>>532のつづき
入鹿の暗殺が百済王家であることが時間軸と書紀の記述からわかった
蘇我の戴く上宮法皇一家の連続死の不審は百済王家に注がれる
上宮法皇は昆支の子孫でアマタリシヒコ大王を名乗り秦王国を称し遣隋使を派遣し「天子」を自称した
本家の百済王家にとって分家の恐るべき伸長ではないか 
一家死亡は百済武王の時代である 百済王家は昆支の系脈を根絶したかったのではないか
武王義慈王二代に亘る意思だったことは証明できないが・・・