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歴史を直視しろ

昆支は蓋鹵が461年に「忠誠の印」として倭國に朝貢した人質のうちの一匹

雄略天皇が477年に百済王に任命してやった文周の弟で、しかも文周の命令で息子の東城を倭國に人質として差し出した百済王族

その東城も479年に雄略天皇の任命によって百済王に就いた


つまり、倭國にとって百済王族は生口であり、オスは操り人形でメスは産み腹であり、それ以上でもそれ以下でもない

ホラを吹くなら、正しい歴史認識に基づいてソレっぽく語ってみせろよ無能


↓明確な記録が残っている百済の正史↓

451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓(百済)六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。

475年9月、高句麗の長寿は百済の都 漢城を強奪し、百済の蓋鹵を殺害し百済は一度目の滅亡。

477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺される。

479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の武人500人を付けて帰国させて「百済王に就かせ」た。