【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ >>441
それは凄く分かります
>>442
たしかに戦国時代とか
戦争が多かった時代が人気ありますね
>>443
推しの死が悲しいので歴史好きな人はどうやって
悲しみをのりこえてるか
「歴史クラスタ 推し 死」などで検索したところ
「推しはすでに死んでいる(ので今さら悲しくない)」
という検索がいくつか出て来ました
自分もそういうふうにメンタル強くなれる方法を知りたいという感じです
>>444
言われてみればそうですね、不思議です ツイッター隠語やAKBおたく用語を多用されても多くの国民は理解しかねる‥ >>446
古代にはよくあった叔母と甥の結婚だから
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は母(豊玉姫)の妹(玉依姫)で叔母に当たる結婚
叔母と甥の結婚で神武天皇が生まれた
神武天皇にとって玉依姫は母、豊玉姫は祖母 >>445
とりあえず埋葬してしまってから、日を開けて葬儀したんじゃないの?
現代でも立場がある人が亡くなったらそうするケースはあるよ >>450
徳川家茂は徴収出兵に遠征中、大坂城において慶應2年7月20日に没した
遺体は8月12日に幕府がイギリスから購入した長鯨丸で運ばれることになった
家茂の遺体を乗せた長鯨丸は、9月2日に大阪出航、9月6日、江戸着
9月23日葬儀、江戸の増上寺に埋葬
同様に明治天皇は明治45年7月30日、東京の皇居で崩御
陵墓は京都の伏見桃山御陵に埋葬されることになっていた
9月13日、東京青山の陸軍練習場で明治天皇の大喪(葬式)が執り行われ
同日、明治天皇の棺は専用に造られた国鉄の霊柩車両に乗せられ東京出発、京都着
9月14日に伏見桃山御陵に埋葬された
どちらも亡くなった場所と埋葬場所が離れていて
輸送する船や列車が特注のためすぐには輸送させておらず
遺体は近場に埋葬して後日葬式だけということではない 古代の葬儀だと、殯(もがり)という儀式があるからねえ
とりあえずググれ >>452
明治天皇と徳川家茂の遺体をどうしたかという話なのに完全なスレチ
文盲? まあ偉い人だと「殯宮(もがりのみや)」作っておいてそこに安置だねえ
つまり「臭くなっても大丈夫! 隔離してるし!」みたいな感覚
庶民だと火葬とか塩漬けとかいう直接的な方法に打って出る 723年の三世一身の法である土地を開墾したとして3世代の間
その土地の収穫物は無税になるの? エンバーミングに相当する技術があったんじゃないの知らんけど 明治天皇は亡くなった2週間後に殯宮に移されたが
この殯宮は明治天皇が皇居として用いていた明治宮殿桐の間だった
つまり皇居宮殿の中に大喪まで1か月半の間遺体が安置されていた
(桐の間は明治天皇の皇后・昭憲皇太后が来客を謁見した部屋)
明治御殿は大正天皇、昭和天皇の皇居ともなり
昭和20年、空襲の類焼で焼けるまで皇居として機能していた
匂いがどうだったかは分からない 不平士族の反乱が倒幕に中心的役割を担った藩だったところで起こっているのが面白いね
倒幕して勝ち組になったと思ったら負け組になっちゃった なんで明治の初めの10年間を大久保利通体制っていうんだろ
政府のトップは太政大臣の三条実美だから三条実美体制じゃないの この画像の
一番左列上から二番目の家紋、どこの家か教えていただけませんか?
https://i.imgur.com/lQJspMm.jpg >>451
臭いや液体が漏れないように、棺を何個か重ねたり、その隙間に木炭や朱を詰め込んだりするらしい 殿様が江戸で急死したら、遺体をクニへ持って帰るの? >>465
ありがとうございます
私の先祖がこの家紋を授かって、少し変えて使っていたらしいです
秋田に上杉関連の何かがあったりしませんでしょうか? 上杉の家紋を伊達が授かったと言う逸話は有名ですね
直接授かったかもしれないし伊達の末裔かもしれないし
地域的にも近いので調べたら面白いかもしれませんね >>471
伊達政宗の大叔父(祖父の弟)に当たる伊達実元が上杉定実の養子に入るときに
(実元の祖父植宗の正室が上杉房実の娘。女系で上杉の血を引いている)
引き出物として上杉家から伊達家に与えられたんじゃなかったっけ
ところが定実が伊達家の精鋭を引き抜いて上杉へ同行しようとしたとして
定実の兄晴宗(伊達政宗の祖父)が激怒、定実を幽閉して養子入りを取りやめにしてしまった(後に幽閉は解かれる)
養子入りはなくなったが上杉から貰った紋はそのまま晴宗が使い続けて伊達家の紋にしたとか ありがとうございます
伊達から調べたところ、国分家というのが伊達の名字になって、最終的には秋田藩佐竹家の家臣になったらしいというのが出てきましたが、家紋は全然違いました
情報が少なくて難しいですかね
北海道の開拓に行ってそのまま今も北海道に本家があるらしいのですが 古代から中世ころの平均寿命は30歳代らしいけど、よくこの平均寿命で子孫や文化や仕事の継承ができたなあ
今みたいに高度な文化ではなかったとしても >>463
奇兵隊の末路も反乱を起こして壊滅だからな。
ちなみに松下村塾も門下生は萩の乱を起こしたしな。 >>474
早く死ぬ奴が平均下げてるだけで大半が30代で死ぬわけじゃないからな ほんの数十年前でも、25歳は立派な大人
30歳はおっさん、おばはん
40歳は髪白く薄くもう年寄り
50過ぎるといつ死んでもおかしくない老人という感じだったな
磯野波平なんかはまだ勤めてるから55歳の定年になってない
妻のフネはもっと年下だろうにお婆さんだ
昔の人はあんな感じだった >>474
0歳死亡が多いから平均したら30くらいになる。一人60まで生きても一人0歳で死んだら平均したら30になる。
平均値は30でも中央値は50手前くらい。 >>479
織田信長がいってた人生50年のとおりなんだな 江戸時代って無駄な時代だったのだろうか
参勤交代の負担が重くて経済が停滞してしまったし >>482
参勤交代のお陰で街道が整備され商人は儲かったんだがな
江戸が100万人都市になれたのも
全国の大名が参勤交代で家臣たち連れて江戸に集住
国元にいるときも正室と嫡子の江戸留め置きを命じられていたため
貧しい農家の二男三男は江戸に出れば人並みの生活ができたから 参勤交代がなかったら室町、戦国の世で見たような地方大名の幕府からの離反、戦乱があったやも知れない 結果的に薩長土肥くらいの戦力でひっくり返せるんだものな >>488
戦国時代には結婚して苗字が変わる夫婦同姓の風習は普及してないから、前田の妻の苗字は前田じゃないぞ >>488
天下人の城下町に諸大名集住はもともと豊臣秀吉がはじめたことで
秀吉の聚楽第や伏見城の周辺には各大名屋敷があった
関ケ原の時に諸大名の妻子が秀頼のいる大坂に集住
西軍の人質にされると噂になったのもそのため
前田利長は本来大坂に差し出さなければならない母を
関ケ原前に家康の人質として江戸へ差し出した
前田は豊臣ではなく徳川の家臣であると関ケ原前に表明したことが
関ケ原に大きく関係した なんで安土桃山時代なんだろ
秀吉の本拠地って伏見城より大阪城のイメージだけど >>490
秀吉以前にも、室町幕府ですでに行われているぞ
応仁の乱の終息後から、また明応の政変を期に、などと徐々に京都を離れていっただけで。
いやまあ、九州の大名やら関東・東北の大名は室町時代を通して常に、京都に出向いてないけどな
だから全国の全大名という意味では秀吉が最初かもな >>492
室町時代は管領が幕政を行うために京都常駐を命じられた程度
応仁の乱で勝手に大名が上洛してくるようにはなったが
将軍が諸大名に京都集住を命じたことはない >>491
天下に号令するのは関白として京都から行う
大坂城は豊臣さん家の私的な城として作った
あと、伏見の城跡に桃を植えて桃山と呼ばれるようになったのは明治のことなんだけどね
なぜか安土伏見時代とは言わない 利家の妻まつは12歳で初産し、11人も生んでいる。ただ、個人的には曾祖母が大正から昭和初期にかけて11人出産していたり、高祖母も10人生んでいたりとまつの凄さがよく分からない。
歴史に名の残る人で、もしくは日本人の中で最も多く出産したのは誰で、何人でしょうか?
男の子沢山は一夫多妻ならいくらでもあり得るが、女性は限られてる分同着多数かな。 >>493
命令という形をとってはいないけど、実態として、中部地方から中国四国地方までの大名は全員が在京原則で領地に帰る際には許可をとってたんだが
軍政の建前上、軍事貢献を求められる上、その目的で本営たる幕府のもとに在陣するのが事実上の前提条件だ >>496
それを言ったら鎌倉幕府だってそうだろうw
足利やら主要な御家人たちは領国に住まず鎌倉に屋敷を構えて住んでいた
奈良時代の律令制からして中央官僚を地方に派遣して国司をやらせるが
本邸は京都に構えていて妻子はそこに置いたままだったりしたし 江戸時代、下級武士は馬を持っていませんよね?
馬に乗る練習とかするの? >>494
私的というが、「豊臣氏の根拠地」という意味では京都ではなく大坂だぞ >>500
日本の歴史家は安土「桃山」時代と名付けたんだぞ
(秀吉亡き後はそれこそ大坂城が豊臣氏の根拠地となったが、秀吉が死んだら豊臣時代は実質終わってたと歴史家が見てるんだからしょうがない) >>501
大坂という名前を使いたくない誰かの作為があったとしか思えないな
同時代に存在しなかった桃山という地名を使ったあたり、公正でない意図の存在を疑わざるをえない 伏見の明治天皇陵が桃山御陵と名付けられているのに歴史家が忖度したのかな >>502
大名が服従の証として主筋の大名の城下町に生母を送り込むことを人質という
戦国時代に人質はいなかったといいだしそうだな >>503
秀吉は関白になると京都の聚楽第を本拠地にした
関白を譲って隠居し太閤となってからは京都の伏見城を本拠地にした
豊臣秀吉政権の本拠地はこの2つ
秀吉は天下人となった後の大坂城は豊臣家の支城の一つにすぎず
秀吉がここを主城にしたことはないんだよ
秀吉が死んだあと秀頼が大坂城に移されたことで秀頼の主城にはなったが >>505
まつの話してんのに莫迦じゃねぇーの。抽象的な話にすり替えるな >>507
まつは人質だと言う話をしているのに読めねえの?
文盲だな >>506
伏見や聚楽第って、信長の京都滞留時の逗留場所と大差ない機能しか果たしてなくないか
本拠地と呼ぶのは妥当ではない気がする 秀吉ってなんであんな金持ってたんだろう
やはり臣従するときとか金持ってくもの? まつは人質だと言う話をしていないのに読めねえの?
文盲だな
ageバカ問答 >>510
伏見城は関白豊臣秀吉の居城にしてここより天下に号令を為す
聚楽第は関白豊臣秀次の居所として天下治むる所
秀次を排除した後、次の関白たるべき秀頼のために関白屋敷として京都新城を築く
あくまで京都朝廷の重臣、関白として天下を治めるのである
実際には秀頼は関白となることがなく、京都新城は北政所が住み、秀頼は大坂城に移ったが、後の歴史家はもう大坂時代などという歴史区分を設けはしなかったのである
カワイソな秀頼ちゃん 天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった
一次史料が伝える“通説を根底から覆す”真実とは――
ttp://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309248608/ >>514
それは、その文章を書いた人の意見、解釈にすぎないだろ >>510
秀吉は天下を取ってからはほぼ聚楽第→伏見城に滞在
秀吉はずっと大坂城にいてたまに聚楽第や伏見城に出張していたと思ってる馬鹿が
日本史板にいるんだなあ 桃山という地名は秀吉の時代はなかったんだから安土伏見時代でいいんじゃない 前九年の役・後三年の役もおかしいよな
前九年の役は12年だし後三年の役は5年だし >>519
いや、いちばん長かったのは九州の在陣だろ
長く居たとこが拠点なら伏見じゃなく九州の方じゃないの >>524
秀吉は関白となって政権を執った
関白は定期的に参内する必要があったから
参内可能な京都・聚楽第に基本的にはいた
関白を隠居してからは太閤となってから基本的に住んでいたのは伏見城
醍醐の花見は伏見城から出かけているし秀吉が没したのも伏見城
秀吉は朝鮮出兵の最中に没したから
当時の居城は名護屋城で九州で没したと思ってる人なのか >>518
歴史学者の脇田修先生が20年ほど前に「大坂時代と秀吉」という本を出してます >>440の推しの死が平気なのかについては
だれも回答無し? >>530
「そんなこと考えたことなーい。」ってことだろう。 >>530
悲劇的な死まで込みで推しってことじゃないのか
日本人が好きな大石内蔵助とか源義経とか真田幸村とか
平穏無事に寿命全うだったらそんなに人気でなかっただろうし 実際真田幸村以上の活躍をした上に大坂城に戻って秀頼の介錯を務めた後に自害した
とされる毛利勝永は全然有名じゃないもんなぁ。江戸時代の文人神澤貞幹が「惜しい哉後世、
真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と書き残している。 源義経は大陸に渡って大帝国を築き上げたし,
真田幸村は秀頼とともに加護島に落ちのび太や 秀吉って信長の部下として働いていた時はすごく優秀だったと思うんだけど、なんで天下人になってからは暴走しちゃったんだろ >>536
高度経済成長が永遠に続くと思っていたからだろうな。 >>536
目の前の課題を解決するのに最適解を探してただけだろ
上から頭を押さえつけるヤツの圧力があるときと無いときで最適解は変わるから、制限のない状態で自分なりに最適解を探した結果が暴走になる 遅くなってすいません。
この時期毎回なんですけど
近年ww2にはまってて推しの命日とか
身内でもなんでもないのに勝手に落ち込んでました
>>531
そんなもんなんですね
羨ましいです
>>532 - >>533
言われてみるとなぜか
同じような活躍したけど長生きした人物より
悲劇的な死の人物の方が惹かれますね
不思議です
死んでるからその後の人生の
ドジったり恥ずかしいエピソードが無く美化されやすいのかも?
あと死んでると確実に出会う機会ないので
コミュ症の自分でも絶対安全圏で楽なのかも????
あと毛利勝永さん知らなかった、かわいそう
>>534
死が悲しくなってしまうので
生き延び説とかかなり好きです
その、下らない話だったかもですが
少し相手にして貰えたお陰で落ち着いて来ました
ありがとうございます
あと自己満足かもですが
博物館とか歴史関連施設とかに寄付したら
少しすっきりしました 昔の人は家紋であそこは格好いいとか言う感覚は合ったのでしょうか?
僕の個人的感覚では平氏系の蝶とか伊達の雀辺りが見た目格好いいですが
職人泣かせでも合ったかと思います
なのでゴテゴテしたのは逆に倦厭されてたんじゃないのかとも思ったりします
そう言った家紋についての逸話など無いでしょうか? 前田家当主が鼻毛伸ばしてたエピソードから
現代と同じく鼻毛でてるのNGという文化があったと思うのですが
いつごろからあったのでしょうか? 初書き込み失礼します
東京にある浅草寺についてですが、公式HPや個人サイトによると628年(推古36年)に観音像を供養して〜とあり、そこから歴史が始まったと書いてありますが、 628年といえば大化の改新の前であり、畿内でもそんなにお寺がなかったそんな時期から東国にこんなお寺があったのでしょうか この設立の経緯は「浅草寺縁起」という本に載ってるそうですが、その当時からあるなら、他の歴史書に載っててもおかしくないのに、他のソースがないようです。 偽書と言っては失礼ですが、他に浅草寺について載ってる文書についてご存知の方がいれば教えてください(4レスに渡り失礼しました) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています