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古代銅鏡は二十四節気の暦カレンダーだった
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0001アッシー
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2018/12/13(木) 03:08:18.21
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡には、二十四節気暦が3年分1サイクルとして円周上に配置されている。
古代銅鏡がどのような用途で製作されたものかいろいろ説があるものの、二十四節気の農耕暦が銅鏡に配置されていると言及されたことはこれまでない。
これが事実であれば、古代の祭祀者が行った農耕祭祀とこの二十四節気暦を鋳込んだ銅鏡は、切っても切れない関係にあったことが想定されることになる。
また、祭祀王たちの棺の方位の確定や墓域の設定なども、この二十四節気暦を配置した銅鏡を用いてなされたことが推測される。
こうしたことから、二十四節気暦を配置した銅鏡のひとつ一つの実例を、これからみてみることにしよう。
0004日本@名無史さん
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2018/12/15(土) 01:24:19.21
今、準備中だ。
鼻の下長くして、待ってろ。
0005日本@名無史さん
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2018/12/15(土) 07:08:26.64
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0006日本@名無史さん
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2018/12/15(土) 08:38:30.24
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


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0007日本@名無史さん
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2018/12/16(日) 02:56:51.63
       埼玉県の埼玉古墳群中稲荷山古墳第一主体出土品の画文帯環状乳神獣鏡
  及びインターネットサイト・邪馬台国の会第327回記録が掲載する画文帯神獣鏡の一例の平面図について。
0009日本@名無史さん
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2018/12/16(日) 18:59:54.08
この埼玉の画文帯環状乳神獣鏡と邪馬台国の会の画文帯神獣鏡の一例平面図は同系の鏡とみられる。
そこで、鏡の置き方がほぼ東西南北軸に合っている邪馬台国の会の平面図を中心に述べて行く。
まず、邪馬台国の会の鏡の中央の紐を吊るすための小突起を中心点とし、この中心点からみて左右の二つの黒く塗られた図像の中心部と中央小突起の中心点の3点を軸線で結ぶ。
そして、この軸線上の左側の黒色の図像を二十四節気の春分点を示すものと設定する。
この春分点を示す黒色の図像から下のやや小さめの色を塗っていない図像の中心部に中央小突起の中心点から軸線を引く。
中央小突起の中心部に分度器の中心部を置き、そこからみて、春分点の東西線に対してこの色を塗っていない図像の中心部はきっちり15度の角度になる。
二十四節気では、この位置にある節気は立春点に当たる。
この線引きの作業を次の下の黒色の図像に対しても同様に行う。
そうすると、この黒色の図像の中心部も中央小突起からみて、きっちり15度の角度の位置にあることがわかる。
この位置の二十四節気は、冬至点に当たる。

このようにして、東西線上の春分点からすぐ上の色を塗っていないやや小さめの図像とその上の黒色の図像に対しても、中央小突起の中心点から軸線を引くと、それぞれの図像が15度ごとの角度の位置にあることが分かる。
この最初のやや小さめの色を塗っていない図像は二十四節気の立夏点、黒色の図像は夏至点に重なることが分かる。
このように、この5個の図像は、きっちりと二十四節気の冬至から立春、春分、立夏、夏至の各節気に重なる位置に鋳込まれており、この一致は偶然とは考えにくい。
また、この等間隔の角度に合う別の規則性を持った何かの事柄が別にあるとは思えない。

本文が長いとエラーメッセージが出るので、このあとは「続く」とする。
0011日本@名無史さん
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2018/12/16(日) 21:57:48.65
>>9
このようにして、5個の図像が二十四節気の冬至点から夏至点にちょうど重なることが分かった。
そこで、さらに同じ作業を続けて夏至点の図像から上に進むと、色なし図像と黒色図像がやはり15度の等間隔で並んでいることが分かる。
夏至点の図像の次の図像からを3個目の図像は、ちょうど二十四節気の立冬と重なり、この立冬の期間中までが最初の冬至点からの1年分となる。
こうして、15度ごとの等間隔の図像の位置は、すべて二十四節気の冬至、立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬に重なることが分かったのであるが、
これまでの作業と同じ作業を続けて線引きすると、次の黒色図像が新たな冬至点に重なるので、その後の図像に順次二十四節気の各節気を重ねて行くと、
ぐるっと回ってさらに2年分の二十四節気と鏡の図像がぴったりと重なることが分かる。
図像は全部で等間隔に24個あり、二十四節気の上記の節気がちょうど3年分、その図像にぴったり重なることになった。
これは、おそらく偶然ではないであろう。

なお、文中で用いた角度は現代の角度概念であり、鏡製作当時にこのような角度概念があってそれが用いられたというわけではない。
二十四節気では1節気当たり15日として、1年を360日としていたようだ。
したがって、この画文帯神獣鏡では冬至点から立春点までを45日、春分点まで90日、立夏まで135日、夏至まで180日などと日数で節気の到来を数えた可能性が高い。
角度は、あくまで便宜的に等間隔であることを示すために用いているもの。

次回は、奈良県広陵町新山古墳出土の三角縁三神三獣鏡をみてみることにしたい。
0012日本@名無史さん
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2018/12/16(日) 22:06:06.54
>>10
踏み返し鏡であっても、図像の位置は変わらない。
0013日本@名無史さん
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2018/12/19(水) 07:10:40.81
          奈良県広陵町新山古墳出土三角縁三神三獣鏡について

インターネットサイト・ウィキペディア「三角縁神獣鏡」が掲載している神獣鏡のうち、広陵町新山古墳出土の鏡を見てみる。
まず、この写真をプリントアウトする。
鏡の置き方が南北軸が真横になっているため、印刷した鏡を九〇度左へ回転させる。そうすると、南北軸が正しく上下になる。
さて、鏡の中ほどに、六個の小突起が円形をなしている。
その円形の中央に紐を吊るす小丘があり、その小丘の中心点と上下の小突起の中心点の三点を軸線で結ぶ。
そして、小丘の中心点に分度器を置き、分度器の九〇度の角度の線と南北の軸線がぴったり重なるように合わせ、
分度器の左側の〇度と右側の一八〇度の位置に印を付けておき、分度器をはずして、その両方の印と中央の小丘の中心点を軸線で結ぶ。
この東西線の左側は、二十四節気の春分点と重なる。また東西線の右側は秋分点と重なる。
次に、左側の東西線から下にある小突起の中心点と中央小丘の中心点を軸線で結ぶと、その角度は東西線に対して三〇度となる。
この三〇度の角度は、二十四節気の冬至点と重なる。
そして、この作業と同じ作業を東西線の上の小突起についても行うと、中央小丘の中心点と小突起の中心点を結ぶその軸線の角度は東西線に対して三〇度となる。
この三〇度の角度は二十四節気の夏至点と重なる。
ということは、この上下の二つの小突起は、二十四節気の冬至点から夏至点までの半年分の間隔に重なっていることが分かる。

                            続く
0014日本@名無史さん
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2018/12/19(水) 07:13:42.06
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0015日本@名無史さん
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2018/12/19(水) 07:43:31.34
                            続き

そして、ここまでの作業と同じ作業を、右側でも行う。
東西線の右側の下の小突起の中心点と中央小突起の中心点を結ぶと、小突起の中心点は東西線に対して角度が三〇度となる。
この角度上にある小突起の中心点は、二十四節気の冬至点と重なる。
また東西線の上の小突起の中心点と中央小丘の中心点を結ぶと、小突起の中心点は東西線に対して角度が三〇度になる。
同じく、この角度上にある小突起は、二十四節気の夏至点と重なる。
つまり、東西線の左側と右側を南北線で折り返せば、両方の小突起がぴったり重なるようになっているもの。
このことから考えると、東西線の左側の小突起の配置は、二十四節気の1年の前半の冬至点から夏至点に至る半年分と重なり、
右側の小突起は、二十四節気の1年の後半の半年分と重なることになり、そのような小突起の構成になっていると考えることが可能になる。
ところで、一方、それぞれの小突起の間は、単に空白にはなっていない。
等間隔に図像が配置されている。
これらの図像の中心点と中央小丘の中心点を軸線で結ぶと、小突起との間の角度がすべて三〇度の角度になるように配置されていることが分かる。
ということは、これらの図像も二十四節気の特定の節気とぴったり重なっており、小突起と図像を合わせて最初の冬至点から数えると、冬至点、春分点、夏至点、秋分点、冬至点、春分点、夏至点と続いて行き、
3年分の二十四節気のこれらの節気がぴったり円周に収まる配置となっていることが分かる。
つまり、この鏡の構成は、1年の半年ごとの二十四節気にも対応し、また3年連続の二十四節気にも対応している可能性を考えることができる。
なお、中央小丘の周りや外縁にも小球や山形が鋳込まれていて、これらが二十四節気と対照しているものかどうか注目されるが、今は保留とする。
0016日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/19(水) 08:35:35.21
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0017日本@名無史さん
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2018/12/19(水) 12:23:35.00
>>16
そうでもないだろう。
中国式の土を塗りこめた土壁は、防寒・防風効果も考えた上で作り出されたものだろう。
日本の竪穴式住居が半地下式となっているのは、この土壁と同じ効果を持つ建築方法だろう。
日本は中国ほど寒くなく、湿気があるので通風効果も考えて、その土壁を高くしなかったということだと思う。
こうしたことを考えると、一概にどちらかの優劣を判断するよりも、気候風土に合った建築のあり方があったのだと考えるのが妥当。
したがって、日本にやってきた中国人は、日本の気候風土に合った建築を選んだということが考えられ、中国式の建物がないからといって、中国からの渡来人がなかったとは言いきれない。
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