【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ ほんの数十年前でも、25歳は立派な大人
30歳はおっさん、おばはん
40歳は髪白く薄くもう年寄り
50過ぎるといつ死んでもおかしくない老人という感じだったな
磯野波平なんかはまだ勤めてるから55歳の定年になってない
妻のフネはもっと年下だろうにお婆さんだ
昔の人はあんな感じだった >>474
0歳死亡が多いから平均したら30くらいになる。一人60まで生きても一人0歳で死んだら平均したら30になる。
平均値は30でも中央値は50手前くらい。 >>479
織田信長がいってた人生50年のとおりなんだな 江戸時代って無駄な時代だったのだろうか
参勤交代の負担が重くて経済が停滞してしまったし >>482
参勤交代のお陰で街道が整備され商人は儲かったんだがな
江戸が100万人都市になれたのも
全国の大名が参勤交代で家臣たち連れて江戸に集住
国元にいるときも正室と嫡子の江戸留め置きを命じられていたため
貧しい農家の二男三男は江戸に出れば人並みの生活ができたから 参勤交代がなかったら室町、戦国の世で見たような地方大名の幕府からの離反、戦乱があったやも知れない 結果的に薩長土肥くらいの戦力でひっくり返せるんだものな >>488
戦国時代には結婚して苗字が変わる夫婦同姓の風習は普及してないから、前田の妻の苗字は前田じゃないぞ >>488
天下人の城下町に諸大名集住はもともと豊臣秀吉がはじめたことで
秀吉の聚楽第や伏見城の周辺には各大名屋敷があった
関ケ原の時に諸大名の妻子が秀頼のいる大坂に集住
西軍の人質にされると噂になったのもそのため
前田利長は本来大坂に差し出さなければならない母を
関ケ原前に家康の人質として江戸へ差し出した
前田は豊臣ではなく徳川の家臣であると関ケ原前に表明したことが
関ケ原に大きく関係した なんで安土桃山時代なんだろ
秀吉の本拠地って伏見城より大阪城のイメージだけど >>490
秀吉以前にも、室町幕府ですでに行われているぞ
応仁の乱の終息後から、また明応の政変を期に、などと徐々に京都を離れていっただけで。
いやまあ、九州の大名やら関東・東北の大名は室町時代を通して常に、京都に出向いてないけどな
だから全国の全大名という意味では秀吉が最初かもな >>492
室町時代は管領が幕政を行うために京都常駐を命じられた程度
応仁の乱で勝手に大名が上洛してくるようにはなったが
将軍が諸大名に京都集住を命じたことはない >>491
天下に号令するのは関白として京都から行う
大坂城は豊臣さん家の私的な城として作った
あと、伏見の城跡に桃を植えて桃山と呼ばれるようになったのは明治のことなんだけどね
なぜか安土伏見時代とは言わない 利家の妻まつは12歳で初産し、11人も生んでいる。ただ、個人的には曾祖母が大正から昭和初期にかけて11人出産していたり、高祖母も10人生んでいたりとまつの凄さがよく分からない。
歴史に名の残る人で、もしくは日本人の中で最も多く出産したのは誰で、何人でしょうか?
男の子沢山は一夫多妻ならいくらでもあり得るが、女性は限られてる分同着多数かな。 >>493
命令という形をとってはいないけど、実態として、中部地方から中国四国地方までの大名は全員が在京原則で領地に帰る際には許可をとってたんだが
軍政の建前上、軍事貢献を求められる上、その目的で本営たる幕府のもとに在陣するのが事実上の前提条件だ >>496
それを言ったら鎌倉幕府だってそうだろうw
足利やら主要な御家人たちは領国に住まず鎌倉に屋敷を構えて住んでいた
奈良時代の律令制からして中央官僚を地方に派遣して国司をやらせるが
本邸は京都に構えていて妻子はそこに置いたままだったりしたし 江戸時代、下級武士は馬を持っていませんよね?
馬に乗る練習とかするの? >>494
私的というが、「豊臣氏の根拠地」という意味では京都ではなく大坂だぞ >>500
日本の歴史家は安土「桃山」時代と名付けたんだぞ
(秀吉亡き後はそれこそ大坂城が豊臣氏の根拠地となったが、秀吉が死んだら豊臣時代は実質終わってたと歴史家が見てるんだからしょうがない) >>501
大坂という名前を使いたくない誰かの作為があったとしか思えないな
同時代に存在しなかった桃山という地名を使ったあたり、公正でない意図の存在を疑わざるをえない 伏見の明治天皇陵が桃山御陵と名付けられているのに歴史家が忖度したのかな >>502
大名が服従の証として主筋の大名の城下町に生母を送り込むことを人質という
戦国時代に人質はいなかったといいだしそうだな >>503
秀吉は関白になると京都の聚楽第を本拠地にした
関白を譲って隠居し太閤となってからは京都の伏見城を本拠地にした
豊臣秀吉政権の本拠地はこの2つ
秀吉は天下人となった後の大坂城は豊臣家の支城の一つにすぎず
秀吉がここを主城にしたことはないんだよ
秀吉が死んだあと秀頼が大坂城に移されたことで秀頼の主城にはなったが >>505
まつの話してんのに莫迦じゃねぇーの。抽象的な話にすり替えるな >>507
まつは人質だと言う話をしているのに読めねえの?
文盲だな >>506
伏見や聚楽第って、信長の京都滞留時の逗留場所と大差ない機能しか果たしてなくないか
本拠地と呼ぶのは妥当ではない気がする 秀吉ってなんであんな金持ってたんだろう
やはり臣従するときとか金持ってくもの? まつは人質だと言う話をしていないのに読めねえの?
文盲だな
ageバカ問答 >>510
伏見城は関白豊臣秀吉の居城にしてここより天下に号令を為す
聚楽第は関白豊臣秀次の居所として天下治むる所
秀次を排除した後、次の関白たるべき秀頼のために関白屋敷として京都新城を築く
あくまで京都朝廷の重臣、関白として天下を治めるのである
実際には秀頼は関白となることがなく、京都新城は北政所が住み、秀頼は大坂城に移ったが、後の歴史家はもう大坂時代などという歴史区分を設けはしなかったのである
カワイソな秀頼ちゃん 天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった
一次史料が伝える“通説を根底から覆す”真実とは――
ttp://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309248608/ >>514
それは、その文章を書いた人の意見、解釈にすぎないだろ >>510
秀吉は天下を取ってからはほぼ聚楽第→伏見城に滞在
秀吉はずっと大坂城にいてたまに聚楽第や伏見城に出張していたと思ってる馬鹿が
日本史板にいるんだなあ 桃山という地名は秀吉の時代はなかったんだから安土伏見時代でいいんじゃない 前九年の役・後三年の役もおかしいよな
前九年の役は12年だし後三年の役は5年だし >>519
いや、いちばん長かったのは九州の在陣だろ
長く居たとこが拠点なら伏見じゃなく九州の方じゃないの >>524
秀吉は関白となって政権を執った
関白は定期的に参内する必要があったから
参内可能な京都・聚楽第に基本的にはいた
関白を隠居してからは太閤となってから基本的に住んでいたのは伏見城
醍醐の花見は伏見城から出かけているし秀吉が没したのも伏見城
秀吉は朝鮮出兵の最中に没したから
当時の居城は名護屋城で九州で没したと思ってる人なのか >>518
歴史学者の脇田修先生が20年ほど前に「大坂時代と秀吉」という本を出してます >>440の推しの死が平気なのかについては
だれも回答無し? >>530
「そんなこと考えたことなーい。」ってことだろう。 >>530
悲劇的な死まで込みで推しってことじゃないのか
日本人が好きな大石内蔵助とか源義経とか真田幸村とか
平穏無事に寿命全うだったらそんなに人気でなかっただろうし 実際真田幸村以上の活躍をした上に大坂城に戻って秀頼の介錯を務めた後に自害した
とされる毛利勝永は全然有名じゃないもんなぁ。江戸時代の文人神澤貞幹が「惜しい哉後世、
真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と書き残している。 源義経は大陸に渡って大帝国を築き上げたし,
真田幸村は秀頼とともに加護島に落ちのび太や 秀吉って信長の部下として働いていた時はすごく優秀だったと思うんだけど、なんで天下人になってからは暴走しちゃったんだろ >>536
高度経済成長が永遠に続くと思っていたからだろうな。 >>536
目の前の課題を解決するのに最適解を探してただけだろ
上から頭を押さえつけるヤツの圧力があるときと無いときで最適解は変わるから、制限のない状態で自分なりに最適解を探した結果が暴走になる 遅くなってすいません。
この時期毎回なんですけど
近年ww2にはまってて推しの命日とか
身内でもなんでもないのに勝手に落ち込んでました
>>531
そんなもんなんですね
羨ましいです
>>532 - >>533
言われてみるとなぜか
同じような活躍したけど長生きした人物より
悲劇的な死の人物の方が惹かれますね
不思議です
死んでるからその後の人生の
ドジったり恥ずかしいエピソードが無く美化されやすいのかも?
あと死んでると確実に出会う機会ないので
コミュ症の自分でも絶対安全圏で楽なのかも????
あと毛利勝永さん知らなかった、かわいそう
>>534
死が悲しくなってしまうので
生き延び説とかかなり好きです
その、下らない話だったかもですが
少し相手にして貰えたお陰で落ち着いて来ました
ありがとうございます
あと自己満足かもですが
博物館とか歴史関連施設とかに寄付したら
少しすっきりしました 昔の人は家紋であそこは格好いいとか言う感覚は合ったのでしょうか?
僕の個人的感覚では平氏系の蝶とか伊達の雀辺りが見た目格好いいですが
職人泣かせでも合ったかと思います
なのでゴテゴテしたのは逆に倦厭されてたんじゃないのかとも思ったりします
そう言った家紋についての逸話など無いでしょうか? 前田家当主が鼻毛伸ばしてたエピソードから
現代と同じく鼻毛でてるのNGという文化があったと思うのですが
いつごろからあったのでしょうか? 初書き込み失礼します
東京にある浅草寺についてですが、公式HPや個人サイトによると628年(推古36年)に観音像を供養して〜とあり、そこから歴史が始まったと書いてありますが、 628年といえば大化の改新の前であり、畿内でもそんなにお寺がなかったそんな時期から東国にこんなお寺があったのでしょうか この設立の経緯は「浅草寺縁起」という本に載ってるそうですが、その当時からあるなら、他の歴史書に載っててもおかしくないのに、他のソースがないようです。 偽書と言っては失礼ですが、他に浅草寺について載ってる文書についてご存知の方がいれば教えてください(4レスに渡り失礼しました) 四天王寺の縁起ですら偽書の疑いが強いってのに浅草寺の縁起がホンモノの可能性なんてゼロに近いだろ
ちなみに四天王寺の縁起は平安時代に偽作されたものっぽい 隅田川で漁師の網にかかった観音像が浅草寺本尊の聖観音‥なんてどうみても同時代の実録じゃないよね
寺の縁起なんてのはできあがったときからもう昔語りなんでしょ
浅草寺の本尊は5cm余りの金銅仏だというけど、秘仏として全く公開されていないというのもアヤシい‥ >畿内でもそんなにお寺がなかったそんな時期から東国にこんなお寺があったのでしょうか
寺じゃないが『延喜式神名帳』をみると東国にもそれなりに神社はあった
>浅草寺について載ってる文書についてご存知の方がいれば教えて
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称しているから、そっちで調べてみれば?
wikiによると浅草神社は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている。 >>540
すっきりしたんならとりあえずよかった。
>>541
伊達の「竹に雀」は越後(新潟県)の上杉氏から養子に入る引き出物としてもらったものだけど、
養子の話を反故にした上で家紋はそのまま使っている。ちょっと悪辣。やっぱりかっこいいと思ったんだろうね。
>>544
北関東から南東北に仏教を布教したのは空海や最澄と同時代の徳一と言われてます。 大規模な布教はなくても、仏教を信仰している集団が移住して、自分達のためだけの小規模寺院を作っていた可能性は古墳時代や奈良時代にも十分あると思う >>550
浅草寺の実在が明らかなのは鎌倉時代頃から
それ以前のことに関しては眉唾 とはいえ、もっとも古い鎌倉時代の時点ですでに大きな寺に発展したあとな訳で、遅くとも平安時代のうちには創建されていたのではないかとは思える
記録がないので空想しかできないだけだ 日本が直接当事国になったというのもあるけど、第二次世界大戦は世界史における現時点での
最後の世界大戦だし、人類史上初めて原子爆弾も使われたし、文字通り世界を舞台にして
行われたし、世界史の画期的トピックだと思っている
しかし、一部の歴史家などの間では第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の方が扱いが上というか、
世界史の画期的トピックになっている面がある
自分的には信じられない
みなさんはどう思われますか? 信じられないもなにも、一次大戦で戦争と世界が大きく変わったのは事実なんだから仕方ない 日本は第一次世界大戦でドイツ領植民地への攻撃をはじめとして限定的にしか参加してないけど、ヨーロッパ諸国は第二次大戦時の日本と同等ぐらいの惨禍を受けてるんだよ
ちなみに第二次大戦時の被害規模でも日本は上位に食い込めない程度だぞ
上位はドイツフランスとソ連ぐらいだろうか(あと、東ヨーロッパに多かった非占領地の国々とか フランスは国土全体が戦場になってないから60万程度だよ。日本が断トツで上位
日本以上の被害国はドイツ・ロシア・ポーランドと戦争責任国いの一番やからね 日本のお城は何故、
戦艦大和や武蔵みたいな主砲や副砲を
装備しなかったんですか?
(´・ω・`) 規模はさておき二番手が一番手に勝つことは無い
トピックとして“初”の意味は大きいから >>561
その理屈もわかるんだけど、同時に第二次は最後の大戦って側面もあり、現在の国際社会の大枠を成したという点で画期だとおもうんだがね
あとはやっぱり人類史初の原子爆弾っていうのも大きい その前に機械化で戦場を一変させ、死傷者数を飛躍的に増加させたのが一次大戦
二次大戦はその延長上にある 本土決戦となったらやはり日本はサリンとか使いまくってたのでしょうか? 第一次の時に最初の「大量破壊兵器 」毒ガスが使われてるし いや、せいぜい竹槍
あと自決
親に尋ねたら民族の滅亡を覚悟していたというけど、流石に政府が戦争やめたでしょう
ドイツも市民、子供が使えるロケット砲まで用意したけど、そこまではさすがに行かなかった ドイツって第一次も第二次もボロカス負けたのに、戦後すぐに経済大国2位になったし、日本に抜かれてからも長く3位
だったから凄くね?って聞いたら、ドイツは他国に攻め込んでて負けたから、国内はそんなに被害受けてないって
言われたんだけど、どうなんでしょう?
ここではドイツの被害でかかったって書かれていたけど ベルリンがドイツの東の方だからソ連に蹂躙された範囲は狭かったと思われ 植民地というお荷物がなかったから
ベルリンから東の方をポーランドに割譲され,ドイツ国の範囲が狭まり人口密度が… NHK-BSの海外ドキュメンタリー番組でやってたな
敗戦で失った東方領土から本国へバッグ下げて徒歩で戻るドイツ人達
それを捕まえて道端で射殺する、恨み骨髄の地元民 摂家の九条家は邸宅が九条にあったから家名が九条家になりましたが
どうしてそんなに御所から離れた場所に邸宅を構えたのですか? >>560
大砲は装備してたが明治維新後に撤去された、のだと思う
少なくとも、大砲と鉄砲を使うことを前提として作られてる >>572
御所の近くは車が使えないとか、不便があったらしいです。 天草四郎の肖像画とか絵本の桃太郎みたいな髪型の名前の名称がわかりません
前髪をたらしたポニーテールで月代を剃っているのはなんというのでしょうか? >>575
若衆髷(わかしゅまげ)
元服前の男の子の髪型
女性も真似て結うことがあった
元服で前髪を落とす ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています