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以上にみてきたように、3年分1サイクルの二十四節気暦が弥生後期の近江伊勢遺跡で用いられていて、それに続く弥生終末期の大和の纏向遺跡でもまったく同じ3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
さてでは、九州筑後の山門ではどうか。
筑後山門は魏志倭人伝が伝える倭國女王卑弥呼の祭祀所があったところと比定される候補地の一つである。
近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡は、野洲地方の祭政の中心地であり大和の祭政の中心地であったことが考古学で推定されている。
二十四節気暦がそうした連合勢力の中心地の祭政に用いられたとすれば、倭國の都に比定される筑後山門でもこの二十四節気暦が用いられていた可能性は高い。
そこで、大和纏向遺跡や近江伊勢遺跡で用いた中心点から二十四節気の各節気の方位を設定する方法を筑後山門にも適用すれば、どのような結果となるかみてみたのが以下のデータである。
この山門の場合は、伊勢遺跡や纏向遺跡のように柱穴などの発見はまだないので、遺跡の存在やその年代については不明である。
しかし、3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
山門は壮大なスケールの祭祀ワールドだ、とみなすことが可能である。
以下にそれをみていくことにしよう。

                                          続く