>>1のデマ検証シリーズ】
新しい史料が見られたので、>>1が恣意的に改ざんする前の正確な記述を記す
参考文献:富田国衛「戸ノ原口の戦い」
また以下の記事も参照(朝日新聞2018年1月11日)
https://digital.asahi.com/articles/photo/AS20180105001694.html

>>602
>自刃は6人なのに何で16も墓があるの?

飯盛山での自刃者数は研究者の間でもまちまち
同時に自刃した数は6〜9名と見られているが
その前後もしくは飯盛山付近で自刃した者がいるため数に違いがある
この時の自刃者は、1回飯盛山まで逃げて城下の火災を目撃し、
城が燃えてるわけではないと確認したものの、弾丸があるなら最後まで戦って、
それが尽きたら死のうと決議して再び山を下りて戦い、弾丸が尽きると決議に従い
各所で自刃したため周辺の自刃者まで含める人もいる。

次に、「16人自刃」説の発端は明治2年4月の東京浅草の「テリグラフ」紙が
会津藩の戦いを報道し、その中で「16人自刃、1人生還」と伝えたことに発する
これが爆発的に広まる中で16人自刃説が定着し、地元慰霊碑に逆輸入され、
昭和初期に会津65連隊が編ませた戦史で公式に確定した。
16人説にも一応根拠があり、「飯沼貞吉が16番目に洞門をくぐった」という「手記」から、
16人が同時に自刃したと考えたのだろうと井上昌威氏は指摘している。
なお16人が19人になったのは、前述した飯盛山付近で自刃した3人を加えたため

その頃、地元の会津では一緒に自刃したとみられる6人もしくは8人を
分けて慰霊していたし、前述の「テリガラフ」に対しては同年、明治新聞に会津藩士が情報を提供し、
戦死者がいたことを指摘しているから、16人自刃説の発端は地元ではあり得ない。