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このように、吉井の中心点からの二十四節気の軸線が山門のぐるり一帯の28集落に向けて放射され、壮大な農耕祭祀のワールドが形成されていたことがイメージされる。
こうした二十四節気の3年暦が画文帯神獣鏡に鋳込まれ、弥生後期後半に各地で活用されたとすれば、吉井の中心点に卑弥呼の祭祀所を設定することは可能であり、倭人伝が記述した卑弥呼の祭祀のリアルな姿を描くことができる。
また、この時期には、大和の纏向でも二十四節気を用いて農耕祭祀が行われ、また大王の墓域の設定やその墳墓の位置の決定が行われていたとすることができる。
つまり、このように、弥生後期後半から終末期にかけては、銅鏡に鋳込まれた二十四節気3年暦を基にした農耕祭祀が、それぞれの拠点地域において活発に行われていたことを推定することができるのである。