邪馬台国畿内説 Part415
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>576
江戸時代に箸墓が円墳だって。
バカじゃないの。
前方部墳頂付近に二重口縁壷の破片がたくさん散らばっている。
その二重口縁壷は3世紀後半〜4世紀に造られて、それ以降には造られなくなったもの。
現在、その壷の破片が前方部でみられるのだから、少なくとも4世紀までには前方部が現在と同じようにあったということになる。
江戸時代にその前方部がないとしたら、それは、なんかの悪い夢みたということだろう。
テンプレ主のこじつけ箸墓円墳先造説の正体が、その悪い夢なんだよ。
どお、まだ頭沸いてる? 414の>>812
>>「余」が付いているから、 魏使らの計測値を陳寿が大体の近似化した数値であり<
>あんたのなんの根拠もない個人的解釈を何度聞かされても意味がない
「余」にそんな意味がないなら、あんたの説は意味がない
「余」にそんな意味があるなら実測だとウソをつきたい奴は「余」をつける
つまり、あんたの説は意味がない つまり「余」が付いているかどうかで
実測か実測でないかを判断できない <
それでは、
「余」が付いていない里記載と、「余」が付いている里記載の両方がある事や、
格部分行程里数記載が、いずれも有効数字1桁程度の記録に統一されている、
という事の説明がつかないから、×。
また、魏略の「里記載」の「余」の有無と比べてみると、
魏志と同じような「里記載」であるから、
「余」での記録をしたのは、魏使らの記録からすでに「余」記載であり、
有効数字1桁近似数値であった、という可能性が高い。 414の>>822
>こねくりまわしていて、わけが分からんな。
200年頃築造の石塚が260年〜270年頃の箸墓より新しいわけがない。<
石塚は、撥型前方後円墳であるから、卑弥呼の冢や中八万よりも後の3世紀末。
箸墓は、布留であるから、4世紀以後。 >>5
>箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
それはその通り。
ならば行燈山が崇神墓の蓋然性が高いので、箸墓被葬者の卑弥呼と崇神の関係を説明してもらおうか。
崇神の前代、前々代あたりにヒミコがいるということになるからね。 >>31
>また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
嘘
を
つ
く
な 414の>>834
>と言うわけで邪馬台国と大和朝廷の関係をどう考えてるかどうか聞きたい
俺は系譜的な部分は不確かだが邪馬台国はそのまま大和朝廷に繋がる勢力だと理解してる<
唐会要倭国伝に拠って、倭国は「正北抵新羅」に拠って北部九州にあり、
新唐書などに拠って大和日本国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の、
地方の市を監督する大倭職の国であり、
更に、大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五国」の中の一国であった。 441の>>842
>>歴韓國乍南乍東は、韓内陸行ね。<
>じゃあ「南至投馬国水行二十日」の出発点はどこ?
自己矛盾してるよね九州説<
不彌國。 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
というのなら >>1よ、答えてもらおうか。
おまえは箸中山=卑弥呼なのだから行灯山がトヨあたりかな。渋谷向山は誰なのかな。
俺の説を言おうか。
箸中山=イカガノシコオ 行灯山=崇神 渋谷向山=景行だ。
イカガノシコオは磯城の王だ。
姉のイカガノシコメとヒメヒコ制を形成してる事でも分る。
何よりも物部は瀬戸内勢力だ。
瀬戸内要素が強い箸墓の説明ができる。
そして山代の五塚原、交野の雷塚という箸墓と強い関りがある墳墓の説明ができる。
山代の五塚原はイカガノシコオの妻・真木姫の父で山代国造の祖・長溝であろう。
交野の雷塚はイカガノシコオと真木姫の子で交野連・タベノ宿禰であろう。
箸墓が卑弥呼の墓ってwwwwww
片腹痛いわwww 前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、
大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、
誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情。
魏志倭人伝に書かれた奴婢が殉葬されている卑弥呼の墓は高天原だ。
殉葬された奴婢とは土蜘蛛だ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png >>841
>江戸時代にその前方部がないとしたら、それは、なんかの悪い夢みたということだろう。
あなた・・・
畿内説のテンプレが
そんなこと主張してると思い込むなんて
ホント乳幼児並みの知能も無いんじゃないの? >>838
>魏使らが報告書を書き、魏の天子らが報告を受け、
>陳寿や、魏略や後漢書が、魏使ら記録に拠った里記載を書いた。
つまり
使者が短里で報告したのに
都人が長里で理解したので
会稽より南だと誤解したという説は
ありえない空想だ
ということで
決着ね >>883
>末盧国に上陸するところまでの距離が末蘆国への距離で、
そこから伊都国国境までが伊都国への距離っていう主張だったよな?<
少し違う。末盧國上陸は、おそらく唐津港。
末盧國出発は、西唐津駅〜唐津駅付近。
>つまり、末盧国の国内移動距離が末盧国から伊都国への距離だっていう不合理を
言い張ってたじゃないかww<
言っていないな。
>そして、同じ旅程で「不彌國→邪馬壹國は、殆ど移動距離無しで到着する」とするなら
不彌国は大きさ0だww<
いや、不彌國到着は姪浜の東端の「小戸」付近で
不彌國の出発は、不彌國の外縁部の福岡平野の中央部の付近。
>不彌国に到着したところが邪馬壹國ということになるww
不彌国もバカにされたもんだなww<
いや、不彌國の外縁部の福岡平野中央部に邪馬壹國の入り口がある事になる。 >>839
つまり
実測かそうでないかで使いわけてるのだ
という説は
非現実的な空想だということで
はい、決着 >>885
>それに、伊都国まで船で行くし<
ウソを書くな。「陸行五百里」だ。 >>853
>いや、不彌國の外縁部の福岡平野中央部に邪馬壹國の入り口がある事になる。
行程に書いてある里数が中心地までじゃなくて
外縁部までの距離だというなら
部分行程距離の総和は総行程距離と一致しないことになる
古田説が全部崩れるな >>851
テンプレ主は、FAQで江戸時代の箸中長者屋敷の観光パンフを得意そうにヒラヒラさせていたし。
大和説者は、観光パンフはいつの時代でもトリミングするものなのを知らなかったのかね?
オカルト情報にすぐ飛びつくの、大和説者のいつもの癖だよね。
箸墓円墳先造説は、そんなオカルト好きの連中のお祭り騒ぎだろうな。 >>843
撥形前方部は、弥生終末期の尾張で既に見られる形なんだがな〜。
その尾張の撥形前方部が大和の石塚古墳に採用されたということが、リアルな歴史なの。
撥形前方部が3世紀末なんて、世迷言の部類だよ。 >>891
>なんの根拠もない空想だね
帯方郡の港にいる中国人は入港して来た倭船から持衰が降りてくるのを見ることだって出来る
精進潔斎明けの持衰と一杯やった奴だっていないと断定できるのか?
倭船に乗ったことのある韓人から情報を集めることだって出来る
日本に住んだことのある楽浪人からだって事情聴取できる
自分の空想した可能性だけが唯一絶対だという思い込みが強いのが九州説の特徴だね <
何の根拠もない妄想だな。
史料事実は、
「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。
若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」
であり、
その実態からの直接的な推論でなければ、分裂幻覚の妄想だな。 >>839
>魏使らの計測記録は、一大國は丁度ほぼ三百里位であり、
>對海國は、「四百里」より少し多い、という事であったんでしょう。
つまり「まったく測っていない」ということだな
現実の対馬と壱岐に、そのような長さで測られるべき部分などないww >>802
>信頼区間の意味がわかってないアホ
分かってないのはそっちだろ?
機械的に計算値としては出てくるけれど、n=2の数値に対する平均値の信頼区間って
事実上無意味だぞww >>859
>その実態からの直接的な推論でなければ、分裂幻覚の妄想だな。
つまり
魏使が倭船に同乗して持衰を実見した
なんてのは
分裂幻覚の妄想
だということで
よろしいな? >>857
それ、なんか証拠あるの?
病的分裂妄想幻想とか
そういうやつ? >>905
会稽の東に無いのは、
「会稽東治」の「東治」をこっそり隠すインチキをしたからだ。!キリッ
これが名物大和説のサル踊りですよ。 >>864
そんな説だって証拠あるの?
九州は妄想だけで出来てるの? >>907
>実際、末蘆国から伊都国だって方角が間違ってるだろ?<
「末蘆国から伊都国の方角」なんて、見えないんだから、書かれてもいないし、
「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向だ。
>伊都国→奴国も東南じゃない<
「類スレ主」の奴國の比定(弥生銀座付近)が、
結論先にありきの循環論法で、間違っているのだ。
「東南至奴國百里」は、史料実態通りに解すれば、
奴國は、日向峠西麓〜早良平野付近だ。 >>909
>実際、渡海のところの方角は大体合ってて、
九州についてから倭国内の方角が狂いまくりなんだが?<
実際、郡から女王國の全移動での方向は、全て「間違ってはいない」んだが。 >>851
>畿内説のテンプレが
>そんなこと主張してると思い込むなんて
読みにくいテンプレを書く方が悪い。 >>912
>日本に行くのなんて晴れてりゃ半島から見えるんだからな
正確な方向感覚なんていらんからな<
だから、魏志の狗邪韓國→對海國の渡海には、方向記載はされていないんだからな。
>ド最初の認識からして会稽の東に無いのに辿り着けるくらいのテキトーさだと理解しろサル<
「会稽の東」ではなく、「会稽東治之東」だ。
史料事実を、自由自在にテキトーに書き換えるインチキは、止めろ!。 >>919
大和説バカは、今度は、「大和はこの時列島で初めて大陸と行き来した」とか、
言い出すのか?。
たまげたなぁ >>921
[会稽の東]ではなく、「計其道里、當在會稽東治之東」なんだからなな。
いい加減嘘つき騙しを止めるんだな。 >>927
>会稽の東に無い<
「会稽の東」ではない。「会稽東治の東」。
>その他の上陸後の九州の記述も方向間違いだらけ つまり方向なんて分かってない<
その他の方向記載も全て間違っていない。
つまり、魏使らも陳寿も、方向を全く間違っていない。 >>931
>見えてて知ってる場所に行ってる<
目的地は見えている場合と、見えていない場合とがある。
>その後は現地の人間に案内されてる
別に測量も方向の確認なんてする必要はない<
見えていない場合には、都や後続の使節らのために、
出発方向を計測記録する必要がある。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 倭人が案内してくれるので記録の必要は無いな
そもそも異民族との外交使節団は多数あるのに行程を記録したものが発掘されてない >>869
テンプレが読みにくいんじゃなくて
お前に人並みの学力が無いだけだな
読み書きくらい習得しろよ わからん
それちがう
あれちがう
モテない男の典型のような天麩羅 >>872
つまり会稽より南なんだよ
会稽東治が会稽郡の外で会稽郡より北だとか
馬鹿すぎるだろう?
嘘つき爺さんも騙し願望は捨てるんだな
稚拙すぎて誰も騙せてないから 弥生時代にどうやったら東シナ海を越えて真東かどうかわかるんだ?
東北や東南だろうが、東シナ海のはるか向こうなら東で合っている。 >>882
地図もないのに真東なんてわかるわけないだろ。 東シナ海の東北か東南かわからない
倭地がどこにあるのかまったくわかっていないということは
実際の地理観はないということ >>884
会稽東治から東シナ海を越えての精密な地理観はないわな。
東北も東南も東の範疇に入る。
だが、帯方郡からの里程や日程は直接経路だから、真実。
いい加減に醜いごまかしやめたらキナイコシw 方位と距離が正確で、行程で比定できるといいながら
倭地がどこにあるのかは中国人にはわからないと言張る
都合がいい背乗り人種九州説 方位と距離が正確で、行程で比定できる
倭地がどこにあるのかは中国人には正確にわかる<東夷伝里でね
会稽東治についてはまったく別の話であり、
弥生時代に東シナ海を越えての話だから、
東北だろうが東南だろうが東でいい
見苦しいぞ キナイコシ 倭国にも牛はいたそうだから
魏志倭人伝は正確では無いという事でよろしいな キナイコシ
会稽東治詐欺がバレて
液晶画面にグーパン自滅 乙www キナイコシはザラコク爺さんに感謝しろよな。
いくら老人で話し相手がいるだけで嬉しいからと言っても、
どうでもいい会稽東治の話に乗って、
親身になって検討してくれている。
今すぐA4紙に『ザ ラ コ ク 大 明 神 さ ま』と大書して、
部屋の一番高いところに祀るように。
え?
日本じゃないからA4紙がわからない?
トホホホホ >>890
>会稽東治についてはまったく別の話であり
それ、晋の役人が会稽までの距離がわからないと言張ってるのと同じ >>894
は??
晋の役人だろうが魏の役人だろうが会稽までの距離はわかる。
だが、それを倭国までの距離と比較するのが、
弥生時代には無理、という常識レベルの話だ。
なぜなら東シナ海を越えての観測が無理だから。
なぜなら東夷伝里での里程記載は、弥生時代にしては驚くほど正確だが、
それなりの誤差があるから。 >>895
>なぜなら東シナ海を越えての観測が無理だから。
郡から邪馬台国までの方位、距離が正確なら
物差しとなる中国大陸東岸側のどの位置の東かはわかる 会稽のあたりから渡来したのが倭人だから。
稲作も養蚕絹織も支石墓も会稽のあたりから渡来しただろ。 >>895
じゃあ
陳寿はどおして、倭国に行く道里を計算するとちょうど会稽東治の東にあるはずだと書き残したんだ?
行程記事は本人そういうつもりで書いていたということだろう?
つまり陳寿は短里など使っていないし、書いた行程記事は現実と合わない
方角も間違ってのだよ 陳寿は短里を知らなかった。
しかし彼が使った資料は短里で書かれていた。
だから実際よりも倭が南方にあると思ってしまった。 >>861
その前に、n=3の試料に対してt-検定で平均値の信頼区間を出してるが、
t-検定が使える前提を満たしてない
母集団の分布がどんなものであっても、n≧30なら正規分布で平均値の信頼区間が
計算できるが、試料数がそれより小さいときには一般には平均値の信頼区間は出せない
その場合はチェビシェフの不等式で、信頼区間の上限を見積もることになるがその場合は
95%信頼区間はm±4.48σになる
陸路 平均117メートル 分散5833メートル
の数値を使えば、95%信頼区間は
117±4.48×√5833=117±342メートルだ
117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間
というところまでしか言えない
n=3の試料で統計学的に言えることなんてない >>903
陳寿が短里を知らなかったら、フィリピンくらいになるんだろw つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 >>866
>「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向だ。
これを認めるなら、魏志倭人伝に書かれている方角はすべて意味を持たなくなる
書かれているのは出発方向であって、実際の方角を意味していないってことだからな
ザラコクが「東≠南に拠って×」と書き続けているのは茶番もいいとこww >書かれているのは出発方向であって、実際の方角を意味していないってことだからな
畿内説は「東≠南に拠って×」 朝鮮半島南部すら倭地と認識することができる知識を、獲得できる文献とは、どのような文献なのだろうか。。。
290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 繰り返しになるけど、短里でも長里でも、結果は変わらないんだよ。
各々の国の細かい比定はどうだろうが(奴国が博多湾であることは鉄板だと思うけど)、
魏使たちは北九州の海岸を松浦から北東に向けて、魏皇帝の使いであることを示すデコレーションで威儀を正し、
大量の下賜品を積載した当時としては巨大な中国船の船団と一緒に進んでいたことは変わらない。
そして行く先々のクニで何日もブッ続けでしつこく接待責めに合い、
とてもではないが陸行何日と言う風には書けないので、里を使って行程を表記した。
ここまでは、短里だろうと長里だろうと変わらない。
どっちにしろ博多湾(奴国)のちょっと先まで行ったことは変わらないんだから。
そしてここから先は、水行何日、陸行何日と言う風に距離の表記が変わる。
博多湾(奴国)の先にある不弥国を過ぎてからは、巨大な領域を持つ国、『投馬国』の領域だ。
夜になれば停泊するんだろうが、毎晩毎晩の接待はない。
山陰の海岸線を見ると山が海まで迫っていて、出雲平野以外には、
魏使様を接待出来るような大きな村は作れなかったことが明らかに分かる。
だから水行30日(出雲まで20日、その先で陸行に以降するまで10日)という記述になった。
そしてそこから陸行1月で行く盆地の国。そこがどこかは、もう明らかだよね。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻したので、韓国人がデコレーションケーキを作るのでは、ないのかな、、、 当時の中国人も、大月氏国(クシャーナ王国)が西域から南の海に続く国であることはボンヤリと聞いていただろう。
そうすると、天円地方の世界観から言って、中華の土地が世界の中央部の主要部を占め、
大月氏国はその西にあって、匈奴がいるような結構な北の方から、世界の南端の海まで続いているという、
南北に細長い国であると想像したのではないかね?
そうすると、東の海に浮かぶ倭国も、南北に細長い国であると。そうあらねばならぬと。
そうでなければ当時の知識人たちに受け入れられないであろうと。
そのように考えた陳寿が、魏使たちが残した記録を見ながら筆を舐め、エイヤ!で日本列島を90度回転させた。
これが、いろんな物事を最もシンプルに説明できる『オッカムの剃刀』だと思うよ。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 キナイコシ
悪事が通用しなくなって
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>932
>淮南子が1万2千里後漢書も1万2千里 魏志倭人伝は1万2千余里
という事は 魏志倭人伝の1万2千余里は後世史家の自己解釈による書き換えだな
今の魏志倭人伝は12世紀だし後世史家は
何でも絶対に自己解釈による書き換えを行う存在らしいから<
ダメだ。魏略が「自帯方至女國萬二千餘里」という、
魏志と同じ「萬二千餘里」という記録を残しており、をという事は、
「萬二千餘里」という文言が、魏使らの記録に書かれていた、という事だ。
つまり、陳寿は、淮南子を書き換えしたのではない、という事であり、
後漢書が、魏使らの記録や魏志や魏略の記録を書き換えた、という事だ。 >>934
>じゃあ南1万2千余里も倭国の極南界を指す概念的な数字に
ちょっとつけ足しされたものだな <
「南1万2千余里」なんて文言は、どの書にもないよ。 >>936
>伝説時代や交渉の薄い頃の記載からずっと後まで方向も距離も記載が変化してない <
変化したのもあれば、結果として残ったものもあった。 >>916
>魏略が「自帯方至女國萬二千餘里」
ザラコクや
女王國が女国になるのは気にしないのに、
萬二千里が萬二千餘里になるのは認めないって
どんなダブスタだ?ww ザラコクを見てると、宗教って怖いなと思う
宗教は人をこんなに狂わせるんだな、と
まあ、最初からザラコクはまともな人じゃなかったのだろうけれど >>963
>谷本計算の不備を突かれたのがよほど悔しかったようだなあ<
谷本計算では、1尺が10寸であるのか?。8寸であるのか?には、
全く関係がな計算されており、何も間違いがない。
>けど残念だけど谷本計算には間違いがある <
けど、「類スレ主」の1尺=8寸だった、という説は、
前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定され、
「類スレ主」の方が間違っていた、という事になった。 >>921
>けど、「類スレ主」の1尺=8寸だった、という説は、
>前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定され、
短里もねー
前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定されてるよ
六尺が一歩だから >>965
>蓬莱島だの何だの言ってる頃とその後に実際に交流を持ってる頃となんも変わらん距離感と方向感
実際に間違いだらけ <
魏志だけではなく、魏略にも「萬二千余里」の「余」が付いていた事が分かって、
「類スレ主」の「魏使や陳寿は淮南子記載を流用した」説が破綻してしまって、
大和説が、また破綻してしまった。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>970
>まあそのコピペの周八尺160cm棒の影長が
北緯35度より北になるってのはちょっと怪しいかもな
あと160cm棒の影長が1寸差になるのが60kmは
66kmがより事実に近い
連続句読点よ60kmを66kmに直しておいてくれんか <
「類スレ主」も全くアホだったんだなあ。
千里が「60km」であっても、「66km」であっても、
そりゃ結局「千里≒434m」をやっぱり否定していて、
「短里だ」と言っていた事になってしまっているではないか。 >>109の訂正
本州方面の記録としては、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と飲み、書かれている。 >>110
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
議論で負けるから、
荒らしに終始する事にしたようだ。 >>114
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
万世一系皇国史観の儒教精神に染まった、
人種差別的殺戮戦争狂のキョクウ系統の・・・・人間がやってるんだろうけど、
およそ学問に不向きというのがよくわかる。
不向きどころか根底には理論性や秩序への破壊衝動がある。 >>926
「逃亡」が「目に見えてはげしさを増してきた」
って、どういうセンスで日本語使ってるんだろう >>930
なにしろ鉄器さえ溶かす水だからな。
小学生の頃から奈良湖で泳いでいたら、
20代後半から「目に見えて禿しさを増してきた」
それ以上は突っこんでやるな。 古代ロ−マですでに政府は塩に関わりをもち、
すべての道はロ−マに通じるといわれた道のうちで最も賑やかな道は
「Via Salaria」(塩の道)であったといわれ、現在のサラリ−の語源になったといわれる
中国では紀元前7世紀に塩の専売制を確立したとされる
日本の製塩土器は縄文時代の茨城県霞ケ浦南岸がもっとも古く
弥生時代になると西日本では岡山県児島で始まる
http://www.geocities.jp/t_hashimotoodawara/salt6/salt6-15-06.html
人類の活動に必要不可欠な塩であるが、
筑紫は製塩遺跡、塩の道が少ない
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12060034569.html 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547231195/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 より
最初に、「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの 里単位が使われたのかという問題です。 旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里 は70〜90mになります。
ここで半沢氏は、中国の使節が旅程を記録するため、何ら かの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」(しゅうひさん けい)や「九章算術」(きゅうしょうさんじゅつ)という当時の数理科学書の知識があ ることを想定しました。
「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その 中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
夏至の日、基準地点に8尺の観 測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の 長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
在野の研究者・谷本茂氏が、地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行 にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を 求めると、西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。
また、南北千里は、76〜7 7kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。これは、倭人伝 の1里と想定される長さによく対応しています。 情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 より
最初に、「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの 里単位が使われたのかという問題です。 旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里 は70〜90mになります。
ここで半沢氏は、中国の使節が旅程を記録するため、何ら かの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」(しゅうひさん けい)や「九章算術」(きゅうしょうさんじゅつ)という当時の数理科学書の知識があ ることを想定しました。
「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その 中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
夏至の日、基準地点に8尺の観 測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の 長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
在野の研究者・谷本茂氏が、地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行 にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を 求めると、西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。
また、南北千里は、76〜7 7kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。これは、倭人伝 の1里と想定される長さによく対応しています。 情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 より
最初に、「倭人伝」の1里の長さはいくらで、その根拠はどこにあるのか、なぜこの 里単位が使われたのかという問題です。 旅程記事の中で確かと考えられる地名をもとに、その間の距離から逆算すると、1里 は70〜90mになります。
ここで半沢氏は、中国の使節が旅程を記録するため、何ら かの計測をしながら邪馬台国に至ったと考え、その前提に、「周髀算経」(しゅうひさん けい)や「九章算術」(きゅうしょうさんじゅつ)という当時の数理科学書の知識があ ることを想定しました。
「周髀算経」は、紀元前1世紀くらいに編纂された現存最古の中国天文学書で、その 中に一寸千里説とも呼ぶべき考え方が示されています。
夏至の日、基準地点に8尺の観 測棒を垂直に立てると影の長さは1尺6寸になります。そこから真南に千里行くと影の 長さは1尺5寸、真北に千里行くと影の長さは1尺7寸になるというのです。
在野の研究者・谷本茂氏が、地球の半径が6357kmで、太陽光は地球にほぼ平行 にはいってくることを前提に、夏至の日に8尺の棒の影の長さが1尺6寸になる緯度を 求めると、西安あるいは洛陽の緯度にほぼ一致しました。
また、南北千里は、76〜7 7kmとなり、1里が76〜77mに相当することが計算されました。これは、倭人伝 の1里と想定される長さによく対応しています。 >>916
じゃ魏略の著者が自己解釈で書き換えたんだな
淮南子が1万2千里で後漢書も1万2千里だから レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。