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百済は成立前から滅亡まで一貫した倭国の朝貢国
歴史の真実から目を背けるな無能

451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓(百済)六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる

475年9月、高句麗の長寿は百済の都 漢城を強奪し、百済の蓋鹵を殺害し百済は一度目の滅亡

477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺される

479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の武人500人を付けて帰国させて「百済王に就かせ」た

490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める

501年、東城が暗殺されたため、武寧が即位

503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に「朝貢し」、倭は現在の北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮は他の宮と同様に地名由来)

506年、武寧は北斉から下賜された百済王位を唯一証明できるたった一枚の銅鏡を「忠誠の証し」として男大迹王(をほどのおおきみ=後の継体天皇)に「貢上」した

513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した

552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した

554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位

561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退

642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開

660年、百済二度目の滅亡