百済の「日本」part4
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
禰軍墓誌の「日本餘噍」は扶余勇のことだろう
百済あたりから、幾重にも、倭国に渡ってきた王族がいたのだろうね
https://sites.google.com/view/jhistory/ を読んで議論しよう
扶余勇は百済義慈王の王子
翹岐は百済武王の王子で義慈王の弟
倭の五王は辰王
脱知爾叱今は金官伽耶王の弟
前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543143373/ 将門の頃辺りまで百済氏は出てくるじゃん。将門を唆した興世王は百済氏の縁者。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 偉人の言葉
・本田宗一郎 『韓国人と関わるな』
・吉田松蔭 『朝鮮人の意識改革は不可能』
・伊藤博文 『嘘つき朝鮮人とは関わってはならない』
・新渡戸稲造 『朝鮮亡国の原因は、朝鮮民族という人間にある』
・新井白石 『朝鮮人は、己に都合が悪くなると平気で嘘をつく。』
・夏目漱石 『余は支那人や朝鮮人に生れなくつて善かつたと思つた』
・福沢諭吉 『この世界に救いようのないどうしようもない民族がいる。朝鮮人だ』 偉人の言葉
・本田宗一郎 「韓国人と関わるな」
・吉田松蔭 「朝鮮人の意識改革は不可能」
・伊藤博文 「嘘つき朝鮮人とは関わってはならない」
・新渡戸稲造 「朝鮮亡国の原因は、朝鮮民族という人間にある」
・新井白石 「朝鮮人は、己に都合が悪くなると平気で嘘をつく」
・夏目漱石 「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて善かつたと思つた」
・福沢諭吉 「この世界に救いようのないどうしようもない民族がいるが、それは朝鮮人だ」 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 百済ヒトモドキは年越せなかったみたいだな
平壌で凍死したんだろうなwww >>853
百済ヒトモドキを人間扱いしてごめんなさい 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>853
下水の概念教えてしまってトンスル文化を廃れさせてしまってごめんなさい 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>856
じゃあ百済から渡来した天皇も倭人ってことだな >>860
お!ヒトモドキ凍死してなかったのかwww
そういう根拠ナッシングなトンスル妄想をしゃべりたいなら
まずは以下の詰問に答えろや無能
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い
@ 百済で育った倭國の皇族がいると思い込んだ日本書紀の記述を提示
A 百済大井宮ならびに百済宮が朝鮮半島にあったと信じる根拠の明示
B 倭國と百済が対等な同盟国だったと錯覚している根拠の提示
C 人質が客人であったと妄想している根拠の明示
D 成立から滅亡まで一貫して倭國の朝貢国であった地域から影響を受けなければならない理由の提示
E 任那に離反された、明け渡したとの空想に至った根拠の明示
F 仁徳天皇が百済人だとする根拠の提示
G 証拠がないから天皇は倭人ではないという支離滅裂思考に至った根拠の明示
H 中大兄皇子が自ら「剣」を持って切りつけたと主張する日本書紀の記述を提示
I 扶余勇が倭國に渡ったという根拠と、天智天皇だという根拠の明示
ト ン ス ル 妄 想 は 聞 き 飽 き た 在日朝鮮ヒトモドキは成人式にチマチョゴリ着てトンスル飲んでお祝いするんでしょ? >>864
百済は建国から滅亡まで一貫して日本のパシリ
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓(百済)六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は百済の都 漢城を強奪し、百済の蓋鹵を殺害し百済は一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺される。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の武人500人を付けて帰国させて「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺されたため、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に「朝貢し」、倭は現在の北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮は他の宮と同様に地名由来)。
506年、武寧は北斉から下賜された百済王位を唯一証明できるたった一枚の銅鏡を「忠誠の証し」として男大迹王(をほどのおおきみ=後の継体天皇)に「貢上」した。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、百済二度目の滅亡。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>864
日本の天皇に百済風諡号なんてねーよ。日本には百済の王統は存在しない。チョンコは嘘つき。 >>265
日本に対して優越感に浸りたいという傲慢な欲求しかないチョンコには無理。 百済人が禰軍の温情にすがる
百済人が新羅の圧力外交(668.9.12)に慌てふためく
百済人の外交能力はどうだったのか >>871
パラレルワールドの話か?
こっちの世界では660年に百済は消滅してるんだが 元百済人が禰軍の温情にすがる
元百済人が新羅の圧力外交(668.9.12)に慌てふためく
元百済人の外交能力はどうだったのか >>873
ヒトモドキに外交もクソもないだろマヌケ >>875
三韓以降はおしなべてヒトモドキだぞマヌケ 梁書「高祖卽位,進武・・・」より502年はワカタケル大王、人物画像鏡から503年は日十大王、大王は交代した。
人物画像鏡より503年継体王は意柴沙加宮(大和の忍坂宮)で大王が変わる場面に遭遇(書紀の継体天皇就任要請は作り話)。
継体王はワカタケル大王の治世下で北陸を開拓興産で成功し、中央政界に招かれたのだろう。503年は53歳くらい。
継体王の淀川水系の宮は507年の樟葉が最初で人物画像鏡が送られた後、すなわち日十大王にかわって以降のこと。
ワカタケルには後継がなく、継体王と日十王が大王位を争った結果、日十王が大王になり、継体王は淀川水系の王になった。
日十大王は昆支。昆支(文周王の弟)は478位に河内に来ている。木満致は475に先着。
昆支王と蘇我満智(=木満致)ペアができあり、100年後の河内の聖徳(アマタリシヒコ大王)・馬子ペアとして現れる。
王と支える貴族の関係は不滅。昆支王系が大王になった。昆支が生存していれば、彼が日十大王。
大王交代の直後に送られた人物画像鏡(長寿を念ずる)は、武寧王が敗れた継体王に倭国の安定を求めたもの。
その意味は武寧王が倭国の大王選びに関与し、百済系を選んだ。以降河内はアマタリシヒコまで百済の分国のようなもの。 >>878のつづき
502年から600年まで倭国から中国への朝貢がないのは、河内が百済の支配下にあったからだろう。
あるいは、河内、淀川、大和、などに分立していたからだろう。
アマタリシヒコは百済の支配を脱して、朝貢した。自称「天子」は独立宣言。百済は許せず、一家を殺した。
翹岐はアマタリシヒコを支えた貴族蘇我も滅ぼした。これで独立分子一掃が完成。
https://sites.google.com/view/jhistory/ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>878
また朝鮮ヒトモドキが寝言を書き始めたかw
まず
>書紀の継体天皇就任要請は作り話
↑
これを妄想以外で証明してみせろや無能www
それから、いつもの詰問に続けて答えろマヌケwwww
@ 百済で育った倭國の皇族がいると思い込んだ日本書紀の記述を提示
A 百済大井宮ならびに百済宮が朝鮮半島にあったと信じる根拠の明示
B 倭國と百済が対等な同盟国だったと錯覚している根拠の提示
C 人質が客人であったと妄想している根拠の明示
D 成立から滅亡まで一貫して倭國の朝貢国であった地域から影響を受けなければならない理由の提示
E 任那に離反された、明け渡したとの空想に至った根拠の明示
F 仁徳天皇が百済人だとする根拠の提示
G 証拠がないから天皇は倭人ではないという支離滅裂思考に至った根拠の明示
H 中大兄皇子が自ら「剣」を持って切りつけたと主張する日本書紀の記述を提示
I 扶余勇が倭國に渡ったという根拠と、天智天皇だという根拠の明示
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い >>881
書紀は苦労して探し出したトーンだが、503年に大和忍坂宮にいることが鏡により証明された。
学者どもの鏡の解釈は何年たっても、ああだこうだと定めないが、簡単なことだった。 書紀にだまされるやつは書紀の作者より知能が低いwwww >>883
でも俺まったくゼロから日本書紀と同じもん書く自信ないわw 進歩史観に毒されているチョンコには歴史なんて一生わからないw 大王記や国記は河内にあった、他の王家にも歴史書はあった。王家は正統性のために歴史書がすきなんだ。
書紀はそれらをもとに、編集し、王統のストーリー練り上げ、挿話を入れてもっともらしくした。浅知恵。
俺が歴史書を書くなら司馬遷のようにもっと正直に書く。脚色はしない。 >>885
お前がわかっているつもりななっている歴史は虚妄史観だ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 最初に、書紀には河内があるときから抜けていることに気がつかねばならない。継体へは王権の飛ばし行為。
何で河内をネグるかというと、書紀を作った政権にとって、入れたくない歴史だからさ。
書紀を作った政権と河内は骨肉の争いであろうから、争いの詳細はわからない。
骨肉の争いほどひどいものはない。倭の五王を入れてるのは他人だからね。 >>882
>>883
相変わらずヒトモドキは読解力がなくて笑うわwww
>書紀の継体天皇就任要請は作り話
↑
これを妄想以外で証明してみせろや無能www
なんでたった一つの詰問を正面からちゃんと答えられないんだ?
理由は一つ
妄想だからwwwwwwwwww >>886
>>889
どうせマトモに答えられないんだから、さっさとお前の命題に取りかかれ無能w
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い
@ 百済で育った倭國の皇族がいると思い込んだ日本書紀の記述を提示
A 百済大井宮ならびに百済宮が朝鮮半島にあったと信じる根拠の明示
B 倭國と百済が対等な同盟国だったと錯覚している根拠の提示
C 人質が客人であったと妄想している根拠の明示
D 成立から滅亡まで一貫して倭國の朝貢国であった地域から影響を受けなければならない理由の提示
E 任那に離反された、明け渡したとの空想に至った根拠の明示
F 仁徳天皇が百済人だとする根拠の提示
G 証拠がないから天皇は倭人ではないという支離滅裂思考に至った根拠の明示
H 中大兄皇子が自ら「剣」を持って切りつけたと主張する日本書紀の記述を提示
I 扶余勇が倭國に渡ったという根拠と、天智天皇だという根拠の明示
ト ン ス ル 妄 想 は 聞 き 飽 き た >>887
お前まさか酔っ払って鏡に向かって喋ってんのかマヌケ
お前が分かっているつもりになっている歴史こそ虚妄史観だぞw
ヒトモドキが分かっているつもりになっている歴史こそ虚妄史観だぞww
トンスル常飲者が分かっているつもりになっている歴史こそ虚妄史観だぞwww 日本の古代史は比較的簡単だった。他の学問からすれば、過去の話だから証拠を並べればよいだけ。
あまたの歴史家は何をしていたのか。書紀の作者より知能が低いのだろう。
百済人が作り上げた歴史をその末裔たちが議論しても何も出ないということだ。
国際的視点さえもてばできたのに。昔も今も井の中のカワズ。
「温情にすがる 、圧力外交(668.9.12)に慌てふためく 、外交能力は?」の意味がわかった?
さて、次はなにを解明してやろう。はっはっは。 >>893
トンスル妄想でしか自己肯定できないお前ごときヒトモドキが歴史を語るなって何度しつけてやれば理解できるんだマヌケ?
せめて人間に生まれ変わってから一人前の口を利け無能w
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い
@ 百済で育った倭國の皇族がいると思い込んだ日本書紀の記述を提示
A 百済大井宮ならびに百済宮が朝鮮半島にあったと信じる根拠の明示
B 倭國と百済が対等な同盟国だったと錯覚している根拠の提示
C 人質が客人であったと妄想している根拠の明示
D 成立から滅亡まで一貫して倭國の朝貢国であった地域から影響を受けなければならない理由の提示
E 任那に離反された、明け渡したとの空想に至った根拠の明示
F 仁徳天皇が百済人だとする根拠の提示
G 証拠がないから天皇は倭人ではないという支離滅裂思考に至った根拠の明示
H 中大兄皇子が自ら「剣」を持って切りつけたと主張する日本書紀の記述を提示
I 扶余勇が倭國に渡ったという根拠と、天智天皇だという根拠の明示
ト ン ス ル 妄 想 は 聞 き 飽 き た >>893
何の根拠も示せずに妄想を垂れ流すことしか出来ないのに「国際的視点」とは聞いて呆れる 4スレに渡って全て完全論破され続けてるのに、何かを解明した気になってるのって
統合失調症などと言った精神疾患なんじゃないのか? >>883
その作者はチョンコが必死に百済人にしたい天皇家だぞw
チョンコ矛盾だらけw >>897
何をいまさら。
ここは1スレ目から精神疾患を患った朝鮮ヒトモドキの妄想をおちょくるスレだぞ。 百済の血脈なんて本拠地では新羅と高麗に滅亡させられて生き残りなんていないし、日本列島に渡った氏族も藤原家の台頭で孕み腹の役割を終え、源平代で死滅してる。 日本書紀編纂に協力した渡来人もバカにするチョンコ
全てがワケワカメ >>901
>日本列島に渡った氏族
死滅したと言い切るなら、全部挙げてみてくれないか ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>903
その前に詰問に答えろ無脳ヒトモドキ
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い
@ 百済で育った倭國の皇族がいると思い込んだ日本書紀の記述を提示
A 百済大井宮ならびに百済宮が朝鮮半島にあったと信じる根拠の明示
B 倭國と百済が対等な同盟国だったと錯覚している根拠の提示
C 人質が客人であったと妄想している根拠の明示
D 成立から滅亡まで一貫して倭國の朝貢国であった地域から影響を受けなければならない理由の提示
E 任那に離反された、明け渡したとの空想に至った根拠の明示
F 仁徳天皇が百済人だとする根拠の提示
G 証拠がないから天皇は倭人ではないという支離滅裂思考に至った根拠の明示
H 中大兄皇子が自ら「剣」を持って切りつけたと主張する日本書紀の記述を提示
I 扶余勇が倭國に渡ったという根拠と、天智天皇だという根拠の明示
ト ン ス ル 妄 想 は 聞 き 飽 き た 朝鮮半島は白村江、文禄・慶長の役、日清戦争と日中の戦場になってきた緩衝地帯。現在は日米中露の東アジアの緩衝地帯。
そんな朝鮮が日本支配するなんて(ヾノ・∀・`)ムリムリ >>893
お前は朝鮮半島の歴史(笑)の解明に心血注いだら?
日本には絡み付いてこないでくれ >>889
これまで一度たりとして詰問に答えられないお前が何を言っても妄言にしか聞こえない 文鮮
[250]P 名無しさん@1周年[sage] 2018/06/10(日) 22:01:19.45 ID:oZuRBb5l0
>173
パヨクごときが文鮮明先生のご加護がある安倍さんが支持する花角に勝てるわけねーつのなw Present Emperor Akihito:
Male Gene (Y-chromosome): 100% Japanese (100% same as Emperor Jinmu)
Other genes: almost 100% Japanese, and 0.000000000000000000000017% Korean.
Mitochondoria-DNA: 100% Japanese
I suppose you could say the present Japanese Emperor Akihito has some Korean blood….whatever that means…... >>906
>D 成立から滅亡まで一貫して倭國の朝貢国であった地域から影響を受けなければならない理由の提示
横からだけどさ。朝貢国ってのが
百済のことなんだろうけどさ。これは、もう事実じゃん?
記紀の表記みてもそうだし。続日本紀みても、やたら韓鍛冶なんてのがいて、当時は鍛冶技術においても韓国のが秀でてた訳だ。
>かぬちべ【鍛冶部】
https://kotobank.jp/word/%E9%8D%9B%E5%86%B6%E9%83%A8-45898#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88
>大化前代、豪族に隷属し鉄製武具などの製作にあたった部民。
>先進技術をもった渡来人系の韓鍛冶部と
>在来技術による倭鍛冶部とがあった。
Bについてもそうだけど。素直に考えたら記紀の表記がウソだとわかるだろ?
文字も鍛冶技術も稚拙だった時代の倭国が
朝鮮半島支配できた根拠が無いし。考古学にも矛盾してる。
ようは記紀の表記が国内むけに「昔は朝鮮半島を支配してました」ってウソをついたたんだよ。
で、それを中国にやったのが倭王武。ようは事情をよく知らない相手をだますってのが
当時の倭人のスタンダードだったんだろう。
それはヤマトタケルのやり方を見てもわかる。
記紀に騙されて、「昔、オレ達が支配してたはずなのに、
記紀が書かれた頃には独立されてしまったんだ」って、
カン違いから見下すのは宜しくない。みっともない話さ。
そもそも事実上、文盲の国に海を越えた植民地経営が出来るかって話。
ましてや、鍛冶技術すら劣ってる。なにをどう、勝てる要素があるのさ?
当時の倭国はまだ蛮族で、その後に技術が入って来て、対等に近づいた。
なのに、その時代に支配できなくなってるって、おかしいいじゃん? >>913
だから何でウソだと分かるんだっつーのw
御託は後で聞いてやるから順番に詰問に答えろ横から無能ヒトモドキwww
根 拠 の な い 推 論 は 妄 想 以 外 の 何 物 で も な い
@ 百済で育った倭國の皇族がいると思い込んだ日本書紀の記述を提示
A 百済大井宮ならびに百済宮が朝鮮半島にあったと信じる根拠の明示
B 倭國と百済が対等な同盟国だったと錯覚している根拠の提示
C 人質が客人であったと妄想している根拠の明示
D 成立から滅亡まで一貫して倭國の朝貢国であった地域から影響を受けなければならない理由の提示
E 任那に離反された、明け渡したとの空想に至った根拠の明示
F 仁徳天皇が百済人だとする根拠の提示
G 証拠がないから天皇は倭人ではないという支離滅裂思考に至った根拠の明示
H 中大兄皇子が自ら「剣」を持って切りつけたと主張する日本書紀の記述を提示
I 扶余勇が倭國に渡ったという根拠と、天智天皇だという根拠の明示
ト ン ス ル 妄 想 は 聞 き 飽 き た >>914
横からって言った通り、当人じゃないんよ。
ウソだろうってのは、うえで上げた通りだよ。
続日本紀ですら、外交については
ウソだらけだろうって感想しかない。
それこそ、戦勝国がなんで敗戦国に朝貢してんだよ?
あったばかりの渤海がなんで日本に朝貢してんだよ?
国内資料で平気でウソついてるって考えるのが妥当じゃん?
まさに大本営発表って奴だよ。 というか、正直なところ、
白村江の戦いのあと、しばらくは
倭国が新羅の属国になってたとしても
あんまり不思議ない印象
都合の悪いことを書いて無さそうな続日本紀ですら、
相当、新羅にナメられてた感じで書いてるんで
ずっと相手が朝貢してた設定と、あからさまに反するんだよなぁ 仏教も百済から教えてもらって、博士とか招聘していたわけで、倭は格上とは言えないよね。
七支刀だって、百済から下賜されたととれる。
少なくとも倭が百済より上とは思えない。
同格だとしたら、百済の王子が倭にいたのと同様に、倭の王子が百済にいて何の不思議があるだろう。
現実に百済の宮にいたと記述されているわけだし。 >>915-917
なんで別人装う必要があるんだい?
正しい歴史認識を正視しなさい
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓(百済)六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は百済の都 漢城を強奪し、百済の蓋鹵を殺害し百済は一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺される。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の武人500人を付けて帰国させて「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺されたため、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に「朝貢し」、倭は現在の北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮は他の宮と同様に地名由来)。
506年、武寧は北斉から下賜された百済王位を唯一証明できるたった一枚の銅鏡を「忠誠の証し」として男大迹王(をほどのおおきみ=後の継体天皇)に「貢上」した。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、百済二度目の滅亡。 >>915
お前の感想に何の価値があるんだマヌケwww チョンコ必死だけど「新羅は倭の属国」とか新しい発見ごとに悲しい現実しか待っていないから可哀想 >>916
無能ヒトモドキはどんだけマヌケなんだw
倭國軍は百済の援軍だぞ?
敗戦国は百済であって、倭國軍も敗軍ではあるが国が負けたわけでもなんでもない
お前の無能理論でいうなら元は日本に負けたことになるな?ww
お前のマヌケ理論で言うなら元は日本の属国になったんだな?www
寝言は祖国でやっとけよマヌケwwwww 白村江の後で筑紫は唐に占領されたよ。
敗戦国になったんだよ。
その後に唐に習った律令制を導入した。 唐書にそんなこと書いてませーん。唐は日本を把握するほど国家干渉してません🤣 百済は唐書に百済種絶滅ってあるだろ?これが国家滅亡。 2000人の捕虜返還に来て筑紫に上陸できなかったんじゃなかったか?
なんで、唐が百済人を日本に返還すんのか謎だよな?
帰国お断り、とか・・・
はないちもんめ、の起源かwww 唐から見たら、倭も百済も同種だったんだよ。
だから、倭と百済の連合は白村江で合わせて滅亡したんだ。
百済の旧都熊津と倭の筑紫にはどちらも唐が都督を置き、唐の直轄地となった。 何故、日本が白村江海戦なんて言う、あさっての戦争w
しなきゃなんなかったかって、理由が必要だし、
百済先駆の歴史認識じゃ有り得無いだろ?
百済復興なんだから、人質で日本貴族待遇だった皇太子を旗印に
周辺の在日や、移民した開拓民を支援して、旗揚げする以外ないでしょうが。
最初から、負けてる前線に、後進国が侵略しに行くのか? 有るわきゃ無い。
で、皇太子が逃げちゃっって、敗走したんだろw
捕虜返還って、元が日本からの百済開拓民とか、アイムザパニーズとかだろ。
ちょっち、飛ぶけどw 戦後の歴史が証明してないか? どこの低脳なんだ?
>>1が正解だと言っているんだよ >>929
百済って国が、無くなったのは
>>1 で、日本に渡って来て貴族化してた、皇太子や在日戦士が、
白村江海戦で故国復興に失敗したからだよ。
日本は友好国の皇太子や王族、豪族を十分優遇し、戦争も支援した。 敗戦は有る。
老婆心だが、 歴史を繰り返さない為には、今、帰国した方が良いと思う・・・
三度目 なんだよ。 否定したら日本自体なくなるだろうという話
数年前の、とあるスレを読んでいたとき
「英語でも覚えたらどうなの」(英単語の一つでもだったかな?)
という書き込みがあったりしたんだけど、それと同じだろ
何が言いたいのか、したいのか、わからない、
海外にでも移住するの?逃亡? 旧唐書「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶w🤣🤣🤣🤣」 他の国へ移住、逃亡?するときは、
すべて(資産)置いていけ・・・・・・・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私の家にw
みたいなことを言ってる人もいたような、
数年前の、とあるスレ 旧唐書「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶w🤣🤣🤣🤣」 『茶釜 天津』調べてみた?
家の写真と同じようなコンセプトの写真が出てきたり、
なぜだと思う
キュウリの葉、葱の華・・・などの写っている写真、
ちなみに家は芸能人ではない、あの写真の当時も なぜか、このようなコンセプトの写真
『河童の三平』?
このような名前の家なんだけど
『松傾』 天津・・・・・・・・・・・・・
〜という女優が演じている役などを調べてみて、
wikiでいいから、なぜだと思う? ちなみに、もれ(仮)の家、住んでいるのは、
神奈川県の川崎(川崎区)というところ
なぜだと思うw 当時、結婚した人がいるんだけど、
結婚した家の父親なんかも、何々様(ひみお、ヒミコとかではない)なんて言われていたよ
と言っていたりw
なぜだと思う >>929
>>1はどこの無能なんだ?
正解は越後製菓だから 【宋書、梁書、隋書ならびに日本書紀に基づいた倭国と百済の「正しい歴史」認識】
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓(百済)六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は百済の都 漢城を強奪し、百済の蓋鹵を殺害し百済は一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺される。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の武人500人を付けて帰国させて「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺されたため、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に「朝貢し」、倭は現在の北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮は他の宮と同様に地名由来)。
506年、武寧は北斉から下賜された百済王位を唯一証明できるたった一枚の銅鏡を「忠誠の証し」として男大迹王(をほどのおおきみ=後の継体天皇)に「貢上」した。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、百済二度目の滅亡。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。