邪馬台国畿内説 Part415
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 『クンビーラ』出てきたでしょ?
『魔王モラクス』?
『ベルゼブブ』『』『』『』とか、どういう意味だと思う? 413の>>846
>文飾の値って言うのは「千里の名馬」とか「白髪三千丈」とかだよ
渡海千里は典型的<
渡海の千里にも、魏志には「余」が付いているから、
「文飾の値」ではなく、魏使らの記録からの陳寿の「余を使った簡略説明」・ 九州説は儒教精神に染まった朝鮮系統の人間がやってるんだろうけど
およそ学問に不向きというのがよくわかる
不向きどころか根底には理論性や秩序への破壊衝動がある 一番初めは一之宮
二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅山
四は信濃の善光寺 413の>>850
>その魏志倭人伝典拠の後漢書で邪馬臺國と書いてあるから、
邪馬壹国が間違いと判断されてる <
魏志の記載は、魏使らの同時代の実見計測記録であるから、
客観性も信頼性も確率も高いが、
後漢書の記載は、遣使を派遣しての実地の見聞ではなく、前史の魏志などの記載の「自己解釈に拠る書き直し」になっているから、
信頼性が全くなく、魏使ぬ比べて、信頼性も確率も非常に低い。 413の>>860
>奴国を除くと北部九州に栄えている場所がない<
奴國は、「日向峠西麓〜早良平野部であり、
弥生銀座は邪馬壹國になるから、×。 413の>>861
捏造単位の長里に全面的に依存しているのが大和説。
魏志が短里で書かれている事は、
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてくれたので、
陳寿が証言してくれたことになった。 >>20
FAQ8
その伊勢の鳥羽から東へ千余里舟で行くと、千葉県房総半島よりさらに東の海に出てしまうんだがなあ。
太古からの交易路であるのと、その交易路を東へ千里行くのとは、また別の話だよな。
房総半島のさらに東の海に倭種の国があるとは思えんが。
それよりは、瀬戸内海を九州から東へ千里舟で行くほうがリアルじゃないか。
3世紀前半には、近畿、東海、北陸、瀬戸内から勢力が寄り集まって、連合政権作っていたようだし。
倭種の国とは、それらを指しているのじゃないかねえ。 >>869
>行程パズル迷走の果てが、臨海郡は江蘇省にあった〜という作り話とは
なんとも惨めな話じゃないか九州説<
Wikiでは、会稽郡東部をを分割して呉の揚州(ほぼ江蘇省)の支配になった、
と書いてあったし、
「類スレ主」も、最初はそのような話を書いていたが、
zaraに指摘されて、
直ぐに撤回して、後漢始め頃の話にすり替える、というインチキをした。 413の>>877
>韓地方四千里は、倭地までの距離の調整のために誇張されている<
倭人伝だけではなく、韓でも高句麗でも扶余でも遼東でも、
短里で書かれている。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 413の>>886
>それは、考古遺物、遺跡の状況と、<
考古でも文献で、大和は北部九州には敵わない。
>邪馬臺(g)ia[v]g-mar-t`(e)gの音から大和が妥当ということ<
「臺」には「ト」の音韻がない。 >>126
>「臺」には「ト」の音韻がない。
断定じいさん、証拠あふの? >>122
>Wikiでは、会稽郡東部をを分割して呉の揚州(ほぼ江蘇省)の支配になった、
と書いてあったし、
それがまたデッチ上げでしょ
なんの証拠もない
それが事実に反するって証拠は出てる
九州説は大ウソつきだ 413の>>895
>それなら、出発方向が10メートルくらい「南」でそれが示されていて、
途中は日本海沿い道なり水行で丹波まで行けるから<
行けない。
陸行としか書かれていないし、
五百里と書かれている。 >>107
>畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙しであるし、
>文献でも、考古でも、大和説は九州説に全部負けており、
>大和説は、全部×
なんでこの人たち、一切証拠を出さないの?
そういう生き方をして来た人々なの? 413の>>897
>伊都国や奴国は女王国より北にあると魏志倭人伝に書いてあるから<
書かれていない。
邪馬壹國の北は不彌國。
奴國や伊都国は、邪馬壹國女王之所都からは、西北方向。 前スレ>878
>唐会要倭国伝には(大和日本国と区別して)「正北抵新羅」と書いているから、
FAQ71より
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
大和日本国と区別して書いてある倭国は、藤原常嗣のいる大和倭国なんだよww
唐代を記した史書(旧唐書、唐会要、新唐書)に、倭国伝と日本国伝が別立てで置かれているのは
唐代に(正確には武則天の武周の長安四年)、倭国が日本国への改号を申し出たからだよ 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>133
「・・・漢委奴国王印により倭国王に冊封された。」
一見して無理だとわかるだろ
わからんか・・・
国名ちゃうやろ バカが精一杯背伸びして書いたんや
武士の情けってもんやろ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 紀州藩徳川家のケース
和歌山から江戸まで約625qを17泊18日で移動。 一日平均約35qのペース。
鳥取藩池田家のケース
鳥取から江戸まで約706qを21泊22日で移動。一日平均32qのペース
加賀藩前田家のケース
金沢から江戸まで約467qを12泊13日で移動。一日平均約36q >>133
>2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
>副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が
カチ割ったので滅亡
ww >>91
>纒向遺跡は、巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
だから、纏向遺跡は「忌部はん」 の古墳造営前線基地 だと、何度言えばw @阿波 >>93
>纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
だから、それらは「忌部はん」 が持ち込んだ「東阿波型土器」 だと、何度言えばw @阿波 関川さんが畿内説から干された理由
⇓
97日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:12:08.18
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 >>143
>古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
だから、「古墳の起源になるような墳丘墓」が在るのは倭国(阿波)だけ と、何度言えばw @阿波 >>143
>纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。
だから、「大和政権の確立期」は8世紀 だと、何度言えばw @阿波 413の>>905
>不彌国の次の南に水行の投馬国
水行二十日5万戸と道里と戸数が乗っているぞ
投馬国は少なくとも不彌国よりは南になるのでは <
途中移動が書かれていないから、魏使らは移動していない。
>そして女王国はそれらをひっくるめてさらに南 <
「さらに」にはならない。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國のすぐ南にある。
>まあ実際は東なんだが <
「南≠東」に拠って、×。 413の>>908
>投馬国を消したいの? 都合が悪いの?<
投馬國の位置などの説明は、行程の説明で終わっており、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の「女王國」は共立諸国であり、
投馬國が始めから含まれているの。
そして、だから、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史 」
の「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。
の「 413の>>908
>投馬国を消したいの? 都合が悪いの?<
投馬國の位置などの説明は、行程の説明で終わっており、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の「女王國」は共立諸国であり、
投馬國が始めから含まれているの。
そして、だから、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史 」
の「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。
の「 >>149
>「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。
そうすると今度は邪馬台国の戸数が合わない
邪馬台国七万戸と投馬国五万戸は重ねられないぞ
そして投馬国はどこに置くんだ?ww >>151
>九州説は辻褄の合わないことばかりだな
畿内説も、辻褄の合わないことばかりだな 。 @阿波 >>150
魏志倭人伝の記述の構成
・倭國(倭王卑彌呼の支配下)
・・・投馬國(朝鮮半島南岸地域)
・・・・・狗邪韓國
・・倭人(日本列島に住む)
・・・邪馬壹國(北部九州地域)
・・・・・對馬國、一大國、末廬國(自女王國以北の地域)
・・・・・不彌國
・・・・女王國(卑彌呼を共立した中心国)
・・・・・伊都國、奴國
・・・・傍國(斯馬國〜烏奴國の20か国)
・・倭種(中国地方)
・・侏儒國、裸國 黒齒國(四国、関西地方)
・狗奴國(南九州の卑彌弓呼の支配下) 卑弥呼時代は、「邪馬台国」=「女王国」
台与時代になって、【(「邪馬台国」=「女王国」) + 「狗奴国」】=倭(国)
そして、卑弥呼時代以降の倭(国)は、県外(淡路・讃岐・吉備等)を包含しながら順次拡大していく。 @阿波 413の>>926
>だから、倭人条の循海岸水行七千里に合わせて、韓地方四千里に調整されてるってこと<
全く合っていないし、
循海岸水行七千里ではないし、「七千里」ではなく「七千余里」だし。 413の>>928
>邪馬台国はヤマトだ! 小学生かよ。<
邪馬台国なんて存在もしていないし、「台」に「ト」なんて音もないよ。
詐欺師かよ。 413の>>932
>(方四千里や七千余里)換算したときの「見かけ上」の話だけどな <
いや、「余」の使い分けがあるから、実測が元になった数値記載。
>その見かけ上の、現実とは関係ないものを「短里」だと誤認したのが九州説なんだよ<
その実測記載が短里であったのであり、
それを「誤認」とか言い出して、
都合の悪い記述の抹殺を図る嘘つき騙しの・・・・犯罪者的詐欺師が大和説者。 413の>>942
「南→東」や「余」の有無などの論点に関して、
なにも根拠を言わずに俺様結論をただ連呼か 。
さすが宗教思想の大和説。
学問じゃないわ。。 >>149
やっぱり
九州説に都合が悪いから
投馬国を消したいの
一心なんだな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 余なんていい加減に解釈してるだけだからな
論点ですらない 413の>>943
>投馬国は戸数と道のりが書いてる国だから 道里と戸数が書いている国になって
女王国より北にある国という事になる <
ならない。行程の記載時点で、投馬國は、
不彌國や邪馬壹國女王之所都の南の水行二十日位の位置にある事が確定位置してしまっており、
不彌國からの水行する国である、という認識であり、
また、「女王國」とは、あくまで、
(倭國や倭人諸国の中の)卑弥呼を共立に賛成参加した国の範囲の、という意味。 413の>>950
>投馬国は戸数と道のりが書いてる国だから
道里と戸数が書いている国になって 女王国より北にある国という事になる<
投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
不彌國や邪馬壹國女王之所都よりもずっと南である事が、先に確定。
だから、その後の説明は、その事に立脚した解釈をしなければならない事になる。 413の>>959
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
欺瞞ばかりだな。 413の>>961
>音だけならそうだけれど、<
音も合わないし、「南≠東」に拠っても、大和は、×。
>それまでとは画期をなす大遺跡で、<
九州倭国の東征将軍らにとっては、必要であったから。
>それまでにはなかった生活用ではない大建築と各地の墓制を
統合した前方後円墳祭祀の創始の場所で、<
前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないし、創始は筑紫の那珂八幡など。
>各地からの人の交流の結節点だった、
という考古学的な裏づけの上に、発音上もヤマトで問題ないんだから、これでもう決まりだろ?<
九州倭国の東征将軍らの拠点と、地方の市を監督する大倭職の地であっただけ。
>編年上も問題ないことが、<
卑弥呼の冢ではないから3世紀末以後であり、編年も全くあわない。
>桃核の14C年代測定で再度確認されたし、全く問題がない<
AMS法は、50年位古くでるから、×。 413の>>963
>投馬国は、邪馬台国以北の国というのは動かない<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國は、不彌國や邪馬壹國女王之所都の南の、水行二十日の位置にある事は動かず、
卑弥呼共立の「女王國」の中に含まれる事も動かない。 >>164
>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
>不彌國や邪馬壹國女王之所都よりもずっと南である事が、先に確定。
>だから、その後の説明は、その事に立脚した解釈をしなければならない事になる。
それならば、投馬国の記載は邪馬壹國の記載よりも、あとでなければおかしい
狗奴国ほか、邪馬壹國より南の国はすべて、邪馬壹國よりもあとに記載されている
九州説は、無理読みだから辻褄の合わないことばかり 413の>>971
大和説の面々が、
「南→東」などのような露骨な嘘書いたりが嵩じたり、
荒らしたり中傷したりが 、
ひどすぎるからだろ。 413の>>974
>そうだ! 纏向の柱跡と家型埴輪を組み合わせると
女王卑弥呼の都纏向の再現が出来るぞ!<
「南≠東」であるから、「女王卑弥呼の都」が×。 畿内説スレで九州説への反論が荒らしだという異常な発想 413の>>978
>仮の予測による復元って事になりそうやね
しかしビジュアル的に纏向を示せれば多くの人にその壮麗さがイメージしやすくなるだろう
もう九州説に纏向の柱跡は倉庫跡とかの悪宣伝の材料にはさせん
これで九州説は終わる <
しかし、纏向からは、肝心の生活痕や居住痕が出ないから、×。
これで、大和説は終る。 >>172
なんで×なのか理由もないというオソマツな九州説が
もう終わってます >>164
>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
行程説明で
不彌國あたりでもう萬二千余里がほぼ終わってることにすると
女王国は会稽からはるか北ということになるから
九州説は倭人伝の記述と明らかに合わなくなり
お陀仏が確定するのだ
九州説終わってる >>173
南→東の説明をあやふやにしてる限り、
畿内説は支持されない
ましてや、纒向を大集落と言っているようじゃ笑笑 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>3
北部九州の文化を受容し融合し…と言っているが、具体的に何を根拠としているのか不明。
箸墓の築造は260年〜270年頃で、布留0式土器の時期とされている。
卑弥呼が死んだのは、248年。
10年〜20年も後に卑弥呼の墓を造るとは考えにくい。
卑弥呼の墓ではないだろう。
そもそも邪馬台国が大和にあったとする推定は、各種のデータから否定される。 とあるゲームのイラスト『ベルゼブブ』というのがあるでしょ?
『魔法のペルシャ』? >>4
大型建物は、3世紀半ば頃以前には柱の抜き取りが行われていて、建物はなくなったとされている。
卑弥呼の死は248年なので、卑弥呼が死んだ年以前には既に建物は無くなっていた可能性が高い。
卑弥呼の死と大型建物の撤去とを結びつけるのは、相当無理がある。 『聖徳太子 ペルシャ』
本当の話でしょ、ワニさんが何やらとか、
実際は『松傾』の家の話なんじゃないの?
キュウリの葉・・・あの写真もそうだし >>5
日本書紀は後漢書の倭國大和説を受けて、神功皇后を卑弥呼と似せたりしているように、各所でそうした描写を行っている。
箸墓についても同様の操作を行っているフシがあるので、要注意だ。
しかし、そのような操作を行いながらも、一方では、九州筑後山門で卑弥呼とよく似た田油津媛を討ったことを描写していて、邪馬台国が九州に所在したことをほのめかしている。
モモソ媛は直接的な卑弥呼の描写ではなく、一方の田油津媛は直接的な卑弥呼の描写であるので、卑弥呼の邪馬台国は筑後山門と推定するのがよい。 というか家の写真なんだけど
老婆が言うには、
馬に乗り、何かの刀を持っていて・・・寺院が〜・・・・
肉は食べなかったよと言っていたりw >>181
田油津姫は、卑弥呼本人と言うよりはその末裔かなと思います。
神功皇后の記述は魏志倭人伝に合わせるため、120年ほど繰り上げてあると考えられています。
つまり応神天皇が4世紀末になります。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 それにしても何なんだろう、
このような話とか
『蠅の話 小泉八雲』 >>184
肥人(コマビト・ウマビト)は異人なので倭人とは別の民族 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>7
高地性集落を地域間紛争の現象を説明する具体的事象だとする考えはその後の新たなデータによって否定されており、高地性集落の存在をもって瀬戸内沿岸など西日本の政治的まとまりの根拠とする考えはなくなりつつある。
大和の纏向に広域連合の臨時政権が置かれた事情は、高地性集落の存在とは別の動機によるものと想定するのがよい。
倭國の歴史は、倭人伝が記す通り、紛争が頻発するまでにすでに70年〜80年を経るものであり、大和の纏向に広域連合政権が180年頃に成立する以前にはそのような政権が大和にはなかったのとは対照的である。
纏向の政権は、各地の勢力によって政治的に合意編成されたものであり、倭人伝の倭國とは異なるものである。 小泉じゅんいちろーの話をしていたことがあったり、
一緒に議事堂(国会)に行ったことがあるとか、
父親は横須賀の〜と言っていたりw
偶然にしてもおかしな話ばかり、
どういうことなんだろう 414の>>108
>では、千余里の距離は1里434mで計算するのがよいと思うが、どうか。<
魏志などの「大部分の李記載」や、東夷伝や、韓伝の方四千里や、
倭人伝の3渡海の各「千余里」などの史料実態と、6倍位も違って、
「南≠東」などと相まって、
×。 >>175
>南→東の説明をあやふやにしてる限り
何度も丁寧に説明しただろうが!
たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498
次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い
記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡がどの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう
また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので方角を記録していないとしても問題ない
さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる
以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
番外
ザラコク理論では、実際の方向ではなく出発方向が記されていれば、あとは倭人の案内や道なりで到着できることになる
つまり、最初に5メートル南向きに水行し、その後倭人の案内で日本海の海岸沿い(道なりに相当)に東に進めば邪馬壹國に到達できる、
ということで構わない
ザラコクは「南≠東だから×」といえる立場にないww >>188
>纏向の政権は、各地の勢力によって政治的に合意編成されたものであり、倭人伝の倭國とは異なるものである。
どうして?
倭人伝の倭國は共立で出来てると書かれているのに?
ぴったり合致してない? >>179
>大型建物は、3世紀半ば頃以前には柱の抜き取りが行われていて、建物はなくなったとされている。
誰にそう「されている」の?
情報源不明で主張することは、相当無理がある。 また新しいバカが湧いてきたか
肝心の部分は全部何の根拠も提示せず「そうだから」としか言ってない辺りバカ丸出しだな
こいつ論破してやる!とか意気込んできたんだろうけど自分がバカなのを露呈してるだけだな
こういう低能が九州説なんだろうな 韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった >>193
辻地区の建物跡は、「柱穴の口」が擦れていることから柱の抜取りが行われたと推定されていて
その年代も、その建物あとと同年代とされる祭祀土坑の桃核の年代から3世紀前半とされている
そこまでは事実だよ
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2741/1/BA89557434pp81-102.pdf
そして、3世紀中ごろの居館域は辻地区よりも山側、扇状地のより標高の高い領域と想定されている
この辺の発掘が進んで、3世紀中ごろの建物跡が出たら、九州説は何も言えなくなる
早く発掘が進むことを期待してる 九州バカの特徴
結論だけ言い張るが、理由がぜんぜん説明できない
「もう説明した」とか「書いてある」とか言い張り
いくら聞いても頑として答えない ←(答えない所がミソ)
そして相手をバカにする書き込みを延々と始めて煙に巻く >>196
3世紀半ば頃以前には248年が含まれるから
なんの問題もないんだが
なんで「相当無理がある」とかいう結論がとび出して来るのか
九州説さんの思考は読めないなあ
理由が説明できない人々と会話をするのは難しい 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。 ぼくちゃんの思い込みでそうなってるから「そうなってる」と言うだけだからな
九州説にまともな理論なんてあるわけがないのが分かる >>201
んまあ>>188あたりがその典型で
「大和の纏向に広域連合の臨時政権が置かれた事情は、高地性集落の存在とは別の動機によるものと想定するのがよい」
とか言って、あたかもその「事情」が「高地性集落の存在」と同じ動機によるものと想定してる相手に反論してるような態度
こういう脳錯綜って相手の発言を決して引用しない姿勢(つまり正しく理解する意思がないってこと)が原因だ
極め付けはこれ
「倭國の歴史は、倭人伝が記す通り、紛争が頻発するまでにすでに70年〜80年を経るものであり、大和の纏向に広域連合政権が180年頃に成立する以前にはそのような政権が大和にはなかったのとは対照的」
相手の発言どころか史料すら引用しない
まさに「ぼくちゃんの思い込みでそうなってる」状態なんだよね >>201
その「ぼくちゃんの思い込み」を、よそで恥をかくといけないから、
丁寧に根拠も示して「それは違うんだよ」って教えてるのに聞きやしないww >そもそも邪馬台国が大和にあったとする推定は、各種のデータから否定される。
これとか暫く腹がよじれるほど笑ったわ
各種のデータからwww
一番肝心な部分を脳内ソースで済ませると言うバカ丸出しぶり
これでなんか語ってる気になってんだからな これ今度から使うわ
「各種のデータから」
各種のデータからそれが良いと思うわ >>207
そのデータって、どこにあるか聞くと
「ネットで検索したらどこかに有ったんだ。おかしい、消されてるようだ。ワシが指摘したので圧力が加わったんだ。」
とか言うやつ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています