邪馬台国畿内説 Part415
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 九州でも東部北側の人にとっては本州は近いんだろうけど
九州西部に住んでる人にとっては
関門海峡と東シナ海が同じくらいの感じなのかもしれない >>258
だから、倭国(阿波)には反対に返り討ちにされる・・・ @阿波 414の>>145
>連続読みで投馬国から南(実際には東)に水行しないと、陳寿の認識に合わない <
投馬國の説明には「至の前に途中移動の文言がない」から、魏使らは行っておらず、
「至」は、(移動して到着したのではなく)
「南に行けば(投馬國が)存在する」という位置説明の使用意味になっており、
「南→東」などの嘘つき騙しをする大和説は、陳寿の説明には合わない。 >>268
>水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー
瀬戸内海の潮流を舐めたらアカンぜよ。 @阿波 >>263
博多から山口県が1000里ですよ
九州と中国地方は繋がってないから渡海。 >>273
>秘境は遠い
邪馬台国は遠い。 @阿波 >>273
>秘境は遠い
倭国(阿波)は遠い。 @阿波 414の>>149
>ザラコクはよく「止」が二つだから歩いてないとかいうが元はこういう字だぞ・・・
下側は「止」じゃないだろ?
足跡の象形を整理するときにこの形のなっただけで止まるという意味はない <
「歩」の文字は、上が止まるの文字で、下が止まるの文字の反転の字形だ、
という説明をしたのは、類スレ主の方だ。
だから、「足底の形で、後ろ側で止める」という事は、歩行しておらず、
「1足底」長だ、という意味だ。 「女王國東 渡海千餘里」
旁國を含む女王國の東から渡海が千餘里
女王國以北が従属している国々 >>266、>>267
>淡路島は倭国(阿波)の数ある島の内の一つ だと、何度言えばw @阿波
>だから、畿内は倭国(阿波)から見て東渡海「千餘里」の国。
淡路島と和歌山の間の海峡は10キロだな
関門海峡ほどではないが、それでもこれが渡海千里なら
一里10メートルだww
>>264 訂正ありがとう >>268
>水行の部分は日程的に瀬戸内航路と考えるしか無いからねー
いや? 日本海航路の方が妥当だよ
ここはテンプレと意見が異なるけどさ >>235
>ザラコクも書き込みを控えるよ
>>277の「「1足底」長だ、という意味だ。」を見てごらん
どんなに間違っていることを突きつけられても、ザラコクはこうやって
ウソを強弁し続けるんだよww >>278
旁國を含む場合は「此女王境界所盡」みたいに「女王國」じゃなくて「女王」と書かれてるから「女王國東 渡海千餘里」は旁國とか含まないよ
伊都国、奴国から1000里。 >>274
>博多から山口県が1000里ですよ
だから、それは「水行」なんだって
陸沿いに水行していて、途中に河口があっても、川幅分を渡海するとは言わないだろ? 414の>>161
>わからない投馬国を邪馬台国よりも前に書いている<
奴國と投馬國に対しては、
「至」の前に途中移動の文言がなく、
投馬國は水行二十日の位置だ、という事だから側副傍線国説明である、
という事が判り、
邪馬壹國に対しては、不彌國からの里数が書かれていないから、
不彌國から殆ど移動を要せずに至る、
という事が判る。
>水行二十日と水行十日陸行一月がじゃまでしょうがない<
邪魔になっていない。
行程里数説明とは別の、(後続の使節らの参考になる)貴重な所要日数の説明。
>邪馬台国を福岡県にするためだけの読み方 ⇔<
大和説者は、邪馬壹國女王之所都を奈良県にするためだけの、
「南→東」などのインチキ読み方。 >>283
渡海とは陸続きでない場合に海峡を渡ることだよ
川の両岸は繋がっているだろ
水行は単に海を行くこと。 >>234
私が学んだ範囲の意見ですよ
あなた、見解はどこで学んだの?
私を非難するのは容易いでしょうが
>>191の根拠が他説批判や憶測で成り立っていると書き込んでるのだが・・
南→東の明確な理論づけが為されれば国民の支持も増えるよ
ザラコクも書き込みを控えるよ >>282
女王境界所盡は不屬女王に対する表現
奴国=博多からは東に渡海できない 太平洋ルートを✖とした時点で畿内説は終わったと感ずる >>279
>淡路島と和歌山の間の海峡は10キロだな
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km) 1里=50m @阿波 >>232
他人に頼ってはいけない。
自分で見つける努力をしなさい。
纏向学研究センターのホームページから探しなさい。 414の>>172
>臨海郡(りんかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、
現在の浙江省南部に設置されたらしくて <
Wikiでは、臨海郡は、
257年(太平2年)、三国の呉により会稽郡東部を分割して、臨海郡が立てられた。臨海郡は揚州に属した。
とされ、浙江省南部とは書かれていないし、
Wikiの会稽郡にも、
呉の首都は孫権時代に揚州丹陽郡の建業に移ったが、
会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域となっていった。・・・
三国時代には・・・257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、
260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。
とされ、いずれも、臨海郡は、会稽郡の「東部」とされ、
呉の中心地域である丹陽郡や揚州(江蘇省付近)の支配下になっていた、とされる。
>場所的には台湾のちょっと上くらいでその東はやっぱり沖縄ぐらい 九州北部は指さないが <
分郡された臨海郡の地域に情報混乱があっても、
魏志の記載は、「会稽東治」であり、
「会稽会稽郡の東部〜江蘇省の海岸地域」の呉の直轄的支配地域を指す事は、明確であり、
その「之東」が九州島付近を指す事も明確であり、
台湾や沖縄は、全く×。 >>261
瀬戸内海の(海)は、ウミだよね。
海を舟で行くことを、中国語では(渡海)だよね。
渡海千余里は、瀬戸内海を千里舟で行くこと。
お分かりだよね。 >>278
女王国=倭國。
倭國の女王=卑弥呼。
卑弥呼の倭國から東へ千余里(1里=434m。434m×1000里=434km)海を渡ると倭種の国。
倭種の国=大和。 >>290
>女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km) 1里=50m @阿波
淡路島はどこに行った?ww
それに短里を言い募る奴でも、1里=50mってのはないぞw
ご都合主義だことww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww >>286
その前に>>234 と>>191の書き込みが別人だって早く気づこうよww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww >>294
>海を舟で行くことを、中国語では(渡海)だよね。
違います
水行は沿岸航行
渡海は外洋に出る航海だよ 263日本@名無史さん2019/01/09(水) 19:06:42.24
>>259
>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
無理読みww 最近の畿内説本は畿内の定義が曖昧だとつくづく感ずる
昔は伊勢は笑止千万で終わったが
今や畿内説の学者によっては丹波・丹後、播磨・近江・紀伊・淡路・伊賀・若狭・・・・・・
畿内説の畿内の範囲がメタメタに陥ってるのではないかな
もしくは都合によって畿内に入れたり外したり >>285
>渡海とは陸続きでない場合に海峡を渡ることだよ
>川の両岸は繋がっているだろ
>水行は単に海を行くこと。
沿岸航行といっても、岸から数百メートルは離れる
その距離から関門海峡を見ると、地続きにしか見えない
九州北岸から、中国地方へは沿岸航行の「水行」だよ 阿波説は
畿内説にとって九州説より難敵だな
阿波説をやっつけられたら九州もやっつけられるかもな 414の>>188
>そもそもザラコクが臨海郡が会稽東治の事で
その東は九州を指すっつーデタラメが事の始まり<
臨海郡という名前を最初に持ち出したのは、「類スレ主」の方。
>臨海郡の東も台湾の上辺りだからその東は九州の特に北部は指さない <
「会稽東治」といういう文言は、女王國の位置推定をしたいのだから、
陳寿は明らかに「会稽の東方の治域」の海岸地域を示そう、としている。
そうすると、その地は、呉の支配的地域であり、
その事を示すために、陳寿は「東治」という説明文言を使ったんだろう、
という事になる。 >>268
方角がちゃいます。
水行は南。
渡海は東。
倭人伝、ちゃんとお読みやす。 >>296
>淡路島はどこに行った?ww
淡路島は倭国(阿波)の数ある島の内の一つ だと、何度言えばw
淡路島は倭国(阿波)であっても、女王国じゃない と、何度言えばw @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 414の>>190
>しかし九州説は何で邪馬台国を北部に想定しちゃったんだ
南部に想定した方がまだ頑張れる気がする <
この人は、まだ、
女王國の範囲と、邪馬壹國女王之所都の地域とを、混乱している。
女王國の範囲は、卑弥呼共立に賛成した国であり、南九州の投馬國を当然含む。
しかし、邪馬壹國は、不彌國のすぐ南の筑紫付近にあり、
女王之所都は、その筑紫付近の中にある、という事。 177日本@名無史さん2019/01/09(水) 12:02:53.93
>>3
北部九州の文化を受容し融合し…と言っているが、具体的に何を根拠としているのか不明。 >>306
>阿波説をやっつけられたら
う〜ん、無理。 @阿波 >>312私も知りたい
>北部九州の文化を受容し融合し…と言っているが、具体的に何を根拠としているのか不明。
「倭国(阿波)の最先端文化」の間違いだよ。 @阿波 >>305
主観すぎるよ…
地続きでないのは明らかだから、表現は渡海でも間違いではないだろうな 太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる
太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる
太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる
太平洋(黒潮)ルートを否定した時点で畿内説は終わったと感ずる 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。
>又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。
>又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。
この辺は、女王国から遥か遠くの国々の話で、あんまり深く議論しても仕方ないんじゃないの?
いずれにせよ、人種の違う人たちが女王国から物凄く遠くに住んでいるということで、
それは蝦夷からまた聞きした北海道の縄文人やアイヌかも知れない。
少なくとも青森までは、縄文時代から日本全国の交易ネットワークに入っていたので、
そこまでの地理的知識はボンヤリとではあるが当時の倭人には共有されていただろう。
陳寿90度回転の立場から言えば、『女王国の東、海を渡ること千余里』これは北のこと。
『海を渡ること千余里』とは、宗谷海峡かも知れない。
『又、侏儒国有りて、その南に在り。』これは東。
『又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南』これは北東。
北海道を深く深く分け入ったところの話かも知れない。 >>315
まぁまぁ、
渡海だろうと水行だろうと、たびたび中国・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 414の>>194
>九州南部だと埋葬品とか集落とかの根拠が崩壊するからな<
崩壊しない。
(元は東テイ人の遺跡と思われる)鹿児島の上野原遺跡や、
天孫族の伊都国系の阿毎氏の分国と思われる宮崎の古墳群があるし、
球磨付近に特異な土器の分布もあった筈だし。
>考古学では九州北部を文献史学では九州南部を主張するのが九州説<
考古学でも文献史学でも、どちらでも九州に負けているのが、大和説。 414の>>195
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺をしている大和説者は、
要するにチェリーピッキングでその場しのぎを続けているだけの状態なんだよ。
そして、
苦し紛れのその場しのぎだから、大和説は、中で矛盾しまくり。 >>304
>畿内説の畿内の範囲がメタメタに陥ってるのではないかな
メタメタなのは九州説の方だろ?w
投馬国の比定地も、半島南部とかいうトンデモから、
邪馬台国比定地より南の宮崎とか、北部九州に無理やり詰め込んだりとかデタラメだし
邪馬台国の場所も、筑紫平野といったり、伊都国が邪馬台国だといったり、
福岡平野に無理やり押し込んだりばらばらのメタメタ
それを全部つぶして回るのが面倒でしょうがない
まあ、一つ一つは矛盾だらけだから、簡単につぶせるんだけどねw >>322
>まあ、一つ一つは矛盾だらけだから、簡単につぶせるんだけどねw
まあ、矛盾がないのは倭国(阿波)だけなんだけどねw @阿波 414の>>201
まぁ、大和説者は、
後漢書の会稽東冶の誤字をいいことに、会稽を限界まで南へ移動させて、
あまつさえ会稽郡の南にまで「会稽東治」を仕立て上げるという騙し計画も失敗して、
会稽東治が上海やが揚州(江蘇省付近)である事を否定する計画も、
水泡に帰したしなぁ
もう九州説の生き残る道は無いでしょね >>192
卑弥呼共立の倭國は、北部九州。
倭國の乱は、玄界灘側の王家と有明海側の王家との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちらで王を名乗るものが現れた。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。 414の>>228
>この投馬国が吉備王国か出雲王国かと言えば、
領域の広さやその後の陸行の長さから考えて、出雲ではないかなと思っている。<
「南≠東」によって、始めから、×。 >>326
>卑弥呼共立の倭國は、北部九州。
無理。 「其山有丹」でも無理。 「橘」でも無理。 「楠」でも無理。 なにがどう転んでも、無理。 @阿波 414の>>223
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説者は、
ボコられると途端に荒らしまくって、
スレ流そうとするね。 >>322
畿内説のスレで他説に振って逃げるのかな
他説批判は他説のスレでやるべし
畿内説批判はこのスレでいいんでねーの キナイコシは主張すべき中身がないから、他説を攻撃することしかできない可哀想なやつなんだよ。 414の>>233
>>投馬国は、薩摩。<
>それ、女王国以北に合わないんだけど?<
先に投馬國の位置が、不彌國から水行二十日で行ける南九州である事が示され、
また、後で、女王國とは卑弥呼共立国の呼称であった事の説明になっているから、
投馬國も、女王國の中に含まれるの。 >>305
>沿岸航行の「水行」だよ
「水行」は沿岸航行に限らず単に海を行くことだよ
関門海峡は見るなくても北部九州地域を支配してるんだから関門海峡の存在は分かってるよ
だから九州北岸から中国地方へは渡海なんだよ。
>>317
>女王を去ること四千余里。
女王(邪馬壹國)の東4000里とあるここは問題だな
邪馬壹國の先まで里数が分かっている
先まで里数が判明してるんだから途中から日数で邪馬壹國の行程を説明する必要がない
里数と日数を連続して読むのは間違いなんだ。 414の>>234
>九州北部は女王国じゃないんだろ
九州北部の国々は、一大卒支配下の女王国に服属する地や国というだけ<
卑弥呼共立に反対したようであったのは狗奴國だけであり、
東渡海千里の倭種は、共立支持か?は不明であり、
半島南岸の倭は、狗邪韓國以外は不明であり、
九州の中北部の其餘旁國は、共立賛成であったようであり、
しかし、魏の支配下になる事までは拒否したのは、
(戸では書かれず)「家」でまでは一大國と不彌國。
また、「官」名が書かれなかった狗邪韓國は、魏の臣下にもなった難升米の国であり、
末盧國はになった同じく都市牛利の国であった可能性がある。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>339
>作り話がこの民族の特徴
え?・・・あんたは何民族なんだw >>332
>畿内説のスレで他説に振って逃げるのかな
>他説批判は他説のスレでやるべし
すぐ逃げる
無能な九州説 東の倭地までどれくらい?
なに、その日のうちに渡れるよ
ふむふむ、なら1日の水行だから千里だな >>323
???
沿岸航行が水行だってだけだろ
循海岸っていうのを、波打ち際だとか言わないよな?
半島南部のリアス式海岸を出たり入ったりしながら航行するはずがないからな
座礁しないためには陸が見える範囲で沖に出るんだよ
そして半島の概形に沿って進むのが循海岸の意味 414の>>241
>当然、沖縄あたりだ<
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」に拠って、×だ。 >>336
関門海峡って沖合から見たらこんなんやで
https://t.pimg.jp/040/863/631/1/40863631.jpg
地続きにしか見えないし、沖を通る人にとっては水行であって渡海じゃない
それに「千里」にならないっていうのはごまかし続けているだけだぞ
移動距離は渡海距離とは違うよ >>332
>畿内説のスレで他説に振って逃げるのかな
反論したかったら、論点を明確にして具体的な指摘をしてくれww
逃げてるのは九州説w >>345
北部九州地域を支配してたんだから見えなくとも知識として関門海峡を知ってるよ
博多から山口県までを渡海と認識してたんだよ。 414の242
「南→東」などの嘘吐き詐欺師の大和説は、
大和に拠る九州の支配とか征服とか屈服とか、強権的な言葉が大好き。
>畿内説の想定する倭国は葬送祭祀を統一する祭祀連合で、卑弥呼は共立祭祀王
征服王じゃないww<
「南≠東」や、
「九州倭国の「東征毛人五十五国」という史料事実に拠って、×。 >>343
沿岸航行に限らず渡海も水行なんだ
循海岸は渡海じゃないから単に水行と書かれてる。 関門海峡は
門司側の沿岸水行すると、同時に下関側の沿岸水行にもなる 飛び飛びロムですがスレの結論は卑弥呼さんは伊都で壹与ちゃんは葛木でOK? >>351
魏志倭人伝にも「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑」と書かれているだろ
当時から関門海峡は知られていたんだよ。 有明海沿岸の人たちは関門海峡を実際に見たことがないのかもしれない
有明海よりも広大な海峡だと想像しているんだろう 414の>>の261
>それを前方後円墳体制って一般に読んでるんだけど知らないのかい?<
列島での前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などが先発だ。
>ただ、その体制は武力討伐で屈服させて作られたものではなく、
卑弥呼の共立によって談合で作られた体制だ<
ダメだ。
「南≠東」であり、九州倭国の「東征毛人五十五國」であり、
大和は、阿毎氏の倭奴國から別れた別種の旧小国だ。
>その祭政一致の体制に北部九州も参画している<
東征将軍らが、前方後円墳を大和に伝えた。
大和のみの倭国など、絵空事だとすぐに分かる。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>353
それはそれで"あり"と思いますよ
考察するには面白そうですね 414の>>269
>>その前方後円墳に筑紫から来た銅鏡が大切に安置されていたのだから<
>これが大嘘 3世紀には筑紫は銅鏡を新たに入手できなくなっている<
これが大ウソ。
3世紀の筑紫は、明帝の下賜の銅鏡百枚や呉系楽浪鏡師らの△などが流入し、
卑弥呼らに拠って鏡片としても、沢山配布され、
平原や3世紀末の一貴山銚子塚などの黄金鏡などの花を開いた。
それに対して、大和は、3世紀末以後の東征将軍らのホケノの鏡片が始まりであり、
呉系楽浪鏡師らの教授で子弟たちが、大量の粗悪な副葬用の△を作って副葬した。
>平原1号墓出土鏡が、40枚中38枚が仿世鏡だっていうのをもっと深刻に考えた方がいいよww<
21枚の「尚方作」の方格規玖鏡は、明帝の下賜鏡が元になった、
という事を、もっと真剣に考えた方がよい。
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
414の>>の272
>邪馬臺は、ヤマドゥだって言ってる人がいるけど、
日本書紀の万葉仮名がそのままヤマドゥだな<
「臺」は「台」ではなく、
「邪馬台国」は、存在もしない嘘つき騙しであるから、×。 >>326
2世紀末の大和行きは都落ちなのに、なんでそんなに東征したがるの。
尾羽うち枯らしてみすぼらしく流れていくのに、都へ上るように意気揚々な鼻息はなんで。 414の>>275
>薩摩から開聞岳まで舟で行って、そこから一気に屋久島まで漕ぎ渡る。
屋久島が倭人伝の上陸地点。
倭人伝の倭国の想定は、唐津から沖縄あたりまで続く巨大島があって、卑弥呼の都はその沖縄本島あたりにあり、狗奴国はその南にあるというもの。
これは、古代中国人の強固な観念。
そこに仙人の住む理想郷があった。
邪馬台国はその理想国にあったわけ。<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしてしまっているし、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてしまっているし、
「陸行一月」する陸地がないから、やっぱり×だろうねえ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています