アンチ会津とアンチ長州の決着をつけるスッドレ
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シナチョン血混じりの夷狄、キチガイ長州猿が攘夷唱える滑稽さ カンチョクトはテロをして村の土人共はかつおをいびっていた カンチョクトwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 攘夷とはすなわち夷狄であるシナチョン血混じりキチガイ長州猿の自殺である >>499
放火魔は会津じゃん
>>500
蛮行三昧なのは会津だぞ MBCニュース | 東京の意外な場所で鹿児島物産展
https://www.mbc.co.jp/news/mbc_news.php?ibocd=2019051600035824
https://i.imgur.com/jufMzm5.jpg
https://i.imgur.com/NikKVc5.jpg
https://i.imgur.com/MDhnsEf.jpg
https://i.imgur.com/hMLwSv0.jpg
https://i.imgur.com/CmXl9dX.jpg
https://i.imgur.com/yAi1hfF.jpg
東京の意外な場所で16日、鹿児島物産展が開かれました。
サツマイモやカンパチ、黒豚などの加工品や薩摩切子などが並ぶ鹿児島物産展。開かれているのは東京・永田町の自民党本部です。
「令和の幕開け!どんどん鹿児島物産展」は、県などが主催したものです。自民党本部では、2015年から全国各地の物産展が開かれていますが、鹿児島物産展は初めてです。
かごしま茶の新茶の試飲や、日本一の鹿児島黒牛の試食も行われ、中でもステーキの試食には長い列ができていました。 まともな福島県民のコメント
>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
>聞いた試しがありません。
>むしろ「いくら謝ったって許さね〜!
>とにかく俺たちは正義なんだ!」
>という考え方に凝り固まっている
>ようにすら感じます。そんなことでは
>「反若松」の論調もなかなか
>収まらないのではないでしょうか?
>同じ福島県民としては
>若松の方が一刻も早く未来に希望の持てる
>歴史観、地域感を抱けるようになることを
>希望したいものです。 >明治8年生まれの祖母に
>薩長を許してはならないと
>常に言われて育った。
>この会津人の誇りが
>私の信念に結びついている。
>薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。
みやぎ會津会での公演で
幸楽苑の社長が言った言葉だよ。
みやぎ會津会のHPからの抜粋です。
ただしこの内容が某掲示板に
晒されるようになると記事は消されました(笑)
ねっ、こうやって恨み節を
子々孫々伝えてるのが会津という地域なわけだよ。 >突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」
会津新撰組まつりに参加した
阿吽記というブログから抜粋しました。
この記事は2007年のもののようですが
会津若松市では毎年やってる祭りみたいですね。 >会津という神話―二つの戦後をめぐる死者の政治学
>田中悟[著]
>神戸大学助教(政治学)
>[掲載]2010年4月25日
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
政治学者である田中教授が
会津で調査した事をまとめた調査書です。
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
会津では会津プロパガンダが蔓延し
会津恨人を生み続けています! >今年、日本は1868年の明治維新が
>始まって150周年になる年だ。
>今の安倍総理は明治維新勢力の子孫だ。
>明治維新勢力は植民支配と太平洋戦争を
>起こし、私たち民族はその勢力の
>最大の被害者だ。
キム・ヨンデ(弁護士)
ソース:金泉新聞
まず日本は植民地支配なんかしてないし
明治維新の勢力は太平洋戦争を起こしてない。
太平洋戦争は東北系が起こした戦争だろ。
チョン、会津、陰謀論者は思考が同じwwww 本当は謎がない「幕末維新史」
幕末から明治にかけての戊辰戦争の影響で
福島県人(会津)と山口県人(長州)の
仲が悪いといわれるが
それは後の創作が影響している。
会津戦争のとき会津の庶民が
あまりにも官軍に協力的だったことは
司令官の板垣退助が驚くほどであった。
新撰組は京都の治安を守って
住民から感謝されていたというのはウソで
警察に雇われたヤクザようなものだった。
池田屋事件はヤクザの出入り同然で
京都市民から大反感をくらっていた。
このように一般的に語られている
幕末維新史には、のちにつくられた
創作が非常に多い。
歴史小説の影響も大きい。
そんな中、歴史分野で私の師匠にあたる
八幡和郎先生が
『本当は謎がない「幕末維新史』という
本を出版された。
小説や大河ドラマで語られるような
つくられた歴史と、本当の歴史を
整理した内容となっており
意外な幕末史の姿が明らかとなり
非常に勉強になる。 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
■瑞穂の国から出ておいで管理人…社民党支持者
■高橋美智子…星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
■キム・ヨンデ…金泉新聞で韓国は明治維新最大の被害者だと発信
■三枝成彰…反日作曲家。徴用工に謝らない日本はクズ! 会津は明治維新から150年経ったけど、長州を許していないからねと発言。
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特徴 会津戊辰戦争・戸ノ口原の戦い
日向内記と白虎隊の真相
富田国衛著
白虎隊は敵の襲撃で散り散りとなり
戦死した者5名。隊長以下17人は
無事に城に帰還した。飯沼氏のグループは
飯盛山にたどり着きその内、飯盛山で
自刃したのは飯沼氏を含めて7人だけ。
他は「城に帰ろう」と山をおりたが 滝沢口で官軍に遭遇して撃たれて戦死した者
「捕らえられるよりは」と他の場所で
自刃した者。無事帰還した者もいた。
飯盛山の「建碑・慰霊祭」の発起人には 白虎隊士の生き残り6人も名を連ねているが
その趣意書には「戸ノ口原に屍をさらし 生き残った者僅かに19名。全員が飯盛山で
自刃した」となっているという。
生存者も全員戦死、自刃になってしまったのだ。
これは、白虎隊の悲劇をことさらに
宣伝するための作為だったと言わざるを得ない。
太平洋戦争の映画で「全員玉砕と本部に
通信したのに、生存者がいてそれは困ると
自決を強要する」ドラマがありました。
白虎隊も「全員自刃でなければ困る」
というのです。全くアホらしい。 ワロタwwwwwwwwwwwwwww
白虎隊の墓は数を増やしていたwwwwww
>飯盛山に墓がある19人の氏名
>明治17年に16人の墓が造られ
>のち23年に19人の墓となる
本当ウケるわwwwwwwwwwwww
んで、飯盛山で自刃した本当の
人数は6人なわけだろ?wwwwww
>白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
>会津歴史研究会会長の井上昌威氏の
>研究により20人切腹19名死亡の
>嘘が覆りました。
>勘違い切腹も嘘です。
>飯沼貞吉の回顧録に
>勘違い切腹は出てきません。
>そうなると疑問視されるのは
>飯盛山にある 隊士19人の墓ですよねw
悲劇をでっち上げ観光化に繋げたいの
バレバレじゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 白虎隊の遺体は当初滝沢妙国寺に埋葬された。
『明治7年、滝沢妙国寺から改装。遺骸会葬をする。』
何故?
『明治17年8月25日、容保も参列し飯盛山にて、16士で墓を整備。』
自刃は6人なのに何で16も墓があるの?
『明治23年、23回忌で墓が19士となる。』
何で増えてるの?
『』は歴史家・石川明夫の会津物語より抜粋。
石川明夫は会津出身で
会津古城研究会長
会津ユネスコ協会運営委員長
福島県会津若松市東市民センター
会津若松市教育委員会東公民館主幹
を勤めてるバリバリの会津寄りだよ。
その石川明夫が妙国寺から改葬した
当初の墓は16で後に19増やしたと書いてるんだぞw くっそワロタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>西川勝太郎(白虎隊の生き残り)は
>通りかかった農夫に
>遺体の埋葬を頼みました。
>しかし農夫はあろうことか
>遺体から金品を盗み出します。
>その農夫腕を1人の隊士が掴みました。
>飯沼貞吉です。
>農夫は驚き飯沼を岩山まで運ぶと
>飯沼の刀を奪って逃げるのでした。
会津の武士がどんだけ嫌われてたか
よく分かるエピソードだし
西川が農夫に遺体の埋葬を頼んでる時点で
会津プロパガンダの20人切腹
19人死亡が嘘だとダメ押ししちゃってるよねw
会津は被害者ビジネスで嘘つきすぎだよwww 長州の医者山根孝仲は長州兵だけでなく
会津の婦女子も診療していた。
(会津従軍診療簿)
会津家老海老名の子孫は萩移住し
長州人の情愛を感じ
特に唐樋の白虎隊の冥福を祈る地蔵堂に感激。(萩文化昭和十五年十二月号)
(萩史料(五)三好晃太郎)
さあ、どうする?会津プロパガンダ洗脳者よw 明治3年2月、若松県
(旧会津藩領に設けられた県)
から新政府への報告書によると
「若松県下方数十里の間一円
贋金贋札製造所にて、其の筋に
関係せざるもの殆ど稀なり」
と、旧会津藩士を中心に
贋金づくりが横行していたようです。
寛永通宝のニセ金は
東北地方を中心に大々的に行われていました。
ニセ金というより
「彷鋳銭」と呼ばれています。
南部藩や仙台藩などでは
藩ぐるみでやっていた可能性が強いです。 明治元年(1868)9月22日の開城後
10月1日に民政局が設置されるが
2000余の会津藩士の遺体は賊軍という
汚名のもと埋葬することも許されず
腐乱するがままになったと巷間
言われているが、同月4日には
郭外に放置されている遺体を
城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と
長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた
「遺体埋葬令」が出された。
(会津若松史6巻)
だが降雪と12月までに頻発した一揆のため
作業が中断されたとするのが実情で
この間「彼我の戦死者一切に対して
決して何等の処置をも為すべからず
もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との
会津若松での明治新政府通達が出された。
こうして阿弥陀寺1281、長命寺145など
16ヶ所に総数1634の遺体が、2ヶ月にわたり
埋葬された。
埋葬されてるって自分達で資料出してるじゃんwwwwwwww ドイツの国立軍事文書館に
会津の売国を示す文書が3通あった。
1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使
フォン・ブラントは「会津から北海道などの
領地売却の打診があった」として
本国に判断を仰ぐ手紙を出した。
会津は当時、北方警備のため、幕府から
根室や留萌などに領地を得ていた。
手紙には「交渉は長引かせることができる。
どの当事者も困窮した状況で
優位な条件を引き出せる」と記されていた。
この「北海道など」の「など」に今の
新潟県東蒲原郡(当時会津藩領)も含まれている。 束松事件
明治2年に起きた会津人による
民生官暗殺事件である。
会津の武士の中には徒党を組んで
強盗をやるような不逞の輩も出た。
なかには偽金を作製し流通させていた者も発生した。
従って時の政府は取締りを強化するところとなった。
鋳造した偽貨幣を取締まる民政官として
会津に派遣されて来た越前福井の久保村文四郎がいた。
彼が任期で交替すべく越前に帰る時
会津の伴百悦、高津中三郎は
束松峠で彼を襲撃惨殺したというのだ。
これが世に言う束松事件である。 カンチョクトwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 攘夷とはシナチョン血混じりの夷狄であるキチガイ長州猿の自殺である 池沼はむしろ会津だし会津も政府に対するテロリストだからなwwww
つか会津は民間人にもテロしまくりだしwwww >>572
むしろ恥ずかしいのオマエだろwwwwwwwwwwww アンチ長州が醜態晒しまくりなんだがw
ま、歴史の話できないら暴言しかないんだろうけどw 見せしめの為に会津人の死体を野晒しにしたのは嘘だった!
>幕末の戊辰戦争(1868年)で
>戦死した会津藩士が
>埋葬されたとする史料が
>福島県会津若松市で見つかった。
>同市在住の歴史研究家
>野口信一さん(68)が
>2日、市役所で記者会見し発表した。
>これまでは新政府軍が遺体の埋葬を
>許さなかったとされてきたものの
>史料には埋葬の場所や経費などが
>詳細に記されており、野口さんは
>「埋葬を裏付ける貴重な史料だ」
>と話している。
嘘をついたのは誰なのか?
>太平洋戦争の終戦後に書かれた
>『会津史談会誌第33号』の
>『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には
>新政府軍の命令によって遺体の埋葬が
>禁じられたという記述がある。
死体埋葬禁止の嘘を発信したのは会津史談会でした。 会津のバカ侍、領民に見捨てられるの巻
会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 幕軍は人を食っていた
会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。 会津は人を食う文化があるようだ
会津藩郷医江川元逸『旧記集録』
官軍方密偵(高田藩)が捕えられ
斬首された時、肝臓を切り出して
酒の肴に醤油をつけて
食べたことを書き残している。
日光口でもあったと記録にある。
この様な、内戦における憎悪の
激しい狂気が記述されている。 長州ガーの面々
・極左弁護士
・新国民社
・成甲書房
・日本革命的共産主義者同盟
・朝鮮共産党機関紙
・日本共和党
・日本共産党
・れいわ新撰組
・日韓親善協会
・日中親善協会
・部落民
・広告プランナー
・陰謀論者 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています