【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ >>255
当然だ!
本当の日本人なんぞこの島には4%程度しかいない!
もちろんワシはY染色体dの本物の日本人だ >>250
デタラメです
そういった出自に基づいて割れたわけではない。
たいていの公家は、一族内の相続争いで割れて南朝と北朝にそれぞれ属してます。
南朝だけ、また北朝だけに一族全員が帰属していたのはごく一部です。 >>246
秀吉だって自分が天下を取ってしまえば秀頼に天下を譲りたがったし
戦国時代が特殊な能力主義だっただけで基本は血統主義
江戸時代の徳川将軍には障がい者も幼児もいたが
すべて東照大権現家康公の血統だから将軍になれるのであって
能力無関係 家康が三代将軍は家光だと口出ししたのも本人の能力じゃなくて順番が大事ということだからな。
そうしないと後継者争いでえらいことになるから。 武田信玄も能力主義だよな
信玄は中国の歴史書をよく読んでるから血統に縛られないルーツは中国にあるのかも そうだなぁ。漢の高祖劉邦は正妻の呂后との子を廃嫡して寵愛する戚夫人との子である如意を
後継にしようとしたなぁ。張良が手を打って取りやめになったけど、これで戚夫人を恨んだ呂后が
劉邦の死後に戚夫人を人豚にすることになる。 質問です
幕末のころに外国と戦争した藩って薩長以外にありますでしょうか
よろしくお願いします 中国の歴史を勉強すると基本的にルール無用で勝ったものが正義。その代表が唐の太宗こと
李世民だ。高祖李淵の次男だが兄で皇太子である李建成を武力で滅ぼして皇帝になった。
それから明の永楽帝こと朱棣。甥の建文帝を武力で倒して自ら皇帝になった。李世民も朱棣も
初代の子で、建国の功臣でもあるから武力があってその後の政治がちゃんとしてたから
非道なことをしても正当化できた。隋の煬帝も同じことをやってるけど国を滅ぼしたから
正当化できなかった。 >>261
武田信玄は義信よりも能力が高いから義信を廃嫡して
勝頼を跡取りにしたわけじゃないだろう 義信は有能で人望も厚かったんじゃないのかな
あまりにも人望が集まりすぎて信玄と争いそうな勢いだったから、内乱を未然に防ぐために粛正せざるを得なくなった
徳川信康も同様で、徳川家を割そうなほどの勢いがあったっぽいしな 信玄は親を追放した時と同じ状況だったからな
因果応報をひしひしと感じてただろうな 平安時代の朝廷の公家や職員の規模と室町時代のそれとは明らかに違い、
後者のほうが規模は小さかったのでしょうか?
なぜなら室町時代には同じ京都市中に幕府があり、幕府の武士や職員が
いて統治、行政、その他を行っているわけですから、必然的に朝廷の
役割や仕事は平安時代に比べて少ないですよね?
そのへん、実際はどうだったのでしょう?
※職員という言い方は時代的に合わないと思いますが便宜上の表現です 朝廷の「職員」が早朝から一斉に出勤して朝礼の後で職務に励むというような風景は、早く平安時代の内に律令制の崩壊とともにもうなくなってしまっていたわけだが
室町時代となると守護大名の時代だから地方のことは大名がやる
律令制で朝廷が全国の口分田を管理する時代とはもう全然違うでしょうね 幕府の存否に関わらず、律令の形骸化で官司も仕事なんかほとんどなくなってるし 公地公民制は平安中期頃には崩壊してるな
それ以前でも税の徴収は国司の仕事で郡司が下請けだっけ、ぜんぶ地方で仕事してる
集めた税を保管して、必要に応じて中央に運ぶまでが国司の役目だったはず
そういった地方の仕事も「守護請け」で武士に任せるようになっていくわけだが。 朝廷が戸籍を整備して口分田を受けるべき者を特定し、与える
与えられた農民や貴族が死亡すれば田は収公される
国符の官司(官庁、官員組織)が六年に一度、戸籍を作り直して異動状況を把握して班田収受を行う
公地公民制ではこういう事務作業を要した 現代では六年に一度ではなく、戸籍の異動作業や不動産登記作業は不断に行われているが、これは大変な手間がかかる
全国の市区町村役場に戸籍係の人員を置き、全国に法務局を置いて大変なマンパワーを要している
こういうコストを嫌うアメリカ合衆国では、戸籍も不動産登記も制度がない
(一覧して明快な戸籍簿や不動産登記簿がないということ、個別の届出書類や契約書類の保存はある)
相続人調査はほとんと不可能なので遺言必須
不動産売買では嘘所有者に気を付けること >>270へのレス、ありがとうございました
平安時代の途中から公家や職員の数は減っていったようですが、明確なリストラでしょうか?
それとも自然な減少でしょうか?リストラであれば、下級貴族や職員らの子弟はその後どうしたのでしょうか? さぁてね、メシが食えるような身の振り方を考えてもらうしかないわな
下級貴族の娘が男に養ってもらうしかなくて、破れ屋敷で通ってくる男を待ち続けた‥なんてのが源氏物語にも出てくるね 朝廷の予算が足りなくなって専門職や下級職は兼業させるようになった
藤原氏などの有力な貴族の家で働いて給料もらいつつ朝廷でも働くんだ
もう少しあとになると、治天のとこで働いて給料もらうのも出る
治天のとこは朝廷とは別会計だしな そうやって、役人として身に付けた読み書き計算の特殊技能を生かせる職に付けた人はまぁいいよね 上皇様んところで働けるって凄いじゃん
親方日の丸だね
つてを頼って荘園の現地事務員の口にありついたけど、都落ち、ものすごい田舎だよ‥‥ 院近臣だね
信西とか藤原信頼みたいな、失政で世を乱すヤツとかいる かつての穢多非人と現在の部落(旧同和地区)は関係ないって説があるけれど、
歴史学的に見てどうなんですかね?
もし本当に関係ないなら、現在の部落(旧同和地区)のルーツはなんなんだ?って
話になる
単なる貧困者やヤクザもの、不逞外国人らの流入があったとしても、それらは
あくまで付加的なものであって本質ではないですよね 何故京都に都が置かれたのでしょうか?
広い平地があるとはいえ守るには不利な盆地ですし環境としても快適とは言い難いです
古い寺や神社は大抵地形的に安定した(≒天災の起こりにくい)場所にあるだけに「何故こんなクソ暑いところに?」という疑念が拭えません 大都市を造るには広い平地と生活水の確保(山が近い)
更に大量に物を運べる水運(川や琵琶湖)
北日本や東日本からの物流アクセス
この辺が合致したのでしょう なーる でも琵琶湖湖畔じゃダメだったんでしょうか?
あの辺は山と琵琶湖の間に結構平たい土地があるので
(正方形は無理としても)琵琶湖を中央に置いて環状に都市を築けたようにも思えます
昔はあの辺が平らでなかったり水害の危険性がかなりあったんでしょうか? >>285
>(正方形は無理としても)琵琶湖を中央に置いて環状に都市を築けたようにも思えます
長安に倣った正方形の都市を作るのが計画だから、それじゃダメじゃん。
九州方面との物流が瀬戸内海だから大阪湾と河川でつながってることも必要だし。
四神相応と思想が背景にあるという説もある。北に山(玄武)、南に水(朱雀)、東に川(青龍)、
西に大道(白虎)という土地がふさわしいというものだ。桓武天皇当時の史料には出てないから
そういう説もあるというレベルだけどな。 >>286
南の水は湖とか池とかな。それと中国の四神相応は>>286のと違ってて北に山、南に水、
東と西には低山が連なって中央部を囲むんだそうだ。平安京が盆地なのはこれを採用したかもしれない。 >>276
最初の質問に対してかもしれませんが
Wikipediaで官司請負制や諸司領を見てはいかがでしょうか >>286-287
なるほろ 日本史には疎いのでそのあたりさっぱりでした
総合的に当時の世情などを鑑みればきちんとした理由があるんですね >>289
それからね。飛鳥時代には琵琶湖のほとりに天智天皇が大津宮と呼ばれる都を置いたこともあった。
場所は今の大津市だ。この時は朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗北して最悪唐が
攻めてくるかもしれないという緊迫した状況の中で大津が選ばれた。なぜ大津なのかという説明は無いけど。 まあ大津にミヤコをおいてたのは大規模都市をつくって都にするより以前、
小規模な都市を天皇の代ごとに置き換えてた頃だから、平城京平安京は参考にできないけどね
時代の近い飛鳥の方が構造とか規模とか近いんだろうね 明治になって鉄道敷設するとき、新橋から横浜が先ず開通
その横浜港から西へ伸ばして琵琶湖畔の長浜へ至る
長浜から北の敦賀港へ線路敷設するとともに湖上交通で大津へ至る
大津からは西の神戸港へ線路をつなぐ
これが最初に整備すべき東海道線の敷設として行われた事業である
こうしてみると大津は、東へも西へも交通の要所となるところだ
天智天皇の御世でも、北陸道、東山道への交通路があり、西国へも行きやすい所と見られただろう >大津からは西の神戸港へ線路をつなぐこれが最初に整備すべき東海道線の敷設として行われた事業である
東日本は官主導だが、関西は民が主導。
大津から最優先で神戸に鉄道を繋ぐのなら、淀川を越えて路線なんか引かずに(現在の)新大阪辺りに大阪駅を造ってるよ。 東京大阪の路線でなくて神戸まで敷いたところを見てやれよ
大阪に立ち寄らない手はないんだから淀川だって渡るさ
あの時代に新大阪の場所を出すのは時代錯誤 (どうでもいいけど今の淀川もまだ掘られてなかった時代だったけどね) どなたか>>282に関してご存知の方はおられませんか? そりゃ一部では無関係なとこもあるんだろうけど、例外だぞ例外 先祖について調べていて気になった、庶民の名前・葬り方について質問です。
1.親族内に同姓同名がいる
亡祖母の名前を孫につける・・・幕末から明治に2件
亡伯母の名前を姪につける・・・明治初期に1件
亡兄の名前を弟につける・・・大正に1件
全系統調べたので、ある一家にだけ伝わる風習ではなさそうなんですが、昔は親戚と全く同じ名前をつけるのは一般的だったのですか?
また、特に長男長女に限らないのですが、どういう人の名前を誰に襲名したのでしょう? 長くなったので分けます。
2.仏壇の過去帳簿と戸籍の中身が違う
父方
二太郎さんが仏壇では仁太郎
繁吉さんが仏壇では繁一
ひらがなの女性が仏壇ではカタカナ
1910年〜1945年の人が仏壇では33歳
1912年〜1922年の人が仏壇では10歳
(数え年表記なので、仏壇が正しければ兄弟である二人が同じ年に生まれているので、明らかにおかしい)
父方
1897年〜1987年の人が、仏壇では数え年92歳で死んだことになっている
などなど、戸籍の記録と過去帳にズレが大量に見られます。少しなら間違いかなと思えますが、これだけあるとわざとかなと思ってしまいます。
家族の名前や年齢を忘れることなんてあり得ないと思いますが、わざと内容を変えるような風習などあったのでしょうか? 本名を知られると呪われる可能性があるので
寺には本名で届けて死ぬまで内緒にしてもらう
役所には偽名で届けて普段の生活ではそっちを使うという風習ならある
年齢についてはわからん 二太郎と仁太郎、繁吉と繁一
相通じて間違いやすい、あるいはどっちでも構わないと言えるような名前だな
坊主が耳だけで聞いて間違えたんじゃないか
年齢も元号で、明治二十九年7生で昭和六十二年没だとか、間違えそう‥‥ >>258
で、公家が先祖の人たちは偉いの?
そこが一番大事 >>300
その風習、詳しく書いてあるサイトなど無いですか?
>>301
私も聞き違いだと思いました。でも、文字にした時点で家族が抗議すると思うんです。しかも、二人とも親より先に死んでるので、我が子の名前の間違いを指摘しない親はいないかと思います。
年齢の方は、年月日だけじゃなく「九十二歳」と書かれているんです。戸籍だと数え91なのに。本人がずっと自分の年齢を一歳ずれて覚えてたのかなw でも実際違う字で登録されてるという例は少なくない。届け出る側がそもそも漢字をよく知らなかったりする。
それが斎藤とか漢字が難しいお名前の漢字の種類が多い原因と言われてる。 ちなみに中川翔子の本名は「しようこ」だそうだ。母親が人名で使えない漢字で「しょうこ」に
したくて窓口の役人と揉めて最終的にひらがなで殴り書きして出したら役人が「しようこ」で
登録して、母親がその時気がつかなかったんでそのままになったんだとさ。 今は出生届に医師の証明書が付いてるけども、昔は自宅出産で、届け出の出生年月日が本当であるか確かめるものがなかった
戸籍の出生年月日と実際とは違うというのはよくあった
昔の人の1月1日生の多いこと
歳を取るのは誕生日ではなくて正月だったので戦前生まれの人は誕生日の祝いなんてやる風習がなかった
自分の出生日はよく分からないというのも普通のことだった 30代男です。
映画「はだしのゲン」で国のために戦地で戦っている兵隊に向け作文を読む場面。
ゲンが「日本は戦争をすべきではない。戦争は悪い事。何もかも壊します。兵隊さん死なないでください。両親が悲しみます」
すると先生が「このバカタレが!それでも日本男児か!」と言って、ゲンをハリパンします。
この当時の日本は、戦争に反対するという事を言う事は、問題発言なんですか?
あと、これは今は亡きおじいさんもやっていた事です。
歌を歌う時に、腕を振るんですけど、女は見ない。
どうしてこの時代の男って歌を歌うと腕を振るんですか? 地蔵菩薩者夫れ剃髪僧形也
釈迦入滅後五十六億七千万年の間、衆生を救ふ菩薩也 >>308
「地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、その地位を退し、
六道を自らの足で行脚し、救われない衆生、親より先に死去した幼い子供の霊を救い、旅を続けている。」
釈迦が入滅して次の弥勒が現れるのは56億7千万年後と言われてて遠い未来の話です。その間迷える
衆生を救うべく地蔵菩薩は旅を続けているので坊さんの格好の方が便利がいいらしい。 >>308
僧侶だから剃髪してるんだ、禿げてない! 日本の歴史を取り上げた番組で、よく何百年前の物が寺に保管してあって、住職が見せてくれるものがありますね。
奇跡体験アンビリバボーでもそういうのがあります。
例えば呪われた面とか様々なもの。
寺ってどうしてそういう呪われたものが怖くないんですか?
あと、寺ってどうして何百年前のものが保管できるんですか?
天災などで無くなるものがありますよね? お寺は宗教施設なので、御仏の法力により呪いも解除されるというのが建前です。
坊さんが呪いにビビってたら誰も信用してくれません。
戦や家事などの人災や天災の時は大事なものから順に抱えて逃げます。
奈良の大仏みたいのは動かせないから平安時代の末と戦国時代に焼け落ちて再建されてます。
逆に興福寺の阿修羅像は乾漆という張子みたいな作りですごく軽いんですぐに運べます。 >>284
平安京は秦氏の勢力地だったから
奈良も京都も盆地であって平野ではないし
生活用水は川ではなく井戸を掘ってた
近江大津宮も渡来系氏族の勢力地だった まあ、川は水運と排水路用であって給水用ではない感じではあるな 戦で大量死があると、血や死肉エキスが入った水を飲んでたの? >奈良も京都も盆地であって平野ではない
一度も現地へ行ったことのない奴の妄想というよりは、
日本語は上手だけど漢字が苦手なんだろうなw >>315
ヤマトの首長が渡来人の傍でしか首都を張れなかったてのは何?
日本人が怖かったんか うちは何てことない庶民の家(というか、由緒や謂れが伝わっていない)家系なんですが、たまたま昔の戸籍を見たら戸主を中心に○○右衛門と言う名前が大量にいました。
○○右衛門や○○左衛門は門を構えた大きな家の侍の名前と言うイメージだったのですが、現状は違ったのでしょうか? 大身でなくても一応は武家である者や、町人でも村役町役を務めるような旧家が名乗るような百官名だとは思うが‥
自分ちの由緒やいわれを知らないんなら、まぁそういう名前を名乗るくらいの家だった可能性はあるんじゃないのかな 「時代が下がり室町時代以降になると、武士階級においては仮名・官名として、平民階級では名として
広く用いられるようになり、頭に親族・兄弟関係を表す文字を付けた「新左衛門」、「彦左衛門」等、
衛門府の官等である「尉」「佐」をつけた「左衛門尉」「左衛門佐」などとして多用された。」
平民階級でも普通に広く使われたそうです。 士の下に農や工や商が並列していたが、その同じ農、同じ商の中で上下はあった
旧家や豪商、親方などの下に零細な平民があった
そういう序列の中で、細民が名乗るには不遜と見られる名前というもの、名前の相場はあっただろう 上皇陛下の曾祖母である柳原愛子は1940年代まで生きていますが、曾孫である上皇陛下とは接点があったのでしょうか? 戦前までは、高貴な家では子供は実親ではなく乳母が育てるというのが主流なので、
あんまり接点を持てなかったのではないですかね
大正天皇のように乳母に任せたくない、できるだけ子供に接したい的な行動をとると眉をひそめられたと聞きますので、
大正天皇以外の皇族・親族たちは血縁でも顔を会わせることが少なかったと思います 教えてください
毛利元就の三男、小早川隆景が、豪快バイタリティのある人物で、
元就と示し合わせの上、わざと意見が対立しているように装い、
敵に毛利家が分裂していると思わせて誘い込みせん滅するといった逸話があったと思うのですが、
この時、まじめで温厚な長男毛利隆元、豪傑でまっすぐな吉川元春には知らせず、
後からあまりの見事さに二人が嫉妬するようなことまであったとか
具体的にどの戦いでの話でしょうか?
昔何かで見たのですが、思い出せず >>329
有難うございます
どこかで探してみてみます 関東で親王が死んだのって、
鎌倉に幽閉されて足利直義配下に殺された人が史上初ですか? そもそも皇族が京都から離れる事例自体が特殊だったしね
だがあえて言うなら、父親が大王(記紀の説明では天皇)であるヤマトタケルも関東で死去している。地位としては後代の親王と同等だよな ヤマトタケルが死んだのは伊勢国能褒野だけど関東なの?
日本書紀での表記日本武尊の「尊」は皇位継承者と目される者に使うとはされてるから
親王と同等というか大兄と同等ではあるが。 志賀島の金印って
東路軍の武将が悪徳骨董屋から買った金印を日本軍の夜襲から逃げる時に落としたんじゃないですか?
(´・ω・`) クルージング?
神風の術で難破して漂着した時の話を脚色してんの 賢いことを「頭が良い」、アホを「頭が悪い」、狂人を「頭がおかしい」と表現するのはいつ頃からでしょうか?
賢さを頭の中にある脳と言う部分が司っていると言うことを昔の人は知っていたのでしょうか? 西洋医学知識が普及して後に生まれた表現には違いない
いつ頃からというのは今後、励んで探求していただきたい
解体新書の翻訳出版が1773年
神経という訳語もできた
明治の落語家三遊亭園朝による怪談話「真景累ヶ淵」
この真景には神経が裏に隠されていて、種々の怪異も皆脳髄神経の働きによるものということが解題に隠されている
解体新書から圓朝まで、どのように知識の普及があったのか‥ 頭がおかしいとか頭が悪い、良いという表現はもっと新しいのでは?
近世ではなく近代の新語としか思えない 近代、日本の植民地化を狙っていた国は
どこですか?イギリス?フランス?
アメリカ?ロシア? ペリー来航から日米和親条約について質問です。
当時の日本は産業革命を迎えておらず、外国の資源に頼る必要の無い国でした。
また、産業革命は迎えてなくても日本国としては膨大な兵士と銃砲と経済力がありました。
また、日本に国交を求めたペリー(米国)も、
当時は日本を攻略できるような軍事力も国力も無く、
日本側がペリーとの交渉を拒否すれば経済制裁出来る訳でもなく、日本に侵攻できるわけでもなく打つ手が無い立場でした。
このように今と違って客観的には当時の日米の力関係は日本側に分がありながら
なぜ日米和親条約、日米修好通商条約のような日本側が不利となるような不平等条約が結ばれたのでしょうか。 文化露寇,フェートン号事件と英露から侵攻を受けました。
対して米国の要求は捕鯨船の寄港(給油)という下らない要求だったので人道的見地から受けてもダメージないかなと
あと自分の家の不始末は自分の家でやるのが普通なので
輸出入するものもないから関税設定も不要と考えた。不利って何? >日本国としては膨大な兵士と銃砲
インドや中国は日本より膨大な兵士がいたし、使えない鉄砲は数があっても…
>日本側がペリーとの交渉を拒否すれば経済制裁出来る訳でもなく、日本に侵攻できるわけでもなく打つ手が無い立場でした。
交渉受け入れ→御国法の形骸化
交渉拒否→国防費増大→財政悪化
>なぜ日米和親条約、日米修好通商条約のような日本側が不利となるような不平等条約が結ばれたのでしょうか。
片務条約付与は先進国間でのお約束 日米、互いに主張を為し、めでたく条約締結の運びとなった
黒船艦隊の旗艦に招待された侍たちは酒肴のもてなしを受けて上機嫌
論陣を張った林大学頭もその謹厳な相好を崩した
儒学者松崎満太郎はべろんべろんに酔っぱらい、日本もメリケンも心はひとつで御座るとペリーに顔を寄せてキスをした
ペリー慌てず、条約締結ならキスもするさと応じた >>343
日本は有用資源が掘れる場所が乏しいし農地面積も狭いので植民地化したがる国はなかったはず
>>344
欧米の習慣として、最初に条約をむすんだ国を最恵国待遇とするものがあった。
逆視点で見たら、最初に勢力圏に組み込んだ国を出し抜いてそれ以上に有利な条約を結ぶのは植民地かすめ取りみたいなものだから、植民地側の事情は関係なく紛争に直結すると言える。
つまり、日本側から見ると、最初に国際条約を結ぶ相手よりあとから結ぶ相手の方が厳しい条件で条約を結ぶことはないと言える。
最初に結ぶ相手を選んで、できるだけ日本側に有利な国際条約で開国する方が安全だったわけ
その条件に合う相手はアメリカしかなかったので、他国との交渉は先延ばししてアメリカとの条約交渉だけを急ぐ必要があったんだよ >>344
当時の江戸は、食糧や衣料等の消費物資の多くを外からの輸送に頼っていた。そして、陸路輸送よりも水運が主だった。
江戸へ運び込む舟運は江戸湾経由しかなく、浦賀水道に陣取った軍艦が付近を通る船を砲撃し続ければ容易に兵糧攻めができる状態だったわけで。
少なくとも江戸周辺が危機に陥りかねない状況ではあったはず 外国船も薪炭、食物、飲料水の補給受けざれば早々に退散するの他なし
本邦ハ宜しく台場を築きて攻めよかし >>331
鎌倉幕府最後の将軍だった守邦親王
それ以外の親王将軍は生前に将軍退任ですべて京へ返されため鎌倉で死んだ将軍はいなかったが
守邦親王のみは鎌倉幕府滅亡の3か月後に死亡したと記録されるのみで京へ帰った形跡がない
しかも33歳とまだ若かったことから殺害説がある 現在わかってる史料では、幕府はアメリカとの条約締結をのぞみ、ペリーの到着を待ちわびていたとのこと オランダから送られた警告を無視して到著までの1年間いたずらに時間を費消してたんじゃないか
「他国(イギリスロシア中国その他)は来日しても翻弄してなし崩しにできた」から幕府側もペリーの本気度を舐めていたわけで
「浦賀水道から一歩も動き申さん、何であれば江戸砲撃もしていいんやで?」という態度と、
ちょうど伊豆半島に来てたロシアのプチャーチンがペリーの条約を知って同じ待遇を求めたのもでかい
むしろここが幕府の致命的判断
(一カ国は何とかなっても、二カ国目が突破されると後は列強が入れ替わり立ち替わり)
つまりアメリカとロシアの硬軟波状交渉によって言質がどんどん取られたのが主因
彼らは連携どころか敵対してた、ということを幕府も知らなかったし(知ってたら言質は与えなかったかも) 戦中の日本は右翼、左翼、どちらでしょうか?
ドイツと防共協定を締結しているから
右翼になるんですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています