百済の「日本」part4
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禰軍墓誌の「日本餘噍」は扶余勇のことだろう
百済あたりから、幾重にも、倭国に渡ってきた王族がいたのだろうね
https://sites.google.com/view/jhistory/ を読んで議論しよう
扶余勇は百済義慈王の王子
翹岐は百済武王の王子で義慈王の弟
倭の五王は辰王
脱知爾叱今は金官伽耶王の弟
前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543143373/ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 はじめての生前譲位(皇極→孝徳)
重祚(孝徳崩御→斉明=皇極)
皇太子無視(孝徳崩御のとき、皇太子である中大兄は即位しなかった)
天智称制(何故か皇太子が執政)
これらのイレギュラーの連続は書紀が皇統の接続を工夫した証
隠された真実は以下にある
https://sites.google.com/view/jhistory/ >>6
どこの低脳なんだ?と聞いているんだよ、
お前の名前は? >>7
お前みたいなヒトモドキが人間様にモノを聞くなんぞ半万年早い
尋ねたいことがあるなら三跪九叩頭の動画撮って上げてからお伺いを立てろ無能 不偏不党の歴史には真実という終着点がある
この意味で書紀は解体され真実が炙り出されねばならない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています