>>65
さて、この28社の立地をみると、吉井の中心点から見てぐるり360度内に分散してるが、いずれも全ての神社が集落内の立地となっている。
二十四節気の3年暦が用いられたと考えられる近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡が人の住まない施設としての立地であるのに対し、
この山門のケースは人が暮らす集落と密に関係した立地であるとみられる点が明確な相違点となっている。
この集落内の神社について、吉井の中心点との関わりをどのように見ればよいだろうか。
まず、神社そのものについては、近江の伊勢遺跡の建物SB8の軸線を延長した場所に御上神社が建てられているケースが参考になる。
中心点と建物SB8の跡には何らかの標識が設けられていて、その軸線の延長線上の山の麓が山の神の遥拝所となっていて、その遥拝所の場所に神社が建立されたという経緯が考えられる。
山門の場合も、吉井の中心点と神社のある位置とに何らかの標識が設けられていて、その標識の跡に後代になって神社が建立されたということが考えられる。
その神社も時代によって新たに建て替えられたと推測できる。
というのも、八幡神社の社名は6世紀後半以降に現れ、天満宮の社名は10世紀初頭以降に現れるからである。
したがって、元々はそこに何らかの標識が設けられていて、中心点の標識と関わる場所であると認識されていたたと考えるのが妥当であり、
後代になってその場所に神社が建立されたということが考えられる。

この考えに沿って推論すれば、農耕暦である二十四節気に基づく特定の節気が山門地域のぐるりにわたる集落にそれぞれ配分され、
その節気の内容に基づく農耕祭祀が中心点の祭祀所で行われると伴に、該当集落でも盛大に祀りが行われたというイメージを描くことができる。
また、山門地域の集落の大部分は水田域にあることを考えれば、その祭祀は水田の稲作に関わるものであったことは十分想定できるのである。
そうした祭祀所や集落での祭祀が二十四節気の節気に従って次々と行われて行き、山門地域の集落のまとまりの求心性が高められたことが考えられる。
そして、その集落の祭祀は、3年に一度巡ってきたのだろう。

                                続く