【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 江戸時代に人間を真っ二つにしたりいろんな死刑の方法があったが
浮気したら死刑になるみたいなのもあって
理解不能だったわ
海外だと客人がくると村の娘を差し出してHさせる風習があるところはある
その方が子供が強いのがわかってるみたいだったから >>902
古代だと異母兄弟はギリギリ許容範囲らしい
事情によっては許容される程度には。
同母兄弟は論外でダメだった模様
庶民レベルでもOKなのはおじ甥、おば姪あたりからのはず >>903
不倫は人の道に外れる行為だからそんな人非人は処刑するのが当然なのだ。
今の人は軽く考えてるけど。 亡くなった三宅翁が生前言っていた言葉
「佐藤栄作首相なんかは廊下ですれ違うだけで風圧を感じてよろけそうになった。
今の政治家は小粒になって、もうそんな貫禄のある人はいない」みたいなこと
これって本当に佐藤栄作は貫禄があり、最近の政治家、例えば安倍晋三や鳩山由紀夫、
麻生太郎、小泉純一郎、あたりは小粒ってことなんだろうか?
三宅翁も佐藤栄作がいたころはまだ政治記者として大御所ポジではなく、中堅ポジのはず
三宅翁が中堅ポジの時に安倍や小泉と相対しても「小粒」と感じたのか、
三宅翁が大御所ポジの時に佐藤と相対しても「風圧」を感じたのか、
興味は尽きない 浮気の罪状の重さは身分によって千差万別だろ
統治に関わる人間の妻妾の浮気は、近世までなら組織の存亡に関わることさえあるので、どうしても罪が重くなる
庶民の浮気はそこまで重罪じゃない >>902
ガチの離島や山村は別だけど、他の村との交流がそこそこある場所の場合、
『どの範囲と婚姻するかは、地域市場のカバーする範囲とおおむね一致する』という法則がある。 >>904
古い家系図みたらいとこ婚だらけなんだけど3親等以内は見事に皆無。地域によってはおじ姪やおば甥も一般的だったの?
>>908
すんません、どういう意味がわかりません...
範囲とは場所の話?親等の話?
市場のカバーって何のこと? 同性婚ではないので異母兄妹
大国主,天武天皇,長宗我部盛親,鶴松… >>909
範囲は場所の話です。
「本当に辺境の村を男が訪れたら、『余所者の血が欲しい』と言われて村の多数の女の相手をさせられた」
的な都市伝説を聞いたことがあるかもしれませんが、
『村内結婚を繰り返すと近親婚だらけになる』というのは当然意識することであり、
周辺の村との交流がある程度あるような地域ではむしろ村内ではなく、近くの別の村の相手との結婚が推奨されました。
速水融先生が東海地方のある村で江戸時代の婚姻を分析した結果によると、
村内結婚が2割、近くの別の村との結婚が8割だそうです。
そして中世や近世レベルならば『この村まではここの市場が面倒を見る』という暗黙の了解があるわけであり、
ある程度周囲との交流があるような村では、村の範囲を越えてその市場の範囲内で結婚する傾向があるそうです。 >>911
中世前半まではよくあったらしいけど、後半になると余所者を嫌悪・排斥するのが一般化してくる
中世のなかばごろ(おおむね、南北朝時代ごろ)に何かあったらしい >>910
同母妹との婚姻の嫌疑で皇位継承権を停止されてたという天智天皇?
の話の信憑性は、いかばかりなのか >>903
西洋でも浮気で殺していいみたいのあるっぽい。
青ひげの話は青ひげが異常な殺人者みたいなストーリーになってるが
当時浮気をした妻を殺すことが許されていて青ひげは浮気した妻を殺していたのだ、
みたいな話があった >>911
>>912
何か話がズレてきているような... 大正時代は15年という期間で終わった。
これは大正天皇が病弱だったため。
もし仮に、大正天皇が健康体だったら、大正時代が20年とか30年まであった。
昭和が64年とかではなく、50年とか45年で終わった可能性ありますか? 大正がプラス5年なら 昭和がマイナス5年で59年
大正30年なら 昭和はマイナス15年で49年
したがって、50年とか45年になる計算は誤り 昭和天皇は在位歴代最長だけど、皇位に就く前約10年間くらいを大正天皇の摂政として、皇室の前面に出られていた
つまり、やや大袈裟に言えば、昭和天皇の在位は74年くらいになる
昭和の時代背景も相まって、昭和天皇の存在感が傑出するのはよく理解できる >900
平井上総『兵農分離はあったのか』平凡社
によると、長州攻めの為に不足する江戸城警護には民兵を挑発している江戸幕府のやり方は
後北条氏の民衆動員と類似しているとの藤木久志の指摘や各地の藩が民を組織に組み込んでいる例を取り上げ
従来言われている「兵農分離」には疑義を呈している
もっとも何を指して「兵農分離」とするかについては、戦争時の動員・身分制・土地所有・居住地等々、どれを基点にするかによって研究者の見解は異なる >>920
うちの田舎(栃木)の地域。まあ百姓地帯なのに、鉄砲持っててさ。
「何かあったときは殿様の助けに行く」みたいな書状が各家にあって、苗字もこっそり
持っててOK。でも表に出すな。
……という話があるんじゃよ、と生前、爺様が教えてくれたんだ。
今の今まで明治期に自分らの身分を高めるためのウソだと思ってたんだが、もしかして
本当にあったのかな。ごめん、爺ちゃん。 質問。対馬の宗氏の参勤交代は『3年に1度』とありますが、これは
a.2年国元にいて1年江戸
b.3年国元にいて1年江戸
c.3年国元にいて3年江戸
d.それ以外
どれですか? d
鹿苑寺・ノートルダム寺院と違い首里城は支配の象徴でしょうか? 中世日本の教育現場の学習体系について質問です。
現在の日本の学校では、大まかに国語・算数(数学)・理科・社会・英語
の五科目がテンプレートになっています。
江戸時代以前の日本の寺子屋等子供に対する教育の現場では、
知の体系はどのように分けられていたのでしょうか。 庭訓往来:寺子屋で習字や読本として使用された初級教科書。
往来物(往復の手紙)の形式をとる。
衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養など多岐にわたる一般常識を内容とする。 >>925
中世では一般的な教育はなく、多くの知識が家伝として秘匿されてます
そのため、大抵の職業は家職として世襲されました
そこの家で専門知識を習わないと職に就けないんだから、世襲以外では無理なんですね 私達が教科書やテレビで見てきた聖徳太子やそれ以外の歴史上の人物って、実は想像上で描かれたものであって、描かれたのもほんの数十年とかに過ぎないんですか?
つまり例えば聖徳太子なら顔写真は、千数百年前から絵が存在するんではないんですね? >>929
聖徳太子を描いたとしてよく知られる画像は唐本御影と呼ばれ、法隆寺で伝えられているのを尊重して聖徳太子の絵だと言っている「伝聖徳太子肖像」
あくまで「伝」
唐の風俗をしたこの人物は太子とは何の関係もないとの説も近時、唱えられている
太子は6世紀から7世紀にかけての人だが、唐本御影は8世紀奈良時代の作とみられる
平安時代の模本とみる説もある
お札の肖像の聖徳太子は、この絵を元に印刷局の職人が銅板彫刻したものである
唐本御影
https://stat.ameba.jp/user_images/20170828/11/kazenofukuoka2/5a/b9/j/o0427060614014882222.jpg?caw=800
旧一万円札
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Series_C_10K_Yen_Bank_of_Japan_note_-_front.jpg >>930
そもそも、この絵は何なのだろう?
唐の風俗を伝える資料だったのかな? よく見りゃ太刀が膝くらいの低い位置で携えられてるな。走るのに邪魔じゃないのかな >>933
歩くのにも邪魔そうだね
このまま動かないのを前提の装束なんだろか? 正殿の儀を見てもそう思ったんだろうか,この朝鮮人は? >>905
人の道に外れるといいつつ
それが実際に外れてるのかというつきつめた議論は歴史上されたことはないと思うよ
NHKでもスルーだし
実際すると悪くないという答えがどうしても出てしまう 不倫にむち打ち刑推進派の男性、不倫発覚でむち打ち インドネシア
https://www.cnn.co.jp/world/35144827.html
何かこれを思い出した 金さんは旗本で忠相は大名という違いより、金さんは北町奉行から後に南町奉行、忠相は南町奉行から寺社奉行という幕府での役職の違いの方が重要だろう
町奉行より寺社奉行の方が上だから、注目するとこは違っても結論は変わらんのだけど。 遠山景元 美濃国恵那郡─5,401石
大岡忠相 西大平藩─1万石
遠山景元は南町奉行止まり
大岡忠相は南町奉行から寺社奉行兼奏者番
三奉行である勘定奉行、町奉行は旗本から任命されるのに対して、寺社奉行は譜代大名から任命され、三奉行の筆頭格とされた。Wiki調べ
大岡忠相の方が能力的にも群を抜いていたと思われる 大岡の主な働きが将軍吉宗の目的を実行することであるのに対して
遠山の主な働きが水野忠邦の天保の改革に抵抗することであったのが
上司の評価の分かれ目ともなったであろう。
改革で庶民を締め付けるのをやり過ぎであるとして抵抗したわけだ。 スタート時点家柄の違い。どちらも養子だけど
遠山の分家 500石
大岡家 1920石 家柄&遠山景元で思ったのですが、鳥居耀蔵(養子なのは知ってる)に繋がる旗本鳥居家の系図を教えて下さい。 >>932
伝・聖徳太子像は日本製説と中国製説があるしね
中国製の場合、勿論描かれているのは日本人の聖徳太子などではない
聖徳太子が神格化した平安時代以降
聖徳太子が現れ出たという伝説をもとにその姿を描いたものであるとされる
聖徳太子の衣装が中国風であるのは描いた人が唐人であったからだということらしい
飛鳥時代に実在の聖徳太子の肖像画として描かれたものでないことだけは確か 徳川家康の「しかみ像」だって江戸時代の作で神君家康公として神格化されてるけど
だからって家康が存在しなかったなんて馬鹿なことは誰も言わないのになぁ。 >>947
徳川家康は本名で名が伝わっているけど、
聖徳太子は本名の厩戸皇子では知名度が低いからな。
それに聖徳太子の名前は生きている間は誰も言わなかっただろうし。
非実在説が真顔で言われた人物の大物は何といっても
親鸞だろう? 江戸時代の江戸城は半蔵門が正門、
現在の皇居は二重橋のところが正門、
であってますか? >>948
否。世良田二郎三郎元信の名は知られてないね
徳川家康も聖徳太子も本名は知らないだろう。そも本名とは? 日本史では(世界史でも?)太平洋戦争が基準となって、
太平洋戦争後が「現代史」となっている
今後、特に大きな国の根幹を揺るがす出来事や大きな価値観の変化がなければ、
この先もずっと太平洋戦争以降が「現代史」という形が続くのでしょうか?
大きな事柄がなければ、100年後でも太平洋戦争後(1945年〜2119年)の174年間が
「現代史」になるのですか?
また、極端な例ですが、短期間でかなり大きな事柄が続いた場合、その短期間の間で
「現代史」の範囲が変化するということですか? >>952
時間がたてば変化するだろうね。
おいらがガキの時代(昭和50年代)は明治維新以後を現代史扱いにしていて、
戦後はあまりに生々しすぎたから、パスしていたからな。
時間がたってから、明治から戦前までのこともやり始めたけど。
おそらく令和が終わって次の元号になると、
また近代・現代の範囲も変わると思う。 >>953
自分も昭和50年代が子供時分だったけど、戦争後が現代だった印象だけどな〜
明治維新からが現代って印象はない
この辺は人や地域によるのかな?
まあレスありがとう >>947
法隆寺や四天王寺を建てた仏教かぶれの皇族・厩戸王は実在した
しかし聖徳太子は実在しなかったってだけでしょ
だいたい当時は皇太子制度はなかったのだし
蘇我馬子の功績を削って聖徳太子がやったことにした部分が多い 初物だから当時以前に制度はなかったは当然のこととして
>>954
現代「社会」であって歴「史」にはなってないから >>954
井沢元彦の逆説シリーズは明治になっても詳しくやっているな。
明治も歴史として語られるようになったのだなと
しみじみ思った。
おいらがガキの頃は明治生まれが総理大臣をやっていたから、
明治は歴史として語られる対象ではないと認識してたのだけどな。 >>957
それはないわ
受験でも明治はちゃんと勉強しなくてはならなかった もうだいぶ前のことだが多賀城市の東北歴史博物館が出来た頃に見に行ったら常設展示の
最後の方が昭和の文物で昭和も歴史の一部になったのかと驚いた。 大東亜戦争が近代史の終わりだとして新たな区切りはどこになるんだろうね?
1. 冷戦終結 は思いの外日本史に影響がない。新冷戦で終わりともいえなかった
2. イラク戦争
3. リーマンショック
も同様。周回遅れで日本に来るかもしれないがテロも恐慌も少し縁遠い >>961
オイルショックとバブル崩壊、
1985年のプラザ合意、
大穴で小泉の靖国参拝騒動でマスゴミの力とネットの力関係が変わった
ことだと思うけど、
教科書で取り上げるかどうかは疑問だな。
元禄バブルの崩壊でも教科書ではあまり取り上げないしな。 明治以前の天皇の名称についての質問です。
一世一元の制が制定された明治以降に亡くなられた天皇はその時代の元号を取って「(元号名)天皇」になるようになったのは分かります。
疑問に思っているのは明治以前の天皇の名称です。明治以前は元号がコロコロ変わっていたので「(元号名)天皇」という風にできないのは分かります。
例を一つ挙げると、慶応時代にいた天皇は「孝明天皇」と記されます。「孝明天皇」自身の名前は統仁(おさひと)でありますが「統仁天皇」とは言いませんよね。孝明天皇の孝明とは一体どこから来たのでしょうか? >>963
生前の事績に基づく「贈り名」
初代神武〜四十四代元正は天平の頃に淡海三船により一括推撰された
この一括諡号の前のものとしては例えば聖武天皇は勝宝感神聖武皇帝とされていたと伝わる >>963
中国では諡号(しごう)と言って死後に生前の事績に基づいて号を贈ります。諡を大和言葉では
「おくりな(贈り名)」と読みます。中国に倣って日本もそういう制度になってます。
ただし日本では天武天皇という漢風諡号とは別に天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきの
まひとのすめらみこと)という和風諡号があったとされています。淡海三船が漢風諡号をまとめて
つけた歴代の天皇も和風諡号はあったとされます。
そうすると中国の文化が入ってくる以前から諡号という文化があったのか、中国の歴史書に記録の
ある「倭の五王」以前から大陸の文化を取り入れていたのか、その辺は謎です。 >>963
日本の元号ももともと中国の唐に倣って美字を当てて始まったものですからね
天皇号は奈良時代に歴代天皇にも美字2文字を当てて号にしようと始まったんですが
平安時代中期以降には退位した天皇が住んでいた院御所
(冷泉院とか三条院とか白河院とか)
の名前で呼ばれてそれがそのまま天皇号になったりもしていました
江戸時代末期に閑院宮家から即位した光格天皇が故事復興に熱心で
奈良時代につけられた古代天皇の名称のような
美字2文字を選ぶ形式に戻せと言いだして
縁起がいい漢字を2つ選んで付ける形式に戻ったものです 和風諡号がはじまったのが、飛鳥時代頃だっけ(もしくは奈良時代初頭)。それ以前の大王の諡号は追贈。
奈良時代後半頃に漢風諡号がはじまり、そのとき過去の大王・天皇に追贈された 引退した天皇のことを院と呼ぶようになった経緯とか理由とか教えてください
院の御所とか院政もすべてはそこからですよね >>968
嵯峨上皇が今日の大覚寺の地に御所を新造、嵯峨山荘、嵯峨別館などとも呼ばれたが天皇在位中に離宮として使われていた時に既に嵯峨院との記述がある
嵯峨上皇は嵯峨院と称せられるようになった
これ以後、上皇の異称として院号が定着するに至った >>968
院はもともと垣根を設けた建物を意味しており
平城宮や平安宮でも朝堂院とか豊楽院とかいう風に使われた
天皇の離宮や上皇の御所も一般人が入れないよう
垣根を設けて周囲と区別していたので地名+院の名称で呼ばれた
退位した天皇は太上天皇、通称上皇と呼ばれたれども
藤原摂関家の台頭とともに幼帝が即位して成人すると退位させられるケースが増え
同時期に上皇が大勢いることも普通になった
一院、新院などと呼んで区別するのだけど増えすぎると訳が分からなくなる
そこで住んでいる場所(地名+院)で呼んで区別した 巨勢人(こせ の ひと)や紀大人(き の うし)って
やっぱり身体が大きかったの? 巨勢は姓だから変えられないし
紀大人は父の名前が紀大口だから一字取っただけでは
この時代の名は読みに漢字を当てただけだから人は比等とも書くし
藤原不比等も藤原史(読み方同じ、ふひと)とも書くしね 下記の二つ、日本史的にはどちらの方がより重要なトピックでしょうか?
・明治維新期の「王政復古の大号令」
・敗戦時のいわゆる「人間宣言」 >>972
ありがとう
巨人とか大人とかそういうところが目について気になったけど
そういう意味はないのね 本居宣長を鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ぶなど、
大人(うし)とは体の大きな人という意味ではなく、
先生とか貴人とか立派な人みたいな意味。 https://i.imgur.com/Iv0Ibjn.jpg
木版の浮世絵に書いてある歌で、
4行目は「こぶしの枝」らしいのですが、
全体で何て書いてあるのか分かりません。
お分かりになるから、ご教示ください。 >>981
一行目の終わりは「笑ふ」かもしれない。
二行目の終わりと三行目は「ん とや」かもしれない。
全然違うかもしれない。 >>982
ありがとうございます。
いまのところこんな感じでしょうか。
□む□□笑ふ
小□□う□ん
とや
こぶしの枝を
□□□□□く
浅春庵 トウモロコシについての質問です
「無限の住人」という江戸時代を舞台にしたアニメを見ているとトウモロコシがでてきました
えっ昔からあったんだ?と思ったのでWikipediaを軽く眺めてみて概ね納得はできました
主食にならなかったのも日本の環境に向いてなかったのだろうなとか考えましたが1つだけ理解できない点があります
「玉蜀黍」という漢字表記は何故一般的にならなかったのでしょうか?
今でこそ外来のものはカタカナ表記させたりしてますがこれは今の考えであり江戸時代では一般的ではありません
感じで表記していたなら「小麦」や「薩摩芋」のようにそれなりの認知度があります
何故「玉蜀黍」は現代の人間に馴染みがないのでしょうか? >>984
「とうもろこし」は今でこそ漢字表記・玉蜀黍で統一されてるが
もともとは「唐(とう)」「唐土(もろこし)」で
中国から来た食べ物という意味だったという
玉蜀黍と書かれた文献はあるもののこの漢字は一般的ではなかった
全国的には「とうきび(唐黍)」と呼ぶ地域も多く
「なんばんきび(南蛮黍)」と呼ばれたことも
とうもろこしはイネ科で同じイネ科の黍(きび)に似ていたことかららしい
全国統一表記にしたときに教科書や辞書など
平仮名で「とうもろこし」としたせいでは トウモロコシに、中国起源の漢名「玉蜀黍」を無理やり当てたのは、
江戸時代の本草学者たちかと。
蒲公英(たんぽぽ)とか、仙人掌(サボテン)とか、
すでに和名があるものにも、漢籍からとってきた漢名
を当てていました。大陸にない場合には無理やり漢語を
つくったりもしてました。(紫陽花など)
単純に、その中でも受け入れがたいものは廃れていったんだと
思います。裙蔕菜(ワカメ)とか。 >>983
□む来し笑ふ
小鳥□う□ん
とや
とわしの枝を
すきること清く
? >>985-986
なるほど「唐土」も使われてないけど確かにワカメもあまり漢字表記しないね…
この辺りは完全に当時の人の感覚で決めてて
そこまで漢字表記にはこだわらなかったのか >>981
五行目、こぶしの枝じゃなくてとわの夜 という可能性も考えた
5文字で文字数足りないけど、前の行の末に二文字だけ分けて書いてあるのがセットになってて合計で7音とか >>988
単に、普及しなかった当て字がいくつもあるだけなのでは。難しく考える必要はないと思う >>987
>>990
ありがとうございます。
みみずくの絵なので、「とわの夜」はありそうですね。
自分でもMojizoで調べたのですが、お手上げでした
https://mojizo.nabunken.go.jp/ 浅春庵だけで検索しても「天受玉園浅春庵安良 こぶしの枝 ミミズク」と出てくる
こぶしの枝で間違いない あ、ググってトップのヤツが、そのまんまの図像(クッキリしてる)
ukt310-天受玉園浅春庵 こぶしの枝 ミミズク
と書かれてるな。少なくとも、絵が こぶしの枝 ミミズク であることは間違いない
文章がわからない みなさん、どうもありがとうございました。
やっぱりくずし字は難しいですね。
海外の方になんて書いてあるのかと質問されたのですが、
特別な修行をしないと読めない、と答えておきます。 もう遅いだろうけど
相むれし笑ふ
小鳥もうらむ
とや
こぶしの枝を
すぎるみ々つく
じゃないかな? 思いなおしました
相むれし笑う
小鳥をからむ
とや
こぶしの枝を
すぎるみ々つく
旧案では歌の意味がいまいちわからないものだったけど
新案だと歌の意味がはっきりします いや、よくわからないが‥
だいたい外国人でも昔の人の書いた欧文の筆記体とかちゃんと読めるのかな >>999
相むれし笑ふ小鳥をからむとや
たくさん集まって笑っている小鳥を狩ろうとしたのか
こぶしの枝をすぎるみ々つく
こぶしの枝をかすめたミミズクは
意訳
こぶしの花が咲き誇っているよ
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