先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 明治になって神主の世襲制が禁止されたという話があったので調べてみたら、
明治4年に神社は全て国家の宗祠となる。
うちの場合は明治6年に社格が郷社と認められ、神官は今までの宮司である世襲制の宮司がそのまま、祠官に任ぜられただけの話だった。
特別な事は何もない。 自動的な世襲制はなくなり、ただ国が任命するというだけの話で、多くの宮司はそのまま任命されたと思われる。
勿論厳正な審査は有ったらしいが。
寺との関係は、元々その辺りは国府所属のある寺の荘園だったが、先祖が地頭として来て神社をまとめていた。寺としては神社ができた300年後位に領内に建てられたが、神社と寺のむすびつきはあまりなかったようだ。 元々荘園と年貢を取り立てる地頭との関係だったから。
寺が建ったのは地頭の力がなくなって来たからだろう。
神社や寺が焼けた後、神社は再建されたが寺は再建されなかったので仏像を神社でお祭りしてた事はあった様だが。 >>前スレ994
仏は怒らないってのは日本に定着しなかった本来の思想だな
日本では仏も怒るし祟る
中世のいろんな事件、記録で仏の怒りやたたりが記されてきてるんだよな もう少し調べてみたら、世襲禁止令が出たのは、出雲大社を除く大きな神社には禁止令が出たらしいけど、地方の小さな神社には禁止令は出なかったらしい。
だからほとんどの小さな神社は今でも殆どが世襲制として続いているのが実情みたい。
この間富岡八幡宮の宮司争いで骨肉の争いがあったのは記憶に新しい。 あの程度の神社でも世襲制が続いていた証拠。 社家富岡が代々宮司を継いでいる。
でも資質に欠けると思ったのか神社本庁から許可が出なくて、神社本庁から離脱している。 >>3
前スレの973 って「うちの神社は」ってやる高卒爺さんかw
なんか勘違いしてるみたいだが、糞田舎の掘っ立て小屋みたいな神社の祢宜さんまで
役人が決めるはずないだろ。国家はそんなに閑じゃないよw
神社っていうのは由緒を装飾するんだな。
荘園がどうしたとか地頭がどうしたとか、言えば言うだけいかがわしいわけだが。
まあ、明治まで寺で、珍しい苗字というから寺で使われてた隠亡の類。
廃仏毀釈の勢いの強かったところで坊主は追い出され寺は廃寺に。残った甍に
兄弟親戚集めて入り込んで神社にした。その後、要領よく郷社に認定されたんだろ。
山を寄進されたのがよかったとかいう話だが、寺子屋で食ってる貧乏神社に山を
寄進するような奇特な人がいるわけない。
寺のときに寄進されたんだよ。それが財産ありとして認定されるという幸運を呼んだ。
って別にあんたのことじゃないよ。心配すんなってw
>>4
知識を分析・分類できないんだよな。ここが高卒。
>中世のいろんな事件、記録で仏の怒りやたたりが記されてきてるんだよな
事例を挙げてごらんw >>6 苦し紛れの言い逃れは見苦しいぞ。
因みに富岡八幡宮の社格は、旧府社、別表神社。
世襲禁止令が出たのは、官国幣社(官幣社、国幣社)までだったみたいだ。
これらの他には、府県社、郷社、村社、その他が有り、これらには世襲禁止令は出なかった様だ。
富岡八幡宮は、府社だから世襲が許されていた。
例えば、湯島神社 / 湯島天満宮も明治5年は郷社で、明治18年に府社に昇格。
虎ノ門の金毘羅宮も府社
鶴岡八幡宮は国幣中社
氷川神社は官幣大社
三峯神社は、郷社から県社に昇格
横浜西区の浅間神社は村社 >>6 宮司も神主も区別がつかない人間が禰宜なんか持ち出すなよ。 禰宜の世襲制なんかの話はしていないだろ。
社家(しゃけ)でWiKi でも検索してみろよ。
社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家(氏族)のことである。明治維新後、現代まで世襲している神職家のことをいう。 とんでもない爺様に取り憑かれちゃったなw
学問やってないから知識を分析的に捉えることができない。あなたはその典型
あのねー、官国弊社になること勿論府県社ク社や村社になることは奉幣を受けることなの。
つまり神主は官吏ないし準官吏であって金もらえたのよ。
だからこれまでみたいに単純に子供だから継げるというようなわけにはいきませんよ、
ってことになったの。そういう意味の世襲禁止。
子供はなれませんというわけではない。
役所の吏員に、吏員の子供だからなれるってわけではないでしょ。でも採用試験に
通れば問題ないでしょ。それと同じだよ。役所が関与するの、自動的にってわけには
いきませんよってこと。
子供だから継げないわけではない、というのをあなたは勝手に理解してしまってるのよ。
そしてメチャメチャ興奮して書き込むわけ。餅つけ、って奴だよホントにw
あなたは私が天皇家や千家家でも家系を繋ぐのは難しいといったら、俺んちの
まわりには親族がいっぱい住んでて神主の勉強をしてる奴もいるから断絶は
しない、とか言ってたけどさ。天皇家や千家家と俺んちを並べてる時点で
既に噴飯ものなのよ。
それに皇統を継ぐというようなことは、同じ名字の奴が継げばいいというような
ことではないでしょ。万世一系でしょ。直系で繋がっていくのが原則なのよ。
天皇家でも傍系はあるけどさ。ただ同じ名前の奴が継げばいいというような
ことではない。もう勘弁してくれよ。あんたやだよw 禰宜ってのは馬鹿にして言ったんだよ
田舎くさい感じがするだろ。梶井基次郎の小説でも、こどもがバッタつかまえて
禰宜さん禰宜さん、ってやるシーンがあるんだが。
いかにもバッタの顔ってのは祢宜みたいだと書いてあるよ。
あんたもそんな顔してんじゃないの。じゃあね。 >>8 ま、かなり若い勉強中の学生なのかもしれないけど、知識が偏りすぎてるし思い込みが激しすぎ本当の歴史をものすごく曲解している。
先祖探しをしているのに、官幣社国幣社の宮司なんて精々千人そこらへんにの物では? そんなのを持ち出してなんになる。
方やそれ以外の神社は何十万それ以上ありそっちの関係者の方が圧倒的に多いだろ。 相談者もそっちの方に入るし。
神社が明治までなかったなんて片腹痛い。 昔は(明治以前も)
丸々宮とも言ってたし、丸々神社とも言ってたんだよ。 どういう使い分けをしてたのかはよく知らないが。
宮司と神主見たいな関係じゃないのかな。
勝手な想像をすると丸々宮は、天皇家等を祀ってるからお宮様。 その社は神社という様な使い分けではなかったのかと思う。 昔の寄進帳にも両方の記述がある。
寄進先は、大宮司宛。 宮司は神社の全ての権限を持った職階。 神主は祭を行う神職。 なのかな? >>9 もう一つ、少しおかしな表現はこじつけ過ぎる表現。
> それに皇統を継ぐというようなことは、同じ名字の奴が継げばいいというような
> ことではないでしょ。万世一系でしょ。直系で繋がっていくのが原則なのよ。
うちは少なくとも、今の苗字になってからの子孫は全て直系だよ。 最初に苗字をもらった人から700年も経って日本全国に千人(よくわからないが多くて数千人?)もいなさそうというのが多いのか少ないのか知らないが、断絶する様な状態ではない。
その前の氏は、古事記にも書かれている家系でその氏出身である事は間違いないのだが古事記の人物と血の繋がりがどこまであるのかはわからない。 昔は血の繋がりよりは氏姓だから。
いまだに先祖祭を年1回行ってるし、Facebookには同じ家系用のグループでコミュニケーションを取ってるし。 先祖の話してんじゃん
嫌なら読まなきゃいいんだし誰もお前に合わせて書き込む義務はない。
ブーブー文句たれてんじゃねえよボケ 父方の祖母の実家が庄屋と聞いたけど、蔵が幾つあったとか色々話が大袈裟であまり信じてないけど
東北地方は肝煎っていうらしい >>17 別に大げさではないと思うよ。 かなり裕福な暮らしをしてた庄屋は多い。 うちの地方の庄屋は藤原氏を名乗ってた。 庄屋って年貢を一時的に保管するためにも蔵はたくさん必要じゃなかったのかな。 わしゃ、鎌倉時代まで墓が遡れる庄屋系の家系じゃけぇのう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ここは先祖探しのスレなんで先祖の自慢話とかやめて下さい
基本、先祖が分かった人は用はないです。
先祖探しのエピソードならいいけど ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. もともとは平氏の落人で、家紋が揚羽蝶だったが室町〜江戸初期あたりに、家紋が丸に橘に変わったと親戚から教えてもらったんだけど
平氏から橘氏の家紋に変わるなんてありえることなの?
苗字は色川 >>17
17の先祖はたぶん惣名主
名主を束ねる名主。名主たちの入れ札で決まることが多かった。
weblio辞書の説明がいいよ。惣代名主となっているけど
惣代名主とは?歴史民俗用語。 読み方:ソウダイナヌシ(soudainanushi)江戸時代、年貢米を
領主の御蔵まで廻漕する際、宰領にあたる村落の代表者。別名 納名主(おさめなぬし)
新田なんかが増えると、そこの名主には大きな蔵などなくて、何ヶ村分もまとめて
受け入れられる蔵を持った名主のところに集めたりした。また山の方にある村々から
船着き場近くや街道筋にある大きな名主のところに集めるなど。
名主の蔵の建設費は村の入り用(公益費)から出てたわけで公共物だった。
入り用としなくても、名主が集めた米から建設費を回収するので同じだった。
私的な蔵との区別がつかない問題もあった。幕末、帳簿の公開を求めて村騒動が
起こるのは惣名主に対しての場合が多い。
こういう名主のところには大きな蔵がいくつもあって当たり前。まあ農林水産省の倉庫みたいな
もんかな。
蔵が主で、名主の家はその付属物みたいなものだった。 今更だが、スレタイに誤字がある。
誤:先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る
正:先祖探しのエピソードを語る但し血族先祖に限る >>28うちの地方は年貢おさめるために峠越えしなければなず危険かつコストが嵩む為
途中から市場で売却して金納になってるけど・・・維新後の地租騒動とか鑑みると
珍しい地域だったのかね? たいていの地域では、戦国時代後半頃の貨幣混乱期の影響で銭納付から米納付に切り替えられたからなあ >>31
釣りかな?まあいいか。回答してやろう。
石代納(こくだいのう)という言葉でググれば分かるが、金納制は別に珍しいことじゃなかった。
年貢というと米だけのように思う人が多いが、畑にも年貢はかけられたのだ。
畑の作物にかけられる年貢は、作物そのもの(現物納、以下物納)と金納だった。
菜っ葉や大根の物納というわけにもいかないだろうから、金納が多かったと思われる。
物納の具体例はあまり知らないが、干し柿を長い串に刺したもの、あるいは何故か蓮根は
物納だったと聞いたことがある。宮崎の干し大根は有名だが、ああいうのは物納にできたか、
あるいはもしかしたら物納のためのものだったのかも知れない。
畑への年貢で金納は普通のことだから、米の代わりに金銭を納める石代納も割合広く行われ
ていた。大和の天領は一国全部金納だった。あと伊予(愛媛)。信州にも多かったようだ。
他のところも具体的に分かるから調べてみるとよい。
なんで奈良は金納だったかというと、まず南半分は山ばかりで米の物納だと不便ということ。
それと国中(くになか、奈良平野)は商品作物の栽培が盛んで商品経済が進んでいた。
麻とか綿とか、みな金になる作物を作っていて、そういうものからの収入で年貢を払ってしまう
方が楽だった。あと、今からは不思議に思えるが、奈良では大量に酒を造っていた。
たぶん京や大坂へ販売していたのだろう。どこも造り酒屋だらけで、こっちに米を売ってそれで
年貢を払うという百姓が多かったという。
伊予で石代納だったのは、銀山の山師による買い占めの結果。
伊予では蜜柑がそうだった。まだ実がならないうちから山師が一山いくらで買ってしまう。
それが米も同じようになった。米は相場があるので、当たれば大儲けできるのである。
稲が青いうちから買い占めてしまう。これを青田買いといった。 >維新後の地租騒動とか鑑みると 珍しい地域だったのかね?
失礼だが、地租騒動の理解がちょっと間違ってるかも知れない。
これについては司馬遼太郎があちこちで書いているので、それを信じてしまっている人が多い。
しかし司馬が書いているのは全くの出鱈目である。
百姓たちは金銭を得る手段がなく、にもかかわらず金納を強いられるのが死ぬほど辛かった
というのであるが、上に見たように畑の年貢は金納であったし、田んぼのない山奥の粟や稗ば
かり食べているような村でも金納していたのである。
地租改正に対する反対運動はそんな理由で起きたのではない。
これについては簡単に書くのは困難だが、ざっとこんなところだ。
まず、米の年貢を金納としたときは、その年の収穫を見て村に割り当てられた年貢からさらに
個々の百姓の年貢が決まっていく(村請制度)。
ところが租税ははじめから各人に直接にかかってきて、しかも一律である。
名主たち村役人による調整もない。一部の百姓だけ十分な収穫が得られなかったという場合、
年貢は半分にしてその分は村全体で持つ、というようなことは一切行われない。
田んぼの評価額に応じて3%(のちに2.5%)一律に負担しなければならなくなった。
また、維新前は年貢が払えなくて高利貸しに金を借りて返せず田を取られても、そのまま
耕作でき、しかも借金を返せば買い戻せるという特約があるのが普通だった。
しかし、税金の場合はそうはいかない。払えなければ延滞金、最後は差し押さえである。
さらに、地租だから住居用の土地にもかかる。江戸や京、大坂などの都市部ではともかく、
維新前は田舎の農家の敷地にはかからなかった。
山林にも税金はかかってくる。それまでは山年貢といって山林の収益に応じて支払った。
山を所有しているだけでは一文もかからなかったのである。 さらに、地租改正に付随して、「誰のものでもない土地」が無くなってしまった。
皆で利用していた土地が、いい加減な認定で誰かのものになる。
これは腹が立つが、では自分のものになったらいいかというと、税金がかかってくるから
それも困るのである。
所有者の分からない山は官有林になった。いままで慣習的に薪を切り出していたのが
窃盗罪になりかねない。入会権はその後民法で認められたが、範囲が不明確で漸次縮小
していくしかなかった。
おそらく金納に反対する農民など一人もいなかったろう。もし政府が地租改正した後、再び
昔のように米の物納などと言い出したら、全国的な一揆が起きたかもしれない。
仕方がないからやっていたことなのである。年貢納入の費用などを見ると「油紙」というのが
ある。米を運ぶ途中雨が降ったらたいへんなので、米俵に油紙をかけて運んだものだった
らしい。1000年以上こんなことをやって、明治になってようやく解放されたのである。
百姓たちの願いは物納に戻すことではなく、出来高に応じて課税してもらいたいということで
あった。それと村落共同体の維持。名主の蔵には必ず救貧米が積まれていた。救貧米を
用意しておくのは名主の責務だった。維新後はそういうものがいっさい無くなった。
農民たちは誰の庇護もなく、一人で世間と向き合わねばならなくなった。
老人であろうと病弱であろうと、個人の事情などいっさい考慮せず、一律にかかってくる
税の負担に耐えなければならなくなったのである。 × まず、米の年貢を金納としたときは、その年の収穫を見て村に割り当てられた年貢からさらに
個々の百姓の年貢が決まっていく(村請制度)。
↓このように訂正
○ まず、年貢を米で物納していた時代は、その年の収穫を見て村全体の年貢が決まった。
その年貢を基に個々の百姓に年貢が割り付けられていく(村請制度)。 >>33
畑どころか屋敷地にも年貢がかかってるしな
耕作できないのに上田扱いで。 >>35
× 誰のものでもない土地
○ 村の共有地(村有地)
普通、特定の村の住人しか利用できないよ
ときには村同士の話し合いで、複数の村で共同利用することもあるけど、
その場合でも、外部の村の人が利用すると泥棒扱いで処罰だ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>20
庄屋の話は勘弁ゆうが、江戸の武士層は逆に江戸以前なんてほとんど遡れないぞ >>38
あ〜〜あ、馬鹿だなあw
君ね、維新前の日本は近代的な法体系を持たない国だったということを
押さえないと駄目だよ。近代的所有権概念すら無かったのだ。
百姓が耕している土地でも、上土権とか下土権に代表される、所有権とも制限物権とも
言いかねる摩訶不思議な権利が存在していた。
絶対的所有権、およびそれを制約する制限物権という観念がないので、人々が利用して
いる山林や土地でも「誰のものでもない」土地が存在した。
近代国家としての法体系と租税制度を作りあげようとしている明治国家にとって、入会地と
いうのはそれこそ扱いに窮するような問題だったのだ。
絶対的所有権概念と契約自由の原則が私法の核だ。
誰のものともいえないような土地が存在しては近代国家といえない。
土地は官有地と民有地に分け、それぞれ権利者(権利の帰属主体)を確定しなければ
ならない。その場合、自然の山林などではなく、集落があるようなところはなるべく
民有地にしたい。(明治六年以前は官有地でも民有地でもない公有地というのもあった。
突っ込む馬鹿がいるので一応書いておく。)
そうしないと税金が取れないからだ。また民間で有効に利用することによって国が富む。
だから明治政府は地券を発行して土地所有者を作りだそうとした。
大きな土地は分割して周辺の者を所有者にしてしまうこともあった。
いつのまにか土地所有者となっていて、税金を請求されて目を白黒させる者もいた。
畑にも田んぼにもならないようなところは村の所有地とした。村は公法人で権利主体と
なれる。困ったのはただの集落で、法人格がないから所有者にできない。それで
主立った者数名に分割して帰属させるようなこともあった。
そうやっていっても、近代法体系にマッチしない入会権等は残った。 ところで、君は江戸時代の百姓ぐらいの法知識しか無いようだな。
>○ 村の共有地(村有地)
なんだこれは?? 村有地なら公法人である村が所有権を有する土地だろ。
所有者は村。その村有地が何で「共有地」なんだ? 誰と誰が共有してるの?
頭大丈夫か。
あと、村中入会と村々入会の違いみたいなものを微かでも知ってるのはエライが、
そういう話はここでしてもしょうがないだろ。
おまけに「普通、特定の村の住人しか利用できないよ 」とか言われてもな。
素朴すぎて言葉を失うわ。小学生の作文と思えばいいのか、、、 >>42
明治政府が村を法人と認めなかったからだろ >>33〜
すごいなー博学な人がいるから何とか成り立ってるんだね日本史板は >>40 長々とうざいんだけど、いつものやつだろ。 先祖探しと何が関係あるんだ? 自分のうんちくを書くんだったらブログにでもかけよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>47 くだらんこと書くな。 スレチだぞ。 どうしても描きたいならコテハンをつけろ。
この馬鹿たれが >>37
>>38
>>40
>>43
>>45
あんた一人でスレのレベル下げてるじゃん。消えろや 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>49
そのうち三件は俺だが二件は別人だぞ、混同するな >>53 コテハンつけなければアホはお前一人だと思われて当然。 コテハンなんて普通はつけないぞ
現にお前さんもつけてないだろ >>53
ここまでの馬鹿はめったに居ないからお前なの
お前に決まったんだよ
文句ゆうな糞が 幕末に(庄屋家系の)分家が一橋家の家臣になってるのだが家臣帳みたいの調べれば載ってる? 農民 名主の家の出 一橋家家臣になった
↓
渋沢栄一じゃんw 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 先祖が仙台城下の米ヶ袋って町に住む下級武士だったらしいんですが、米ヶ袋って下級のしたっぱが住める所だったんですか? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93O1b2a1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1
平安時代後期の武将で、平泉に中尊寺を開基した奥州藤原氏の祖・藤原清衡(Fujiwara no Kiyohira, 1056-1128)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)である(注1)。
これは、奥州藤原氏四代のミイラに対する骨格の調査や、子孫複数名から得られたサンプルの解析結果などによる(注2)。藤原清衡の血液型はAB型。
日本人と朝鮮人に高頻度なハプログループ01b2
https://famousdna.wiki.fc2.com/upload_dir/f/famousdna/7fee4634f7cdc782025c165508746982.jpeg https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93O1b2%E7%B3%BB%E7%B5%B1
日本人の中で一番多い姓と言われ、東北地方にその大多数が存在する佐藤氏(Sato clan)の男性のY染色体ハプログループを解析した結果、
その殆どがハプログループO1b2(O-P49)の系統に属することが明らかとなった(注1)(注2)。 >>61
https://flom-sendai.at.webry.info/201708/article_1.html
藩士といったって武士ばかりじゃなくて職人や餌差、籠かき、
絵師とかいろいろいた。
そういう人達は城近くに住む。
藩士じゃなくて陪臣なら城近くに住む大身の旗本の屋敷の
長屋にいるわけだし。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 造幣局て
紙幣を発行する藩はあるが(藩札、借金みたいなもん。いまの国債証書と同類か)
銭貨の鋳造発行は幕府の専権で、諸藩には許可されてないだろ
密造してる藩があったことは知られてるけどさ
もしかしてそこも密造所があったのか? その前の寛永通宝鋳造開始のときから仙台藩でも寛永通宝の鋳造が認められた。
幕府の許可を得て銅銭や鉄銭が作られた。
(あちこちで作らないと需要に応じることができなかった。)。
享保までは栗原郡の三迫、その後は石巻に銭座があった。
明治の鋳造廃止まで、寛永通宝はずっと仙台領内で作られ続けた。
寛永通宝が発行されて後、幕府は私鋳銭鋳造の禁令を出している。
しかしそれ以前は各藩ごとに自由に作られていた。
もちろん仙台藩でも何種類も作られていたはずである。
天明の大飢饉のときに藩の財政が逼迫し、5年の期限で仙台通宝(仙臺通寳)が作られた。
しかし、仙台通宝はその後江戸にまで流入して使用され混乱を招いているから、いつまで
作られていたのか分からない。
仙台通宝は幕府の許可を得てのことだが、藩が秘密裏に作ったものも少なくないとされる。
薩摩藩のものは有名。
石巻の銭座は幕府の統制が及んでいたはずであるし、寛永通宝鋳造専門の施設だったと
考えられるから、仙台通宝は別の場所で作られたと考えるのが妥当。
すると米ヶ袋ぐらいしかないのではないか。
ところで、断っておくが俺は「鍛冶屋」としか言っていない。そこから鋳造所の御職人ないし
下級役人の可能性は指摘したが、刀鍛冶である可能性はもちろんある。
大きな藩では、お抱えの刀鍛冶がいて領主一族の刀を打った。刀は儀礼や贈答用に
大きな需要があった。いざ籠城となると刀の修理や鏃の鍛造のために鍛冶職人は必要
不可欠であった。だからお城の間近に置いたのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 しょうがない。>>73 に補足。
俺が書いても信頼性ないから本から抜粋するわ
手許に一般向けの本しかないからこれで勘弁
(日本の歴史十三、幕末から明治時代前期 小学館)
P80
「版籍奉還の明治二年七月、職員例が定められて中央政府でも本格的な機構改革が断行された。
太政官のなかに、天皇を補佐し大政を統理する左・右大臣と大納言・参議が置かれた。
いわば内閣である。太政官の下には民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省と開拓使などが
置かれたが、公議所は諮問機関に近い衆議院に改組された。
しかし、制度・人事・政策がからみ合って、政府内部の対立はさらに複雑化した。
・・・・・中略・・・・・
最大の焦点は大蔵省をめぐる問題だった。関税収入がわずかで財政難の新政府は、太政官札を
四八○○万両も発行したため額面どおりに通用せず、しかも、政府による万延二分判の鋳造、
諸藩による藩札の乱発、悪貨鋳造、太政官札の偽造などがこれに輪をかけた。
悪貨・贋貨は外国人の手に渡ったぶんだけで三○○○万両に達したといわれるが、各国から
ことあるごとに糾弾され、新政府の信頼性さえゆらいでいた。
それでも、外国官副知事として各国公使と折衝していた大隈が財政責任者になり、悪鋳と増刷を
中止し、各地に設立した為替会社・通商会社に太政官札を貸し付けるなど強力な対策を打ち出す
と、しだいに金札が額面どおりに流通しはじめた。
しかし、諸藩の贋札・贋貨をやめさせなければ混乱は続く。廃藩置県は通貨の面からも必要だった。
・・・・・中略・・・・・・ P87
「それでは「ご一新」は民衆の生活に何をもたらしただろうか。
明治二年は長雨と冷夏のために天保以来といわれる凶作で、年貢の半減や全免を余儀なく
される藩が多かった。ところが、政府直轄の府県は違った。たとえば・・・中略・・・・」。
(注:旧幕府の支配地八○○万石の部分を元に新政府は運営されていた。藩領はそのまま。
新政府の直轄地は府県となった。府県では太政官札が通用紙幣だが、各藩では藩札が
主体である。通貨は一元化されていなかった。)。
「割り当てられた太政官札と引き替えに上納した貨幣が、贋金だったとして差し戻されることも
あった。戻された貨幣が自分たちの納入した貨幣かどうかは確認のしようがない。破断処理で
使うこともできず、かわりの正貨を納めなければならない。憤慨した農民たちの抗議が各地で
噴出した。」。
注:太政官は太政官札を発行したが、当初は府県も通貨発行権を認められていた。
神奈川県札(金壱両)などが発行されている。藩はもちろん藩札を発行できた。通貨発行権が
あるので硬貨も作った。幕末の海外との通商開始で小判が大量に流出したため、幕府は
金・銀貨を改鋳し、さらに鉄銭を大量に作った。それまで使われていた真鍮四文銭が鉄銭十二文に
相当することになった。世間では「四文の銭が十二文・・・コノ馬鹿役人」と唱われた。
維新後も各藩はこの鉄銭を真似して作ったのである。 ついでに、上の御職人のことだけど
米ヶ袋に鍛冶職人が集められていたわけだが、当初は鉄砲鍛冶が多かったんだろうな。
国友あたりから連れてきた職人を家臣にして作らせていたと思われる。
伊達の鉄砲隊の装備は充実していた。
鉄砲を作らなくなると錠前を作ったり家具の蝶番を作ったりした。
鉄砲の銃身は、鉄を薄く伸ばし、一本の鉄棒に巻いて、さらに外側から鍛接して
作る。仙台箪笥に多用される鉄板は、鉄板を叩いて薄く伸ばす技術の応用である。
御駕籠衆というお抱えの駕籠カキもいた。
熊本の人の駕籠町の由来を知っていますか、というブログ
https://blog.goo.ne.jp/k-yokatoko/e/140fc0d9216ae6a3e79029b0d0f81dba
東京にも巣鴨御駕籠町、小石川御駕籠町というのがあった。 自分が真の日本人=ハプログループD1bかどうかを知るためにハプログループを検査して
本当の日本人でなかった場合は国外へ出ていくか日本国内での生殖行為を禁じましょう
女性の方はお父さんのハプログループを調べてください
●日本人のY-DNAハプログループ
【真の日本人】
D1b--日本固有種です 皇室はこのグループに属します 日本が世界をリードする科学技術を持ち
アジアで唯一の先進国なのはこのDNAのおかげです 日本人がノーベル賞を取れるのもD1bだからです
【偽の日本人】
O1b2-朝鮮民族です
O2---漢民族です
C2----モンゴル系民族です
C1----オーストラロイドです
O1b1--東南アジア人です
O1a---台湾先住民です
N1----ウラル系民族です
Q1--アメリカ先住民です
D1a--チベット系民族です
自分のハプロタイプが調べられる機関
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https://genographic.nationalgeographic.com/
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