>>38
纏向遺跡と大和古墳群、柳本古墳群に造られた大王級の大古墳の後円部が、大型建物群を中心点とする3年分の二十四節気の特定の節気の軸線上にぴったりと乗っていることをみてきた。
これは、偶然とは考えにくい。
大王墓の位置決定が、計画的に行われた可能性があることを示している。
そして、その計画には大枠が設けられていた可能性について、これからみていく。
大枠とは、墓域の意味である。

まず、石塚古墳などの第一墓群を見てみよう。
この第一墓群は、南は東田大塚古墳、北は勝山古墳である。
南の東田大塚古墳は、大型建物群の中心点からみて、東西線に対して南へ25度の位置にあった。
また、勝山古墳は東西線に対して北へ10度の位置にあった。
これらの4基の墳丘墓は、冬至点〜夏至点までの60度の範囲内にあると、一応、枠を設定する。

次に、第二墓群をみてみる。
ホケノ山古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ30度の位置にある。
また箸墓古墳は、大型建物群の中心点からみて、南北線に対して東へ5度の位置にある。
そして、この2基の古墳は、3年目の二十四節気の冬至点から夏至点までの60度の範囲内にあると、枠を設定する。

次に、第三墓群をみてみる。
西殿塚古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ20度の位置にある。
行燈山古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ35度の位置にある。
渋谷向山古墳は、大型建物群の中心点から見て、南北線に対して東へ60度の位置にある。
この三基の古墳は、2年目の二十四節気の冬至点〜夏至点までの60度の範囲にあると、枠を設定する。

                    続く