【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ >>813
でも、その西郷を討って、初代の内務卿として明治国家のグランドデザインを敷いたのも
薩摩藩の大久保
その後が続かずに長州藩にしてやられたって感じなのかな 大久保が暗殺された時点で後継者はどうなってたんだろうなぁ? 長州藩の伊藤博文が初代内閣総理大臣、同じく長州藩の山県有朋が軍部のトップに
座ったのが大きいのかな 文化史について質問です。
テレビでは、江戸時代は平和が長く続いたので、庶民文化が花開いたとテンプレートのように良く言われますが、
そもそも日本は源平と元寇と応仁と戦国時代以外は一部の紛争除いて概ね平和かと思います。
一部の紛争なら江戸時代にもありましたし。
江戸時代以外の大半の平和な時代には庶民文化は花開いて無いのでしょうか? 意外とそうでもないんだよ
平安時代後半から室町時代まで(戦国時代も含む)は、地方では小規模な戦いが日常的に起きてるといっていい 庶民レベルが違った。平安時代は清少納言等の宮廷文化が栄えたから 冷蔵庫と洗濯機の普及が女性を家事から解放した。と言われている。
その日暮らしで一日を終える庶民が一定の文化に親しむためには、市の存在と貨幣経済の発展を待たねばならなかった。
鎌倉期から緩やかに広まっていった貨幣が農村に浸透し、必要なものを、必要な時に手に入れられる生活の余裕ができてこそ、
庶民は文化的な生活をおくれるのである。
鎌倉期に萌芽がみられる庶民文化が花開く室町期まで、この国の庶民には文化を顧みる余裕がなかった。 石川県にある気多大社の歴史として、奈良時代に歌人大伴家持が参詣したとのことですが、
当時は社殿などはなく、岩か木かわかりませんが自然物の磐座があったということですよね?
当時の有名(有力)神社の境内ってどんな状態だったのでしょうか?
何もないところにポツンと磐座だけがあったのですか?
社殿はないはずですが、それなりに整備されてきちんとした状態だったんでしょうか? 仁徳天皇陵などに拝むための簡素な鳥居だけしつらえてあるけれど、昔の雰囲気を出しているのかな
八幡さまは名のとおり、やはた(多くの旗)で飾り付けてあったのかしら 神社に社殿が建てられるようになったのは仏教の影響であり、当然仏教よりも遅れ、
平安時代の途中〜鎌倉時代くらいからって話を聞いたことがある
でも確か、出雲大社には古代から現在の本殿をも上回る高さの神殿があったんじゃなかったっけ?
古代っていうのが具体的にいつ頃なのか知らないけど 出雲大社に本殿が作られるようになったのがいつかってのは知らんけど、古代から中世への移行は平安時代の半ばか後半ぐらいだぞ
その辺から作られ出したんだとしても古代から云々ってのはウソではない
んで、そのへんの由緒とか創建譚とかには後代の創作が多いもんだから、神社の自称を鵜呑みにできないんだよね >>826
出雲大社の社殿の高さは平安時代の歌にも詠まれていたから史実だろ
神社の社殿が普及したのが平安時代〜鎌倉時代ってだけで、一部の有力神社とか、早いところはもっと早かったんじゃないの? 徳川家康の家臣で武田攻めののち敵将の娘を家康に黙って嫁? 妾にした人って誰でしたでしょうか 良雲院(りょううんいん、生年不明 - 寛永14年3月12日(1637年4月7日))は、徳川家康の側室。父は武田家の旧臣である市川昌永とされる。 武田滅亡より2年ほど前にすでに家康の子を産んでる人は「武田攻めののちに嫁になった」との条件に合わないから別人ですね 今後、後付けでドンドン条件を増やしていく予定です。 最初の質問の時点で「武田攻めののち」って明記してるのを読み落としてるんじゃないか?
それを横レスで指摘したら、後付けで条件云々とか 家康が武田を攻めたのは長い生涯で一度だけ!
誰でも知ってることだよなw 違うぞ
もともと織田と武田の同盟が続いてた中で徳川が武田と争い出した、武田に攻勢をかけたのが最初だ
当初は信玄から信長に向けて徳川の武田攻撃を止めるよう求める手紙を送ったりしてたが、埒があかなかったので義昭の求めに応じて織田に攻撃しようとした
それ以後も何度も国境紛争をし続けてたぞ、攻められることも多かったが反攻も繰り返してた 確実なのは、過疎スレで、
「武田攻め」と言えば天正10年
と、思い込んでいるのが、
質問者と、横レス云々と称している二人もいることだな。
フシギナグウゼンだなー(棒読み) 質問は曖昧で年も書いてなかったのに,思い込んでいると何故思い込んだの?
「のち」すぎるが滝川一積(真田太平記)は? 詭弁の特徴のガイドラインに、知能障害を起こすというのがあったね。 >>834
長篠は侵攻じゃなく防衛戦だろ、「武田攻め」には含められないと思うが 白村江は侵攻じゃなく防衛戦だろ、朝鮮人なら知ってることだよなw
「武田攻め」と言えば天正10年
「武田攻め」と言えば侵攻 松下村塾周りについて質問です。
明治維新発生の地であり、
要はこれからの国のあり方について議論してた場と理解しますが、
都からも遠いあの地が国家天下を語る場になった背景は何なのでしょうか? 大内義興が管領代になった太古から毛利氏が受け継いだから
高杉晋作の地縁繋がり 三百諸侯があって各地で世の行く末、藩の行く末について議論があったと思うが
江戸時代も押し詰まってくると勤皇思想も盛んになって、諸侯各家で勤皇か佐幕か議論があり、外様を始め譜代でも結構勤皇で藩論統一していたところも少なくない
両派閥の死闘で多くの人材を失ったところもあった
殿様が幕閣なのに家来が勤皇とか、いやはやなかなか大変なようで‥
日本中が沸騰していた 大内氏は海外貿易で得た資金を金食い虫の軍事より文化に投資した
大内氏は戦国を生き残れ無かったけど文化は滅ばなかったってことだろう 文化=朝廷との繋がりってことね。
徳川宗家が真の勤皇だったけど,実用的な毛利の天皇利用が勝った >>841
明治に入って「松下村塾の門下生だった」って言うのは一種のステータスに
なったもんだから、時間的・空間的にお前は無理だろ? って奴も門下生を
自称してたようで。だから、ものすごく広範な学習をしてたかのような誤解を
受けることもあるそうでs。 >>840
ひとつの戦いは、視点によって攻撃にもなり防衛にもなる
誰の視点なら攻撃で誰の視点なら防衛なのか、ってだけな
で、白村江は誰にとって防衛戦と言えるのかな
その視点は白村江という名前と対応する視点かな
武田攻めなら、攻める側の視点であることが名称によって示されている
武田側の視点ではないことが明瞭な名称だからな
長篠の戦いは、武田が侵攻してて徳川は防衛側だ。
武田軍に包囲されていた徳川方の長篠城を救援するために駆けつけているんだから、
徳川にとって明白に防衛戦だ。徳川の視点で見て武田攻めと呼ぶはずはない 違うわー。領土内の敵部隊を攻撃しているだな(元は武田方の城だが)
日本語不得手? 自領に攻め込んだ敵軍を攻撃すると防衛戦じゃなくなる?
すごく斬新な発想だね。防衛戦って何? 庄屋についてですが初中期は名誉的なもので豪族が選ばれていたそうなんですが
後期に至って面倒が多いからと分家筋に遣らせて本家筋はやらないことが多かったらしいのですが
庄屋という役職についてくる特権(門構えや式台、苗字帯刀)などは「庄屋格:通常庄屋を
務める格がある」ということで継続的に許されていたのでしょうか?
そうでないと分家筋である庄屋の方が偉くなってしまうのでは? 日朝貿易に用いられた象牙符(日明貿易でいうところの勘合符に相当する割符)
これって明応の政変のときに将軍家から大内氏に渡っているようですがこの経緯を詳しく教えて下さい 日本の長い歴史の中で、画期的なトピックを少数挙げるとすれば、
@大化の改新・・・天皇を国家の中心とする古代国家の成立&様々な社会制度の変革
A鎌倉幕府成立・・・武家政権の成立&様々な社会制度の変革
B明治維新・・・封建社会から中央集権の近代国家へ&様々な社会制度の変革
C太平洋戦争敗戦・・・日本史上最大の国難&様々な社会制度の変革
あたりは有力だと思うのですが、あと2〜3挙げるとしたら何が相応しいと思いますか? 大宝律令、鎮護仏教、秀吉の全国統一、大日本帝国憲法、はどない? 荘園公領制の成立、鎌倉幕府の成立、承久の乱あたりをまとめて
Aを「中世社会の成立」としてもいいかもしれません
あと江戸幕府の成立も大きいと思います 「近世社会の成立」としては“画期的なトピック”ではなくなるよ
もう日本社会の成立でまとめよう みなさん、いろいろご意見ありがとうございます
さすがに、奉天会戦、バブル崩壊、前九年の役、安倍政権誕生、継体天皇即位あたりは
厳しい気がしますが
でも、こういうの考えるのも楽しいもんです でもさぁ
松下村塾の最期とか
奇兵隊の最期には誰も触れないのだよな。
例えば田舎の公立の進学校なんか近くに藩校があっただけで、
藩校の成れの果てだと強調するのに、
松下村塾は誰も再建しようと言わないしな。
伊藤博文なんか先祖が出た神社だと言っては、バカでかい鳥居を奉納したりしているのに、
奇兵隊に至っては。 >>853
@遣唐使廃止 国風文化が花開く。実質中世のはじまり
A応仁の乱 戦国時代の幕開け。実質中世のおわり
B関ヶ原の戦い 乱世終了。江戸時代という二度目の中世社会
キーワード<中世>で考えてみた 戦国時代は近世の要素は薄くて、中世の最終期だろ
応仁の乱ではまだ、中世の終わりになってない
むしろ江戸時代が中世的要素が薄くて近世寄り 世界史になっちゃうけど、蒸気船を使って世界の国々が海を渡って
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航海時代」なんて呼ぶじゃん
じゃあ、近代以降、飛行機を使って世界の国々が空を駆け
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航空時代」と呼んで
後世の歴史本に記述されたりするのかな? 次は宇宙航海時代だな
侵略ってよりフロンティアに向かう時代の意だろ 帝国主義時代
グローバル時代
宇宙世紀
朝鮮人は言葉を知らなさすぎ >>867
そんな時代に入ったのは第二次大戦前後からだし、特に時代区分の名前にする意味はないだろうな
それ以外の変化による区分の方が大きいし >>865
安土桃山時代から近世
明治以降は近代なので
江戸時代は中世的要素が薄くて近世よりなのではなくまさしく近世 >>872
大航海時代だって正式な時代区分ではないだろ
しかし、歴史用語としてはしっかりとあるし、定着している 飛行機の次が出てきて、それが定着して初めて、「大航空時代」って概念が残るのだろう 大航海時代って大発見時代とかなわけでそういう意味では大航空時代てできなそう 中世はわかりにくかったんでモードで考え直してみた
@大化の改新で建国しイケイケモード
A遣唐使廃止して閉じこもり、マッタリモード
B応仁の乱からまた血の気の多いイケイケモードに
C関ケ原を制した徳川家康がまたマッタリモードに戻す
D黒船来日で西洋に負けるな、イケイケモード化
Eバブル崩壊でまたマッタリモード
明治維新以来のイケイケモードを終わらせたバブル崩壊は
個人的に入れたい >>861 戦国時代はやり一本でのし上がるようなサクセスストーリーがありますが
鎌倉室町の混乱期に出世して成り上がったような人はいますか? >>877
バブル崩壊の前に一回太平洋戦争敗戦でイケイケを止められていると思う
そこからまたイケイケになるのは早かったけど >>878
悪党から大名にのし上がった楠木正成のことでしょうか。 2019年(令和元年)
4月:異例の事前公表となる新元号発表
5月:譲位による約200年ぶりの改元
7月:戦後最悪クラスの放火事件(京都アニメーション)
9月〜:日本で初のラグビーワールドカップ開催
10月:消費税10%へ増税
10月:日本人のノーベル賞受賞 (化学賞)
10月:100年に一度クラスの超大型台風(台風19号)
10月:即位を内外に示す即位礼正殿の儀 (世界のVIPが日本に集結)
11月:天皇一世一代の大嘗祭(皇室最重要儀式)
11月:安倍首相在職歴代最長(見込み)
4月から11月のおよそ8か月の内容が濃すぎ
良いことも悪いことも含めて、ここまで内容が濃い数ヶ月って
近代以降の日本にありましたか?
太平洋戦争終戦前後の数ヶ月も濃いですが、そっちはほとんど悪いことばかりですしね 譲位関連4つ
期間限定2つ
世界行事2つ
数字増加2つ
明治元年か開戦前後とかいっぱいありそう 即位正殿の儀について質問です。本日天皇陛下は
「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。
ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。」
と述べられました。
この、「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより」との文言ですが、つまりは皇位を継承した根拠は法律であり、その根拠法はこれこれですと言っていますが、
過去の歴代天皇の即位正殿の儀も、大宝律令以降は各時代の法律に基づいて継承したと宣明してきたのでしょうか。 不改常典と呼ばれる、文面が存在しないらしい慣習法と、後には律令に基づいて即位していたはず
後醍醐天皇みたいな、オレが法律だ的な例外はあるけど 最高格式の御装束を纏い、即位を国の内外に宣明する即位礼正殿の儀と、
皇室最大の重大儀式と言われる大嘗祭(即位して最初の新嘗祭)は、
どちらの方が格式の高い儀式となるのでしょうか?
日本国としては即位礼正殿の儀、
皇室としては大嘗祭、
という解釈が妥当でしょうか?
詳しい方のご見解を聞かせてください 農民か町人からご落胤として天皇になった、
みたいなエピソードの天皇がいた気がしますが、誰ですかね? >>888
仁賢天皇と顕宗天皇の兄弟でしょうか。父がのちの雄略天皇に殺されたんで逃亡して
身分を隠して屯倉で牛馬の飼育に携わっていたとされます。 サツマイモって衣が紫色だけど
高貴な食べ物という扱いはなかったの? >>885
即位の礼が始まったのは平安時代頃から、それ以前から天皇はいたわけで
即位の礼自体はもともと天皇が神々に即位を報告する神事を行った後
紫宸殿の高御座にお出ましになって
南庭に整列した貴族・公家たちに対して宣言しただけのもの
もっとも天皇家の財政に余裕があった平安時代にはこの後
天皇は鳳輦に乗りカーテンのような幕を開けて
見物する庶民にも顔を見せて洛中をパレードしていた
(今はオープンカーでパレードしているが
平安時代にも輿でパレートしていたのが面白い)
その後天皇家の財政難とともにパレードはなくなり
江戸時代の天皇は幕府によって御所に軟禁されていたため外へ出られなかった
外国要人を招いて対外的に行うようになったのは大日本帝国憲法下から
天皇が国民に対して即位を宣言する形式になったのは戦後、日本国憲法下から >>889
天皇ではなくて伏見宮貞致親王のこととか?
最初の名は長九郎といい西陣で鍛冶屋の徒弟をやっていたが
伏見宮家の血筋が絶えた時にご落胤だと母方親族が京都所司代に申し出て
急に宮家の当主になった >>890
歌舞伎の助六が頭に巻いてる紫のハチマキは「病鉢巻」という。
病人がしめるものだ。
日本では紫が高貴な色というイメージは無い。 いや、古代の服飾規定にはあったんだぞ
冠位十二階の色を上から挙げたら分かるだろ さつまいも(薩摩芋)はもともと琉球で栽培されていた食物で
江戸時代に琉球を併合した薩摩に伝わり薩摩で多く栽培されたことからこの名がついた
品種改良前は風土的に日本本土では鹿児島を除き花が咲かず育たなかったため
都近辺で見ることはなかったはず 吉宗が青木昆陽に栽培法を研究させてるけどね。
冠位十二階はころっと忘れてた。 >>892
あ、それっぽいですね。回答ありがとうございます。 >>896
吉宗が紫は高貴な色だと思っていたとは思えない
将軍は紫を着ると決まってたわけではないし
吉宗の頃でも関東の幕府御領内、小石川薬園などで試作が行われた程度
全国普及はもっと後 結局のところ
【中世的兵農分離】
武士も農民も農村で農業をしているところは共通だけど、
・武士の家は戦に行く代わりに税をある程度or完全に免除される。
・農民の家は税を納めるが戦には原則として行かなくていい。
で中間の半農半武士的な家がほとんどなくなった状態。
【近世的兵農分離】
・武士は城下町に住み、農村には立ち入らない。
・農村には(寺や医者などの特殊身分は別として)広義の百姓だけが住む。
(もちろん、薩摩藩などはこうではなかったことを知っています)
という認識で良いんですか? いや、中世の武士(の原型)は平民じゃなく、村のなかでは領主のような立場にある 昔、特に小さな村では近親婚が当たり前だったと思います。民法と言うものが出来てから4親等以上しか結婚できなくなったけど、民法ができる前の江戸時代以前は普通にもっと近い血が結婚することもあったのでしょうか?
それか、古くから暗黙の了解でいとこより近いのはタブーだったのでしょうか?
また、3親等以内で結婚や出産を経験した大名や皇族が居たら具体的に知りたいです。聖徳太子の両親は異母兄弟ですが、特殊な例? 江戸時代に人間を真っ二つにしたりいろんな死刑の方法があったが
浮気したら死刑になるみたいなのもあって
理解不能だったわ
海外だと客人がくると村の娘を差し出してHさせる風習があるところはある
その方が子供が強いのがわかってるみたいだったから >>902
古代だと異母兄弟はギリギリ許容範囲らしい
事情によっては許容される程度には。
同母兄弟は論外でダメだった模様
庶民レベルでもOKなのはおじ甥、おば姪あたりからのはず >>903
不倫は人の道に外れる行為だからそんな人非人は処刑するのが当然なのだ。
今の人は軽く考えてるけど。 亡くなった三宅翁が生前言っていた言葉
「佐藤栄作首相なんかは廊下ですれ違うだけで風圧を感じてよろけそうになった。
今の政治家は小粒になって、もうそんな貫禄のある人はいない」みたいなこと
これって本当に佐藤栄作は貫禄があり、最近の政治家、例えば安倍晋三や鳩山由紀夫、
麻生太郎、小泉純一郎、あたりは小粒ってことなんだろうか?
三宅翁も佐藤栄作がいたころはまだ政治記者として大御所ポジではなく、中堅ポジのはず
三宅翁が中堅ポジの時に安倍や小泉と相対しても「小粒」と感じたのか、
三宅翁が大御所ポジの時に佐藤と相対しても「風圧」を感じたのか、
興味は尽きない 浮気の罪状の重さは身分によって千差万別だろ
統治に関わる人間の妻妾の浮気は、近世までなら組織の存亡に関わることさえあるので、どうしても罪が重くなる
庶民の浮気はそこまで重罪じゃない >>902
ガチの離島や山村は別だけど、他の村との交流がそこそこある場所の場合、
『どの範囲と婚姻するかは、地域市場のカバーする範囲とおおむね一致する』という法則がある。 >>904
古い家系図みたらいとこ婚だらけなんだけど3親等以内は見事に皆無。地域によってはおじ姪やおば甥も一般的だったの?
>>908
すんません、どういう意味がわかりません...
範囲とは場所の話?親等の話?
市場のカバーって何のこと? 同性婚ではないので異母兄妹
大国主,天武天皇,長宗我部盛親,鶴松… >>909
範囲は場所の話です。
「本当に辺境の村を男が訪れたら、『余所者の血が欲しい』と言われて村の多数の女の相手をさせられた」
的な都市伝説を聞いたことがあるかもしれませんが、
『村内結婚を繰り返すと近親婚だらけになる』というのは当然意識することであり、
周辺の村との交流がある程度あるような地域ではむしろ村内ではなく、近くの別の村の相手との結婚が推奨されました。
速水融先生が東海地方のある村で江戸時代の婚姻を分析した結果によると、
村内結婚が2割、近くの別の村との結婚が8割だそうです。
そして中世や近世レベルならば『この村まではここの市場が面倒を見る』という暗黙の了解があるわけであり、
ある程度周囲との交流があるような村では、村の範囲を越えてその市場の範囲内で結婚する傾向があるそうです。 >>911
中世前半まではよくあったらしいけど、後半になると余所者を嫌悪・排斥するのが一般化してくる
中世のなかばごろ(おおむね、南北朝時代ごろ)に何かあったらしい >>910
同母妹との婚姻の嫌疑で皇位継承権を停止されてたという天智天皇?
の話の信憑性は、いかばかりなのか レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。