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この百舌鳥・古市古墳群を収める墓域の中心点を畝傍山とした場合、畝傍山を通る東西線に対して北に30度の角度は二十四節気の夏至点に当たり、この30度の軸線が墓域の北限と想定されるが、その軸線の直前に帝塚山古墳がある。
この帝塚山古墳を北へ過ぎると古墳はほとんど見られなくなり、大阪茶臼山古墳が天王寺駅付近に1基みられるだけである。
百舌鳥・古市古墳群を収める墓域は、畝傍山を中心点として東西線に対して北へ30度の角度が墓域の北限とみることができる。
そして、古市古墳群の応神天皇陵の後円部は、畝傍山を通る東西線に対して北へ25度の角度の軸線上に乗っている。
百舌鳥古墳群の大仙陵古墳の後円部は、畝傍山を通る東西線に対して北に15度の角度の軸線上に乗っている。
このパターンは、纏向遺跡の大型建物群を中心点として、二十四節気の特定の節気の軸線上に大王級の古墳の後円部がそれぞれぴったり乗っているを通るのとまったく同じである。
これらのことから、河内の百舌鳥・古市古墳群などの古墳は、畝傍山を中心点として設定した墓域にちゃんと収まっていると想定することが可能である。

以上のことから、大和と河内の大王などの墓域は、3年分の二十四節気カレンダーを基にして、その冬至点以降〜夏至点の範囲と定められた可能性がある。

次に、ではなぜ、二十四節気の冬至点以降〜夏至点の範囲を墓域とし、夏至点以降〜冬至点までの範囲には大王級の大古墳が造られていないのかについて、一つのモデルを考えてみることにする。