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邪馬台国畿内説 Part415
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/08(火) 21:21:35.45
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 06:59:13.08
414の>>303
>とにかく、3世紀の舶載鏡が1枚もない時点で平原1号墓は卑弥呼の墓の候補からは脱落だよ
同じことは、祇園山古墳でも言えるけどねw 伝祇園山古墳出土鏡が、三角縁神獣鏡なんだからw<

大和では 3世紀末以後のホケノで、初めて鏡片なんだからな。
筑紫なら、3世紀末頃の一貴山銚子塚頃までの一杯でていた。
卑弥呼の銅鏡百枚は、明帝の指示の通りに、
筑紫や西日本の卑弥呼の部下や豪族や、親愛なる婢や、東征将軍らに下賜したり、
鏡片にして下賜したり、
余った21枚の「尚方作」鏡は、後継の壹與が相続した。
更に、3世紀末〜4世紀の一貴山銚子塚の黄金鏡のようにお宝にされたが、
317年頃の八女〜久留米への遷宮で東海姫氏國になってから、
鏡は三種の神器の一つになり、
大量の下賜はなくなった。

史書の記述をご都合によって無視しないと何一つ書けないのがオワコン大和説。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 07:06:27.33
414の>>311
>平原の勾玉はガラス製
自慢のガラス製耳璫のほうが大切な神器だったんじゃないかな
錆色塗装鏡含む鏡類は全部棺の外だから<

みんなお宝。鏡は、棺に入りきれなかった。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 07:10:12.08
414の>>315
どんなに史料事実を突きつけられても
それを否定曲解する嘘吐き騙しのする、
作り話をやめないの大和説
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 07:11:36.05
>>410
畿内説が倭人伝重視の九州説とかみ合わないのは当然だなww
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 07:12:32.66
414の>>317
それに対して、大和説者は、
きちんと史料事実からの帰納的確率的な推論を、
した証拠が一切なくて藁

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