>>41
畝傍山を中心点とした場合、応神天皇陵の後円部を通る25度の角度の軸線は二十四節気の芒種点と重なり、芒種点は6月6日頃に当たる。
これは、纏向遺跡の箸墓古墳の場合と同じ角度であり、応神天皇陵の後円部も二十四節気の芒種点と重なっているということは、応神天皇陵にも箸墓古墳と同じ意味が設定された可能性が考えられる。
芒種は、禾のある植物の種や稲、麦の種などを撒く時期である。
大仙陵古墳の後円部の場合は中心点からの角度は15度であり、この角度の軸線は立夏点と重なる。
立夏点は5月6日頃に当たり、この頃には各地で田植え神事が行われる。
応神天皇陵と大仙陵古墳については、このような位置づけが二十四節気を基にして行われた可能性が考えられる。
このように、纏向石塚古墳から大仙陵古墳までの大王級の古墳が二十四節気の冬至点以降〜夏至点までの範囲内に造られており、
夏至点以降〜冬至点までの範囲には大王級の墳墓がまったく見られず、中小墳墓もほとんどみられないことは、
冬至点以降〜夏至点までの範囲が政権の墓域として設定された可能性を指し示すものだと考えることができる。
この仮定を基に、冬至点以降〜夏至点までの範囲が当時、どのような意味を持つものであったか推測してみることにしたい。

まず、夏至点がどのような意味を持ったかということを考えると、次のことが推定される。
秋田県の大湯環状列石の二つの立柱を結ぶ軸線は、夏至の夕日に向うことが知られている。
大湯環状列石は縄文後期の墓域遺跡であり、火を焚いた跡が確認されている。
夏至の日没に際して、何らかの祀りが行われたと考えられている。
そこで、北国における夏至の祭りをみてみると、北欧の夏至祭りがよく知られている。
北欧の夏至祭は、どのようなものなのか。

                          続く