邪馬台国畿内説 Part416
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546950095/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>214
76.5mを1里とする単位の記述は、中国文献のどこにもないな。 「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。 >>213
庄内式の下限年代を250年頃とするのは、寺澤だけだろう。 >>344
>大和庄内2〜3式=250年〜290年
また出所不明の謎数字を呟く九州説
デマご苦労 しっかしおおよそ喋る事の全部がウソとか
九州説の頭の中はどうなってんだよ 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>340
>卑弥呼は、筑後山門だからな。
>念のために、言っとくよ。
で?っていうww
筑後山門の七萬餘戸の遺跡はどこ?
宮室楼観城柵はどこにあるの?
卑弥呼の墓の候補はどれ?
筑後山門は、地名だけの候補地
弥生終末期にはみやま市の半分くらいがまだ海の底
下山正一先生が有明海の海岸線についてきちんと研究されてる
http://www.npo-ariake.jp/act-report/symposium/190203_00.html
この辺の図でも見ておいて >>347
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、
いいや?
短里なんて説明には不要だよ?
1.遠くのことはより遠くに書く誇張(王朝の徳を高く見せる)
2.伝説・伝承の数字の混入(神話などはなにごとも過大)
3.情報が不正確
これくらいで簡単に説明できる
>>347のコピペも意味ないから何度貼っても説得力ゼロだよww 土器編年はいいからさ
鉄鏃編年で検討しようよ。
魏志倭人伝にも鉄鏃だよって書いてあるんだし。 >>516
「南→東」などの嘘つき騙しの大和猿の詐欺師は、
都合が悪いといつものように荒らしまーす 。 >>357
残念ながら、邪馬台国にあるはずの鉄鏃が纒向遺跡にはないので、編年がそもそもできません。 >>518
山ほどコピペ投下して荒らすスレ主らの大和説のヤマアラシ
「南→東」などと。平気でと嘘つくカワウソ
長里をゴリ押すゴリラ
このスレは見物料取れるな 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>362
ああ、そうだね。
ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの? 箸墓は、3世紀第4四半期、もしくは4世紀に入ってから、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)が卑弥呼の冢(直径150m円墳)を埋め立て、
その上に築いた前方後円墳(後円部直径160m)である。
現在の徳川大阪城の地下に豊臣時代の大坂城が埋まっているように。
前の権力者に失礼のないようにその王墓は破壊せず、密かに裏で祀り、表歴史からその存在を消す、というウルトラCを成し遂げた天皇家は、列島支配者に相応しい。
確かに纏向遺跡には首都らしい住居遺跡はないが、箸墓を築造した作業員たちの住居遺跡もないことに要注意。 >>535
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
非合理的な考えを捨てたらどうだ? 。
まともな現代社会じゃ生き辛いだろ。 では、北部九州にあった倭王が、どうして遠く隔たったド田舎・大和の卑弥呼に取って代わられたか?
それは主に首都圏だった北部九州で起こった倭国大乱のせいである。
西暦189年ニュージーランド北島タウポ山の大噴火による大飢饉が、大量の餓死者を出し、食糧の奪い合いから、
中国後漢では黄巾の乱を経て三国志の戦乱となり、倭国首都圏(北部九州)では大乱が発生した。
そして、倭国の盟主だった奴国には、代官はいるが王はいない、つまり倭王はいない、と魏志倭人伝に書かれている。
これらを総合すると、比較的凶作の影響を受けなかった、北部九州から遠く隔たり、田舎で人口が少なく、備蓄食糧が余っていた大和の卑弥呼が、
飢饉に陥っていた北部九州に大量に救援食糧を送ったため、北部九州の王たちも、民の命を救ってくれた大和女王卑弥呼こそ、倭王に相応しいとして、
奴国王を男弟として大和に送り、邪馬台国が成立したためである。 ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの?
ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの?
ホケノ山の鉄鏃は、九州のと比べるとどのあたりの年代になるの? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) そんなことよりも・・・・
『三等重役』
桑原、浦島・・・という登場人物(キャラクター名)、
本当の話でしょ?
あの写真の家の話(というか家の写真)、
蚕を飼い、機織りをしていた家だよと言っていたし ほとんど老婆談なんだけど
母親だという人だけ、素足(裸足)に下駄、
葱の華のほうにいる人、椅子に座っていて、子供(赤ちゃん)を抱いている
どのスレだったかな、同じ話をしたとき
「サザエさんの話じゃないのか?」
みたいなレス(書き込み)をしてきた人がいたり >>536
普通の人類は東西南北などは間違えない、と言うのが史料から読み取れる事実。
大和説猿は事実を認めないで妄想を叫び散らすだけ
あわれあわれ 『松傾』
こういう名前の家なんだけどw
有名人なのかな、何なんだろう >>371
>根拠なし
?
ちゃんと報告書が出てるのに?
オレ様の気に入らないモノは理由ナシで却下するのが九州説でスカ? 『河童の三平』『サザエさん』
・・・・・作者も生まれていない頃の写真だと言っているんだけど、
どういう事なんだろう
『河童の三平』
画像を検索してみて、同じでしょ? >>537
>・会稽の東に無い <
これインチキ。「会稽東治の東にほぼ女王國がある。
>・九州の中でさえも方向間違いだらけ<
これ、類スレ主が魏志を曲解捏造している。
魏使らや陳寿は、方向を間違っていなかった。
>・記載が伝説の頃から変わってないとてもいい加減な物 <
魏志も魏略も「余」を付けて計測値である事を示していり、
全体としても、淮南子の記載とは全く違う。 >>538
合理主義者はよく聞くけど
非合理主義者の・・・・っていうのは聞いた事もねー
非合理主義者大和説 『分福茶釜 天津』
このような写真があるでしょ?
同じような感じなのかな?
でも家は芸能人でもないし・・・、 >>381
異論ないよー
ホケノ山は3世紀前半でいいんだね? 方向を「南→東」に変えないと、邪馬台国は沖縄になってしまいますよw >>377
>>・会稽の東に無い
>これインチキ。「会稽東治の東にほぼ女王國がある。
理由のひとことも言わず
My結論だけ連呼するのが
九州説のはしたない生き方 >>384
畿内説に何も反論できず、ただ罵る
それが負け犬の九州説 >>383
ならないよ。
帯方郡→壱岐対馬→北部九州→阿波朱儒国まで、
弥生時代基準で正確に記されている。
なんか悪いものでも食べたの? >>543
頼むから海外の学会とかに向かって、
「南→東」とか、「魏志は1里434m位」とか、「前方後円墳が冢」だとか、
魏志倭人伝を正しく読んだら大和だ、とか発表しないでくれよ
日本人がみなこうだと思われたらかなわん -「会稽の東」という記述を厳密に解釈すれば、沖縄以外にないから、間違い。
-不弥国から水行二十日の投馬国(い・つま=出雲?)から「水行十日陸行一月」という記述を信じれば、九州には絶対納まらず、大和以外にない。
この2つの矛盾を解決するのは、「会稽の東」を大雑把に倭列島全体を指していると考えて、大和とするのが正しい。 >>546
周朝と魏朝は一寸千里の法や短里ではない、とかも、海外の学会に発表しないでくれよな
日本人はキチガイだと思われるから >>381
異論ないよー
ホケノ山は3世紀前半でいいんだね? 従来見落とされていたことが、不弥国から投馬国まで水行(20日)ということは、投馬国が九州内にはないことが明白 >>549
魏帝らの大事な使節である魏使らの実地の見聞計測記録が元になった魏志の記載は、
現代の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説よりも、
客観性も信頼性も確率も非常に高い。 自身があるなら中国で短里を主張すればいいのにな
本当なら大発見だぞ 魏は呉の背後に南北に細長い列島だと誤認していた。そして呉を挟み討つ同盟国としての輪を重視した。
その希望的観測が邪魔して、実際より南に女王国があると書かざるを得ず、それに合わせて東にあるにもかかわらず、南と書かざるを得なかったのである。
不弥国までは九州島にありながら、そこから先投馬国以降が実際はすべて東の本州島にあるにもかかわらず、「会稽の東」つまり沖縄に女王(邪馬台)国があるとなってしまった。 >呉の背後に南北に細長い列島だと誤認していた。
意味不明。 ほとんど老婆談なんだけど
丹羽?ニワが何やらという話をしていたり・・・、
どういう事なんだろう >>578
万世一系皇国史観儒教の大和説が、悪魔教の一種に見えてきたな
いやたぶん宗教学的に見ればそうなんだろうけど
悪魔の像はたいがい半獣半人
獣性をもつ人間として表されるし 孫呉は南から兵を集めるしかないから
倭国が会稽の南にないと、司馬懿の功績が曹真の功績と比べて劣るんだよな >>585
悪魔教は人を狂わせ理性のない獣に変える
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説そのものじゃないか? >>400
もうなにがなんだかわからなくなってるねw 逆に言えば、結論として『邪馬台国(女王国)は「会稽の東」にある』と書かなければいけない制約というか大前提があって、
北部九州の各国(〜不弥国)から、大和までの道程を記述しようと無理すると、ちょうど魏志倭人伝のような記述、つまり「東→南」に書き換えざるをえないことに留意されたい。 魏略にはあったらしい西域伝が三国志では欠落しているのは何か忖度があったのかもしれんね >>397
なんで意味不明だと思うの?
テンプレに画像まで出てるのに
ただ理解したくないだけなのかな? >>588
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のでっちあげ。
「いや…待てよ… 九州説は短里を76.5mと主張している これをならすと66・6… 」
恐ろしい… 。
黙示録に予言された獣…大和説…。 芝居、歌舞伎が〜好きで・・・、
本や書などが、ずら〜っと沢山並んでいた、
そういうモノなんかも、誰かにあげたのか、売ってしまったのかな・・・、
近所の人が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 >>405
>呉の背後に南北に細長い列島だと誤認していた。
意味不明。 九州説のオジーちゃん達は現実を見たくないのさ
彼らにとって現実なんで苦痛でしか無いからね 九州説の人達に、もしわざと書き込んでいるのでなければ、歴史の真実を知って欲しい。
倭国の新しい女王卑弥呼の邪馬台国が、呉を挟み撃ちにできる重要な同盟国であるためには、
以前の倭王である奴国から、遥か彼方の東に遠く離れた大和と正直に書くと都合が悪い。
せめて奴国(北部九州)も邪馬台国も呉から近い場所「会稽の東」、つまり南部九州の西岸か沖縄、にないといけない。
その結論ありきで、大和の場所を記述しようと無理を重ねたのが魏志倭人伝であることを。
そして>>364 >>367を。 助詞の使い方が正しいとは言わんけど分かる範囲だな
分からないのはどこかに欠陥があるよ >>589
>>陳寿は「会稽東治」と書いており、「会稽郡の東治」とは書いておらず、
「治」の主語がはっきりしない。<
>とうとう 「会稽東治」が 当時ぜんぜん会稽郡でない場所なのだと言い張りだす
末期症状の 九州説 合掌 <
陳寿の書き方からは、「計其道里當在會稽東治之東」の「会稽」は、
当然その前に書かれた「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している事になり、
「会稽郡」の事だ、とは言えない。
そうすると「東治」の「治」の主語は「夏后少康之子」という事になる可能性がある。、 >>596
これ、何度も反論済みだから、
放置ね。 >>601
そして自分にレスを付けて同意してバレてないと思ってる?、
まいどの、大和サル踊り >>413
>陳寿の書き方からは、「計其道里當在會稽東治之東」の「会稽」は、
>当然その前に書かれた「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している事になり、
それが会稽山のあたり
そして夏后少康之子の子孫が越の王家
つまり北緯30度よりも南だ
九州説は死んでいる >>382
ダメですね。
ホケノ山は立派な槨があり、邪馬台国より後世の様式です。
なお、内行花文鏡の破片があり、平原の影響が伺えますが、完鏡はありませんでした。
せいぜい征東将軍でしょう。 キナイコシは平原の鏡が破られていたことを馬鹿にしていたけれど、その破片を大事に大和まで持ってきた人物に鉄鏃で畿内が征服されたわけだ。 >>418
>ホケノ山は立派な槨があり、
槨があるという証拠は? >>604
>1魏里約430m<
魏朝里は1里≒76〜77mであるから、
これ×。 >>423
「オレの説が正しいから、お前たちの説は間違いなんだ」
これが、九州説がダメになった理由だね 北部九州にあったことが確実な不弥国からの道程を
「南に」水行二十日で投馬国、そこからさらに「南に」水行十日陸行一月、と「東→南」に、例外的に方角を書き換えることで、
道程(所要時間)については正しく、かつ見事に、邪馬台国が(呉を背後からすぐに攻撃できる)「会稽の東」と書けることに留意されたい。 これは偶然ではない・・・、
大伴小手子?の像が建てられていたり、
むかーし、あの近所に住んでいたことがあったとか >>367
>では、北部九州にあった倭王が、どうして
後漢書によると
桓・靈閨@倭國大亂 更相攻伐 「歴年無主」
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲王
倭國乱によって倭王と呼べる存在は居なくなったんだよ
それが何年も続いて、その後卑弥呼が共立されたとある
三国志では
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。
倭人伝の相攻伐歴年の間は王と言える者はいなかったということだろう
その状態から新たに共立されたのだから、遷都とかではない
ただ神武の東征が記紀に書いてあるのは、卑弥呼の共立の時に
卑弥呼の祖先(神武)が九州の血筋であることがある程度
重視されたことを反映している可能性はある >>606
>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里<
計測地点が全くのように示されていないし、国の範囲も考証されていないし、
660kmの計算根拠も示されていないなど、
データそのものがインチキであるから、×。 >>373
>普通の人類は東西南北などは間違えない、と言うのが史料から読み取れる事実。
読み取れません
史料から読み取れるのは、史料に記載された方角は間違うときは間違う、ということ
1.現地のその場で間違えないことと、
2.木簡に記録するときに間違えないことと、
3.ある木簡の記録が他のも区間の記録と混同されないことと、
4.ある木簡の記録が紛失しないことと、
5.他の記録との整合性があるかどうか判断することと、
6.実際の史書にどう書かれるかということは
相互に独立した事象であり、ある意味互いに無関係
「1」は正しいと一生懸命に言ったところで
「6」が正しいかどうかには関係ない
問題にしなければいけないのは「6」についてであることおよび
間に「2〜5」があることを無理に無視している
さらに言えば、ザラコクは「1」は正しいという点にもなんの根拠も示していない >>609
>>「至」の前に途中移動の説明がないから、魏使らは移動しておらず、<
>ザラコク発明のこの珍説に根拠がないから、あと全部みなヨタ話に、なるんだよな<
行程移動の「出発+途中+到着」の順に説明する事は、人類の常識であり、
陳寿が、奴國と投馬國の行程説明に「途中移動の説明文言がない」という事は、
魏志の史料実態。 >>432
>奴國と投馬國の行程説明に「途中移動の説明文言がない」
それはなにを示しているのでしょうか? 他の人物なのかな?
浅野セメント・・・関係の会社(企業)で仕事をしていたんだよ、
と言っていたんだけど
むかーしやっていたサザエさんのCM?? >>610
>女王国は邪馬台国だし<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×。
>会稽東治の東は台湾沖縄辺り<
会稽東治は、会稽の東方海岸地域になり、上海付近〜江蘇省海岸付近になるから、
会稽東治の東は、九州島付近であり、
台湾沖縄は×。
>1万2千里は概念的数字<
魏志と魏略には、「萬二千余里」というようにに「余」が就いているから、
計測値からの概数説明であり、
淮南子を踏襲していないを事になるから、×。 >>387
>帯方郡→壱岐対馬→北部九州→阿波朱儒国まで、
侏儒国、裸国、黒歯国を実在の国だと考えている人は
どうかしている
自郡至女王國萬二千餘里までに書いてあるのが実在の国
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種から後ろに書いてある部分は、伝説や伝承の引用 >>611
ほらな
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
まったく反論できない
つまり終わった説 >>614
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、<
それについての、出発地や到着地に関して、何ひとつ具体的に証明できないから
大和説は支持者が消えたんでしょ? >>617
いま、あなたがやってるのが、
「大和説にとって都合の悪い記載は何でも間違いだ」説という名の、
捏造だよ >>621
>現実にあきらかな捏造をしてるのが 九州説だと証明されてるだろうが
会稽が、どうして江蘇省に移動するか?<
Wiki筆者は、
257年の会稽郡の分郡で、会稽郡の東方地域が、揚州(ほぼ現在の江蘇省)の管轄になった、
という証言を書いている。 >>404
>魏略にはあったらしい西域伝が三国志では欠落しているのは何か忖度があったのかもしれんね
お前さん、この前はこれを「呉書にはあったらしい西域伝」って書いてたよな?ww
魏略は逸文しかないのをいいことに、何でもありにしてるだろw
前は魏略には伊都国までしかないから伊都国が邪馬台国とか言ってたしww
魏略に西域伝があったとする話は聞いたことがない >>622
時々、議論しているのは、
「正常な成人の大和説者だろうか?」という事に、
自信が持てなくなるよ。 >>624
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者に対しては、
もっと5歳児に話かけるような風にした方がいいのかも知らん。
或いは、さっさと警察に来てもらって、
病院か留置場に収容して貰った方がよいかも。 >>627
「南→東」などの嘘つき騙しのあの様子じゃ、
大和説者の症状はだいぶ進んでるな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています