邪馬台国畿内説 Part415
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 有明海沿岸の人たちは関門海峡を実際に見たことがないのかもしれない
有明海よりも広大な海峡だと想像しているんだろう 414の>>の261
>それを前方後円墳体制って一般に読んでるんだけど知らないのかい?<
列島での前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などが先発だ。
>ただ、その体制は武力討伐で屈服させて作られたものではなく、
卑弥呼の共立によって談合で作られた体制だ<
ダメだ。
「南≠東」であり、九州倭国の「東征毛人五十五國」であり、
大和は、阿毎氏の倭奴國から別れた別種の旧小国だ。
>その祭政一致の体制に北部九州も参画している<
東征将軍らが、前方後円墳を大和に伝えた。
大和のみの倭国など、絵空事だとすぐに分かる。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>353
それはそれで"あり"と思いますよ
考察するには面白そうですね 414の>>269
>>その前方後円墳に筑紫から来た銅鏡が大切に安置されていたのだから<
>これが大嘘 3世紀には筑紫は銅鏡を新たに入手できなくなっている<
これが大ウソ。
3世紀の筑紫は、明帝の下賜の銅鏡百枚や呉系楽浪鏡師らの△などが流入し、
卑弥呼らに拠って鏡片としても、沢山配布され、
平原や3世紀末の一貴山銚子塚などの黄金鏡などの花を開いた。
それに対して、大和は、3世紀末以後の東征将軍らのホケノの鏡片が始まりであり、
呉系楽浪鏡師らの教授で子弟たちが、大量の粗悪な副葬用の△を作って副葬した。
>平原1号墓出土鏡が、40枚中38枚が仿世鏡だっていうのをもっと深刻に考えた方がいいよww<
21枚の「尚方作」の方格規玖鏡は、明帝の下賜鏡が元になった、
という事を、もっと真剣に考えた方がよい。
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
414の>>の272
>邪馬臺は、ヤマドゥだって言ってる人がいるけど、
日本書紀の万葉仮名がそのままヤマドゥだな<
「臺」は「台」ではなく、
「邪馬台国」は、存在もしない嘘つき騙しであるから、×。 >>326
2世紀末の大和行きは都落ちなのに、なんでそんなに東征したがるの。
尾羽うち枯らしてみすぼらしく流れていくのに、都へ上るように意気揚々な鼻息はなんで。 414の>>275
>薩摩から開聞岳まで舟で行って、そこから一気に屋久島まで漕ぎ渡る。
屋久島が倭人伝の上陸地点。
倭人伝の倭国の想定は、唐津から沖縄あたりまで続く巨大島があって、卑弥呼の都はその沖縄本島あたりにあり、狗奴国はその南にあるというもの。
これは、古代中国人の強固な観念。
そこに仙人の住む理想郷があった。
邪馬台国はその理想国にあったわけ。<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしてしまっているし、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてしまっているし、
「陸行一月」する陸地がないから、やっぱり×だろうねえ。 >>362
九州王朝派が意気消沈したと思ったら、今度は朝鮮加羅王朝派かよ。 >>350
それは無理筋
水行と渡海は区別されてるし、玄界灘から山陰の海岸へ移動するのは水行だよ
記録するのは魏使だからね >>366
そりゃあれだ。
太平洋戦争で大本営が「転進」と言い張ったのと同じだ。
実際は敗退だが、そうは書けないだろ。
記紀によると、親戚筋の饒速日が関西で成功しているらしいと塩土爺から聞いたので出発を決めたとある。
三雲遺跡の主として3代70〜80年に渡って君臨して後漢から金印まで授かった天孫族が、倭国大乱でその地位を失ったんだよ。 >>370
郡使は本州に渡っていないから、伝聞情報だけなんだよ。 >>365
>>362は科学ニュース+板で邪馬台国スレを荒らしてた人だよ
取り合わなくていい >>370
水行⊃渡海なんだよ
渡海も水行の一種。 >>372
出雲から普通に楽浪土器が出てる
半島と出雲の往来は考古遺物から確認できるし九州だけが交流してたという説は成り立つ余地がない >>372
張政等の魏使は本州に行ってないけど公孫氏時代の郡使は本州まで言ってるね
「去女王四千餘里」と邪馬壹國の先の里数も記録している。 >>374
だったら「10キロ沿岸航行、600メートル海峡横断(渡海)」は、
水行と書かれるのが当然だなww >>375
昔は出雲が倭を代表していたけど、それを倒して成立したのが筑紫の王権じゃないか。 >>376
>張政等の魏使は本州に行ってないけど
それは無理だよ
北部九州より大国の出雲の人も大和の人も北部九州に来てるし、
郡使も出雲を知ってるなら北部九州は倭国も代表と認められない
そして建中校尉梯儁は金印・皇帝詔書を倭国の都、大和まで運んでいるし
塞曹掾史張政は以檄告喻壹與で、臺與のいる都まで行っているのが分かる
その記録で、北部九州から都まで水行陸行合わせて2ヶ月と伝わっている訳だ
九州のみの倭国は、状況からあり得ない 414の>>276
>短里なんてないんだよ?ww<
魏志には、大和も長里もなかったよ。
>奴国も伊都国も邪馬台国とは別の国 奴国と伊都国を除いたら北部九州に七萬餘戸の邪馬台国を置く余地はない <
奴國は、日向峠西麓〜早良平野部であり、不彌國は博多湾岸であるから、
邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野およびその周辺丘陵地。
>投馬国は戸数道里が略載された女王国以北の国だが、九州説では投馬国を置く場所がない<
投馬國は、先に「不彌國から南の水行二十日の位置にある側副傍線國」、
という説明が終わっていて、卑弥呼共立國の中の一国である事になり、
だから「女王國」の説明の中に含まれる事になる。
土器も前方後円墳祭祀も筑紫発祥のものを、
東征将軍らに拠って伝えられて受け入れているだけの場所が、
3世紀末以後の「九州倭国の別種分家の旧小国」の大和。 >>337
卑弥呼共立までは、博多が玄界灘連合の盟主。
熊本の王は、鉄など貴重財の取引で博多と仲よかった。
しかし、共立後は筑後の邪馬台国が盟主となってから、邪馬台国の為政者らは幅をきかして、嘉瀬川河口からの沿岸伝いの交易舟に言い顔せずに横槍入れるようになった。
このことから、熊本の王は邪馬台国に腹を立てていた。
そこで、邪馬台国が音頭とって倭國が魏に朝貢するようになると、大和の纏向連合から「どや、一緒に邪馬台国、攻めんか」と相談があり、熊本はもとより卑弥呼と良くなかったので、一も二もなく話に乗った。
そして、冊封の固めとしての皇帝の軍旗が邪馬台国に送られて、いよいよ魏の家来になる段となるや、国を売る邪馬台国に対して正義の旗を掲げ、熊本と大和が南北から一気に攻め込んだというわけ。
これが3世紀中頃のリアルな歴史。 >>378
>昔は出雲が倭を代表していたけど、それを倒して成立したのが筑紫の王権じゃないか。
神話時代の記紀を史実だと言いたいのかい?
神武の東征があったとしても、それですら邪馬台国の時代より何世代も前だぞ? >>380
>魏志には、大和も長里もなかったよ。
大和は当て字
大陸側は邪馬臺という当て字で記録している
長里はないな
あるのは1里=435メートルの魏晋里だけだ 出雲の四隅突出型墳丘墓は
筑紫の甕棺が没落するころから大型化し北陸にも拡がる >>379
>郡使も出雲を知ってるなら北部九州は倭国も代表と認められない
出雲から筑紫に代表権を委譲したよね。
>>379
>そして建中校尉梯儁は金印・皇帝詔書を倭国の都、大和まで運んでいるし
循環論法の詐欺。 >>382
>神武の東征があったとしても、それですら邪馬台国の時代より何世代も前だぞ?
根拠は? >>368
勘違いしてはいけない。
九州巨大島は、中国人の強烈な固定観念。
帯方郡役人が「倭國は北部九州」といくら報告しても、頭の硬い本国の役人らは帯方郡の報告を信じず、巨大島の南部にある邪馬台国へ行く道筋もちゃんと報告せよ、と命令する始末。
やむを得ず、帯方郡の役人は、博多の商人から沖縄へ行く行程を聞きだして報告を上げた。
そういう歴史の真実を理解できないで、陳腐な旧説を繰り返していてはダメ。
沖縄あたりに仙人郷があるという古代中国人の強烈な固定観念を知らなければ、陳腐な説を説いてみせるだけに終わる。
もっと、中国の歴史を勉強したまへ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。
>又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。
>又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。
繰り返しになるけども、これは女王国から遥か遠くのよく分かってない国々の話で、
あまり議論しても仕方ないと思うんだけど、
狗邪韓國 → 対馬国 1000余里
対馬国 → 一大國 1000余里
一大國 → 末廬国 1000余里
なんだから、渡るのにそれなりの時間がかかる立派な海峡なんでしょ。
人種の著しい違いを強調してるんだから、宗谷海峡のことじゃないの?
『東』を陳寿90度回転させると『北』なので、普通に考えればそうだよね。
あるいは可能性は低いと思うけど、佐渡島か、壱岐か。
いずれにせよ関門海峡じゃないだろ。 >>390は、私『陳寿90度回転さん』が書いたレスです。
で、少しまあ興味深いのは、邪馬台国までひたすら『南』、『南』、『南』と書いて来た記事が、
さらに先の遠国になると『東』になっている。
つまり、日本列島が関東甲信越あたりを境に、反時計回りに屈曲していることが正しく認識されている。
これも『陳寿90度回転説』を裏付ける補強材料の一つだと思う。 海峡を渡る時の千余里と言うのは、厳密に約400kmという訳ではなく(韓国南岸から対馬、壱岐、松浦までの各海峡幅はそんなにない)、
『ガッツリ海峡渡ったった!どやっ!』
『命の危険を冒して渡海しましたぜ!』
『評価して評価して!』
その思いが一声千余里になっている。
そう言う意味では関門海峡ではないね。 >>257
>その時期以前に、大型建物は撤去されていた。
証拠は? 瀬戸内海も狭いね
尾道から向島 因島 生口島 左木島 ::あたりを見ると島の密集地だな >>263
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>九州と中国地方は関門海峡で隔てられてるから渡海なんだよ。
関門海峡は、幅600メートル
これが渡海千里なら、一里は60メートルだなww
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女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
下関に国があればの話でしょ
彼は中国地方と言っているだけで比定はしていないよ
あと、計算間違ってる 誰でもいいので
大型建物は撤去
☝
撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか >>400
倭国乱が起きたので九州倭国と交易することができなくなった。 邪馬台国=ヤマト王権として
卑弥呼が記紀から抹消されたのは朝貢外交だけだろうか 414の>>280
>漢鏡とは言ってないw 銅鏡(舶載鏡)が入手できてないんだよww <
そりゃ大和の事だな。
3世紀末以後のホケノで、初めて鏡片なんだからな。
筑紫なら、3世紀末頃の一貴山銚子塚頃までの一杯でていた。
>卑弥呼がもらった銅鏡100枚はガン無視かい?
史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン九州説<
卑弥呼の銅鏡百枚なら、明帝の指示の通りに、
筑紫や西日本の卑弥呼の部下や豪族や、親愛なる婢や、東征将軍らにに下賜したり、
余った21枚の「尚方作」鏡は、後継の壹與が相続した。
史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン大和説。 414の>>287
>スレの趣旨から逸脱してるのは九州説論者全員だけど <
「南→東」などのように、史料事実を否定曲解するインチキをやっているのは、
スレ主を始めとして、類スレ主や大和説者や大和説学者らや、
学会教育界や、右翼マスコミや、右翼PC会社や、安部文部省らの、ほぼ全員だけどな。 「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。
畿内説では説明できません。単純な話です。 414の>>298
大和説者や大和説学者らは、
「南→東」などのような嘘吐き騙しをせずに、
史料事実や史料実態から「正しく引用する」、
という学問の基本から学んで。人生やり直すのがいいと思うよ。 >>400
撤去じゃ無くて木が腐っちまたんじゃねーか 畿内説は倭人伝の大部分を否定しないと成立しないの? 414の>>300
大和説者は、
邪馬台国畿内説のスレでクダ巻いてないで、
精神的な病気に関するスレで、
思う存分好きなことを書いてくればいいじゃないか?ww
古代史のスレでは、「南≠東」などの嘘吐き騙しに関して、
意味のある反論一つできない「邪馬台国畿内説スレ」位しか、
残っていないんだからさw 414の>>303
>とにかく、3世紀の舶載鏡が1枚もない時点で平原1号墓は卑弥呼の墓の候補からは脱落だよ
同じことは、祇園山古墳でも言えるけどねw 伝祇園山古墳出土鏡が、三角縁神獣鏡なんだからw<
大和では 3世紀末以後のホケノで、初めて鏡片なんだからな。
筑紫なら、3世紀末頃の一貴山銚子塚頃までの一杯でていた。
卑弥呼の銅鏡百枚は、明帝の指示の通りに、
筑紫や西日本の卑弥呼の部下や豪族や、親愛なる婢や、東征将軍らに下賜したり、
鏡片にして下賜したり、
余った21枚の「尚方作」鏡は、後継の壹與が相続した。
更に、3世紀末〜4世紀の一貴山銚子塚の黄金鏡のようにお宝にされたが、
317年頃の八女〜久留米への遷宮で東海姫氏國になってから、
鏡は三種の神器の一つになり、
大量の下賜はなくなった。
史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン大和説。 414の>>311
>平原の勾玉はガラス製
自慢のガラス製耳璫のほうが大切な神器だったんじゃないかな
錆色塗装鏡含む鏡類は全部棺の外だから<
みんなお宝。鏡は、棺に入りきれなかった。 414の>>315
どんなに史料事実を突きつけられても
それを否定曲解する嘘吐き騙しのする、
作り話をやめないの大和説 >>410
畿内説が倭人伝重視の九州説とかみ合わないのは当然だなww 414の>>317
それに対して、大和説者は、
きちんと史料事実からの帰納的確率的な推論を、
した証拠が一切なくて藁
ww >>405
>畿内説では説明できません。単純な話です。
また、九州説でも説明できません。単純な話です。 @阿波 >>414
>畿内説が倭人伝重視の九州説とかみ合わないのは当然だなww
北部九州説も「其山有丹」・「橘」・「楠」などで、倭人伝とかみ合いません。 @阿波 414の>>317
それに対して、大和説者は、
きちんと史料事実からの帰納的確率的な推論を、
した証拠が一切なくて藁
ww 414の>>318
>>以上、確かに(その地図では)臨海郡は、会稽の南にあった。
しかし257年に会稽郡から分郡された臨海郡は、はっきり会稽郡の東部地域だ、
書いており、
孫権の本拠の南京の揚州丹陽郡に属し、揚州は現在の江蘇州付近の事であるから、
陳寿の会稽東治は、江蘇省を中心とする地域である、という事には変わりがない。⇔
>さwすwがwに、これはヒドいな この理屈だと
”日本の首都が東京なので鹿児島は関東を中心にする地域である” になるよ
あまりにも頭部の狂いすぎた論理 <
要は、お前の提示した地図が、いつの時代の地図であったのか?、という事が問題。 >>411-415
こういう嘘のつけるzarakokuって、すごいね >>386
>根拠は?
崇神、垂仁、景行が纒向(周辺)に宮を置いたことが記されており、彼らが纒向のヒコ王
そして、纒向が卑弥呼の時代なのは確定
記紀の系譜で、神武は崇神の9代前
宝賀寿男氏の古代系譜研究に依れば、との豪族系譜の対比から神武は崇神の5世代前
九州説と違って、根拠なしで言い散らしてるわけじゃないんだよw 414の>>328
つまり、会稽東治之東で、どうしようもならなくなった破綻説だな、
大和説は。 414の>>331
>やっぱ方向オンチの集団だ
じゃ不彌国から水行する時も一旦ちょっと南に向かってから東に進んだから
魏志倭人伝には東が南と書かれてるんだ <
不彌國から、北へ玄界灘へ一旦出て、東回りか西回りで、海岸沿いに水行二十日した。 神武ら天孫族が筑紫の伊都を去ってから筑紫倭国の女王になったのが卑弥呼だから、神武の年代と卑弥呼の年代が重なっていて当然。
纒向の遺跡の年代がいつであっても、それは邪馬台国と関係ない倭種、ヤマト王権の萌芽を見ているにすぎない。 >>396
>証拠は?
辻地区の大型建物跡は周辺の祭祀土坑とセットの施設と考えるのが妥当
柱の抜き取り跡があるのは事実
祭祀土坑の供献土器、桃核の推定年代が230年程度まで
卑弥呼の遣使の頃には、宮は別の場所に営まれていたと考えるのが通説
ただ、2世紀末に共立され248年頃に死去という卑弥呼60年在位説を採るなら
230年以前も大和の盟主は卑弥呼なのだから辻地区の建物も卑弥呼の宮の蓋然性が高い 「其山有丹(その山には丹〈ベンガラ〉があった)」というのは、阿蘇山のことであろう
カルデラ内の遺跡からは大量のベンガラが出土している。 >>400
>撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか
建物が傷んだor手狭になって、新しい宮を建てたから、でいいんじゃないの? >>402
>卑弥呼が記紀から抹消されたのは朝貢外交だけだろうか
単に古すぎて十分な記録・記憶がなかっただけだと思うよ
欠史八代くらいの年代だから
卑弥呼の名前で書いてないだけとも考えられるし >>406
>女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。
魏略では、対馬や壱岐のこと
倭国ら辺にある島は、渡海千里で離れている島も含めて「皆」倭種だって言ってるだけ
旧唐書の別種表記に引きづられて、別の国だと思っているのがバカすぎる >>407
>撤去じゃ無くて木が腐っちまたんじゃねーか
柱穴の縁が擦れてて抜いたのは確実
ちょっとうろ覚えだけど、抜いた柱穴に供献土器が入れられてたのも確認されてたと思う >>427
>建物が傷んだor手狭になって、新しい宮を建てたから、でいいんじゃないの?
纒向地区の古墳造営が終了したからだよ。 纏向遺跡は「忌部はん」 の古墳造営前線基地 だと、何度言えばw @阿波 >>408
>畿内説は倭人伝の大部分を否定しないと成立しないの?
畿内説は「陳寿が倭国を会稽の東まで続く南北に長い島だと誤認していた」とするだけで
そのまま読めるよ
まあ、個人的には末盧国から東南500里は、伊都国行きじゃない旅程が
紛れ込んでると判断しているけど >>400
>撤去する理由が良くわからないので教えてくれないか
あの建物はね三輪神社の初期の祭殿
柱は三輪明神大神神社に移転されたのだよ
纒向は神社
境内で市も催されてるし、祭事も行われている
境内だから集落跡がなくてもOK
邪馬台国の王都では無い >>412
>みんなお宝。鏡は、棺に入りきれなかった。
大事なの一枚くらいは入れればいいじゃないか?
王権の象徴とまで主張しているのと、整合性がないぞww >>423
>不彌國から、北へ玄界灘へ一旦出て、東回りか西回りで、海岸沿いに水行二十日した。
ザラコク理論では、出発方向が北なんだから北至邪馬壹國って書かれなきゃいけないだろ?ww >>390
これは公孫氏時代の帯方郡からの郡使が倭の奥地を見分した記録に基づくものだ
女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。
又、侏儒国有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。
女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 414の>>338
>つまり九州説は無理なんだね
東南じゃなくて南に偏りすぎてるから <
釜山の南は平戸と五島列島の間位で、郡の東南は、関門海峡付近だから、
筑紫は、郡の東南〜東南東の間だ。 女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
熊本城で謁見して倭人の地の絶えている(沖縄の)場所を問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、で着くと答えがあった、、、 441の>>343
またの大和説が、
幾ら証拠を言って上げても知らん振りして、聞いていないふりをして、」
「南→東」などの嘘つき騙しには、何の証拠も出さずに、
罵倒と中傷を繰り返してるな。 >>440
>女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
熊本城の東に海はない。 畿内説と同じ。 @阿波 414の>>344
まー大和説者は、
「南→東」などを取り違えるの、とか言って「後漢書が証拠だ」などのと言っているけど、
後漢書も、南と東を取り違えていないから、
この意見は客観的事実から×だわな... 414の>>352
>だが、実際の三角縁神獣鏡の出土分布は、畿内中心で<
列島での最も古い△群は、筑紫ばかりで、呉系楽浪鏡師らの出稼ぎで西日本にも分布したが、
大和の△は、4世紀以後で呉系楽浪鏡師らが鏡作り神社で、
大和の子弟の教えて粗悪な副葬用の大量の△を造った。
>北部九州では1枚の神獣鏡をありがたがってる状態なんだが? <
列島での△は、筑紫が最も早く、3世紀前半であり、
大和は4世紀なんだが。
>配布を受けていたのがどちらか、というのは同笵鏡の分布からも
めっちゃはっきりしているんだが?ww<
配布したのは、製作者の呉系楽浪鏡師ら。 >>440
女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。
又、侏儒国(四国)有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。
女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東
部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。 414の>>353
>実際、末蘆国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?<
間違っていないよ。 414の>>354
>>東→南の錯誤は、絶対に起こり得なかった。<
>間違いはどこにでも忍び込むんだよ 絶対にナイナイーとか、そういう非現実なこと
ムキになって言い張るから 九州説は信用されなくなったんだよ<
?。そりゃ、「絶対」ではないなあ。
「殆ど絶対」間違えない、だ。
間違う可能性があるのは、思想や宗教に狂った・・・・詐欺師や、大和説者位だ。 414の>>356
>>「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
だから、 倭人らは、太平洋を渡っているね。<
>なんで倭人が里数をかぞえられるの? <
侏儒國までの情報は、魏使らの部下らが行ったんだろう、と思うよ。 >>448
魏使の部下らじゃなくて公孫氏時代の帯方郡から来た郡使が倭の奥地を見分したんだよ。 女王国の東(の宮崎)から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
熊本城で謁見して倭人の地の絶えている(沖縄の)場所を問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、で着くと答えがあった、、、 裸国と黒歯国は、太平洋の島の可能性が高まってきたな。。。 414の>>365
「東至安南如至成都,通水陸行」は、陽苴棟驍ゥら安南へ向かう通行路の説明 。
成都へ至る道と同じような東向きのコースを通って通水陸行をして至れる、
という説明文。 414の>>367
>「東だけ」説なんて唱えてないよww
方角は、道なりでいいんだろ?って言ってるだけ<
「陸行五百里」だけだから、方向は、始めから書かれていない。
案内人や道なりや道標に拠って進むだけ。
>それだけで「東≠南だから×」は言えなくなるww<
途中の方向は、始めから書かれていない、と言っている。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています