>>1のデマ検証シリーズ・2】
埋葬妨害問題について
野口信一「会津戊辰戦死者埋葬の虚実」から

>>1は野口氏が紹介した「惣人別」「入用帳」から
明治元年10月に埋葬が行われ埋葬妨害が捏造だとか言ってるが、
野口氏があげた史料にある通り、10月に行われたのは「仮埋葬」「仮葬」。
10月7日から15日までの9日間の突貫作業で行われ、藩士500数十名の遺骸が処理された
(これに漏れた戦死者の遺骸が多数あったことに注意)
また、10月の仮葬の主体は民政局(会津藩士も構成員になっている)。

「仮葬」とは、たとえば城内では(戦闘中だが)
「城中の死人は、兵器蔵前の空井戸に打ち込み…畑に埋めたり…」という片付け的なもの。
野口氏は「辰のまぼろし」にある「各地より臭気はなはだしければとて死体の取り片付けを請願…」
とある文章に触れ、「深く埋葬はできず風雪などで人骨が現れたものと考えられる」としている。
要するにとりあえず片付けて土かけただけなので、腐敗が進み悲惨な有様になってたということ。
また、氏名などは記されていない。文字通り投げ込み。

翌年2月に請願を受けて氏名などを記して正式な埋葬をすることになったが、
この時の主体が軍務局(会津藩士は入ってない)で、埋葬地に罪人塚を指定するなどの嫌がらせを行った。
これに対して会津藩士が再三請願してようやく埋葬地だけは阿弥陀寺とされた。

また、この2〜4月の本埋葬の際に城内外から1280体の遺体が運び込まれた。
さらに山野に放置されている遺骸が多数あり、5月以降も作業が続けられている。
会津藩の戦死者2973名に対し、城内戦死者は240名、10月の仮葬は567名なので、
井戸への投げ込みも含めて10月に処理されたのはごく一部。
だから放置された遺体が夥しく、野口氏も日向ユキの「萬年青」や河原勝治の回想にあるように、
翌年春に至って遺体を発見した例を挙げている。

要するに、大多数の遺体が放置されたり、杜撰な扱いで腐敗していたこと、
これを見かねて埋葬を申し出たのに対して軍務局の嫌がらせがあったのは事実。