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>会稽郡の位置は、ウィキペディアさんによると 陳寿が三国志を撰述した西晋時代には
「晋代になると会稽郡の管轄県は山陰、上虞、余姚、句章、鄞、鄮、始寧、剡、永興(266年に余曁県より改称)、
 諸曁の10県となり、現在の紹興市、寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯となった。」
ということなので、『現在の紹興市、寧波市の大部分および杭州市蕭山区一帯』を図示したよ
これが一番正しいだろう・・・どうやってもこの「会稽の東」は九州にはかからない<

またインチキしてるな。
陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」だと書いたのであり、
「会稽の東」だなんて書いていないし、
勿論「会稽郡の東治」だとも書いていない。
陳寿の意図は、会稽とは「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、
そのような広大な会稽の中の「東」地域の「治域」を指定しよう、とした。