【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 庄屋についてですが初中期は名誉的なもので豪族が選ばれていたそうなんですが
後期に至って面倒が多いからと分家筋に遣らせて本家筋はやらないことが多かったらしいのですが
庄屋という役職についてくる特権(門構えや式台、苗字帯刀)などは「庄屋格:通常庄屋を
務める格がある」ということで継続的に許されていたのでしょうか?
そうでないと分家筋である庄屋の方が偉くなってしまうのでは? 日朝貿易に用いられた象牙符(日明貿易でいうところの勘合符に相当する割符)
これって明応の政変のときに将軍家から大内氏に渡っているようですがこの経緯を詳しく教えて下さい 日本の長い歴史の中で、画期的なトピックを少数挙げるとすれば、
@大化の改新・・・天皇を国家の中心とする古代国家の成立&様々な社会制度の変革
A鎌倉幕府成立・・・武家政権の成立&様々な社会制度の変革
B明治維新・・・封建社会から中央集権の近代国家へ&様々な社会制度の変革
C太平洋戦争敗戦・・・日本史上最大の国難&様々な社会制度の変革
あたりは有力だと思うのですが、あと2〜3挙げるとしたら何が相応しいと思いますか? 大宝律令、鎮護仏教、秀吉の全国統一、大日本帝国憲法、はどない? 荘園公領制の成立、鎌倉幕府の成立、承久の乱あたりをまとめて
Aを「中世社会の成立」としてもいいかもしれません
あと江戸幕府の成立も大きいと思います 「近世社会の成立」としては“画期的なトピック”ではなくなるよ
もう日本社会の成立でまとめよう みなさん、いろいろご意見ありがとうございます
さすがに、奉天会戦、バブル崩壊、前九年の役、安倍政権誕生、継体天皇即位あたりは
厳しい気がしますが
でも、こういうの考えるのも楽しいもんです でもさぁ
松下村塾の最期とか
奇兵隊の最期には誰も触れないのだよな。
例えば田舎の公立の進学校なんか近くに藩校があっただけで、
藩校の成れの果てだと強調するのに、
松下村塾は誰も再建しようと言わないしな。
伊藤博文なんか先祖が出た神社だと言っては、バカでかい鳥居を奉納したりしているのに、
奇兵隊に至っては。 >>853
@遣唐使廃止 国風文化が花開く。実質中世のはじまり
A応仁の乱 戦国時代の幕開け。実質中世のおわり
B関ヶ原の戦い 乱世終了。江戸時代という二度目の中世社会
キーワード<中世>で考えてみた 戦国時代は近世の要素は薄くて、中世の最終期だろ
応仁の乱ではまだ、中世の終わりになってない
むしろ江戸時代が中世的要素が薄くて近世寄り 世界史になっちゃうけど、蒸気船を使って世界の国々が海を渡って
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航海時代」なんて呼ぶじゃん
じゃあ、近代以降、飛行機を使って世界の国々が空を駆け
交易や交流、あるいは進出や侵略をした時代を「大航空時代」と呼んで
後世の歴史本に記述されたりするのかな? 次は宇宙航海時代だな
侵略ってよりフロンティアに向かう時代の意だろ 帝国主義時代
グローバル時代
宇宙世紀
朝鮮人は言葉を知らなさすぎ >>867
そんな時代に入ったのは第二次大戦前後からだし、特に時代区分の名前にする意味はないだろうな
それ以外の変化による区分の方が大きいし >>865
安土桃山時代から近世
明治以降は近代なので
江戸時代は中世的要素が薄くて近世よりなのではなくまさしく近世 >>872
大航海時代だって正式な時代区分ではないだろ
しかし、歴史用語としてはしっかりとあるし、定着している 飛行機の次が出てきて、それが定着して初めて、「大航空時代」って概念が残るのだろう 大航海時代って大発見時代とかなわけでそういう意味では大航空時代てできなそう 中世はわかりにくかったんでモードで考え直してみた
@大化の改新で建国しイケイケモード
A遣唐使廃止して閉じこもり、マッタリモード
B応仁の乱からまた血の気の多いイケイケモードに
C関ケ原を制した徳川家康がまたマッタリモードに戻す
D黒船来日で西洋に負けるな、イケイケモード化
Eバブル崩壊でまたマッタリモード
明治維新以来のイケイケモードを終わらせたバブル崩壊は
個人的に入れたい >>861 戦国時代はやり一本でのし上がるようなサクセスストーリーがありますが
鎌倉室町の混乱期に出世して成り上がったような人はいますか? >>877
バブル崩壊の前に一回太平洋戦争敗戦でイケイケを止められていると思う
そこからまたイケイケになるのは早かったけど >>878
悪党から大名にのし上がった楠木正成のことでしょうか。 2019年(令和元年)
4月:異例の事前公表となる新元号発表
5月:譲位による約200年ぶりの改元
7月:戦後最悪クラスの放火事件(京都アニメーション)
9月〜:日本で初のラグビーワールドカップ開催
10月:消費税10%へ増税
10月:日本人のノーベル賞受賞 (化学賞)
10月:100年に一度クラスの超大型台風(台風19号)
10月:即位を内外に示す即位礼正殿の儀 (世界のVIPが日本に集結)
11月:天皇一世一代の大嘗祭(皇室最重要儀式)
11月:安倍首相在職歴代最長(見込み)
4月から11月のおよそ8か月の内容が濃すぎ
良いことも悪いことも含めて、ここまで内容が濃い数ヶ月って
近代以降の日本にありましたか?
太平洋戦争終戦前後の数ヶ月も濃いですが、そっちはほとんど悪いことばかりですしね 譲位関連4つ
期間限定2つ
世界行事2つ
数字増加2つ
明治元年か開戦前後とかいっぱいありそう 即位正殿の儀について質問です。本日天皇陛下は
「さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。
ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。」
と述べられました。
この、「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより」との文言ですが、つまりは皇位を継承した根拠は法律であり、その根拠法はこれこれですと言っていますが、
過去の歴代天皇の即位正殿の儀も、大宝律令以降は各時代の法律に基づいて継承したと宣明してきたのでしょうか。 不改常典と呼ばれる、文面が存在しないらしい慣習法と、後には律令に基づいて即位していたはず
後醍醐天皇みたいな、オレが法律だ的な例外はあるけど 最高格式の御装束を纏い、即位を国の内外に宣明する即位礼正殿の儀と、
皇室最大の重大儀式と言われる大嘗祭(即位して最初の新嘗祭)は、
どちらの方が格式の高い儀式となるのでしょうか?
日本国としては即位礼正殿の儀、
皇室としては大嘗祭、
という解釈が妥当でしょうか?
詳しい方のご見解を聞かせてください 農民か町人からご落胤として天皇になった、
みたいなエピソードの天皇がいた気がしますが、誰ですかね? >>888
仁賢天皇と顕宗天皇の兄弟でしょうか。父がのちの雄略天皇に殺されたんで逃亡して
身分を隠して屯倉で牛馬の飼育に携わっていたとされます。 サツマイモって衣が紫色だけど
高貴な食べ物という扱いはなかったの? >>885
即位の礼が始まったのは平安時代頃から、それ以前から天皇はいたわけで
即位の礼自体はもともと天皇が神々に即位を報告する神事を行った後
紫宸殿の高御座にお出ましになって
南庭に整列した貴族・公家たちに対して宣言しただけのもの
もっとも天皇家の財政に余裕があった平安時代にはこの後
天皇は鳳輦に乗りカーテンのような幕を開けて
見物する庶民にも顔を見せて洛中をパレードしていた
(今はオープンカーでパレードしているが
平安時代にも輿でパレートしていたのが面白い)
その後天皇家の財政難とともにパレードはなくなり
江戸時代の天皇は幕府によって御所に軟禁されていたため外へ出られなかった
外国要人を招いて対外的に行うようになったのは大日本帝国憲法下から
天皇が国民に対して即位を宣言する形式になったのは戦後、日本国憲法下から >>889
天皇ではなくて伏見宮貞致親王のこととか?
最初の名は長九郎といい西陣で鍛冶屋の徒弟をやっていたが
伏見宮家の血筋が絶えた時にご落胤だと母方親族が京都所司代に申し出て
急に宮家の当主になった >>890
歌舞伎の助六が頭に巻いてる紫のハチマキは「病鉢巻」という。
病人がしめるものだ。
日本では紫が高貴な色というイメージは無い。 いや、古代の服飾規定にはあったんだぞ
冠位十二階の色を上から挙げたら分かるだろ さつまいも(薩摩芋)はもともと琉球で栽培されていた食物で
江戸時代に琉球を併合した薩摩に伝わり薩摩で多く栽培されたことからこの名がついた
品種改良前は風土的に日本本土では鹿児島を除き花が咲かず育たなかったため
都近辺で見ることはなかったはず 吉宗が青木昆陽に栽培法を研究させてるけどね。
冠位十二階はころっと忘れてた。 >>892
あ、それっぽいですね。回答ありがとうございます。 >>896
吉宗が紫は高貴な色だと思っていたとは思えない
将軍は紫を着ると決まってたわけではないし
吉宗の頃でも関東の幕府御領内、小石川薬園などで試作が行われた程度
全国普及はもっと後 結局のところ
【中世的兵農分離】
武士も農民も農村で農業をしているところは共通だけど、
・武士の家は戦に行く代わりに税をある程度or完全に免除される。
・農民の家は税を納めるが戦には原則として行かなくていい。
で中間の半農半武士的な家がほとんどなくなった状態。
【近世的兵農分離】
・武士は城下町に住み、農村には立ち入らない。
・農村には(寺や医者などの特殊身分は別として)広義の百姓だけが住む。
(もちろん、薩摩藩などはこうではなかったことを知っています)
という認識で良いんですか? いや、中世の武士(の原型)は平民じゃなく、村のなかでは領主のような立場にある 昔、特に小さな村では近親婚が当たり前だったと思います。民法と言うものが出来てから4親等以上しか結婚できなくなったけど、民法ができる前の江戸時代以前は普通にもっと近い血が結婚することもあったのでしょうか?
それか、古くから暗黙の了解でいとこより近いのはタブーだったのでしょうか?
また、3親等以内で結婚や出産を経験した大名や皇族が居たら具体的に知りたいです。聖徳太子の両親は異母兄弟ですが、特殊な例? 江戸時代に人間を真っ二つにしたりいろんな死刑の方法があったが
浮気したら死刑になるみたいなのもあって
理解不能だったわ
海外だと客人がくると村の娘を差し出してHさせる風習があるところはある
その方が子供が強いのがわかってるみたいだったから >>902
古代だと異母兄弟はギリギリ許容範囲らしい
事情によっては許容される程度には。
同母兄弟は論外でダメだった模様
庶民レベルでもOKなのはおじ甥、おば姪あたりからのはず >>903
不倫は人の道に外れる行為だからそんな人非人は処刑するのが当然なのだ。
今の人は軽く考えてるけど。 亡くなった三宅翁が生前言っていた言葉
「佐藤栄作首相なんかは廊下ですれ違うだけで風圧を感じてよろけそうになった。
今の政治家は小粒になって、もうそんな貫禄のある人はいない」みたいなこと
これって本当に佐藤栄作は貫禄があり、最近の政治家、例えば安倍晋三や鳩山由紀夫、
麻生太郎、小泉純一郎、あたりは小粒ってことなんだろうか?
三宅翁も佐藤栄作がいたころはまだ政治記者として大御所ポジではなく、中堅ポジのはず
三宅翁が中堅ポジの時に安倍や小泉と相対しても「小粒」と感じたのか、
三宅翁が大御所ポジの時に佐藤と相対しても「風圧」を感じたのか、
興味は尽きない 浮気の罪状の重さは身分によって千差万別だろ
統治に関わる人間の妻妾の浮気は、近世までなら組織の存亡に関わることさえあるので、どうしても罪が重くなる
庶民の浮気はそこまで重罪じゃない >>902
ガチの離島や山村は別だけど、他の村との交流がそこそこある場所の場合、
『どの範囲と婚姻するかは、地域市場のカバーする範囲とおおむね一致する』という法則がある。 >>904
古い家系図みたらいとこ婚だらけなんだけど3親等以内は見事に皆無。地域によってはおじ姪やおば甥も一般的だったの?
>>908
すんません、どういう意味がわかりません...
範囲とは場所の話?親等の話?
市場のカバーって何のこと? 同性婚ではないので異母兄妹
大国主,天武天皇,長宗我部盛親,鶴松… >>909
範囲は場所の話です。
「本当に辺境の村を男が訪れたら、『余所者の血が欲しい』と言われて村の多数の女の相手をさせられた」
的な都市伝説を聞いたことがあるかもしれませんが、
『村内結婚を繰り返すと近親婚だらけになる』というのは当然意識することであり、
周辺の村との交流がある程度あるような地域ではむしろ村内ではなく、近くの別の村の相手との結婚が推奨されました。
速水融先生が東海地方のある村で江戸時代の婚姻を分析した結果によると、
村内結婚が2割、近くの別の村との結婚が8割だそうです。
そして中世や近世レベルならば『この村まではここの市場が面倒を見る』という暗黙の了解があるわけであり、
ある程度周囲との交流があるような村では、村の範囲を越えてその市場の範囲内で結婚する傾向があるそうです。 >>911
中世前半まではよくあったらしいけど、後半になると余所者を嫌悪・排斥するのが一般化してくる
中世のなかばごろ(おおむね、南北朝時代ごろ)に何かあったらしい >>910
同母妹との婚姻の嫌疑で皇位継承権を停止されてたという天智天皇?
の話の信憑性は、いかばかりなのか >>903
西洋でも浮気で殺していいみたいのあるっぽい。
青ひげの話は青ひげが異常な殺人者みたいなストーリーになってるが
当時浮気をした妻を殺すことが許されていて青ひげは浮気した妻を殺していたのだ、
みたいな話があった >>911
>>912
何か話がズレてきているような... 大正時代は15年という期間で終わった。
これは大正天皇が病弱だったため。
もし仮に、大正天皇が健康体だったら、大正時代が20年とか30年まであった。
昭和が64年とかではなく、50年とか45年で終わった可能性ありますか? 大正がプラス5年なら 昭和がマイナス5年で59年
大正30年なら 昭和はマイナス15年で49年
したがって、50年とか45年になる計算は誤り 昭和天皇は在位歴代最長だけど、皇位に就く前約10年間くらいを大正天皇の摂政として、皇室の前面に出られていた
つまり、やや大袈裟に言えば、昭和天皇の在位は74年くらいになる
昭和の時代背景も相まって、昭和天皇の存在感が傑出するのはよく理解できる >900
平井上総『兵農分離はあったのか』平凡社
によると、長州攻めの為に不足する江戸城警護には民兵を挑発している江戸幕府のやり方は
後北条氏の民衆動員と類似しているとの藤木久志の指摘や各地の藩が民を組織に組み込んでいる例を取り上げ
従来言われている「兵農分離」には疑義を呈している
もっとも何を指して「兵農分離」とするかについては、戦争時の動員・身分制・土地所有・居住地等々、どれを基点にするかによって研究者の見解は異なる >>920
うちの田舎(栃木)の地域。まあ百姓地帯なのに、鉄砲持っててさ。
「何かあったときは殿様の助けに行く」みたいな書状が各家にあって、苗字もこっそり
持っててOK。でも表に出すな。
……という話があるんじゃよ、と生前、爺様が教えてくれたんだ。
今の今まで明治期に自分らの身分を高めるためのウソだと思ってたんだが、もしかして
本当にあったのかな。ごめん、爺ちゃん。 質問。対馬の宗氏の参勤交代は『3年に1度』とありますが、これは
a.2年国元にいて1年江戸
b.3年国元にいて1年江戸
c.3年国元にいて3年江戸
d.それ以外
どれですか? d
鹿苑寺・ノートルダム寺院と違い首里城は支配の象徴でしょうか? 中世日本の教育現場の学習体系について質問です。
現在の日本の学校では、大まかに国語・算数(数学)・理科・社会・英語
の五科目がテンプレートになっています。
江戸時代以前の日本の寺子屋等子供に対する教育の現場では、
知の体系はどのように分けられていたのでしょうか。 庭訓往来:寺子屋で習字や読本として使用された初級教科書。
往来物(往復の手紙)の形式をとる。
衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養など多岐にわたる一般常識を内容とする。 >>925
中世では一般的な教育はなく、多くの知識が家伝として秘匿されてます
そのため、大抵の職業は家職として世襲されました
そこの家で専門知識を習わないと職に就けないんだから、世襲以外では無理なんですね 私達が教科書やテレビで見てきた聖徳太子やそれ以外の歴史上の人物って、実は想像上で描かれたものであって、描かれたのもほんの数十年とかに過ぎないんですか?
つまり例えば聖徳太子なら顔写真は、千数百年前から絵が存在するんではないんですね? >>929
聖徳太子を描いたとしてよく知られる画像は唐本御影と呼ばれ、法隆寺で伝えられているのを尊重して聖徳太子の絵だと言っている「伝聖徳太子肖像」
あくまで「伝」
唐の風俗をしたこの人物は太子とは何の関係もないとの説も近時、唱えられている
太子は6世紀から7世紀にかけての人だが、唐本御影は8世紀奈良時代の作とみられる
平安時代の模本とみる説もある
お札の肖像の聖徳太子は、この絵を元に印刷局の職人が銅板彫刻したものである
唐本御影
https://stat.ameba.jp/user_images/20170828/11/kazenofukuoka2/5a/b9/j/o0427060614014882222.jpg?caw=800
旧一万円札
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Series_C_10K_Yen_Bank_of_Japan_note_-_front.jpg >>930
そもそも、この絵は何なのだろう?
唐の風俗を伝える資料だったのかな? よく見りゃ太刀が膝くらいの低い位置で携えられてるな。走るのに邪魔じゃないのかな >>933
歩くのにも邪魔そうだね
このまま動かないのを前提の装束なんだろか? 正殿の儀を見てもそう思ったんだろうか,この朝鮮人は? >>905
人の道に外れるといいつつ
それが実際に外れてるのかというつきつめた議論は歴史上されたことはないと思うよ
NHKでもスルーだし
実際すると悪くないという答えがどうしても出てしまう 不倫にむち打ち刑推進派の男性、不倫発覚でむち打ち インドネシア
https://www.cnn.co.jp/world/35144827.html
何かこれを思い出した 金さんは旗本で忠相は大名という違いより、金さんは北町奉行から後に南町奉行、忠相は南町奉行から寺社奉行という幕府での役職の違いの方が重要だろう
町奉行より寺社奉行の方が上だから、注目するとこは違っても結論は変わらんのだけど。 遠山景元 美濃国恵那郡─5,401石
大岡忠相 西大平藩─1万石
遠山景元は南町奉行止まり
大岡忠相は南町奉行から寺社奉行兼奏者番
三奉行である勘定奉行、町奉行は旗本から任命されるのに対して、寺社奉行は譜代大名から任命され、三奉行の筆頭格とされた。Wiki調べ
大岡忠相の方が能力的にも群を抜いていたと思われる 大岡の主な働きが将軍吉宗の目的を実行することであるのに対して
遠山の主な働きが水野忠邦の天保の改革に抵抗することであったのが
上司の評価の分かれ目ともなったであろう。
改革で庶民を締め付けるのをやり過ぎであるとして抵抗したわけだ。 スタート時点家柄の違い。どちらも養子だけど
遠山の分家 500石
大岡家 1920石 家柄&遠山景元で思ったのですが、鳥居耀蔵(養子なのは知ってる)に繋がる旗本鳥居家の系図を教えて下さい。 >>932
伝・聖徳太子像は日本製説と中国製説があるしね
中国製の場合、勿論描かれているのは日本人の聖徳太子などではない
聖徳太子が神格化した平安時代以降
聖徳太子が現れ出たという伝説をもとにその姿を描いたものであるとされる
聖徳太子の衣装が中国風であるのは描いた人が唐人であったからだということらしい
飛鳥時代に実在の聖徳太子の肖像画として描かれたものでないことだけは確か 徳川家康の「しかみ像」だって江戸時代の作で神君家康公として神格化されてるけど
だからって家康が存在しなかったなんて馬鹿なことは誰も言わないのになぁ。 >>947
徳川家康は本名で名が伝わっているけど、
聖徳太子は本名の厩戸皇子では知名度が低いからな。
それに聖徳太子の名前は生きている間は誰も言わなかっただろうし。
非実在説が真顔で言われた人物の大物は何といっても
親鸞だろう? 江戸時代の江戸城は半蔵門が正門、
現在の皇居は二重橋のところが正門、
であってますか? >>948
否。世良田二郎三郎元信の名は知られてないね
徳川家康も聖徳太子も本名は知らないだろう。そも本名とは? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。