先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/ >>847
まあ、大規模な飢饉があると人身売買がってんで、昭和初期にも新聞で全国キャンペーンやった事例があるぐらいだしな >>848
三十年代後半から日中戦争の徴兵が本格化してたくさん前線送りになってるからかな? 数世代前まで生涯に10回も15回も妊娠出産してた遺伝子を相続してる
現今の日本女性の苦悩は想像するに余りあるものがあるな。 >>851
>>853
いや、本籍地や自宅すぐ側の病院で死んでるし、未成年や女性もいる。
あと、戦死者の場合「○○にて戦死」とあるから、書いてない場合はそうじゃないんじゃないかと。 >>854
江戸時代の平均出産回数は五回ぐらいらしいぞ >>802
江戸時代の宗門人別帳で追っていくと、離婚率はかなり高いらしいな。
明治民法が出来た明治30年ごろはまだ離婚が多くて、その後減っていく。
「戸籍を汚す」とかいう意識が芽生えたのはこのあとだろうな。
維新政府がせっせと武家の価値観があたかも正しくてすべてのように広めて、
テレビの普及で輪をかけた。
「女三界に家なし」とか「嫁して三年こなきは去る」とか「三つ指継いて迎える」とか
庶民には無縁だったはず。
「専業主婦」ってのも、武家の奥方のものであり、明治になってからは高給取りの役人の
妻くらいしかいなくて、庶民の女房はみんな働いていた。 >>810
あっ、うちと似てる。
うちの曾祖父さんは、その時期に子供3人と妻を亡くしてる。
話を総合すると、スペイン風邪にやられたようだ。
生き残った子供を抱えて難渋したらしく、実家に戻って再婚してる。 27歳くらいで結婚して離婚もせずに添い遂げた場合。
妊娠期間約1年、授乳期間約2年、明治の乳幼児死亡率で計算すると、27から40すぎまで
かかって5回か6回の妊娠で、生き残る子が4人程度。
そこからさらに子供のうちに死んでしまうから、3人ほどが成人まで生き延びる。
周産期死亡も多いし、離婚も多いから三人を成人させることができるのは半分もいないらしい。
庶民はこどもを奉公に出すから、出先で死んでしまう人も多かったのだろう。
鬼頭氏によれば、下層の家は一世代で約14%程度が絶家するそうだ。
後を埋めるように、上層の子沢山階層(自小作や地主)から降りてくる。
武家は子供がとても少ない(不思議だけど)
たくさんいても家督を継げるのは一人だけだから何らかの方法で調整したと考えるしかない。 >>847
東北と西日本では、国が違うのかと思えるほど違うね。
中部西日本では、「奉公」へ出すから戻ってきて結婚する年齢が高い。
2〜3歳まで授乳していれば10人産むなんで普通では無理。
よほど食糧事情の良い上級家庭で妻が頑丈じゃないと。
昭和になっても出産等で命を落とす女は多かった。
うちのじいさんとばあさんはどっちも後妻の子だ。先妻は死んでしまってる。
うちの地域の墓は、夫婦墓なんだか、つまり一世代で一つ。
そこに3つの戒名が掘ってある墓がそこそこある。
先妻が死に、後妻と旦那と三人のための墓だ。
あかんぼ産んですぐに死んで、間もなく後妻を迎えたような場合は、我が子として
育てるからか、継子という感覚が薄いように思える(近所の婆さんたちの話を聞くには) 武家の場合は重要なのは継嗣子だからね。ぶっちゃけ実子じゃなくても
なんの問題もなく、あとは我が子に対する執着とか愛着だけの話しで。
なまじ何人も子供を作っても暮らし向きが大変になるばかりで、次子や
女子の養子先や嫁ぎ先を考えてやらなきゃならないばかりだったろうね。 「あれがもしもし男の子なら 寺へあがらしょ 学問さしょに
これがもしもし女の子なら コモに包んで 小なわでしめて
前の川へそろりと投げる
上から烏がつつくやら 下からどじょうがつつくやら・・・。」 そういう種類の確認できていない「現代の民話」を持ち出すのは良くないね。
仮にそのようなものがあったと想像できたとしても「偽史」の創作は恥ずべき
行為であり学問の誠実さに対する犯罪行為。 >そういう種類の確認できていない「現代の民話」を持ち出すのは良くないね。
笑わしてくれるよな。確認された事実しか議論の基礎にしてはならないとしたら
歴史学なんか成立しえないじゃないか。
何が学問の誠実さだよ
小学生みたいなこと言ってるんじゃないよw 後産で排出される胎盤を「えな」という。胞衣という漢字をあてたりする。
エナの始末については土地土地に慣習があった。
ググってみると面白いよ。まずはこのあたり
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0728/mes_160728_0837672594.html
>>843
エナだって儀式のようなことを経て埋めるんだから、生まれた子を畑に埋めて肥やしにする
なんてあるわけない。日本人はそんな民族じゃないぞ
>>850
たしかにそう。間引きってのは生まれた直後にやってしまうものだが(だから子返しともいう)、
育てはじめてから乳が出ないとかやっぱり無理という場合には嬰児でも始末した。
炬燵の布団をちょっと顔に被せておく、といったようなことが行われたみたい。
団塊の世代というのは昭和22年、23年、24年生まれのことを言うんだそうだ。
戦争から帰った若い世代が結婚して盛大に子供を作ったからというが、そればかりでは
ないだろう。食糧事情が改善したからだ。
戦争中は配給だけでは不十分だったが、配給があるだけましだった。一番厳しかったのは
戦後の昭和21年だという。配給もなく、国民は餓死寸前となった。アメリカの人道援助で
豚の餌である脱脂粉乳が緊急輸入されたのはこの時だという。
こうした援助や兵役帰りの人たちがまずは農業に従事したこともあって、22年には食糧事情が
大幅に改善された。国民は、もう大丈夫、餓死することはないという安心感を持つようになり、
その結果子作りに励むようになったのだ。
たぶん戦争中は子供を作らない夫婦も多かったんだろう。
産んでも餓死させてしまう可能性が現実にあったからだ。こういう産児制限を、避妊具もなく
堕胎の技術もない昔の人は、間引きという形でやるしかなかったのだ。
特に武家は家中の家来の数が限られており、増えることはまずない。収入も家禄という形で
固定しているし、分家もできない。養子の口も家中全体の数は限られており、一つの家で
三人も四人も男の子を作って独占するわけにもいかない。
子供の数を制限することは家中全体のためでもあったわけだ。 >>868 面白いね。この手のエッセイで久しぶりに良い文章を見た。 食糧事情か
戦前は韓半島やら台湾を重点に米の増産を進めたんだよな
そのせいで列島産米と比べて安く出回った半島米・台湾米で国内人口は伸びたが本土の農村は疲弊したっぽい
戦中、特に後半は海上封鎖で台湾米とか運べなくなったから米不足が深刻化して食糧難に。
戦争が終わっても、朝鮮も台湾も日本領じゃなくなったから米の輸入は難しいままで食糧難が継続。
農村建て直しで食糧事情が改善するまでしばらくの間は食糧難が続いたんだろう いまと違って農業はすべて手植えの手刈りだから農村の人手不足や農業人口の都市民化みたい
なのも影響したろうね。台湾や朝鮮が食糧供給基地になって、日本の農村から人口が都市に流入
するようになったタイミングで敗戦と輸入の途絶となったから、絶対的な供給量じたいも足りなかった
のかもしれない。 下級武士とやらの相続の悲惨さや生活水準のレベルは小作人階層とかわらんわ
親和性はまさに似たもんどうしだな。出自が戦国以前は同じなだけあって。
庄屋階層はほとんど上級武士以上の相続水準だからな
こないだテレビに出てた名門旧家のお宝発見てテレビで
熊谷市の根岸とゆう庄屋でてたが、敷地面積だけで一万坪、長屋門は30メートルにも及んでいたが、
こんなレベルの上級武士すらいないだろ笑
万石レベルの上級家老と同レベルが我ら庄屋だからな。
相続や世継ぎのしきたりも下級武士みたいな旧河原出自宅レベルとは比べものにならんが。 江戸時代人口の8割は農民だったのはガチ
特に東北地方は一握りの庄屋に支配される大多数の小作人傾向が顕著だった 7割農民な
じゃあ武士が少数だから希少性がある?
相続や兄弟の成れの果てみりゃどこに少数派閥の希少性が存在する?
小作人レベルの世界水準の分際で。
庄屋は当時の大多数を構成するなかの最上層支配階層
実際、会津藩は戊辰時に各峠や街道口に配備されていた藩兵のうち、山川隊以外は城下に退却できず壊滅したのは各地域の庄屋組により壊滅させられてんのよ。
下級武士ごときの貧困底辺など、武力ですら圧倒してるんですよ庄屋は。
まじ幕末だったらやってやんのに。 因みに、俺の実家クラスの庄屋レベルですら、
刀なんぞ蔵に40本弱くらいぶっつんで置いてあるからな。
十文字槍は一本で先祖代々の家宝となってるが、
下級武士ごときの貧困底辺など相手にならんだろ笑
旗本レベルなら対等にやれんわ >>876
神戸大学名誉教授の五百籏頭真さんより格下の家系の分際で大口叩きすぎ >>876
庄屋って武器所有OKなの?秀吉は取り上げたけど、江戸幕府は黙認?
>>877
本人が穢多非人の子孫と自覚している率はどんなもんなんだろうな。 >>879
んなもん、秀吉の縄張りの大阪周辺だけや
関東の徳川はやってない。
元和偃武の大号令後、強圧的帰農政策を一気にごり押しはしたが、
刀狩りは全くやってない。 日差別なんてみな普通の苗字だから、首都圏なんてほとんどもう住んでない。
すみつづけてる家も団塊世代以降はほとんど自覚ないやつだらけ。 >>879
刀狩りは全部の刀なんか押収してないよ。形式だけ。
武士と農民階級を明確に分けるため、農民階級の常時帯刀を禁止したもの。 なんかあたまの悪いやつがいきなり沸いたな。庄屋の子孫はたいへん結構だが
投稿するときには推敲しろよ。意味不明すぎてレスつけてやることすら出来ん。
刀狩りについては度々禁令が出されているけれども、役人が家屋に押し入って
調査するようなものだったという記録はないのだから形式だけのものだね。
ただし帯刀の制限と禁止については五人組帳にも明記されているほどの事項なので
見つけ次第に咎めをうけるようなものだったのだろう。五人組帳でいえば奥州大沼郡の
五人組帳に子戻しの禁令が記述されてある。美濃上郡のものには捨て子禁止と
親無しの子は村中で育てる事と明記されてる。江戸時代の法令は藩や郡代に
よって個々に異なり全国で一気通貫するものは多くないのだけれども、嬰児殺しや
子捨てが社会で容認されていた「わけではない」という証例ではある。 >>883
んなもんは地域差がありまくるたろ
なら江戸市中にあれだけ非人や流民が流入するわけない。
しかも寛政前後あたりに形上の積金だのかこいまいを擬態化したような形が地域に広まった程度 東北の過疎化は死活問題だからな。
関東や東海、大坂あたりで捨子禁止なんぞ聞いたことないが そうそう。江戸時代の場合は地域差がありまくるという前提を忘れがちなのよね。 子捨ての禁止は綱吉の時代に何度も幕府から日本中の諸藩に対して出されてるので
こっちは子戻しよりは広く行われていたことを思わせる。とはいえ「実際にそれがどこ
まで行われていたか」については科学の観点からは確証させるほどとは言えない。
そのような法令が何度も出されているという事実が、かえって「それでもなお子捨ての
慣習が広くのこっていた」ことを傍証しているとすることのほうが科学的と言えるくらい。 >887
だから、それは江戸市中への犯罪者や流れ者、無頼もの、半グレが大量に流入しはじめたことから、その根本的解決策のひとつとしてコステ禁令が発布された努力義務レベルの潜在法令にすぎてないという事実
決して道義的福祉的観点ではなく、
江戸市中への非人レベルの大量流入抑制の一貫だから。 捕物帖でも元禄あたりから地方の流れ者や無頼者のあばれっぷりがかなり書かれてる。
不浄役人の同心の意向なんて、もうこの頃には江戸の半グレには全く通用してなかったのが分かる。 そして、あまりに増えすぎた半グレ非人を利用すしたのが吉宗なわけだから。
時期的にも元禄ちょっと前あたりにはもう番随院みたいな有名な半グレがもう登場してんだから時期的にもあう。
その根本的な問題はほとんどが無宿無頼者。 それでだ。
その半グレを束ねる任侠ラスボスの辰五郎やら彈家は、
幕末、将軍直属の護衛隊に将軍から任命され、
後家人や旗本に取り立てられたとさ。
江戸武士なんぞこんなレベルが大半の出自
幕末でこれだ。
戦国はもっとひでえわな笑
江戸武士は小作や非人層と一番出自的親和性があんのによ。 戦争中の食糧難は韓半島からの米の輸送が出来なくなったのが最大原因
高齢者の話を聴くと大戦中は食べ物がなくて酷かったそうだ
それは日本政府が平時にどれだけの植民地収奪を行なっていたかという証明でもある スレタイどおり「先祖さがしのエピソード」の話題に
戻ってください。 墓や過去帳でも、江戸時代頃だとなんで戒名しか書いてないのか?
明治からしか名前書いてなくてガックリ 自殺しようと思う
でも俺が死んだら墓とかどうなるか
まだ結婚もしてないから子供もいないし、一人っ子だから。
そこまで考えなくていいのか?
どうせ俺が頑張って生きたとしても、子どもできないかもしれないしな。
子どもができても孫はできないかもしれない。
孫ができても別の宗教に入ったり、神社や先祖に関心がなければ霊舎も墓も捨てられるかもしれない。
うちの家はそこそこ古い神社なんだけど、最後の心残りが墓と先祖のことだったんだが。
俺が途絶えさせるという罪悪感が残っててな。
まあ考えるだけ無駄なのか。
もう死のう。 俺の所の旦那寺は名前と戒名、没年だから名前は分かるんだが
途中で養子が来ており、その養子がどこから来ているのか判然と
しないところで追跡が絶えたな。 >>883
この基地外は定期的に沸いてくるので「庄屋基地外」と呼ばれている
農民なのに偉そうに振る舞い、他人の意見を聞かない事で有名
相手にするだけ無駄 なんで庄屋を単なる農民扱いなんだ
下級武士ごときの数十倍の由緒、家柄、権限、権益、利権、武力、財力、資産、地位
すべて圧倒的格上なのに、
いつから下級武士ごときより格下になった?
いい加減に現実 みて口聞け卒が 百姓は主君いないだろ。きみらはしょせん従う側なんだよ。 名主・本陣系の家は子孫多いよね。江戸初期一家だったものが幕末期には
主要分家3から4家あって本家からの分家だけで20近くあるのも珍しくない >>900
庄屋は大名とか代官とかを主君としてるけど >>903
は?
いつから庄屋は大名家が主君になった?
なら下級武士の貧困底辺奴隷階級と、
庄屋の在地領主レベルの付加権威や付加財力の圧倒的違いはなんなんだ?
村政は独立している。
藩政が村政を牛耳ってる訳じゃない。
今の行政と同じで、県は村政や町政に直接関与している訳じゃない。
同じだ。
もし庄屋が大名直接支配下の位置にあるなら、
底辺貧困奴隷階級のみっとも侍と、庄屋の超優遇的処遇の圧倒的差異に説明の余地がなくなる 藩士はいわゆる分限帳で管理されており完全に別格
公務員とパンピーほどの格差がある。むろん適用される法令もまったく別異。 武家はどれほど下級であっても切腹がみとめられ、蟄居閉門といった刑罰もあった。
衆庶はいかに豪商であっても切腹は許されず、火刑や磔・獄門があり、また闕所と
いった没収刑があった(武家なら召放)。 >>904
戦国期の武士は大名に臣従しつつも自領の統治は自分が全権を持っていて大名の介入をほぼ排除してるが、それと江戸時代の村政が大名から独立してることとどの程度違うんだ? 大差なくないか? >>907
そう、そういうこと、君の言う通りなんですよ!
その戦国以前の守護家と在地領主層の関係性がそのまま藩主と名主という、形を変えた状態で実体化していたわけ。
だから、名主庄屋は旧来の在地領主層だらけなわけ。
下級武士ごときは東海や紀井山中の得たいの知れない秀吉レベルの出自から派生した集団。
だから徹底奴隷を宿命させられてるわけ。
下級武士が身分上名主より上だとほざくなら、
それは下級武士みたいな軽輩にも庄屋が単に一揆や反乱を起こすリスクが高いため、軽輩にも逆らうことを禁じたのが成り立ち。
それこそ江戸初期は、庄屋は新興大名家にも一揆や反乱や騒動ばっか起こしてた有力集団だからな。
下級武士ごときの底辺出自の雑魚と格が違いすぎる >>908
庄屋!庄屋!って東北か?
所詮東北でオワるのに >>905
だからなんだ?
それは戦国以前からの鎌倉からのしきたりか?
違う。江戸不逞出自武士団が勝手に作りあげたルールやろが。
そこにしか差異的優位性と価値を見いだせないのは分かるが、
いいか?庄屋も公務員だが?
もっと言えば、江戸から明治にかわり、
太政官になった維新の功労者たちは、
地方公共団体は九割庄屋に村長町長を任命してリアル特別職公務員にしてんだが?笑
んで下等武士は?笑
大半が屯田兵や車夫で確かに頑張ってくれてまんな
大したもんですよ下級武士様笑 江戸時代に生まれてたら暮らしの豊かな庄屋の方がいいなと思うけど
下級でも武士の方がカッコいいし、先祖が庄屋でも別に自慢にもならないし
巷で先祖自慢する時は大抵「先祖は武士」って言うよな 因みに、俺の実家程度の庄屋でも、
官選により県令から戸長に任命され、
そのご村長だが、
村役場は俺の実家が役場や。
俺の実家自体が役場で自治体や
下級武士ごときの掘っ建て長屋じゃ難しいんだろが笑
庄屋は地方自治体や。
わしら庄屋こそが戦国以前よりの由緒ある真の在地領主層で、真の武家
武家とは単なる武装した自衛隊員やなく、
一定地域の政治を司り、その治安維持目的のため自衛武装した家が本来の武家
お前ら下級武士は政治なんか一切司ってない下克上大名家のたんなる奴隷鉄砲玉やないかい笑
一緒にすなよ気持ち悪い笑 >>912
いやいや、だから、それが現代の時代劇価値観やっちゅーねん。 >>912
因みにその下級武士だが、
その、代表たる福沢諭吉は、自伝で、
下級武士は虫ケラや家畜のように扱われた
と残してんぞ?
その虫ケラ扱いの体験から人の上に人を作らずを解いたとも述べてるが?笑
確かに時代劇では、下級武士どころか、同心でも主水みたいにかっけーよな笑
んで時代劇では庄屋も爺がぼろ雑巾着て下級武士にしばかれるという扱いだ。
本当にひどいわこのプロバカンダ >>907
>それと江戸時代の村政が大名から独立してること
前提が間違いだな 庄屋などしょせん一揆を起こして磔に処される程度の存在にすぎんよ。
それは武士にはありえないような処罰だ。これは事実を言ってるのだから
諦めよう。あとはキミが個人的に自身の祖先をいかように美化しようが
そんなこと学術は知ったことではない。 >>920
いやいやいやいや、島原藩主は斬首だが?
下級武士ごときが反乱起こす力すらない虫ケラ奴隷だが、
下級武士ごときがかりに反乱おこせば打首張り付けだ馬鹿が そもそも大前提が、下級武士ごときに反乱起こすリスクは皆無というフィルターありきで、
これも、勝手な江戸不逞出自武士団の中だけのルールで、戦国以前からあるものじゃない。
勝手に上司の胸三寸でハラワタ要因もどきを喜んどきなさい。 武士に対して斬首はある。また武士の資格を剥奪して磔という事例もある。
きほん閏刑は切腹、斬罪、改易、扶持召放、役儀召放、蟄居、閉門、逼塞、
遠慮、隠居、差控だけ。これが衆庶となると鋸挽、磔、火罪、獄門、死罪、
下手人、遠島、追放(重・中・軽)、所払、門前払、預、敲、入墨、非人手下、
牢舎、押込、手鎖、過料、闕所、叱、戸〆となる。また武家の者には基本的に
拷問はない(ただし下士には行うことがあったらしい)。 下級武士と庄屋の関係は今も昔も変わらんのよ。
大地主、旧家、地方財閥、豪商、豪農と現業公務員の関係と一緒。 中野宗時が庄屋になったのか?
お前は同じことばっかしやってるじゃん 中野胸時の子孫だなんて騒いで今度は庄屋
ネタは何だっていいんだこの馬鹿は >>927
どんな名士でも、悪い事をすれば逮捕されて、場合に寄ったら死刑にもなる。それを決定するのは公務員。
でも、地元の有力者として、色々な会合に呼ばれたり、経済水準が豊かなのは、名士の方。
結局こんな感じだろ? >>931
だから、
立法府であるのが藩なのは分かる。
で、行政府は藩執政であり、
いつから末端糞現業レベルに権限あるんだ?
そもそも下級武士ごとき虫ケラ軽輩には藩主目通りすらできない最底辺の奴隷だろが。
勝手に下級武士を大名や藩執政と同じ超拡大宇宙規模の広義の武士というくくりで語ってるが、ふざけるなといいたい。
下級武士ごとき軽輩が庄屋を胸三寸でとり潰せるか?
いや、返り討ちな。
下級武士ごときになんの権限もない。
単なる糞現業の不浄奴隷が、庄屋になにができんだ? まじ、単体なら下級武士ごとき虫ケラ軽輩など秒殺で武力で庄屋がぶっ潰し足るわ。
相手にならないから。まじ。 あのな、
庄屋は老いぼれ百姓などときめつけるんだろが、、剣術すらまじ半端ないから。
なめるなよ旧在地領主層の庄屋様を。
>>庄内藩江戸市中警備 新徴組取締役
>>根岸友山
>>武蔵冑山村庄屋の出
現在も残る文化財の屋敷
http://www.city.kumagaya.lg.jp/smph/kanko/midokoro/Negishike.html
屋敷が藩邸レベルや笑
で、屯田兵の下級武士様はさぞかしご立派な屋敷なんだろうよ笑 新徴組取締役
根岸友山
北辰一刀流免許皆伝
>>江戸時代の根岸家は当地域の名主を務める豪農であり、
>>その面影を残す長屋門の規模は、幅13間、奥行き3間、屋根棟高10メートルを誇ります。
>>正面左側は剣術道場の「振武所」として使われ、右側は当時の番頭たちの帳場に使われた部屋が設けられています。
>>建設された時期は寛政年間の頃と伝えられており、敷地の広さは1,600坪にも及び、土蔵5棟、酒蔵1棟があり、更に庭には私塾の三余堂が建てられていた事が屋敷見取り図より読み取れます。
もう個人宅が藩邸な笑
個人宅が県庁レベルの規模な笑 豪農の社会的位置づけについては興味がおこされるところやね。
豪商とはことなり大名郡代から重宝され保護されている気配が
あるのは儒教的な背景なのだろうかね。幕藩体制は「官」とすべき
武士が名分を、経済的な側面を豪農や豪商が担うというところがあり
地域経営や徴税の具体策はかれら「民」に任せていたということ
なのだろう。 >>938
いやいやいやいやいやいやいやいや、
全然違うよ。
仮にあなたの言う成分が時代に含まれるのは、江戸中後期以降。
江戸初期の幕藩体制の構成は、
あくまで藩内分権体制を示してる。
それは藩と村の分権であり、
そのマクロ的な政治的不可侵は、
法政財の分立を意図していたものでは全くなく、
旧在地領主層への妥結と合理的配慮によるもの。
勝手に 儒教だの持ち出して結びつけているが、全く違う。 ( 江戸初期の岡藩 )
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n332.htm
↓
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
>>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、
>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。
>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、
>>入部の行列が 大友氏 の浪人の集団に襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、
>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。
>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。
>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。
>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。
>>また、 杵築藩 では各 手永(てなが) ごとに 大庄屋 を配置していたが、この大庄屋は士分に準ずる取り扱いをうけていた。
>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである 一人で論点作って一人で議論してる馬鹿
学歴コンプレックスがあるなこの人 なぜか勘違いされるが、
庄屋の財力は、固有の私的資産の不動産によるものなんて一部なんですよ。
基本は村政の掌握権による権益や利権が及んでいるのが主であるということなんですが。
単に庄屋は表面的武装を禁じられたまでで、
その他の権利は、
室町よりの在地領主の権益の大半を踏襲する、狭義の藩の縮小版。
それ故に江戸初期は村方騒動や一揆が頻発したため、幕府はその強大な旧在地領主層の庄屋に危機感を抱いたのが、
元和演舞の大号令と、天草の乱以後の庄屋政策に色濃く反映されてる あの、この概要みれば、庄屋の軍事力がどれほどだったか分かる。
>>一揆の構成と展開
>>https://kotobank.jp/word/島原・天草一揆-1543260
>>原城籠城(ろうじょう)時の一揆軍の総勢は男女あわせて3万7000人、そのうち実戦参加者は1万3000人、
>>一揆軍の主体は農民であった。
>>>一揆勢は村単位に各城郭に配置され、大庄屋・庄屋が「惣頭(そうがしら)」としてこれを統率した。
天草の乱は庄屋が統率した部隊だというのがはっきり分かる。
それに対し、幕府軍は、
●全国から13万の軍勢で対す。【関ヶ原より圧倒する軍勢】
●幕府軍大総督、老中板倉、討死。
●およそ2年にも及んでやっと鎮圧日本史上最大の内乱
あの、天草地方の、僅かな庄屋相手に幕府軍がこれだ。
庄屋、軍事力まで半端ないから。まじ >>941
偏差値70越え舐めんなよ。
庄屋の子孫は脳も優勢遺伝やねん
下級武士の貧困軽輩ごとき、学力ですらたばんなっても庄屋には勝てないからまじ笑 因みに明治も漱石大先生も庄屋だなあ。
義人、命を省みず権白書提出した明治の国会議員田中正三も庄屋だな。
明治ですら薩長以外みな庄屋やないかい × 正三
〇 正造
百姓(ひゃくせい)はしょせん百姓(ひゃくせい)だよ
士分ではない 百姓(ひゃくせい)は貴族以外のすべての人々という意味なんだから、武士も大名も含まないとおかしい >>944
庄屋の子孫は飽きた。
中野宗時の子孫もう一回やれや レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。