【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・質問が続くようでしたら,「名前」欄に「最初の質問のレス番号数字」を入れることをお奨めします。
・ここは日本史板なので,沖縄史は対象として不可です。
・このスレでは過度な論争は自粛してください。政治的な主張の場ではありません。
・煽り質問もままあります。スルーしてください。
前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ >>501
大坂という名前を使いたくない誰かの作為があったとしか思えないな
同時代に存在しなかった桃山という地名を使ったあたり、公正でない意図の存在を疑わざるをえない 伏見の明治天皇陵が桃山御陵と名付けられているのに歴史家が忖度したのかな >>502
大名が服従の証として主筋の大名の城下町に生母を送り込むことを人質という
戦国時代に人質はいなかったといいだしそうだな >>503
秀吉は関白になると京都の聚楽第を本拠地にした
関白を譲って隠居し太閤となってからは京都の伏見城を本拠地にした
豊臣秀吉政権の本拠地はこの2つ
秀吉は天下人となった後の大坂城は豊臣家の支城の一つにすぎず
秀吉がここを主城にしたことはないんだよ
秀吉が死んだあと秀頼が大坂城に移されたことで秀頼の主城にはなったが >>505
まつの話してんのに莫迦じゃねぇーの。抽象的な話にすり替えるな >>507
まつは人質だと言う話をしているのに読めねえの?
文盲だな >>506
伏見や聚楽第って、信長の京都滞留時の逗留場所と大差ない機能しか果たしてなくないか
本拠地と呼ぶのは妥当ではない気がする 秀吉ってなんであんな金持ってたんだろう
やはり臣従するときとか金持ってくもの? まつは人質だと言う話をしていないのに読めねえの?
文盲だな
ageバカ問答 >>510
伏見城は関白豊臣秀吉の居城にしてここより天下に号令を為す
聚楽第は関白豊臣秀次の居所として天下治むる所
秀次を排除した後、次の関白たるべき秀頼のために関白屋敷として京都新城を築く
あくまで京都朝廷の重臣、関白として天下を治めるのである
実際には秀頼は関白となることがなく、京都新城は北政所が住み、秀頼は大坂城に移ったが、後の歴史家はもう大坂時代などという歴史区分を設けはしなかったのである
カワイソな秀頼ちゃん 天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった
一次史料が伝える“通説を根底から覆す”真実とは――
ttp://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309248608/ >>514
それは、その文章を書いた人の意見、解釈にすぎないだろ >>510
秀吉は天下を取ってからはほぼ聚楽第→伏見城に滞在
秀吉はずっと大坂城にいてたまに聚楽第や伏見城に出張していたと思ってる馬鹿が
日本史板にいるんだなあ 桃山という地名は秀吉の時代はなかったんだから安土伏見時代でいいんじゃない 前九年の役・後三年の役もおかしいよな
前九年の役は12年だし後三年の役は5年だし >>519
いや、いちばん長かったのは九州の在陣だろ
長く居たとこが拠点なら伏見じゃなく九州の方じゃないの >>524
秀吉は関白となって政権を執った
関白は定期的に参内する必要があったから
参内可能な京都・聚楽第に基本的にはいた
関白を隠居してからは太閤となってから基本的に住んでいたのは伏見城
醍醐の花見は伏見城から出かけているし秀吉が没したのも伏見城
秀吉は朝鮮出兵の最中に没したから
当時の居城は名護屋城で九州で没したと思ってる人なのか >>518
歴史学者の脇田修先生が20年ほど前に「大坂時代と秀吉」という本を出してます >>440の推しの死が平気なのかについては
だれも回答無し? >>530
「そんなこと考えたことなーい。」ってことだろう。 >>530
悲劇的な死まで込みで推しってことじゃないのか
日本人が好きな大石内蔵助とか源義経とか真田幸村とか
平穏無事に寿命全うだったらそんなに人気でなかっただろうし 実際真田幸村以上の活躍をした上に大坂城に戻って秀頼の介錯を務めた後に自害した
とされる毛利勝永は全然有名じゃないもんなぁ。江戸時代の文人神澤貞幹が「惜しい哉後世、
真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と書き残している。 源義経は大陸に渡って大帝国を築き上げたし,
真田幸村は秀頼とともに加護島に落ちのび太や 秀吉って信長の部下として働いていた時はすごく優秀だったと思うんだけど、なんで天下人になってからは暴走しちゃったんだろ >>536
高度経済成長が永遠に続くと思っていたからだろうな。 >>536
目の前の課題を解決するのに最適解を探してただけだろ
上から頭を押さえつけるヤツの圧力があるときと無いときで最適解は変わるから、制限のない状態で自分なりに最適解を探した結果が暴走になる 遅くなってすいません。
この時期毎回なんですけど
近年ww2にはまってて推しの命日とか
身内でもなんでもないのに勝手に落ち込んでました
>>531
そんなもんなんですね
羨ましいです
>>532 - >>533
言われてみるとなぜか
同じような活躍したけど長生きした人物より
悲劇的な死の人物の方が惹かれますね
不思議です
死んでるからその後の人生の
ドジったり恥ずかしいエピソードが無く美化されやすいのかも?
あと死んでると確実に出会う機会ないので
コミュ症の自分でも絶対安全圏で楽なのかも????
あと毛利勝永さん知らなかった、かわいそう
>>534
死が悲しくなってしまうので
生き延び説とかかなり好きです
その、下らない話だったかもですが
少し相手にして貰えたお陰で落ち着いて来ました
ありがとうございます
あと自己満足かもですが
博物館とか歴史関連施設とかに寄付したら
少しすっきりしました 昔の人は家紋であそこは格好いいとか言う感覚は合ったのでしょうか?
僕の個人的感覚では平氏系の蝶とか伊達の雀辺りが見た目格好いいですが
職人泣かせでも合ったかと思います
なのでゴテゴテしたのは逆に倦厭されてたんじゃないのかとも思ったりします
そう言った家紋についての逸話など無いでしょうか? 前田家当主が鼻毛伸ばしてたエピソードから
現代と同じく鼻毛でてるのNGという文化があったと思うのですが
いつごろからあったのでしょうか? 初書き込み失礼します
東京にある浅草寺についてですが、公式HPや個人サイトによると628年(推古36年)に観音像を供養して〜とあり、そこから歴史が始まったと書いてありますが、 628年といえば大化の改新の前であり、畿内でもそんなにお寺がなかったそんな時期から東国にこんなお寺があったのでしょうか この設立の経緯は「浅草寺縁起」という本に載ってるそうですが、その当時からあるなら、他の歴史書に載っててもおかしくないのに、他のソースがないようです。 偽書と言っては失礼ですが、他に浅草寺について載ってる文書についてご存知の方がいれば教えてください(4レスに渡り失礼しました) 四天王寺の縁起ですら偽書の疑いが強いってのに浅草寺の縁起がホンモノの可能性なんてゼロに近いだろ
ちなみに四天王寺の縁起は平安時代に偽作されたものっぽい 隅田川で漁師の網にかかった観音像が浅草寺本尊の聖観音‥なんてどうみても同時代の実録じゃないよね
寺の縁起なんてのはできあがったときからもう昔語りなんでしょ
浅草寺の本尊は5cm余りの金銅仏だというけど、秘仏として全く公開されていないというのもアヤシい‥ >畿内でもそんなにお寺がなかったそんな時期から東国にこんなお寺があったのでしょうか
寺じゃないが『延喜式神名帳』をみると東国にもそれなりに神社はあった
>浅草寺について載ってる文書についてご存知の方がいれば教えて
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称しているから、そっちで調べてみれば?
wikiによると浅草神社は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている。 >>540
すっきりしたんならとりあえずよかった。
>>541
伊達の「竹に雀」は越後(新潟県)の上杉氏から養子に入る引き出物としてもらったものだけど、
養子の話を反故にした上で家紋はそのまま使っている。ちょっと悪辣。やっぱりかっこいいと思ったんだろうね。
>>544
北関東から南東北に仏教を布教したのは空海や最澄と同時代の徳一と言われてます。 大規模な布教はなくても、仏教を信仰している集団が移住して、自分達のためだけの小規模寺院を作っていた可能性は古墳時代や奈良時代にも十分あると思う >>550
浅草寺の実在が明らかなのは鎌倉時代頃から
それ以前のことに関しては眉唾 とはいえ、もっとも古い鎌倉時代の時点ですでに大きな寺に発展したあとな訳で、遅くとも平安時代のうちには創建されていたのではないかとは思える
記録がないので空想しかできないだけだ 日本が直接当事国になったというのもあるけど、第二次世界大戦は世界史における現時点での
最後の世界大戦だし、人類史上初めて原子爆弾も使われたし、文字通り世界を舞台にして
行われたし、世界史の画期的トピックだと思っている
しかし、一部の歴史家などの間では第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の方が扱いが上というか、
世界史の画期的トピックになっている面がある
自分的には信じられない
みなさんはどう思われますか? 信じられないもなにも、一次大戦で戦争と世界が大きく変わったのは事実なんだから仕方ない 日本は第一次世界大戦でドイツ領植民地への攻撃をはじめとして限定的にしか参加してないけど、ヨーロッパ諸国は第二次大戦時の日本と同等ぐらいの惨禍を受けてるんだよ
ちなみに第二次大戦時の被害規模でも日本は上位に食い込めない程度だぞ
上位はドイツフランスとソ連ぐらいだろうか(あと、東ヨーロッパに多かった非占領地の国々とか フランスは国土全体が戦場になってないから60万程度だよ。日本が断トツで上位
日本以上の被害国はドイツ・ロシア・ポーランドと戦争責任国いの一番やからね 日本のお城は何故、
戦艦大和や武蔵みたいな主砲や副砲を
装備しなかったんですか?
(´・ω・`) 規模はさておき二番手が一番手に勝つことは無い
トピックとして“初”の意味は大きいから >>561
その理屈もわかるんだけど、同時に第二次は最後の大戦って側面もあり、現在の国際社会の大枠を成したという点で画期だとおもうんだがね
あとはやっぱり人類史初の原子爆弾っていうのも大きい その前に機械化で戦場を一変させ、死傷者数を飛躍的に増加させたのが一次大戦
二次大戦はその延長上にある 本土決戦となったらやはり日本はサリンとか使いまくってたのでしょうか? 第一次の時に最初の「大量破壊兵器 」毒ガスが使われてるし いや、せいぜい竹槍
あと自決
親に尋ねたら民族の滅亡を覚悟していたというけど、流石に政府が戦争やめたでしょう
ドイツも市民、子供が使えるロケット砲まで用意したけど、そこまではさすがに行かなかった ドイツって第一次も第二次もボロカス負けたのに、戦後すぐに経済大国2位になったし、日本に抜かれてからも長く3位
だったから凄くね?って聞いたら、ドイツは他国に攻め込んでて負けたから、国内はそんなに被害受けてないって
言われたんだけど、どうなんでしょう?
ここではドイツの被害でかかったって書かれていたけど ベルリンがドイツの東の方だからソ連に蹂躙された範囲は狭かったと思われ 植民地というお荷物がなかったから
ベルリンから東の方をポーランドに割譲され,ドイツ国の範囲が狭まり人口密度が… NHK-BSの海外ドキュメンタリー番組でやってたな
敗戦で失った東方領土から本国へバッグ下げて徒歩で戻るドイツ人達
それを捕まえて道端で射殺する、恨み骨髄の地元民 摂家の九条家は邸宅が九条にあったから家名が九条家になりましたが
どうしてそんなに御所から離れた場所に邸宅を構えたのですか? >>560
大砲は装備してたが明治維新後に撤去された、のだと思う
少なくとも、大砲と鉄砲を使うことを前提として作られてる >>572
御所の近くは車が使えないとか、不便があったらしいです。 天草四郎の肖像画とか絵本の桃太郎みたいな髪型の名前の名称がわかりません
前髪をたらしたポニーテールで月代を剃っているのはなんというのでしょうか? >>575
若衆髷(わかしゅまげ)
元服前の男の子の髪型
女性も真似て結うことがあった
元服で前髪を落とす >>576
ありがとうございます
若衆髷で検索して出てくるのが前髪を垂らさずにオールバックにして
後ろもポニテでなくちょんまげにしてるのばかりだったのですが
あれも若衆髷だったんですね 若衆髷と言うとやはり前髪を後ろへという江戸期のアレなんだろう
それより古くて単純な髪は‥よく「前髪垂らした」という極く簡単な、名前もないものかも知れない
とにかく元服前は前髪があるというだけの‥‥ 天草像は昭和4年だけど江戸の浮世絵であの髪型ある? >>572
平安京ができてから平安末期になるまでに人口が増えたため
貴族の邸宅街だった二条〜三条には大邸宅を新築する場所がなかったこと
鴨川の治水工事により東側の土地が広がったことです
後白河法皇の法住寺殿は鴨川東七条末にありましたし
大富豪だった八条女院の御殿・八条殿はその名の通り八条にありました
平安末期の大邸宅は七条〜九条に新造されていったのです
>>574
御所の中は車に乗れないし(天皇から手車宣旨を受けた人のみ人力の車可)
御所の門までは何で来てもいい
「大鏡」には当時三条(東三条殿)に住んでいた藤原兼家が兄が死にそうだと聞いて
円融天皇に自分を関白にしてもらうため急いで牛車を走らせる様子が出てくる 大正時代には年間2000人もの50歳以上の出産があったと聞きました。
自然分娩しか無い時代に、50歳以上の妊娠と言うのは不可解です。ましてや大正時代の50代って今の感覚よりかなり老けているはず。
これって、未婚の娘が何らかの事情で出産した場合に娘が傷物になって将来に影響が出ることを気にした親が自分の子だと偽って届け出たんじゃないかと邪推しています。
皆さんの見解はいかがでしょうか?
当時の平均寿命を超えた婆さんが妊娠なんてあり得ないでしょう。また、男性も婆さんに欲情しないでしょう。 排卵の数が決まってるんだから初潮が遅ければ閉経も遅いんですよ 男の精も発射数が決まっていて、最後にはポンと赤い玉が出て終わり
そういう話があったな 各人が生まれつき持っている卵子の数は万余におよぶ
毎月一回の排卵で千年分近く、誰もが持っているわけ
実際には三十数年ぐらい?で終わるけど、ほとんど使ってないんだよ。余力だらけ >>583
赤ん坊を養子にもらうのに、戸籍の受付がザルなので実子として虚偽の届けを出すことも多かったと聞きます 今は出生届に医師の出生証明書を添付するが、昔は自宅で勝手に出産していたので証明書なんかない
実際とは違う届け出をしてもバレない わざわざ嘘を書く理由って何だろ?
やっぱり>>583に書いたような事情? 簡単にいえば、世間体だろ
江戸時代末期の伏見宮家では、当主の跡継ぎが家女房に手を出しまくって、
生まれた子供たちは祖父の子供(実父のきょうだい)として披露されて育てられた 令和になって3か月が経っています。
令和は万葉集から採用した文字でして、この万葉集は現存する日本最古の歌集。
「現存する日本最古の歌集」だったら、現存しないという事なら更に古い歌集というものもあったのですか? 枕詞というのはそれ以前に歌われた歌へのオマージュだから
万葉集の歌に枕詞があるという事はそれ以前に沢山歌があったという事だよ 万葉集自体、元は大伴家持の個人コレクションだからな。
おそらく他の人の個人コレクションもあったのでないの? 柿本人麻呂歌集や山上憶良の類聚歌林は現存しませんが、万葉集の素材となったようです 欽明の頃には大伴氏は移民担当というより総理大臣的ポジションだな
この大伴金村が葛城氏や蘇我氏などの権力者のうち、実在っぽいなかでの最初だと思う
それより以前の武内氏とか、架空っぽいしな 戦の時、進軍途中の街道から離れた山の上の城とかをわざわざ落とす意味は何ですか?放っておいて後ろから挟撃されるのを防ぐため? 荷だ隊とかの戦闘力のない部隊を攻撃される恐れもあるから放置できないでしょ
とはいえ、必ず攻め落とされると限ったものではない。
桶狭間の戦いの折り、三河西部の刈谷城だったかな、水野氏は織田方だけど攻め落とされてないでしょ
降伏勧告・開城交渉してたかもしれないけど。 基本正面の敵に当たる布陣で進むからね横から背後から突かれると脆い
奇襲は混乱する恐れもある
三方ヶ原の合戦で武田は家康をおびき出してちゃんと正面で当たるように布陣していたと思われ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています