邪馬台国畿内説 Part415
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日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 キナイコシがテンプレ100オーバーのガイキチスレ立て中なので
しばらくのあいだ
健全な邪馬台国論争をお楽しみください 邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された韓国人の3寸男が、一寸千里の計算に失敗したので、やけを起こし、意味の通じない意見を発表したが、
僕たちは、邪馬台国畿内説を宣伝している韓国政府に雇用された、韓国人の3寸男の発表の何処が間違っているのか研究を再開すれば良いな。。。
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職 ザラコクがこのスレを850くらい埋めてくれるといいんだけど 韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 難升米が魏に日本の首都の場所をゲロってしまった
日本としては帯方郡の次にターゲットにされるの日本だと考えるのは当然
その為に新首都を建造した
それが巻向 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 なんだか似たようなスレがたくさんあるな。
畿内説はスレの管理がなってない。 畿内説スレの荒廃ぶりについて、テンプレ主は責任を感じないのだろうか? >>1
>また、古代の祭祀に詳しい同志社大学の辰巳和弘元教授は、「地面をふんばって跳びはねるカエルは、古代、大地の主とされ古代中国では、
霊力のある動物とされている。そのカエルが供えられたことを示す具体的な資料で、当時の祭祀を知るうえで貴重な発見だ」と話しています。
>奈良県の無形民俗文化財で、舞や歌などを奉納する「国栖奏(くずそう)」という吉野町の伝統行事では、神前にカエルが供えられます。
なんだかますます畿内が邪馬台国から遠ざかっていくよな。
九州説では、大陸から輸入した絹やガラス宝飾品(平原で出土)で着飾った卑弥呼が、八重垣と鉄器で武装した兵に守られた宮城で、八咫の鏡など三種の神器(福岡では三種の神器が王墓に副葬される)を祭りながら、公孫氏や帯方郡を相手に華麗な外交を繰り広げていた。
畿内説では、(畿内では絹が出ないから)麻の衣を頭からかぶった粗末な身なりの卑弥呼が、周りに何もない纒向の掘っ建て小屋で(柵などがない)、桃とカエルをお供えしていた(卑弥呼がしゃぶっていたわけではないよね?)。 真実を究明するためのスレッドが、足りないのでは、ないのかな、、、 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数時間前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 奥山氏が、スレッドをたくさん作製したので、良いなw 橿原考古学か纏向かしらんが
地方公務員上がりが騒ぐ畿内説
石野、寺澤・・・私利私欲のアホばかり 橿原考古学か纏向かしらんが
地方公務員上がりが騒ぐ畿内説
石野、寺澤・・・私利私欲のアホばかり 橿原考古学か纏向かしらんが
地方公務員上がりが騒ぐ畿内説
石野、寺澤・・・私利私欲のアホばかり 巻向の捏造で味を占めた橿原考古学がネットでデマを広げる体たらく
奥山も捏造のかたぼを担ぐアホだよ 「纒向学」って、よく考えたら笑える名前だ。
「東京学」とか「浪速学」とかあったら、笑えるだろ? たくさんスレッドを作成してあげれば、奥山氏は幸せなのではないのかな、、、 奥山 やめとけ
時間があるなら
九章算術にかかわる文献を多数読んだほうがいい さて、上げるかな。
スレはきちんと再利用しないと。 スレッドというのは、物理的には微小な空間内の磁場の連なりでしかないので、資源のように大切に扱う必要はないのではないのかな。。。 さて、上げるかな。
スレはきちんと再利用しないと。 また転写保存
>>673
また大和説は、「南≠東」への反論から逃げた
大和説は逃げてばかり >>674
「南→東」などの嘘つきだましに関する証拠出せないどころか
自分の説も説明できないのが
究極無能大和説
・・・・アホ詐欺師はひさんである >>675
「南→東」の根拠や「纏向が卑弥呼の都」の根拠言わずに逃げるなら
大和説なんて
最初から存在しなかったってことで
結論ですな
大和説チョン >>676
口に出すのも恥ずかしいようなカス説なんだろう
「南→東」などの嘘つきだましの大和説だもの 今日の奥山の醜態は面白かったぞ
奥山主張の大型建物群4棟が、1棟だけだったんだって
言うに事欠いて
「大型建物その他付帯設備を大型建物群と呼んだって間違いじゃないだろ 」
って反論してたが
総攻撃に合ってたぞ 馬鹿だね
彼の思考回路は理解できないから、次スレのテンプレ見ものだが・・・
素直じゃないからな・・訂正しないだろうな 加筆程度かな おもろいぞ奥山のキャラ
ボランティアと思って参加してちょ 1つの施設を大型建物「群」なんて表現するのは明らかに印象操作だよなw もう畿内説の論拠なんて何もない。
纒向は百歩譲って王宮だとしても、崇神の纒向宮だ。
崇神が住んでいたなら、卑弥呼が一緒に住んでいたはずはない。
畿内説は日本の歴史を撹乱するのが目的かもしれない。 大運河が海に通じていないという指摘も、そういえばその通りだと思ったよ。
せいぜい用水路だな。
全体として纒向は全てにおいてミニチュアで、それをキナイコシが口先三寸で誇張しているだけだった。 むかーし古墳時代は大和時代と呼んでいたらしい。
随分と以前から印象操作してたんだろうなw >>680
>「鬼道」という言葉から考えるなら
張魯が教団を率いて漢中一国を支配していたようなシチュを念頭に置けばいい <
「事鬼道、能惑衆」は、魏使らは「鬼道と似ている」という判断を書いているのであり、
「張魯らの鬼道だ」とかと断定した訳ではない。
もちろん張魯らもが、自分らが「鬼道だ」、なんて自称した筈もない。 >>684
>自分の口からひとことも説明出来ないのは
わかってないからだね <
タイトルの「古墳造営労働力の出現と煮沸用甕--造営キャンプの検証にむけて」を見れば、
大体、「纏向は古墳造営キャンプ」説であるんだな、と判る。 >>138
奥山はね、レスが進むことしか眼中にないのだよ
中身なんて何もないよ 何が楽しいやら
他にやることないのだろなww
ザラコクなんか感謝感激の投稿者だよ
>>137 保存させてもらうよ 2019年11月27日の奥山発言
「「大型建物その他付帯設備を大型建物群と呼んだって間違いじゃないだろ 」 ナラの楢
マキの槇
カシの樫、、、
揃いも揃って雑木で、せいぜい焚き木か木炭か・・。ま、樫が一番ましなほうだろな。 >>141
その通り 大運河には笑ったな
またアラシに奥山が来る予感 >>140
だな
石寺橋(橋はひよっこだけど)
の功罪は後の世でいや、いまでも笑われてるな 俺はこれに笑ったよ
>>
倭人伝において千とは「たくさん」と言う意味だ。
広めの海峡を渡れば「千里」。大きな集落が1つあれば「千戸」。
男王を立てて国内が揉めて大勢殺し合えば「千人死んだ」
「以婢千人自侍」もこれと同じ。卑弥呼の宮殿には「大勢の」侍女が仕えていた。
それが正しい読み方。 147日本@名無史さん2019/11/26(火) 11:42:10.35
>>136
>通勤先の纒向宮に、魏志倭人伝のとおりに千人の下女が働くスペースはあったのか?
倭人伝において千とは「たくさん」と言う意味だ。
広めの海峡を渡れば「千里」。大きな集落が1つあれば「千戸」。
男王を立てて国内が揉めて大勢殺し合えば「千人死んだ」
「以婢千人自侍」もこれと同じ。卑弥呼の宮殿には「大勢の」侍女が仕えていた。
それが正しい読み方。 こいつのやんわりとした指摘好きだな テンプレ読んでる奴もいるんだネ
563日本@名無史さん2019/11/27(水) 02:22:42.61>>565>>569
連投失礼 今再度 掘立柱建物 調べてみたが
建物B・・・床面積 25u
建物C・・・床面積 42u
建物D・・・床面積238u
建物Dは確かに大きいが他は?
テンプレでは「計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)」としてますが
建物B・・・床面積 25u も当時として大型だったのでしょうか?
564日本@名無史さん2019/11/27(水) 02:31:24.72>>566
>>1
大型建物群は訂正したほうがよいかと?
間違ってるかなぁ???? >>716
「南→東」や「冢=前方後円墳」や「正北抵新羅や東征毛人五十五國の抹殺」や、
「日本國者倭國之別種也の曲解」などの大和説は、
捏造が好きだな 阿波でも、弥生時代の大形掘立柱建物(14棟、大型のものを含む)ぐらいあるんだけどwww
なに大騒ぎしてんの?
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」 徳島県阿波市阿波町
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)。
西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、纏向遺跡より遥かに企画性を持つ。
西長峰遺跡の建物は、弥生中期後半から後期初頭にかけての遺跡。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023030/
断っておくが、「西長峰遺跡」が女王の宮などと言っていないからね。 @阿波 ムフ
ベイズの定理も知らないのに笑ったな(ここ限り)。。理論は別だけど隠れ奥山ファンだけど
これ言うかな
588日本@名無史さん2019/11/27(水) 06:33:13.40
>>587
九州説の計算は常に合わない >>720
史料事実と現代大和説の学術論文を混同する大和説は
つまり学問に無縁ということだ @阿波さん
今日もお疲れさまでした
今日は笑うしかなったね、九州説の一部の方も笑ったけどww >>744
また「南→東」などの嘘つきの・・・・詐欺師の大和説が、
「質問の応酬の無限議論」を開始して、
発狂した めでたし めでたし
アホ奥山に感謝しないといけないかもな
水路を「糞溜め」と言ったのはウイットに富んだ奴だな
まともに受け止めカリカリしする奴もいたっけ? >>745
「南→東」などの嘘つきだましの大和説は、
「言葉尻を捉えて、無限質問応酬」に持ち込んで、
都合の悪い論点から逃亡する、
ってことで、よろしい?
この喜劇 >>158
ザラコクかザラコクもどきか知らないけど
方向音痴だな
一応 奥山の演技として解釈しておこう >>754
>だが巻向は三輪山の麓だしな、丹山もあるし
祭祀場所としてこれ以上相応しい場所はない。<
日本中、殆どどこでも山が見え、信仰や祭祀の対象になり得るし、
「顔料の取れる山」もあり得るし。 >>757
「南→東」などの嘘つきだましの大和説の人は説明能力がないんだね
説明出来ないのは、自分でも解ってない証拠だよ
つまり大和説は空論ってことさ >>763
つか、倭地全体に通用する話が多いから
纒向だけだ、というのには、ちゃんとした考証いるだろ? >>770
>卑弥呼が鬼道を使うというなら、合わない事もないけどな。
当時の中国で鬼道とは後々道教だし。
神仙思想といえば象徴的な山に桃や鏡、水銀朱はセットなんだぞ。
3世紀末の三輪山の麓には全てあるからな。>
道教が自分らを「鬼道」と呼ぶ筈がないし、
「鬼道」というのは、根拠や論理が良く分からない意味不明な「道」、
という意味であった可能性が高いし、
当然、魏使らも、そのようなつもりで記録した、という可能性が高いもの。
だから、「神仙思想」というものとの類似、程度では、
状況証拠的であるだけで、特定根拠にはならない。 >>780
>畿内説は倭人伝の記述を重視してるんだよw<
嘘を付くな。「南→東」などのような史料事実の否定曲解をしているし、
「機内」なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言を使っていたし、
どこが「倭人伝の記述を重視」しているんだい?。」 お約束通り投稿しておきます >>750の投稿がわかりずらい(ゴメン)ので私なりに
1、750鐵鏃使ってるとそこらに鏃が転がってなきゃオカシイ? おかしくない
⇒ 可笑しいか、可笑しく無いかの判断は個人の判断ですが、鉄の量を計る上では参考になります
文化程度の尺度になるかと思います 畿内は他説に比べ少ないと思います
2、750駅前大型建物が「宮室樓觀城柵嚴設」と合わない? それ、理由がない
⇒ 大型建物は樓觀の役目を果たしていません。彼と同じく平屋だと思うからです。見つかればよいのですが
3、750婢千人自侍、常有人持兵守衛 どこに住んでたが倭人伝に書いてある? 書いてないから合致しない例に出来ない
⇒何処に住んでるかは不明ですが、「自侍」「常有」からマキムク内でも近辺でもいいですがその痕跡は今のところありません。
古墳は基本的に有棺無槨
4、古墳は基本的に有棺無槨 なにも問題ない
⇒これは証拠を示すべきです。当時ないと心得ています
2と3とに言えますが
「魏志倭人伝」には、卑弥呼の居るところは「宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」と書かれています。
この漢字の並びを見ただけでも物々しい警戒がうかがえますが、マキムクにはその様子は感じとれません。
以上 私なりの意見です 失礼
4、古墳は基本的に有棺無槨 なにも問題ない
⇒これは証拠を示すべきです。当時「「「ヤマト」」」にはないと心得ています >>824
明らかに誤った妄言を撒き散らす人間がいたら諌めないとね。
畿内なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言を使い、
「南→東」などの嘘つきだましの大和説を放置したら、
日本の歴史は闇の中だよ。 >>166
奥山にとって 意見は違えどキウス・ザラコク・連続句読点は協力者じゃねーの
奥山より数段上を行ってると思うよ 楽しんでいるということでは どっこいどっこいかな
阿波と謎の論客は手ごわいぞ 諫められるべきは妄言だらけの
ザラコク
連続句読点
キウス
伊都クズ
左側スロープ
泡バカ
信号
だろう >>171
ここじゃないよ
次スレで貼り付けておいてやっからね 戦い終わったら
ここでワイワイやるのもいいね
>>1ありがとうよ >>854
「南→東」などの嘘つきだましがバレた大和説は、
反論不能ってことでFA? しかしなんだな ザラコクの
ーーー「南→東」などの嘘つきだましーーーー
の一刀両断もいいけどコメント載せるべきだな >>858
>畿内説は考古学者が中心になって進んでるんだからさ <
この男もアホだね。
歴史という学は「何時どこで何が起きたのか?」を知って、
何故それが起きたのか?説明するもの。
そして、文献は、何時どこで何が、などを記載してあり、非常に価値が高い史料になるが、
考古は、紀年考古発掘ではない限り「何時」は全く分からず、
「どこで何が」しか判らず、順番を推定出来る位であり、
そのままでは、歴史の絶対的な根拠にならず、価値が低いもの。
つまり、「南→東」などのように、
同時代に実地に見聞計測された高確率の文献記載を否定曲解して、
考古発掘だけで、「何時?」を自由自在に動かした大和説考古学者は、
一種の嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であり、×。 奥山きてる?
あんたの体力屋(切り返しはすごいと思うよ >>169
>神仙思想といえば象徴的な山に桃や鏡、水銀朱はセットなんだぞ。
>3世紀末の三輪山の麓には全てあるからな。>
桃以外は伊都にもあるな。 >>861
>箱式石棺が有棺無槨だと思う理由は? ないよね<
「棺」は原則として、ほぼ遺体を容るに足るサイズであり、
「槨」は原則として、遺体や棺を容るに足る「小部屋」であり、
明らかにサイズが違っていて、魏の役人らは「箱式石棺を槨だ」と間違えるがない。
そして、張政や魏の役人らは、卑弥呼の葬儀を実見しており、
祇園山の箱式石棺を見た上で、「有棺無槨」と報告した事にもなる。 横からすまん MVPはこれじゃね
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
961日本@名無史さん2019/11/27(水) 16:50:22.28>>967
960
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
967日本@名無史さん2019/11/27(水) 16:53:47.39
>>961
おしい 1違い
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ >>868
>九州に多い箱式石棺が有棺無槨に該当しないことは 認めるね?<
箱式石棺は、遺体や身に付ける副葬品を包む程度の棺であり、
それを包み更に棺の外に外部にの副葬品が置ける「小部屋」的な槨が存在しないから、
箱式石棺は、「有棺無槨」に相当する。 >>872
>小型丸底土器は庄内式の最初からある <
小型丸底は、壁厚を書かなければ、庄内か?布留か?の区別にならない。
>箸墓の木製輪鐙は箸墓築造から何十年も後の布留1の層から出土 <
木は、水や土砂よりも軽いから、
浮き上がる事もあれば、水を吸収して浮き上がらない事もあり、
それだけでは、絶対年代根拠にならず、
箸墓築造何十年後、と断定は出来ない。
すべて常識だから考古学者は畿内説を支持してる >>908
>前方後円墳秩序・・・<
都出比呂志は、「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」という史料実態を全く知らないか?、
判らなかったアホ学者。
実際には前方後円墳はは、九州倭國の那珂八幡などが古く、
それや前方後方墳なども、を東征将軍らが大和で進化させたもの。 >>944
「南→東」などの嘘つきだましの大和説が負けると
荒らしが始まる
いつものパターン >>978
「南→東」などの嘘つきだましの指摘に、
具体的な指摘が出来ない大和説って
悲惨だね >>984
「南→東」などの嘘つき騙しに騙し関して、
具体的な話をしろと言われると逃げて逃げて逃げ回る
それが大和説 www頭の病院、刑務所に行けと言っているんだよ、
姫トラ何やらの曲と同じ、なんにもない〜???
創価か何かなんだろうと聞いているんだよ、悪く言うと人の家に寄生とか とあるスレw
挨拶くらいしろと言っているんだよ、と言っている人がいたり、
面識などもないんだけど「お世話になっています」という・・・とか。 いまはテレビなどもあるでしょ、
そこからでも良いし、挨拶などをしろと言っているんだよ
実際・・・気付いている人もいるみたいだし 老婆談
家に来るとき(結婚w)、人力車?
そういうのに乗ってきたんだよと言っているし 家が?何かの家の人だとか、よくわからない話ばかり。 龍宮 鳳輿・・・w傾いた松の木?
家が、その家なんだけど、逆のようなことになっているのかな。 『ドンバ 河童』
逆ではない、あっているのかな、
ジュリエッタ(ジュリエット?)というキャラもいるし。 邪馬台国畿内説が、完全に叩き潰されてしまったな、、、 >>989
調べて御覧
弥生後期の竪穴住居の平均的な敷地面積を
あとで根拠も含め解説するから
まず労力を惜しまず調べなさい とりあえず、阿波の縄文遺跡「三谷遺跡」でどうぞ。 @阿波
銀色を呈する「泥質片岩製石棒」の一大製作遺跡である徳島市三谷遺跡でも掘立柱建物。
徳島市三谷遺跡:掘立柱建物 8棟
@6.2m*4.8m=29.76m2
A5.2m*5.4m=28.08m2
B11.3m*5.7m=64.41m2
C10.7m*4.2m=44.94m2
D6.0m*4.7m=28.20m2
E6.3m*5.1m=32.13m2
F6.0m*3・4m=20.40m2
G3.0以上*7.6m以上=22.80m2以上 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね おや?
3Cには中国人がやってきたのだな?
陳さん!
△△△ 俺20年前の2000年くらいに2chで邪馬台国論争してたけど
当時は畿内説勢いあったなあ
南を東に置き換えて〜から妄想スタートだったよ
若狭湾から1か月かけて大和に入ったとか
使節は大阪湾に着いたら10日間待たされとか
見てきたように妄想並べられて論破する毎日だった
20年たってるから当時の畿内論客は黄泉の国に旅立ったんだろう
若手の畿内説論者出てこい
おれは嫌いじゃないよ
古代史の妄想が楽しいから 若狭湾から一ヶ月かけて云々は、つい先日もキナイコシが書いていたな。
バカだろ。
普通に大阪湾に上陸すればいいのに。 50以上もスレを立てては放置を繰り返す狂人連続句読点 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 高天原の天津神が国津神を下して筑紫に天孫族の政権が誕生したというのが出雲国譲りから天孫降臨までの記紀のストーリー。
後期渡来系の海洋民族が、先住渡来系の農耕民族を支配下に置いたということだ。
先住と言っても、水稲を行なっているから弥生人であり、江南など南方の農耕民族である。
つまりは南方の海洋民族と農耕民族が、時差を持って筑紫に上陸したのだ。
考古学的にも、博多湾沿岸には多くの文化が流入し、複数の氏族が同居していて、ここからさらに西日本や東日本に播種していったことがわかる。
その主役が、海運を担った博多湾沿岸の海人族だった。
彼らの所在地の一つが高天原であり、原が九州では集落を意味する語であることを考慮すると、高天原は海人(あま)の都という意味になる。
長年にわたり国家的規模の祭祀が行われた沖ノ島は高天原の候補となるだろう。
高天原から筑紫に降臨する天孫を守護したのが宗像だったのも、高天原を沖ノ島、降臨した筑紫の日向を福岡市西部と考えると地理的な整合性も高い。
高天原から筑紫に降臨した天孫族は、代々にわたり志賀島の海神と婚姻関係を深めていく。
高天原は綿津見の竜宮城とも意味が通じている(同じものだというわけではない)。
おそらく、博多湾沿岸には何波にもわたり渡来人が入植したのだろう。
海人による倭国の建国こそ、玄界灘沿岸を起源とする弥生文化成立の本質であり、記紀伝承の主眼である。 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! また転写保存
>>830
>それは愚問で じゃあなぜ中国の都は海沿いじゃなく中原にあったの?というのと同じ
「国家の領土の真ん中あたりにある」というのが首都には重要なんだよ
九州からだと東国の支配が緩くなる
九州倭國の「東征毛人五十五國」の旧小国の附庸國があったの。 >>863
>正解は、東海勢な 東海勢が、出雲や吉備に声を掛けて協力をあおいだ
九州は意図的に排除された なぜか
邪馬台国と狗奴国が対立してたからでしょ?
出雲や吉備は中立だったけど、東海勢に気を使って九州には声を掛けなかったと
正解は、九州倭國の東征毛人五十五國で、
(出雲系であった)吉備も、阿波も大和も東海も征服され、旧小国や附庸國になり、
「(大倭職の市」を介して?の交易や協力関係が出来たの。 >>867
>だから巻向は狗奴国の新興開拓地だったわけでしょ?
「南≠東」などに拠って、×。
>それが日本の都になるには二段階必要なわけじゃん
邪馬台国と狗奴国の合体 そして首都移転
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
大和は九州倭國の東征毛人五十五國の中の一国であり、旧小国の附庸國。 >>895
>北部九州でど没落した甕棺集団は全羅南道では5世紀くらいまで存続し
韓伝に、(郡から)遠いところは囚人や奴隷が集まっているに等しいと書かれている
フーン。 249 名前:日本@名無史さん 2020/04/15(水) 17:29:37.53
はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ 上げ荒らし死ね!上げ荒らし死ね!上げ荒らし死ね!上げ荒らし死ね!上げ荒らし死ね!上げ荒らし死ね!
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