邪馬台国畿内説 Part415
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 これ今度から使うわ
「各種のデータから」
各種のデータからそれが良いと思うわ >>207
そのデータって、どこにあるか聞くと
「ネットで検索したらどこかに有ったんだ。おかしい、消されてるようだ。ワシが指摘したので圧力が加わったんだ。」
とか言うやつ? 「卑弥呼が死んだのは、248年」という「データ」すら実は存在しなかったりする むしろその各種のデータとやらを上げて論じてくれるならまだ話も出来るんだがな
聞いてみれば訳の分らん妄想と単なる思い込みを垂れ流しだすんだからな
会話にもなりゃしない 今日も、長い時間、討論を実行したが、一度破綻してしまった邪馬台国畿内説を、復活させることはできなかったのではないのかな。。。 >>214
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまったのだもの。。。 414の>>111
物理も数学も弱いんだね。
棒の寸法やその影長寸法や「南北場所での影長の寸法」は、尺寸寸法系の記録であり、
南北場所間の里数は、全く別の里歩系寸法系での記録であり、
その両方を使った計測を記載したのが周髀算経の一寸千里の関係であり、
谷本計算は、棒と影端の造る太陽仰角の南北差から、千里の距離(メートル法)を計算しただけだから、
尺寸系の「一尺は何寸であったのか?」なんてことは、
影長差の表記がどう示されるのか?という問題であるだけで、
だから、南北間での影長差がX寸であったのなら、「X寸千里の法」という表記に変わるだけなのだ。
孫に教えてもらいなよ... >>196
>この辺の発掘が進んで、3世紀中ごろの建物跡が出たら、九州説は何も言えなくなる
邪馬台国の東にいた倭種だよ。
年代がいくら邪馬台国に近くても、その一言で畿内説は終了。 無駄な年代比定を延々とやっているキナイコシが馬鹿みたいだ。
意味がない。 寸尺系とか里歩系なんかも苦し紛れの創作
矛盾点を突かれると関連が無い別のものと言い出す 414の>>118
>だから一万二千里は陳寿の筆法だよ <
「一万二千里」ではないよ。
「萬二千余里」と「余」が付いており、
魏略の同じ「萬二千余里」が書かれているから、
それは魏使や魏の役人たちの記録そのもの。 >>216
>谷本計算は、棒と影端の造る太陽仰角の南北差から、千里の距離(メートル法)を計算しただけだから、
だから1尺が何寸なのかが変わると計算結果も変わって来るんだが
理解できないか? >>204
邪馬台国が大和にあったという具体的なデータ、出してみなはれ。 >>202
学者の間では、高地性集落と倭國大乱とは時期が違う、ということが定説になっている。
高地性集落と倭國大乱とが無関係なら、大和から博多までを領域とする卑弥呼の政権はいつできたのかい。
いつまでも、古いデータを使っていては、バカにされるよ。 韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、各種のデータから否定されてしまった。。。 >>198
248年といえば3世紀中頃。
3世紀前半には大型建物は解体されていたというのが通説。
3世紀前半は、卑弥呼が死ぬ前。
大型建物と卑弥呼の死は、無関係。 >>193
大和説の寺澤大明神が勤める纏向学研究センターの説明文を読んでみたまへ。 >>224
アンカは付いててもねー
この人は誰の言ってる何に反論しようとしてるんだ?
それとも脳内で独り言を呟いてるのか? >>192
卑弥呼共立の倭國は、北部九州。
倭國の乱は、玄界灘側の連合と筑紫平野側の連合との騒乱。
筑紫平野側の連合有利で和平の手打ちしたため、祭祀王は筑紫平野側が擁立した。
その頃、大和に結集した広域連合政権では、纏向の微高地を平らにする土木工事が行われていて、やがてそこには大型建物の祭祀施設が建てられた。
政権加盟勢力から持ち回りで代表祭祀者を出して、毎年盛大に農耕祭祀などを行っていた。
これが、リアルな2世紀末の歴史。 >>226
>248年といえば3世紀中頃。
>3世紀前半には大型建物は解体されていたというのが通説。
は?
248年って3世紀前半だぞ
九州説の考えることは、わけわからん >>209
あんたというか畿内説の主張
>方角の錯誤は起こりうるし
・・・・・これは可能性
>九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
> 投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、
・・・魏の使者が1回しか邪馬台国に1回しか行ってい無いとでも 瀬戸内海を1月地近く水行してるのだが
>・・・・・
・・・以下は推論故省きます
ザラコクとは別人ですので、ザラコク論はザラコクに対して問うてください >>227
>大和説の寺澤大明神が勤める纏向学研究センターの説明文を読んでみたまへ。
そうか
あなたはいつもの、何も説明できない人ですね? >>231
いやそれ、なにか反論なのか?
あなたの文章では
誰のどのような見解を
いかなる理由で否定しているのか
ぜんぜん見えないのだけど >>234
私が学んだ範囲の意見ですよ
あなた、見解はどこで学んだの?
私を非難するのは容易いでしょうが
>>191の根拠が他説批判や憶測で成り立っていると書き込んでるのだが・・
南→東の明確な理論づけが為されれば国民の支持も増えるよ
ザラコクも書き込みを控えるよ >>235
まぁまぁ、そんなにカリカリせんでもw
南→東がどうあれ、たびたび中国・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 畿内説のスレで南→東を咎めるのはそまそもナンセンスだし
倭国は南国であるという認識があったという事で充分に説明がついてるよ >>235
>他説批判
ここは畿内説スレなので、
九州説が他説(畿内説)の批判をしているんだよ
学問では九州説の支持は不要 >>238
でも、彼らは畿内説を批判しないんだよ
九州説が正しいから畿内説は間違いだー
というロジックを使っちゃう
だから彼らを返り討ちにすると九州説批判になってしまう
本意じゃないんだがなあ 畿内説は仮説をベースにした仮説なんだろ?
落ちこぼれの学者どもが飯の種にしてるだけ。 >>239
>だから彼らを返り討ちにすると九州説批判になってしまう
九州説には返り討ち出来るんだけど・・・ @阿波 >>206
>残念ながら憶測や思い込みでは???
そこからそう判断したのか、具体的に指摘しないと意味がないと何度言えばww >>239
>だから彼らを返り討ちにすると九州説批判になってしまう
だけど、倭国(阿波)には反対に返り討ちにされる・・・ @阿波 >>217
>邪馬台国の東にいた倭種だよ。
これも何度も指摘してるんだが、
女王國東渡海「千餘里」、復有國。皆倭種。
の「千餘里」を隠してごまかすなよww
九州と本州の間を「千餘里」とするのは、九州説お得意の短里でも無理w
つまり、本州の勢力は九州から見て東渡海「千餘里」の国とするのは不可能 >>245
女王國とは伊都国と奴国、博多港から1000里で山口県。 >>245
>つまり、本州の勢力は九州から見て東渡海「千餘里」の国とするのは不可能
つまり、畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国。 @阿波 >>222
正始八年に卑弥呼が狗奴国との戦いを訴える使いを送った記事があって、
その後に卑彌呼以死とあるだけだから、正始八年(247年)には生きていたけれど、
実際に卑弥呼が死んだのが248年(正始九年)なのかどうかははっきりとは言えない >>240
このように日本人学者を拒絶しなければ
成り立たなくなってしまったのが九州説 >>245
寝言言っちゃダメ。
魏晋1里=434mで計算してみてごらん。
北部九州の行橋市あたりからちょうど大和に着く。
大和は、倭人伝の倭種の国。 >>235
>ザラコクも書き込みを控えるよ
そんなはずがないだろ?ww
ザラコクは朝鮮儒教の価値観で、自分が道徳的に正しいと信じているから
「事実はどうでもよくて、道徳的な上位者である自分の言うことが正しい」という考えで
畿内説擦れの議論を妨害することだけを目的に、書き込んでいるんだからさ
ザラコクについては、時間が解決するしかないと思っているよ >>252
瀬戸内海は通らないで出雲、丹波経由で行くんじゃなかった? 414の>>122
>墓や土器に形式があって年代が分かるように
古鏡にも形式があるからそこをすっ飛ばして議論しちゃいかんよね<
墓の形態というものは、個々の部族や氏族の誇りであり、
同一地域内に合っても、部族や氏族が違えば、墓形態も違う事など幾らでも有り得るもの。
それは、使用土器でも同じこと。
近接地域間でも、部族が違えば、当然、
使用土器の形態が違う事など、幾らでも有り得る事。 >>246
>博多港から1000里で山口県。
それは「水行」であって、「渡海千餘里」にはならない
水行は沿岸航行で何かあったら陸に上がればいい安全な航海
渡海は外洋に出る航海で、何かあったら死ぬしかない持衰頼みの危険な航海 >>249
卑弥呼が死んだのは事実。
その直後に男の祭祀者が一時王位につくが、すぐ排除されて台与が王位につく。
248年から直近の時期。
その時期以前に、大型建物は撤去されていた。
だから、建物の撤去と卑弥呼の死とは、無関係。
テンプレ主が、建物撤去と卑弥呼の死は関係があるとしているのは、間違い。 >>247
>畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国
阿波から畿内を見たら、間に淡路島があるから渡海「千餘里」にならない
残念でしたw >>256
九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。 >>252
>北部九州の行橋市あたりからちょうど大和に着く。
瀬戸内海みたいに島がわちゃわちゃあるところは、渡海にならないんだってば
「渡海」と「水行」は区別されていることをちゃんと認識して!
もちろん、帯方郡から水行十日で九州北部に着くというのも、
渡海と水行をごっちゃにしている時点で、ダメ >>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww 414の>>138
>長里だろうと短里だろうと、帆柱のある大型の中国船で30日(投馬国20日+邪馬台国10日)も航海したら、
九州をグルッと一周して末盧国まで戻って来ちゃうよ。<
「帆柱のある大型の中国船」という妄想が×。
中国との遣使の渡海の往来では、「持衰」の同乗の記録があるから、倭船であり、
「循海岸水行」のような航行は渡海ではなく、
狗邪韓國と末盧國の間の渡海になり、倭船を使っている事になる。
>少なくとも鹿児島は通り過ぎちゃうでしょ。
鹿児島を通り過ぎてその先どこに行くんだ?と。放射読みで投馬国の方が遠いと言うのも無理あり過ぎ。
いずれにせよ行程については、陳寿90度回転で無事奈良盆地に着くと言うことで解決ですよ。<
いすれにせよ、「南≠東」に拠って、奈良盆地は、×ですよ。 >>258
>阿波から畿内を見たら、間に淡路島があるから渡海「千餘里」にならない
淡路島は倭国(阿波)の数ある島の内の一つ だと、何度言えばw @阿波 >>263
だから、畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国。 @阿波 水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー 九州でも東部北側の人にとっては本州は近いんだろうけど
九州西部に住んでる人にとっては
関門海峡と東シナ海が同じくらいの感じなのかもしれない >>258
だから、倭国(阿波)には反対に返り討ちにされる・・・ @阿波 414の>>145
>連続読みで投馬国から南(実際には東)に水行しないと、陳寿の認識に合わない <
投馬國の説明には「至の前に途中移動の文言がない」から、魏使らは行っておらず、
「至」は、(移動して到着したのではなく)
「南に行けば(投馬國が)存在する」という位置説明の使用意味になっており、
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説は、陳寿の説明には合わない。 >>268
>水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー
瀬戸内海の潮流を舐めたらアカンぜよ。 @阿波 >>263
博多から山口県が1000里ですよ
九州と中国地方は繋がってないから渡海。 >>273
>秘境は遠い
邪馬台国は遠い。 @阿波 >>273
>秘境は遠い
倭国(阿波)は遠い。 @阿波 414の>>149
>ザラコクはよく「止」が二つだから歩いてないとかいうが元はこういう字だぞ・・・
下側は「止」じゃないだろ?
足跡の象形を整理するときにこの形のなっただけで止まるという意味はない <
「歩」の文字は、上が止まるの文字で、下が止まるの文字の反転の字形だ、
という説明をしたのは、類スレ主の方だ。
だから、「足底の形で、後ろ側で止める」という事は、歩行しておらず、
「1足底」長だ、という意味だ。 「女王國東 渡海千餘里」
旁國を含む女王國の東から渡海が千餘里
女王國以北が従属している国々 >>266、>>267
>淡路島は倭国(阿波)の数ある島の内の一つ だと、何度言えばw @阿波
>だから、畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国。
淡路島と和歌山の間の海峡は10キロだな
関門海峡ほどではないが、それでもこれが渡海千里なら
一里10メートルだww
>>264 訂正ありがとう >>268
>水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー
いや? 日本海航路の方が妥当だよ
ここはテンプレと意見が異なるけどさ >>235
>ザラコクも書き込みを控えるよ
>>277の「「1足底」長だ、という意味だ。」を見てごらん
どんなに間違っていることを突きつけられても、ザラコクはこうやって
ウソを強弁し続けるんだよww >>278
旁國を含む場合は「此女王境界所盡」みたいに「女王國」じゃなくて「女王」と書かれてるから「女王國東 渡海千餘里」は旁國とか含まないよ
伊都国、奴国から1000里。 >>274
>博多から山口県が1000里ですよ
だから、それは「水行」なんだって
陸沿いに水行していて、途中に河口があっても、川幅分を渡海するとは言わないだろ? 414の>>161
>わからない投馬国を邪馬台国よりも前に書いている<
奴國と投馬國に対しては、
「至」の前に途中移動の文言がなく、
投馬國は水行二十日の位置だ、という事だから側副傍線国説明である、
という事が判り、
邪馬壹國に対しては、不彌國からの里数が書かれていないから、
不彌國から殆ど移動を要せずに至る、
という事が判る。
>水行二十日と水行十日陸行一月がじゃまでしょうがない<
邪魔になっていない。
行程里数説明とは別の、(後続の使節らの参考になる)貴重な所要日数の説明。
>邪馬台国を福岡県にするためだけの読み方 ⇔<
大和説者は、邪馬壹國女王之所都を奈良県にするためだけの、
「南→東」などのインチキ読み方。 >>283
渡海とは陸続きでない場合に海峡を渡ることだよ
川の両岸は繋がっているだろ
水行は単に海を行くこと。 >>234
私が学んだ範囲の意見ですよ
あなた、見解はどこで学んだの?
私を非難するのは容易いでしょうが
>>191の根拠が他説批判や憶測で成り立っていると書き込んでるのだが・・
南→東の明確な理論づけが為されれば国民の支持も増えるよ
ザラコクも書き込みを控えるよ >>282
女王境界所盡は不屬女王に対する表現
奴国=博多からは東に渡海できない 太平洋ルートを✖とした時点で畿内説は終わったと感ずる >>279
>淡路島と和歌山の間の海峡は10キロだな
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km) 1里=50m @阿波 >>232
他人に頼ってはいけない。
自分で見つける努力をしなさい。
纏向学研究センターのホームページから探しなさい。 414の>>172
>臨海郡(りんかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、
現在の浙江省南部に設置されたらしくて <
Wikiでは、臨海郡は、
257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた。臨海郡は揚州に属した。
とされ、浙江省南部とは書かれていないし、
Wikiの会稽郡にも、
呉の首都は孫権時代に揚州丹陽郡の建業に移ったが、
会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域となっていった。・・・
三国時代には・・・257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、
260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。
とされ、いずれも、臨海郡は、会稽郡の「東部」とされ、
呉の中心地域である丹陽郡や揚州(江蘇省付近)の支配下になっていた、とされる。
>場所的には台湾のちょっと上くらいでその東はやっぱり沖縄ぐらい 九州北部は指さないが <
分郡された臨海郡の地域に情報混乱があっても、
魏志の記載は、「会稽東治」であり、
「会稽会稽郡の東部〜江蘇省の海岸地域」の呉の直轄的支配地域を指す事は、明確であり、
その「之東」が九州島付近を指す事も明確であり、
台湾や沖縄は、全く×。 >>261
瀬戸内海の(海)は、ウミだよね。
海を舟で行くことを、中国語では(渡海)だよね。
渡海千余里は、瀬戸内海を千里舟で行くこと。
お分かりだよね。 >>278
女王国=倭國。
倭國の女王=卑弥呼。
卑弥呼の倭國から東へ千余里(1里=434m。434m×1000里=434km)海を渡ると倭種の国。
倭種の国=大和。 >>290
>女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km) 1里=50m @阿波
淡路島はどこに行った?ww
それに短里を言い募る奴でも、1里=50mってのはないぞw
ご都合主義だことww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww >>286
その前に>>234 と>>191の書き込みが別人だって早く気づこうよww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww >>294
>海を舟で行くことを、中国語では(渡海)だよね。
違います
水行は沿岸航行
渡海は外洋に出る航海だよ 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww 最近の畿内説本は畿内の定義が曖昧だとつくづく感ずる
昔は伊勢は笑止千万で終わったが
今や畿内説の学者によっては丹波・丹後、播磨・近江・紀伊・淡路・伊賀・若狭・・・・・・
畿内説の畿内の範囲がメタメタに陥ってるのではないかな
もしくは都合によって畿内に入れたり外したり >>285
>渡海とは陸続きでない場合に海峡を渡ることだよ
>川の両岸は繋がっているだろ
>水行は単に海を行くこと。
沿岸航行といっても、岸から数百メートルは離れる
その距離から関門海峡を見ると、地続きにしか見えない
九州北岸から、中国地方へは沿岸航行の「水行」だよ 阿波説は
畿内説にとって九州説より難敵だな
阿波説をやっつけられたら九州もやっつけられるかもな 414の>>188
>そもそもザラコクが臨海郡が会稽東治の事で
その東は九州を指すっつーデタラメが事の始まり<
臨海郡という名前を最初に持ち出したのは、「類スレ主」の方。
>臨海郡の東も台湾の上辺りだからその東は九州の特に北部は指さない <
「会稽東治」といういう文言は、女王國の位置推定をしたいのだから、
陳寿は明らかに「会稽の東方の治域」の海岸地域を示そう、としている。
そうすると、その地は、呉の支配的地域であり、
その事を示すために、陳寿は「東治」という説明文言を使ったんだろう、
という事になる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています