと
疑う余地は十分ある。つまり今考えてるような体系化された日本神話はこの頃からじゃねってことね。
個別の話はもっと古いかもしれないけどさ。そして遅くとも聖武天皇の頃には天皇の宗教的権威は
既に形骸化していたから仏教に国の安定を頼る必要があった。宗教的にはそんな感じ。
政治権力としてはその後も院政という形で上皇が摂関家に取って代わって実権を握る時代が来る。 天皇陛下が豪華絢爛たる生活に傾いたという話は聞かないですね
強いてあれば,大陵墓を造営した仁徳天皇では。朝鮮人の血を受け入れた桓武天皇や仏教を受け入れた推古天皇は大したことは 【韓国紙】 日本人は子供の父親が誰か分からないので最後の性交場所を苗字にした
次に近い国、日本を調べてみよう。調べると日本の姓氏は約30万個を越える。
我が国より人口が2倍以上多いことを勘案してもだいぶ多い数値だ。
なぜこのように多様な姓氏が存在するのだろうか。
日本で数えきれない程多種の姓氏が突然生じた背景にはそれと関連した興味深い説が伝えられている。
それは過去、壬辰倭乱を起こした張本人・豊臣秀吉と深い関連がある。
豊臣秀吉は日本を統一する過程で長い戦乱により男の数が急減し、すぐに人口増加政策で苦心した。
少し後、人口を増やして日本社会を安定させるという名目で次のような王命を下した。
「すべての女たちは外出する時、常に毛布をまいて行くことを肝に銘じよ。下着は絶対着てはならない。
どこでも男に会ったら赤ん坊を作れ」 日本の伝統衣装「着物」がここで由来すると分かった。
このような背景のせいで現在でも女性たちは着物を着る時、下着をつけない風習がある。
豊臣秀吉の王命以後、戦場で生き残った男たちは気に入った女を望み次第獲得できる機会が与えられた。
また、日本の男女は王命を敬って時と場所を分かたず性交した。
この過程で数多くの女たちが身ごもったが、女たちは子供の父親が誰なのか分からず「最後に性関係を結んだ場所」を名前にしたという。
私たちに良く知られた「山本」は山と根本をあわせたもので、これを解説すれば「山中で会った男の子供」という意味だ。
同様にタケダ(竹田)は「竹畑で会った男の子供」、村井は「村の井戸の周りで会った男の子供」と知られた。
このように生じた名前が伝えられ、降りてきて日本の姓氏になったという説が大半の意見だ。
もちろんこのような主張に反旗を翻す一部学者もある。彼らは「漢字意味が歪曲されて伝えられた風説にすぎない」と指摘した。
姓氏の由来を明確に明らかにする歴史的な証拠や関連情報が不足したているために、いくつかの推測性仮説が存在するのは事実だ。
それでも多くの人々は日本の開放的な性文化、着物の由来などが結びついた興味深い主張に関心を見せている。
キム・ヨンジン記者
ソース:インサイト(韓国語) 日本の姓氏「山本」とは「山で楽しんだ性関係」を意味する?
http://www.insight.co.kr/news/133206 >>203
豪族・貴族間への仏教の普及定着より前の古代前半までは宗教には教義が伴っていない
古墳時代までは教義のある宗教などなく、ないものが残ることはない >>204
ありがとうございます 真実味がある話だと思いました
>>207
動くものと動かないものという対比があり
前者が生者、後者が死者を意味し、
天皇という不動の象徴のみがこの2つの世界の橋渡しができるとされるという
話をどこかで読んだ覚えがあり、なるほどと思ったのですが、
教義がないというのは「汝なすべし」という形態に教義を定義づけした場合ではないでしょうか
ハイデガーがキリスト教に対してやったように神道の哲学的な骨格を考えることはできると思います >>208
俺は204だけど天武持統朝で古来の信仰を体系化して天孫である天皇家を中心として
豪族たちとの結びつきの親疎で豪族たちを格付けするために神道という宗教が作られた。
これには仏教の影響もあるんだけど、仏教到来以前の信仰は原始的な祖先崇拝とか
自然信仰であって論理的な教義は無かったのよ。 >>208
神道での戒律とか教義とかは鎌倉時代頃にようやく整備されたもので、仏教を参考にして作られてる
哲学的な骨格と呼べるようなものは発達していなかった まあ今でも神道は人によって言うことがばらばらだと国学院の教授が明言しているしな。 仏教は宗派によってばらばらだと既に周知されているのになぁ
何故神道は一つという妄想が生まれたのでしょうか? だから国家神道はになりかねませんか >>212
神道は教義がないのが神道だと言われているからなぁ。 平城京からは若草山が善く映えますが
何故古代においては御蓋山(春日前山)の方が有名になるのですか? 藤原氏が春日大社を作って神の山にしたからでしょう。 天皇(皇室)と神道の関係ってどういうものですか?
自分はこれまで多少の変化はあるにしろ、基本的には
古代〜現代に至るまで天皇は神道のトップだと思っています
つまり、神官のトップ、あるいは日本人の代表として日本の神々を祀る存在
現にそういう趣旨の著述や言説は多くあります
しかし、色んな本やネットの書き込みの中には「天皇が神道のトップだったのは
明治〜敗戦までの国家神道の時代だけであり、それ以外の時代は神道の
トップではない」「国家神道以外の時代は天皇と神道を直接つなぐものはない」という
趣旨のものを見聞きします
特定の天皇で仏教に帰依した方がいるのは存じてますが、それでも当時は神仏習合的側面が
強かったのと、「仏教に帰依=神道を放棄」ではないと思います
また、現代においても、皇室最大級の重大祭祀の大嘗祭は神道形式に則っていますし、
現代の天皇も神道のトップ(表現が不適切なら代表)な気がします
どなたか詳しい方、天皇(皇室)と神道の関係についてご教示くださいませ 現在の皇室は国家と国民の幸福を祈っているけれども、その立場は全国の神社に号令したり
命令したり指示するような上下関係があるわけではありません。宮中祭祀に限って言えば代表者ですが
伊勢神宮でさえちゃんと別に宮司が居るので皇室とはいわば親戚付き合いみたいなもんです。
政教分離令のおかげで国や地方自治体などのお金は宗教に使うことができません。だから
大嘗祭を始め様々な儀式が宗教儀礼だと国家予算から支出できないのでいろいろと困ることが起こります。
だから宗教じゃなくて慣例(伝統行事)としてやってますという感じでお茶を濁す必要がある。
だから天皇が神道のトップと思われるのははっきり言って迷惑でしょう。
古代については俺は>>204に書いたように天孫降臨や国譲りの神話は天武天皇の時代に作られたと考える。
元々はそれぞれの豪族が大神神社みたいな地元の山や森に自分たちだけの神様を祭って個別に拝んでいた。
それがヤマト政権という形で連合する過程でそれぞれの神様をみんなが拝むようになり、さらにそれぞれの神様の
関係(続き柄など)を説明する系図や神話がだんだんと作られる。それがさらに高度に体系化されたのが
天武朝である。天武天皇は柿本人麻呂の歌に「我が君は 神にしませば」と歌われているから
ある意味現人神だった。戦前の昭和天皇のそれとは違って例えだけどね。
しかし天武天皇のひ孫の聖武天皇の時代には早くも天災続きで神道では国家を守れない事態となって
国家を鎮護するのは仏教しかないと鑑真を招来して自ら戒律を授かって僧になった。この時代はまだ神仏習合
してない。 日本民族の慣習・伝統・宗教=神道です
だから日本人(神道の実践者)の代表たる天皇陛下は神道のトップともいえる
しかし,日蓮正宗やら朝鮮人やらが私は神道ではないと騒ぐから,黙っとこになっている
あとはマッカーサー憲法という日本の伝統を逸脱した憲法の所為 >>218
いや、飛鳥〜江戸時代まで天皇は熱心な仏教徒で
仏教徒の埋葬方法である火葬が行われ寺が陵墓を管理していた 仏教徒だからと言って日本人を止めることは出来ませんよ >>219
聖武天皇より前の天皇・大王で熱心な仏教徒って誰?
火葬は持統天皇からだな 鎮護仏教の後も、歴代の天皇は日本の神々を祀る祭祀はしていたのですよね
こういう時、まさに天皇と神道と仏教の関係がすごく気になる
真偽はともかく以前読んだ書き込みでは、天皇は神道のトップという側面があるから、仏教に深く帰依した天皇は譲位してから出家したり、法皇になったりしたらしい
現役の天皇のままでは出来なかったとか云々 >>217
ありがとうございます
結論としては、天皇=神道のトップ、はあまり言わない方が良いって感じですね 時代やら視点によってはトップは神祇官の長官や次官の場合もある
長官は神祇伯(白川伯王家)、次官は神祇大副(から、新規の官職「神祇管領長上」と勢力拡大した、吉田家) >>225
ちなみに、国家神道においては間違いなく天皇=神道のトップで良いんですよね >>223
マジですか?それは初耳で驚きました
現役で出家って可能だったんですか 出家→政権運営に支障が出るから身代金? を払って還俗
というのを繰り返した。僧籍についていた期間は短い。
とはいえ、他の天皇は出家した時点で退位扱いが普通なんで、かなり例外 >>227
出家したから、朝廷が慌てて次の天皇を選んだ 選んだって言っても順当に娘の阿倍内親王だけどな。
女性の身で天皇になったおかげで結婚できなかったのは不幸だった。 >>228
それは何に書いてあるのですか?
続日本紀ですか? それ以前の女帝は推古天皇や持統天皇のようなかつて皇后だった人と、生涯独身だった元正天皇しか居ない。
元正天皇は聖武天皇の父文武天皇の同母姉であり孝謙天皇から見たら伯母さんです。文武天皇は若死にして
遺児首皇子(のちの聖武天皇)はまだ幼かった。つなぎとして文武天皇と元正天皇の母が元明天皇として
即位した。しかし寄る年波には勝てず娘に後を託すことにして譲位した。元正天皇は首皇子を「我子」と呼んで
大切に育てた。元正天皇が若いうちになぜ結婚しなかったのかは謎だけど、これが先例とされて独身で即位した
女帝は結婚しないことになったと思われる。 理由も無いのに「出来なかった」とする理由は無いのかよ? 律令に女帝の婚姻相手の規程がなかったからと言ってみる 作ればいいだろ。現代の安倍みたいな反対勢力もあったのか? >>235
文武天皇の同母姉という非常に強い立場なので夫が発言力を持つことを警戒されて出来なかったんじゃ
ないかと考えられる。文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫で、この系統が皇位を継承していくことは
持統天皇の悲願だったので。称徳天皇で断絶するけど。 旧暦のときは1月2月3月という言い方はなかったのですか?
旧暦は一ヶ月ほど今より遅かったらしいですが師も走るほど忙しいのは11月だったということでしょうか? >>241
一月は立春が入るように決める
二月に春分、五月は夏至、八月は秋分、十一月に冬至
なるべくこういうふうになるように決める
ひと月は月の満ち欠けのひとめぐり
新しい月の始りである一日は、新月、闇夜である
十五日の夜は十五夜で満月、そうなるように決める
三日は三日月ね
大の月は三十日、小の月は二十九日である
(月の満ち欠けは二十九、五日だから)
29.5×12か月=354日
今の暦の365日より10日くらい一年が短い
3年もすると30日くらいずれてくる
そこで閏月(うるうづき)を挿入して調整する
なお、何月が大の月で、何月が小の月か、
また閏月はいつ挿入されるかは前もっては分からない
天体観測も伴う天文方の力を借りて作られるその年の暦、お伊勢さんの暦などを買わないとわからない
時代小説で「その年の閏(うるう)二月‥」などと書かれていたら、二回目の二月なのである
2019年旧暦表示カレンダー
http://accent.main.jp/calendar/2019q.htm >>241
太陰暦は月の周期である30日で一月です。12ヶ月で360日だから太陽暦の365日と
一年で5日ずれます。このずれを閏月を挟むなどの方法で処理するしてすり合わせるのが
太陰太陽暦です。それは置いといて。
五月雨が梅雨の雨で水無月が夏の暑さだと言われてるから、そうですねおおよそ一月ずれてます。 >>243
閏月は2,3年ごとに挿入されている
一年で5日ずれるのではない
大の月は三十日、小の月は二十九日です
旧正月は年によって新暦の1月中にやってくることもあれば、2月下旬になることもある
いつも一か月ずれているというのではない そういう感じだから、たとえば赤穂浪士が討ち入りを決行した日を現在の暦に直すと1月末になるのですね。1/30未明のはず 秀吉のように人間は血統より能力によって人は上に立つべきと言う潜在的な認識は昔からあったのでしょうか?
能力主義が培われた土壌のような物はいつ頃からあったのでしょうか? >>245
今年ならば旧暦12/14は1/19となる
その年によって違う >>247
多分、明治5年以前を太陽暦で遡った場合のはなしだと思う
(換暦サイトで確認したわけではない) そりゃぁ歴史家は当時の暦の元禄十五年十二月十四日がグレゴリオ暦1703年1月30日にあたると確認して書いているのだよ 南朝系の公家は百済来た朝鮮人だと言うことですが
北朝系の公家はどうなんですか? 百済なんて言い出したら
京都人、琵琶湖周辺、大阪人も朝鮮人だろ 訂正
百済なんて言い出したら
根っからの京都人、琵琶湖周辺、大阪人も朝鮮人だろ 滅びた南朝鮮国の王族が日本に逃れて貴族に迎入れられたんだろ
現朝鮮は北方の勢力で構成されてる >>255
当然だ!
本当の日本人なんぞこの島には4%程度しかいない!
もちろんワシはY染色体dの本物の日本人だ >>250
デタラメです
そういった出自に基づいて割れたわけではない。
たいていの公家は、一族内の相続争いで割れて南朝と北朝にそれぞれ属してます。
南朝だけ、また北朝だけに一族全員が帰属していたのはごく一部です。 >>246
秀吉だって自分が天下を取ってしまえば秀頼に天下を譲りたがったし
戦国時代が特殊な能力主義だっただけで基本は血統主義
江戸時代の徳川将軍には障がい者も幼児もいたが
すべて東照大権現家康公の血統だから将軍になれるのであって
能力無関係 家康が三代将軍は家光だと口出ししたのも本人の能力じゃなくて順番が大事ということだからな。
そうしないと後継者争いでえらいことになるから。 武田信玄も能力主義だよな
信玄は中国の歴史書をよく読んでるから血統に縛られないルーツは中国にあるのかも そうだなぁ。漢の高祖劉邦は正妻の呂后との子を廃嫡して寵愛する戚夫人との子である如意を
後継にしようとしたなぁ。張良が手を打って取りやめになったけど、これで戚夫人を恨んだ呂后が
劉邦の死後に戚夫人を人豚にすることになる。 質問です
幕末のころに外国と戦争した藩って薩長以外にありますでしょうか
よろしくお願いします 中国の歴史を勉強すると基本的にルール無用で勝ったものが正義。その代表が唐の太宗こと
李世民だ。高祖李淵の次男だが兄で皇太子である李建成を武力で滅ぼして皇帝になった。
それから明の永楽帝こと朱棣。甥の建文帝を武力で倒して自ら皇帝になった。李世民も朱棣も
初代の子で、建国の功臣でもあるから武力があってその後の政治がちゃんとしてたから
非道なことをしても正当化できた。隋の煬帝も同じことをやってるけど国を滅ぼしたから
正当化できなかった。 >>261
武田信玄は義信よりも能力が高いから義信を廃嫡して
勝頼を跡取りにしたわけじゃないだろう 義信は有能で人望も厚かったんじゃないのかな
あまりにも人望が集まりすぎて信玄と争いそうな勢いだったから、内乱を未然に防ぐために粛正せざるを得なくなった
徳川信康も同様で、徳川家を割そうなほどの勢いがあったっぽいしな 信玄は親を追放した時と同じ状況だったからな
因果応報をひしひしと感じてただろうな 平安時代の朝廷の公家や職員の規模と室町時代のそれとは明らかに違い、
後者のほうが規模は小さかったのでしょうか?
なぜなら室町時代には同じ京都市中に幕府があり、幕府の武士や職員が
いて統治、行政、その他を行っているわけですから、必然的に朝廷の
役割や仕事は平安時代に比べて少ないですよね?
そのへん、実際はどうだったのでしょう?
※職員という言い方は時代的に合わないと思いますが便宜上の表現です 朝廷の「職員」が早朝から一斉に出勤して朝礼の後で職務に励むというような風景は、早く平安時代の内に律令制の崩壊とともにもうなくなってしまっていたわけだが
室町時代となると守護大名の時代だから地方のことは大名がやる
律令制で朝廷が全国の口分田を管理する時代とはもう全然違うでしょうね 幕府の存否に関わらず、律令の形骸化で官司も仕事なんかほとんどなくなってるし 公地公民制は平安中期頃には崩壊してるな
それ以前でも税の徴収は国司の仕事で郡司が下請けだっけ、ぜんぶ地方で仕事してる
集めた税を保管して、必要に応じて中央に運ぶまでが国司の役目だったはず
そういった地方の仕事も「守護請け」で武士に任せるようになっていくわけだが。 朝廷が戸籍を整備して口分田を受けるべき者を特定し、与える
与えられた農民や貴族が死亡すれば田は収公される
国符の官司(官庁、官員組織)が六年に一度、戸籍を作り直して異動状況を把握して班田収受を行う
公地公民制ではこういう事務作業を要した 現代では六年に一度ではなく、戸籍の異動作業や不動産登記作業は不断に行われているが、これは大変な手間がかかる
全国の市区町村役場に戸籍係の人員を置き、全国に法務局を置いて大変なマンパワーを要している
こういうコストを嫌うアメリカ合衆国では、戸籍も不動産登記も制度がない
(一覧して明快な戸籍簿や不動産登記簿がないということ、個別の届出書類や契約書類の保存はある)
相続人調査はほとんと不可能なので遺言必須
不動産売買では嘘所有者に気を付けること >>270へのレス、ありがとうございました
平安時代の途中から公家や職員の数は減っていったようですが、明確なリストラでしょうか?
それとも自然な減少でしょうか?リストラであれば、下級貴族や職員らの子弟はその後どうしたのでしょうか? さぁてね、メシが食えるような身の振り方を考えてもらうしかないわな
下級貴族の娘が男に養ってもらうしかなくて、破れ屋敷で通ってくる男を待ち続けた‥なんてのが源氏物語にも出てくるね 朝廷の予算が足りなくなって専門職や下級職は兼業させるようになった
藤原氏などの有力な貴族の家で働いて給料もらいつつ朝廷でも働くんだ
もう少しあとになると、治天のとこで働いて給料もらうのも出る
治天のとこは朝廷とは別会計だしな そうやって、役人として身に付けた読み書き計算の特殊技能を生かせる職に付けた人はまぁいいよね 上皇様んところで働けるって凄いじゃん
親方日の丸だね
つてを頼って荘園の現地事務員の口にありついたけど、都落ち、ものすごい田舎だよ‥‥ 院近臣だね
信西とか藤原信頼みたいな、失政で世を乱すヤツとかいる かつての穢多非人と現在の部落(旧同和地区)は関係ないって説があるけれど、
歴史学的に見てどうなんですかね?
もし本当に関係ないなら、現在の部落(旧同和地区)のルーツはなんなんだ?って
話になる
単なる貧困者やヤクザもの、不逞外国人らの流入があったとしても、それらは
あくまで付加的なものであって本質ではないですよね 何故京都に都が置かれたのでしょうか?
広い平地があるとはいえ守るには不利な盆地ですし環境としても快適とは言い難いです
古い寺や神社は大抵地形的に安定した(≒天災の起こりにくい)場所にあるだけに「何故こんなクソ暑いところに?」という疑念が拭えません 大都市を造るには広い平地と生活水の確保(山が近い)
更に大量に物を運べる水運(川や琵琶湖)
北日本や東日本からの物流アクセス
この辺が合致したのでしょう なーる でも琵琶湖湖畔じゃダメだったんでしょうか?
あの辺は山と琵琶湖の間に結構平たい土地があるので
(正方形は無理としても)琵琶湖を中央に置いて環状に都市を築けたようにも思えます
昔はあの辺が平らでなかったり水害の危険性がかなりあったんでしょうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています