邪馬台国畿内説 Part415
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生したヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 ほとんど老婆談が正解なんだよ、
『クンビーラ』
ワニ、馬の画像などが出てきたりするでしょ?
『何者にもなれない お前たち』?なぜだと思う?ぽけもそ? 卑弥呼と天照大御神は何か関係あるのだろうか?
伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河
何か関係あるのかな
また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が祓戸四神の「瀬織津姫」であると記述される。 413の>>832
>>方角の錯誤があるだけで、むしろ畿内説の傍証だぞ
全くその通り。<
畿内なんて存在せず、
大和説は、「南≠東」などに拠って、×。 伊都高祖宮の近くには先代の男王の祖である三雲南小路遺跡とその宗廟であり漢委奴国王印(金印、倭王の国璽)を管理していた細石神社がある。
そして倭国大乱より後の年代の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、そこを支配するのが伊都に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国である。
そして三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花咲耶姫の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、高千穂宮の実体だろう。 413の>>835
>それは、本州系王権が一大率を置いて、筑紫から外交権を奪った理由だよ<
「本州系王権」と言い換えて誤魔化しても、も、「南≠東」である事には変わらず、×。 歴史研究にはゴミだけど
長文書くの好きならラノベでも書いたら? 歴史研究にはゴミだけど
歴史捏造するの好きなら祖国でやってたら? 413の>>837
>「短里があった」というのが根拠がないし<
陳寿が、「計其道里、當在會稽東之東」と書いて、
魏使らが「短里で記録した」事を肯定している。 出雲国造神賀詞から抜粋
大穴持の命の申したまはく、
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
◎八咫の鏡はオオナムチの和魂
八咫の鏡が今あるのは伊勢神宮
能の三輪に通じるな
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。
斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか
この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い
なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?
歴史を書き換えたのは、どういう理由があったんだろう 413の>>840
>畿内説は考古学で邪馬台国の位置を考えてるんだよ
九州説とは違う <
畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙しであるし、
文献でも、考古でも、大和説は九州説に全部負けており、
大和説は、全部×。 古代史を考える上で牛鬼伝説も見逃せない。
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミとも言えるんじゃないかな。
百襲姫と大物主神の箸墓伝説。
石が海神の姫である磯女を娶る話かもしれないね。 413の>>841
>倭国と朝鮮が太い交易のパイプで結ばれ、倭国内も水運のネットワークが全国に張り巡らされていた当時、
仮に邪馬台国が九州のどこかだとして、魏使が本州についてぜんぜん言及しないと言うのは、あまりにも不自然だよ。
出雲の人々なんて、直接日本海を渡って辰韓(新羅)まで行っているので、
帯方郡の人々だって本州の存在を知らないはずがない<
「短李女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種「短李」と飲み、書かれている。 九州説は議論で負けるから荒らしに終始する事にしたようだ 『クンビーラ』出てきたでしょ?
『魔王モラクス』?
『ベルゼブブ』『』『』『』とか、どういう意味だと思う? 413の>>846
>文飾の値って言うのは「千里の名馬」とか「白髪三千丈」とかだよ
渡海千里は典型的<
渡海の千里にも、魏志には「余」が付いているから、
「文飾の値」ではなく、魏使らの記録からの陳寿の「余を使った簡略説明」・ 九州説は儒教精神に染まった朝鮮系統の人間がやってるんだろうけど
およそ学問に不向きというのがよくわかる
不向きどころか根底には理論性や秩序への破壊衝動がある 一番初めは一之宮
二は日光東照宮
三は讃岐の金比羅山
四は信濃の善光寺 413の>>850
>その魏志倭人伝典拠の後漢書で邪馬臺國と書いてあるから、
邪馬壹国が間違いと判断されてる <
魏志の記載は、魏使らの同時代の実見計測記録であるから、
客観性も信頼性も確率も高いが、
後漢書の記載は、遣使を派遣しての実地の見聞ではなく、前史の魏志などの記載の「自己解釈に拠る書き直し」になっているから、
信頼性が全くなく、魏使ぬ比べて、信頼性も確率も非常に低い。 413の>>860
>奴国を除くと北部九州に栄えている場所がない<
奴國は、「日向峠西麓〜早良平野部であり、
弥生銀座は邪馬壹國になるから、×。 413の>>861
捏造単位の長里に全面的に依存しているのが大和説。
魏志が短里で書かれている事は、
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてくれたので、
陳寿が証言してくれたことになった。 >>20
FAQ8
その伊勢の鳥羽から東へ千余里舟で行くと、千葉県房総半島よりさらに東の海に出てしまうんだがなあ。
太古からの交易路であるのと、その交易路を東へ千里行くのとは、また別の話だよな。
房総半島のさらに東の海に倭種の国があるとは思えんが。
それよりは、瀬戸内海を九州から東へ千里舟で行くほうがリアルじゃないか。
3世紀前半には、近畿、東海、北陸、瀬戸内から勢力が寄り集まって、連合政権作っていたようだし。
倭種の国とは、それらを指しているのじゃないかねえ。 >>869
>行程パズル迷走の果てが、臨海郡は江蘇省にあった〜という作り話とは
なんとも惨めな話じゃないか九州説<
Wikiでは、会稽郡東部をを分割して呉の揚州(ほぼ江蘇省)の支配になった、
と書いてあったし、
「類スレ主」も、最初はそのような話を書いていたが、
zaraに指摘されて、
直ぐに撤回して、後漢始め頃の話にすり替える、というインチキをした。 413の>>877
>韓地方四千里は、倭地までの距離の調整のために誇張されている<
倭人伝だけではなく、韓でも高句麗でも扶余でも遼東でも、
短里で書かれている。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 413の>>886
>それは、考古遺物、遺跡の状況と、<
考古でも文献で、大和は北部九州には敵わない。
>邪馬臺(g)ia[v]g-mar-t`(e)gの音から大和が妥当ということ<
「臺」には「ト」の音韻がない。 >>126
>「臺」には「ト」の音韻がない。
断定じいさん、証拠あふの? >>122
>Wikiでは、会稽郡東部をを分割して呉の揚州(ほぼ江蘇省)の支配になった、
と書いてあったし、
それがまたデッチ上げでしょ
なんの証拠もない
それが事実に反するって証拠は出てる
九州説は大ウソつきだ 413の>>895
>それなら、出発方向が10メートルくらい「南」でそれが示されていて、
途中は日本海沿い道なり水行で丹波まで行けるから<
行けない。
陸行としか書かれていないし、
五百里と書かれている。 >>107
>畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙しであるし、
>文献でも、考古でも、大和説は九州説に全部負けており、
>大和説は、全部×
なんでこの人たち、一切証拠を出さないの?
そういう生き方をして来た人々なの? 413の>>897
>伊都国や奴国は女王国より北にあると魏志倭人伝に書いてあるから<
書かれていない。
邪馬壹國の北は不彌國。
奴國や伊都国は、邪馬壹國女王之所都からは、西北方向。 前スレ>878
>唐会要倭国伝には(大和日本国と区別して)「正北抵新羅」と書いているから、
FAQ71より
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
大和日本国と区別して書いてある倭国は、藤原常嗣のいる大和倭国なんだよww
唐代を記した史書(旧唐書、唐会要、新唐書)に、倭国伝と日本国伝が別立てで置かれているのは
唐代に(正確には武則天の武周の長安四年)、倭国が日本国への改号を申し出たからだよ 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>133
「・・・漢委奴国王印により倭国王に冊封された。」
一見して無理だとわかるだろ
わからんか・・・
国名ちゃうやろ バカが精一杯背伸びして書いたんや
武士の情けってもんやろ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 紀州藩徳川家のケース
和歌山から江戸まで約625qを17泊18日で移動。 一日平均約35qのペース。
鳥取藩池田家のケース
鳥取から江戸まで約706qを21泊22日で移動。一日平均32qのペース
加賀藩前田家のケース
金沢から江戸まで約467qを12泊13日で移動。一日平均約36q >>133
>2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
>副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が
カチ割ったので滅亡
ww >>91
>纒向遺跡は、巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
だから、纏向遺跡は「忌部はん」 の古墳造営前線基地 だと、何度言えばw @阿波 >>93
>纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
だから、それらは「忌部はん」 が持ち込んだ「東阿波型土器」 だと、何度言えばw @阿波 関川さんが畿内説から干された理由
⇓
97日本@名無史さん2019/01/08(火) 22:12:08.18
関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 >>143
>古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
だから、「古墳の起源になるような墳丘墓」が在るのは倭国(阿波)だけ と、何度言えばw @阿波 >>143
>纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。
だから、「大和政権の確立期」は8世紀 だと、何度言えばw @阿波 413の>>905
>不彌国の次の南に水行の投馬国
水行二十日5万戸と道里と戸数が乗っているぞ
投馬国は少なくとも不彌国よりは南になるのでは <
途中移動が書かれていないから、魏使らは移動していない。
>そして女王国はそれらをひっくるめてさらに南 <
「さらに」にはならない。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國のすぐ南にある。
>まあ実際は東なんだが <
「南≠東」に拠って、×。 413の>>908
>投馬国を消したいの? 都合が悪いの?<
投馬國の位置などの説明は、行程の説明で終わっており、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の「女王國」は共立諸国であり、
投馬國が始めから含まれているの。
そして、だから、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史 」
の「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。
の「 413の>>908
>投馬国を消したいの? 都合が悪いの?<
投馬國の位置などの説明は、行程の説明で終わっており、
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の「女王國」は共立諸国であり、
投馬國が始めから含まれているの。
そして、だから、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史 」
の「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。
の「 >>149
>「自女王國以北」の女王國も、投馬國が含まれている事になる。
そうすると今度は邪馬台国の戸数が合わない
邪馬台国七万戸と投馬国五万戸は重ねられないぞ
そして投馬国はどこに置くんだ?ww >>151
>九州説は辻褄の合わないことばかりだな
畿内説も、辻褄の合わないことばかりだな 。 @阿波 >>150
魏志倭人伝の記述の構成
・倭國(倭王卑彌呼の支配下)
・・・投馬國(朝鮮半島南岸地域)
・・・・・狗邪韓國
・・倭人(日本列島に住む)
・・・邪馬壹國(北部九州地域)
・・・・・對馬國、一大國、末廬國(自女王國以北の地域)
・・・・・不彌國
・・・・女王國(卑彌呼を共立した中心国)
・・・・・伊都國、奴國
・・・・傍國(斯馬國〜烏奴國の20か国)
・・倭種(中国地方)
・・侏儒國、裸國 黒齒國(四国、関西地方)
・狗奴國(南九州の卑彌弓呼の支配下) 卑弥呼時代は、「邪馬台国」=「女王国」
台与時代になって、【(「邪馬台国」=「女王国」) + 「狗奴国」】=倭(国)
そして、卑弥呼時代以降の倭(国)は、県外(淡路・讃岐・吉備等)を包含しながら順次拡大していく。 @阿波 413の>>926
>だから、倭人条の循海岸水行七千里に合わせて、韓地方四千里に調整されてるってこと<
全く合っていないし、
循海岸水行七千里ではないし、「七千里」ではなく「七千余里」だし。 413の>>928
>邪馬台国はヤマトだ! 小学生かよ。<
邪馬台国なんて存在もしていないし、「台」に「ト」なんて音もないよ。
詐欺師かよ。 413の>>932
>(方四千里や七千余里)換算したときの「見かけ上」の話だけどな <
いや、「余」の使い分けがあるから、実測が元になった数値記載。
>その見かけ上の、現実とは関係ないものを「短里」だと誤認したのが九州説なんだよ<
その実測記載が短里であったのであり、
それを「誤認」とか言い出して、
都合の悪い記述の抹殺を図る嘘つき騙しの・・・・犯罪者的詐欺師が大和説者。 413の>>942
「南→東」や「余」の有無などの論点に関して、
なにも根拠を言わずに俺様結論をただ連呼か 。
さすが宗教思想の大和説。
学問じゃないわ。。 >>149
やっぱり
九州説に都合が悪いから
投馬国を消したいの
一心なんだな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 余なんていい加減に解釈してるだけだからな
論点ですらない 413の>>943
>投馬国は戸数と道のりが書いてる国だから 道里と戸数が書いている国になって
女王国より北にある国という事になる <
ならない。行程の記載時点で、投馬國は、
不彌國や邪馬壹國女王之所都の南の水行二十日位の位置にある事が確定位置してしまっており、
不彌國からの水行する国である、という認識であり、
また、「女王國」とは、あくまで、
(倭國や倭人諸国の中の)卑弥呼を共立に賛成参加した国の範囲の、という意味。 413の>>950
>投馬国は戸数と道のりが書いてる国だから
道里と戸数が書いている国になって 女王国より北にある国という事になる<
投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
不彌國や邪馬壹國女王之所都よりもずっと南である事が、先に確定。
だから、その後の説明は、その事に立脚した解釈をしなければならない事になる。 413の>>959
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
欺瞞ばかりだな。 413の>>961
>音だけならそうだけれど、<
音も合わないし、「南≠東」に拠っても、大和は、×。
>それまでとは画期をなす大遺跡で、<
九州倭国の東征将軍らにとっては、必要であったから。
>それまでにはなかった生活用ではない大建築と各地の墓制を
統合した前方後円墳祭祀の創始の場所で、<
前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないし、創始は筑紫の那珂八幡など。
>各地からの人の交流の結節点だった、
という考古学的な裏づけの上に、発音上もヤマトで問題ないんだから、これでもう決まりだろ?<
九州倭国の東征将軍らの拠点と、地方の市を監督する大倭職の地であっただけ。
>編年上も問題ないことが、<
卑弥呼の冢ではないから3世紀末以後であり、編年も全くあわない。
>桃核の14C年代測定で再度確認されたし、全く問題がない<
AMS法は、50年位古くでるから、×。 413の>>963
>投馬国は、邪馬台国以北の国というのは動かない<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國は、不彌國や邪馬壹國女王之所都の南の、水行二十日の位置にある事は動かず、
卑弥呼共立の「女王國」の中に含まれる事も動かない。 >>164
>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
>不彌國や邪馬壹國女王之所都よりもずっと南である事が、先に確定。
>だから、その後の説明は、その事に立脚した解釈をしなければならない事になる。
それならば、投馬国の記載は邪馬壹國の記載よりも、あとでなければおかしい
狗奴国ほか、邪馬壹國より南の国はすべて、邪馬壹國よりもあとに記載されている
九州説は、無理読みだから辻褄の合わないことばかり 413の>>971
大和説の面々が、
「南→東」などのような露骨な嘘書いたりが嵩じたり、
荒らしたり中傷したりが 、
ひどすぎるからだろ。 413の>>974
>そうだ! 纏向の柱跡と家型埴輪を組み合わせると
女王卑弥呼の都纏向の再現が出来るぞ!<
「南≠東」であるから、「女王卑弥呼の都」が×。 畿内説スレで九州説への反論が荒らしだという異常な発想 413の>>978
>仮の予測による復元って事になりそうやね
しかしビジュアル的に纏向を示せれば多くの人にその壮麗さがイメージしやすくなるだろう
もう九州説に纏向の柱跡は倉庫跡とかの悪宣伝の材料にはさせん
これで九州説は終わる <
しかし、纏向からは、肝心の生活痕や居住痕が出ないから、×。
これで、大和説は終る。 >>172
なんで×なのか理由もないというオソマツな九州説が
もう終わってます >>164
>投馬國の説明は、行程説明で不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
行程説明で
不彌國あたりでもう萬二千余里がほぼ終わってることにすると
女王国は会稽からはるか北ということになるから
九州説は倭人伝の記述と明らかに合わなくなり
お陀仏が確定するのだ
九州説終わってる >>173
南→東の説明をあやふやにしてる限り、
畿内説は支持されない
ましてや、纒向を大集落と言っているようじゃ笑笑 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>3
北部九州の文化を受容し融合し…と言っているが、具体的に何を根拠としているのか不明。
箸墓の築造は260年〜270年頃で、布留0式土器の時期とされている。
卑弥呼が死んだのは、248年。
10年〜20年も後に卑弥呼の墓を造るとは考えにくい。
卑弥呼の墓ではないだろう。
そもそも邪馬台国が大和にあったとする推定は、各種のデータから否定される。 とあるゲームのイラスト『ベルゼブブ』というのがあるでしょ?
『魔法のペルシャ』? >>4
大型建物は、3世紀半ば頃以前には柱の抜き取りが行われていて、建物はなくなったとされている。
卑弥呼の死は248年なので、卑弥呼が死んだ年以前には既に建物は無くなっていた可能性が高い。
卑弥呼の死と大型建物の撤去とを結びつけるのは、相当無理がある。 『聖徳太子 ペルシャ』
本当の話でしょ、ワニさんが何やらとか、
実際は『松傾』の家の話なんじゃないの?
キュウリの葉・・・あの写真もそうだし >>5
日本書紀は後漢書の倭國大和説を受けて、神功皇后を卑弥呼と似せたりしているように、各所でそうした描写を行っている。
箸墓についても同様の操作を行っているフシがあるので、要注意だ。
しかし、そのような操作を行いながらも、一方では、九州筑後山門で卑弥呼とよく似た田油津媛を討ったことを描写していて、邪馬台国が九州に所在したことをほのめかしている。
モモソ媛は直接的な卑弥呼の描写ではなく、一方の田油津媛は直接的な卑弥呼の描写であるので、卑弥呼の邪馬台国は筑後山門と推定するのがよい。 というか家の写真なんだけど
老婆が言うには、
馬に乗り、何かの刀を持っていて・・・寺院が〜・・・・
肉は食べなかったよと言っていたりw >>181
田油津姫は、卑弥呼本人と言うよりはその末裔かなと思います。
神功皇后の記述は魏志倭人伝に合わせるため、120年ほど繰り上げてあると考えられています。
つまり応神天皇が4世紀末になります。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 それにしても何なんだろう、
このような話とか
『蠅の話 小泉八雲』 >>184
肥人(コマビト・ウマビト)は異人なので倭人とは別の民族 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>7
高地性集落を地域間紛争の現象を説明する具体的事象だとする考えはその後の新たなデータによって否定されており、高地性集落の存在をもって瀬戸内沿岸など西日本の政治的まとまりの根拠とする考えはなくなりつつある。
大和の纏向に広域連合の臨時政権が置かれた事情は、高地性集落の存在とは別の動機によるものと想定するのがよい。
倭國の歴史は、倭人伝が記す通り、紛争が頻発するまでにすでに70年〜80年を経るものであり、大和の纏向に広域連合政権が180年頃に成立する以前にはそのような政権が大和にはなかったのとは対照的である。
纏向の政権は、各地の勢力によって政治的に合意編成されたものであり、倭人伝の倭國とは異なるものである。 小泉じゅんいちろーの話をしていたことがあったり、
一緒に議事堂(国会)に行ったことがあるとか、
父親は横須賀の〜と言っていたりw
偶然にしてもおかしな話ばかり、
どういうことなんだろう 414の>>108
>では、千余里の距離は1里434mで計算するのがよいと思うが、どうか。<
魏志などの「大部分の李記載」や、東夷伝や、韓伝の方四千里や、
倭人伝の3渡海の各「千余里」などの史料実態と、6倍位も違って、
「南≠東」などと相まって、
×。 >>175
>南→東の説明をあやふやにしてる限り
何度も丁寧に説明しただろうが!
たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498
次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い
記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡がどの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう
また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので方角を記録していないとしても問題ない
さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる
以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
番外
ザラコク理論では、実際の方向ではなく出発方向が記されていれば、あとは倭人の案内や道なりで到着できることになる
つまり、最初に5メートル南向きに水行し、その後倭人の案内で日本海の海岸沿い(道なりに相当)に東に進めば邪馬壹國に到達できる、
ということで構わない
ザラコクは「南≠東だから×」といえる立場にないww >>188
>纏向の政権は、各地の勢力によって政治的に合意編成されたものであり、倭人伝の倭國とは異なるものである。
どうして?
倭人伝の倭國は共立で出来てると書かれているのに?
ぴったり合致してない? >>179
>大型建物は、3世紀半ば頃以前には柱の抜き取りが行われていて、建物はなくなったとされている。
誰にそう「されている」の?
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