【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 自己紹介乙。“アスペ”しか言葉を知らない人なんだろうなぁ
ここは議論スレではなく質問スレです >>780
高校でも習ったかな?
歴史は得意だったが記憶がないわ
中学歴史では出てこなかった
でも、仏教習うなら神仏習合は出さなきゃって思う 断言した割には記憶は曖昧とかw
いい加減だな、おいw 神道を宗教として指定した占領軍の命令のことですね。
これが仏教勢力による神道弾圧の嚆矢となった。言い換えれば純日本文化の排斥 GHQの行なった様々な改革の中でも神道指令はなぜか影が薄い GHQの行なった様々な改革の中でも神道指令はなぜか影が薄い >>785
明治大正期の神道は明治以後に新造された伝統的でない宗教要素の方が大半なんだけど、どこをどうみたら純日本なんだよ では。慶應以前の神道は純日本文化と認めますね?
実際は聖明王・厩戸皇子以来穢されて来ましたが,隔離宣告を受けたということです 自分はそこまで思わないけど、一部では国家神道が日本人を戦争へ駆り立てた、
あるいは国家が国民を戦争へ駆り立てるのに神道を利用した、なんていうことを
言う学者や政治家もいるやん
そういうことも含めて、近代日本にとって国家神道、並びに国家神道の解体を
指示した神道指令って重要なトピックだと思うのだけどね
さらに言うと、国内世論を分断し、外交問題にも発展することもある靖國問題
良い、悪いの価値判断はしないけど、純粋に問題としてある
古代や中世とは違い、近代においては仏教よりも神道の方が重要度高い気がする
しかし、相変わらず神道は影が薄いし、存在感が低い 神道自体は清いのにそれを汚れた奴らが悪用するんだよね
そろそろ天誅が下るんじゃね?どっかから キリスト教が欧米人を戦争に駆り立てたレベルにも国家神道は達していなかったよ
徴兵制はフランス革命の産物だし,利用というか… 日本の文化を守るためだろ
どこの国でも同じだが,日本ではその要素は薄い 神道政治連盟ってあるけど
政治に利用しようとする人は国賊だわ >>792
戦争に駆り立てたのは神道だけじゃなく仏教もだが >>796
実態はわからないけど、いま、仏教が日本人を戦争へ駆り立てたっていう学者や政治家っていなくない?
あくまで太平洋戦争の想定だけど
そういえば日蓮系は血盟団事件とかあったね 駆り立てるとまではいかないが、かなり戦争協力をしてたのはたしか あの時代に戦争協力しなかった団体や組織なんてあんのかね 神道だって戦争に対して組織的活動をして協力したわけじゃないだろ
現人神思想、神国思想といった、神道から派生した思想が
戦争にいたる過程に大きな影響を与えたのは事実だろうけど 靖國のA級戦犯合祀の問題も、いまはまだ現代史、あるいは社会問題だけど、このまま時代が下れば歴史的史実、歴史的トピックとかになっていくのだろうか?
それともそこまでいかないか
大きな問題なのか、そこまでいうほど大きな問題ではないのか、よくわからん 戦前の陸軍軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長の序列ってどうなっていたのですか?
また、軍令部の総長ってことで軍令部総長だと思うのですが、参謀本部の総長は
参謀本部総長ではなくて参謀総長なのはどうしてですか? 陸軍の方がエラい、軍の根幹を為すと言うのが多くの国で普通だったが、日本海軍はとてもそんなことは認めなかった そのせいで、海軍が活躍できる戦争様態を求めて対米戦争に手を出したのではないかと疑う余地が少し。 ありがとうございます
>>802の後半もよろしくお願いします 陸軍参謀総長と海軍軍令部長(後に軍令部総長)とは対等
日本でも陸軍が圧倒的に規模が大きいため最初は陸軍参謀本部しかなかった
対等の地位を求め続ける海軍はすぐに海軍参謀本部を設け、軍令部と名を変えた >>806
参謀本部総長と軍令部総長
あるいは
参謀総長と軍令総長
なら対応した敬称で座りがいいと思ったんだけど 陸海で対抗心燃やしてるから、対応がどうのこうのは後回し それだけ対抗心が強かったのは、薩長の藩閥意識のせい?
陸軍=長州
海軍=薩摩だっけかな 違う
陸(東條)も海(米内)も岩手県が仕切ってた。反長州の怨念 己れの省益を図るのは昔も今も同じだが、陸海が互いになぁなぁでやるほど海軍の方に余裕がなかっただろう
規模からみて陸軍の方が主で海軍が従なのは、日本でも免れなかった所
太平洋戦争終結に至るまで、戦力の統一強化のための陸海統合、海軍消滅の危機はずっとあった 維新三傑の二人が薩摩藩だったのに、明治以降長州藩が上手いこと牛耳っちゃったよね
現代から見れば、薩長というよりも長薩じゃない? >>813
でも、その西郷を討って、初代の内務卿として明治国家のグランドデザインを敷いたのも
薩摩藩の大久保
その後が続かずに長州藩にしてやられたって感じなのかな 大久保が暗殺された時点で後継者はどうなってたんだろうなぁ? 長州藩の伊藤博文が初代内閣総理大臣、同じく長州藩の山県有朋が軍部のトップに
座ったのが大きいのかな 文化史について質問です。
テレビでは、江戸時代は平和が長く続いたので、庶民文化が花開いたとテンプレートのように良く言われますが、
そもそも日本は源平と元寇と応仁と戦国時代以外は一部の紛争除いて概ね平和かと思います。
一部の紛争なら江戸時代にもありましたし。
江戸時代以外の大半の平和な時代には庶民文化は花開いて無いのでしょうか? 意外とそうでもないんだよ
平安時代後半から室町時代まで(戦国時代も含む)は、地方では小規模な戦いが日常的に起きてるといっていい 庶民レベルが違った。平安時代は清少納言等の宮廷文化が栄えたから 冷蔵庫と洗濯機の普及が女性を家事から解放した。と言われている。
その日暮らしで一日を終える庶民が一定の文化に親しむためには、市の存在と貨幣経済の発展を待たねばならなかった。
鎌倉期から緩やかに広まっていった貨幣が農村に浸透し、必要なものを、必要な時に手に入れられる生活の余裕ができてこそ、
庶民は文化的な生活をおくれるのである。
鎌倉期に萌芽がみられる庶民文化が花開く室町期まで、この国の庶民には文化を顧みる余裕がなかった。 石川県にある気多大社の歴史として、奈良時代に歌人大伴家持が参詣したとのことですが、
当時は社殿などはなく、岩か木かわかりませんが自然物の磐座があったということですよね?
当時の有名(有力)神社の境内ってどんな状態だったのでしょうか?
何もないところにポツンと磐座だけがあったのですか?
社殿はないはずですが、それなりに整備されてきちんとした状態だったんでしょうか? 仁徳天皇陵などに拝むための簡素な鳥居だけしつらえてあるけれど、昔の雰囲気を出しているのかな
八幡さまは名のとおり、やはた(多くの旗)で飾り付けてあったのかしら 神社に社殿が建てられるようになったのは仏教の影響であり、当然仏教よりも遅れ、
平安時代の途中〜鎌倉時代くらいからって話を聞いたことがある
でも確か、出雲大社には古代から現在の本殿をも上回る高さの神殿があったんじゃなかったっけ?
古代っていうのが具体的にいつ頃なのか知らないけど 出雲大社に本殿が作られるようになったのがいつかってのは知らんけど、古代から中世への移行は平安時代の半ばか後半ぐらいだぞ
その辺から作られ出したんだとしても古代から云々ってのはウソではない
んで、そのへんの由緒とか創建譚とかには後代の創作が多いもんだから、神社の自称を鵜呑みにできないんだよね >>826
出雲大社の社殿の高さは平安時代の歌にも詠まれていたから史実だろ
神社の社殿が普及したのが平安時代〜鎌倉時代ってだけで、一部の有力神社とか、早いところはもっと早かったんじゃないの? 徳川家康の家臣で武田攻めののち敵将の娘を家康に黙って嫁? 妾にした人って誰でしたでしょうか 良雲院(りょううんいん、生年不明 - 寛永14年3月12日(1637年4月7日))は、徳川家康の側室。父は武田家の旧臣である市川昌永とされる。 武田滅亡より2年ほど前にすでに家康の子を産んでる人は「武田攻めののちに嫁になった」との条件に合わないから別人ですね 今後、後付けでドンドン条件を増やしていく予定です。 最初の質問の時点で「武田攻めののち」って明記してるのを読み落としてるんじゃないか?
それを横レスで指摘したら、後付けで条件云々とか 家康が武田を攻めたのは長い生涯で一度だけ!
誰でも知ってることだよなw 違うぞ
もともと織田と武田の同盟が続いてた中で徳川が武田と争い出した、武田に攻勢をかけたのが最初だ
当初は信玄から信長に向けて徳川の武田攻撃を止めるよう求める手紙を送ったりしてたが、埒があかなかったので義昭の求めに応じて織田に攻撃しようとした
それ以後も何度も国境紛争をし続けてたぞ、攻められることも多かったが反攻も繰り返してた 確実なのは、過疎スレで、
「武田攻め」と言えば天正10年
と、思い込んでいるのが、
質問者と、横レス云々と称している二人もいることだな。
フシギナグウゼンだなー(棒読み) 質問は曖昧で年も書いてなかったのに,思い込んでいると何故思い込んだの?
「のち」すぎるが滝川一積(真田太平記)は? 詭弁の特徴のガイドラインに、知能障害を起こすというのがあったね。 >>834
長篠は侵攻じゃなく防衛戦だろ、「武田攻め」には含められないと思うが 白村江は侵攻じゃなく防衛戦だろ、朝鮮人なら知ってることだよなw
「武田攻め」と言えば天正10年
「武田攻め」と言えば侵攻 松下村塾周りについて質問です。
明治維新発生の地であり、
要はこれからの国のあり方について議論してた場と理解しますが、
都からも遠いあの地が国家天下を語る場になった背景は何なのでしょうか? 大内義興が管領代になった太古から毛利氏が受け継いだから
高杉晋作の地縁繋がり 三百諸侯があって各地で世の行く末、藩の行く末について議論があったと思うが
江戸時代も押し詰まってくると勤皇思想も盛んになって、諸侯各家で勤皇か佐幕か議論があり、外様を始め譜代でも結構勤皇で藩論統一していたところも少なくない
両派閥の死闘で多くの人材を失ったところもあった
殿様が幕閣なのに家来が勤皇とか、いやはやなかなか大変なようで‥
日本中が沸騰していた 大内氏は海外貿易で得た資金を金食い虫の軍事より文化に投資した
大内氏は戦国を生き残れ無かったけど文化は滅ばなかったってことだろう 文化=朝廷との繋がりってことね。
徳川宗家が真の勤皇だったけど,実用的な毛利の天皇利用が勝った >>841
明治に入って「松下村塾の門下生だった」って言うのは一種のステータスに
なったもんだから、時間的・空間的にお前は無理だろ? って奴も門下生を
自称してたようで。だから、ものすごく広範な学習をしてたかのような誤解を
受けることもあるそうでs。 >>840
ひとつの戦いは、視点によって攻撃にもなり防衛にもなる
誰の視点なら攻撃で誰の視点なら防衛なのか、ってだけな
で、白村江は誰にとって防衛戦と言えるのかな
その視点は白村江という名前と対応する視点かな
武田攻めなら、攻める側の視点であることが名称によって示されている
武田側の視点ではないことが明瞭な名称だからな
長篠の戦いは、武田が侵攻してて徳川は防衛側だ。
武田軍に包囲されていた徳川方の長篠城を救援するために駆けつけているんだから、
徳川にとって明白に防衛戦だ。徳川の視点で見て武田攻めと呼ぶはずはない 違うわー。領土内の敵部隊を攻撃しているだな(元は武田方の城だが)
日本語不得手? 自領に攻め込んだ敵軍を攻撃すると防衛戦じゃなくなる?
すごく斬新な発想だね。防衛戦って何? 庄屋についてですが初中期は名誉的なもので豪族が選ばれていたそうなんですが
後期に至って面倒が多いからと分家筋に遣らせて本家筋はやらないことが多かったらしいのですが
庄屋という役職についてくる特権(門構えや式台、苗字帯刀)などは「庄屋格:通常庄屋を
務める格がある」ということで継続的に許されていたのでしょうか?
そうでないと分家筋である庄屋の方が偉くなってしまうのでは? 日朝貿易に用いられた象牙符(日明貿易でいうところの勘合符に相当する割符)
これって明応の政変のときに将軍家から大内氏に渡っているようですがこの経緯を詳しく教えて下さい 日本の長い歴史の中で、画期的なトピックを少数挙げるとすれば、
@大化の改新・・・天皇を国家の中心とする古代国家の成立&様々な社会制度の変革
A鎌倉幕府成立・・・武家政権の成立&様々な社会制度の変革
B明治維新・・・封建社会から中央集権の近代国家へ&様々な社会制度の変革
C太平洋戦争敗戦・・・日本史上最大の国難&様々な社会制度の変革
あたりは有力だと思うのですが、あと2〜3挙げるとしたら何が相応しいと思いますか? 大宝律令、鎮護仏教、秀吉の全国統一、大日本帝国憲法、はどない? 荘園公領制の成立、鎌倉幕府の成立、承久の乱あたりをまとめて
Aを「中世社会の成立」としてもいいかもしれません
あと江戸幕府の成立も大きいと思います 「近世社会の成立」としては“画期的なトピック”ではなくなるよ
もう日本社会の成立でまとめよう みなさん、いろいろご意見ありがとうございます
さすがに、奉天会戦、バブル崩壊、前九年の役、安倍政権誕生、継体天皇即位あたりは
厳しい気がしますが
でも、こういうの考えるのも楽しいもんです でもさぁ
松下村塾の最期とか
奇兵隊の最期には誰も触れないのだよな。
例えば田舎の公立の進学校なんか近くに藩校があっただけで、
藩校の成れの果てだと強調するのに、
松下村塾は誰も再建しようと言わないしな。
伊藤博文なんか先祖が出た神社だと言っては、バカでかい鳥居を奉納したりしているのに、
奇兵隊に至っては。 >>853
@遣唐使廃止 国風文化が花開く。実質中世のはじまり
A応仁の乱 戦国時代の幕開け。実質中世のおわり
B関ヶ原の戦い 乱世終了。江戸時代という二度目の中世社会
キーワード<中世>で考えてみた 戦国時代は近世の要素は薄くて、中世の最終期だろ
応仁の乱ではまだ、中世の終わりになってない
むしろ江戸時代が中世的要素が薄くて近世寄り 世界史になっちゃうけど、蒸気船を使って世界の国々が海を渡って
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航海時代」なんて呼ぶじゃん
じゃあ、近代以降、飛行機を使って世界の国々が空を駆け
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航空時代」と呼んで
後世の歴史本に記述されたりするのかな? 次は宇宙航海時代だな
侵略ってよりフロンティアに向かう時代の意だろ 帝国主義時代
グローバル時代
宇宙世紀
朝鮮人は言葉を知らなさすぎ >>867
そんな時代に入ったのは第二次大戦前後からだし、特に時代区分の名前にする意味はないだろうな
それ以外の変化による区分の方が大きいし >>865
安土桃山時代から近世
明治以降は近代なので
江戸時代は中世的要素が薄くて近世よりなのではなくまさしく近世 >>872
大航海時代だって正式な時代区分ではないだろ
しかし、歴史用語としてはしっかりとあるし、定着している 飛行機の次が出てきて、それが定着して初めて、「大航空時代」って概念が残るのだろう 大航海時代って大発見時代とかなわけでそういう意味では大航空時代てできなそう 中世はわかりにくかったんでモードで考え直してみた
@大化の改新で建国しイケイケモード
A遣唐使廃止して閉じこもり、マッタリモード
B応仁の乱からまた血の気の多いイケイケモードに
C関ケ原を制した徳川家康がまたマッタリモードに戻す
D黒船来日で西洋に負けるな、イケイケモード化
Eバブル崩壊でまたマッタリモード
明治維新以来のイケイケモードを終わらせたバブル崩壊は
個人的に入れたい >>861 戦国時代はやり一本でのし上がるようなサクセスストーリーがありますが
鎌倉室町の混乱期に出世して成り上がったような人はいますか? >>877
バブル崩壊の前に一回太平洋戦争敗戦でイケイケを止められていると思う
そこからまたイケイケになるのは早かったけど >>878
悪党から大名にのし上がった楠木正成のことでしょうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています