邪馬台国畿内説 Part416
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546950095/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国畿内説を宣伝する3寸男が、韓国人だという真実を発表するときには、人種差別にならないように、注意すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>738
この布留0式土器が4世紀のものだという説が定説となっていないから、現在も布留0式土器出土の箸墓が3世紀後半として位置づけられているわけ。 >>742
>纒向遺跡にはそのような分化がなく
ないって証拠は?
ただ言い張るだけ?
これだから九州説はww >>743
それが脳内、といえるお主が脳内なんだよ。 >>742
吉野ヶ里周辺のどこで水田跡が見つかってる? 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 >>738
それ、Wikipediaのインチキ記事だろ
元のまともな記載を九州説の荒らしがデタラメに書き換えてるやつだぞ
編集履歴見ると丸わかり >>733
なに言ってるの。
纏向遺跡から出た庄内式土器。
人は住んどるかいな。
纏向は、人が住んでいない祭祀施設。 >>750
周辺は水田として現在も使われ続けているから遺跡はないの
キミ馬鹿? >>84
>『近代以前の日本の人口統計』(Wikipedia)−1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)−
によれば、紀元200年の日本人口は594,000人。
うち、北九州と南九州の合計が105,100人で、北海道を除く本州・四国が489,800人。
四国を除く本州だと459,700人。<
こういうような、
「南→東」などの嘘つき騙しの通説大和説学者に支配された筈の学者の人口推定など、
始めから、何の信頼性もない。
信用して欲しかったら、まずその鬼頭が「南≠東」や「大和説者か?」などを確認してからにする事だな。 それにしても・・・、何の話なんだろう
りゅーま、りょーま?
そのような話もしていたり >>85
>ちなみに『陳寿90度回転説』によれば、
『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種』
これは本州に対して『東→90度回転で北』にある宗谷海峡を渡った先の、北海道アイヌ。
『又有侏儒國在其南 人長三四尺』
これは90度回転で北海道の東、アイヌが『コロポックル』と呼んだ南千島の小柄な先住民。
に比定される。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>748が幼稚園児みたいなオウム返ししてて藁束ー
さすが九州説じーさんだわ
幼児化しとる >>248 のガセネタ爺さん
どこに逃げたの?
>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。
庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの? >>87
>そうなんだよな
末盧国、伊都国、奴国まではほぼ正しいが、不彌國は定説がないからな
そうなると試料は末盧国ー伊都国間の一里=200メートルと
伊都国ー奴国間の一里=50メートルのn=2の試料しかないことになる<
「末盧国ー伊都国間の一里=200メートル」も「伊都国ー奴国間の一里=50メートル」も、
出発地点と目的國や到着点を、史料記載実態にちっとも合わず、
おそらくインチキ比定であり、
それに、その他の里記載の抹殺も、おそらくインチキ騙し。 >>756
都市の周辺には都市の人口を支える農業地域が付随する。
水田なしで都市の人は何を食べていたと?
大きな遺跡が有れば当然周辺には広い耕地があったんだよ
水田が遺跡になるには土砂で埋もれるとかしないと
そのまま使い続けたら遺跡にはならないよ。 >>678
>は?
>意味不明
もぐりがエラそうにしてんじゃねーよw
魏志倭人伝の旅程部分だけを抜き出すと
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海 千餘里、 至對馬國。
又南渡一海 千餘里、名曰瀚海、至一大國。
又渡一海 千餘里、至末盧國。
東南陸行 五百里、到伊都國。
東南 至奴國 百里。
東行 至不彌國 百里。
南 至投馬國、 水行二十日。
南 至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。
明確に二国分ずつで、書き方を揃えてるだろ
そして二国分ごとに、書き方を変えてる
有名な話だぞ
知らないのはもぐりか情弱ww >>88
>国境概念はないと何度言えばww山越え、峠越えの区間は人里の外であり、どこの国でもない<
万を超えるような戸数の国であれば、低い峠越えに広がっている事など、幾らでも有り得る。
>国に着いた所までだと強弁したところで、奴国についたところは
日向峠を下りきって人里についたところにしかならない <
古代においての部族國間は、本来は過疎であり、通常は境界を接せず、
従って、居住外縁部間の距離記載になる。
「南→東」などの嘘つき騙しのような、嘘にウソを重ねる大和説が大嫌いだし軽蔑してる
同じ解説を何度聞かされても、無視して意味のない数字合わせを書き続ける辺りが
大和説の人材不足と惨状を明示している
大和説にはまともな人が一人もいない。 >>692
>藤原氏の祖である中臣鎌足のことかね?
中臣鎌足の九州征伐の逸話なんてあったっけ?(すっとぼけ)ww
ふざけたこと言ってんじゃねーよw
中臣鎌足は九州とは無縁だろw 本当に・・・家は芸能人とか、
そういう家ではないんだけど、何か知ってる人がいるのかな?
例えば『島津 菅野』
あの島津氏の遠い親戚?幼稚園も同じだったしな・・・、
『菅野 桜本 ロケ』家の近所に撮影に来たり。
何やら宗?とか、そういう関係? >>766
でも実家には、毎日のように嘘を重ねてるのは貴方では? >>694
>前方後円墳が邪馬台国と何の関係があるのか。
>そもそも邪馬台国は弥生時代の話だし。
それがな、九州説によると、古墳時代も九州倭国が存続していて
倭国を代表していたことになっているんだ
その倭国の代表政権たる九州倭国の古墳時代の王墓はどこにあるんでしょうね?って話
九州なんて、弥生終末期からずっと倭国辺境の一地方だよw 『旧広瀬座』(『福島 民家園』)
何関係のものなのか?なんだよな・・・、
『阿部 創価』?
それとも他の関係のもの? >>700
>筑紫の君磐井と卑弥呼では王家が違うんだよ。
>九州説を理解せずに批判しても筋違いの批判にしかならないから、痛くもかゆくもない。
王家が違ったところで、九州倭国の王家は存続してるんだろ?
そして、九州でも古墳時代はずっと、各地域の盟主墓は前方後円墳だ
これが、考古学的「事実」
で、その存続していた九州倭国の王家の墓は、どこにあるんだい?ww
卑弥呼系でも、磐井系でもどっちでもいいけどさww
>>700は詭弁にもならない、バカ丸出しww >>763
耕地はあったんだろうが水田とは限らないだろ
日本には拡がらない甕棺墓制なのだから
日本より朝鮮半島の遺跡、出土遺物と比較して想定しなければならない >>707
>ダメ。則天の前も後も、書き分けられている。
それでいいんだって!
則天時に、倭国の使いが日本国への国号変更を伝えたって、唐会要に書いてあるんだから
そのままじゃないかww 福島県信夫郡?
家も、むかーし、
その辺りに住んでいたんだよと言っているし
伊達郡川俣町・・・? >>711
>佐賀県吉野ケ里遺跡約1,170,000u
>静岡県登呂遺跡の17倍だなw
登呂遺跡は、水田遺跡
吉野ヶ里には水田跡がないっていう話題なのに何を言ってるんだ?ww
バカだろ?ww >>717
>倭人が教えた日数距離を中国人が里数に換算して理解できていたということは、中国人にも水行日数距離の慣行があり、それを里数に換算して理解していたということ。
それが大体、1日=30里とされているね
で、北部九州からの水行二十日+水行十日陸行一月で計60日
30×60=1800で、九州までの万里と合わせて、萬二千里になる訳だ
まあ、この辺は数合わせでしかないけれど、陳寿的には納得のいく数値なのだろう
それが、「計其道里」當在會稽東冶之東というのの内容だろうな 緘口令って対中国だけで良いから九州征伐の国内の大手柄を無くす事は出来ないな
成果を上げた奴を粗略に扱ったら政権がもたんだろ >>723
>倭人が水行日数教えたら、中国人がそれを里数に換算して、「あっ、千余里ね」と理解したということじゃ。
渡海と水行は、きちんと区別されている
混同しているうちはまだまだだな
むしろ脊髄反射は>>723の方だww >>721
>北部九州の博多が大和に帰服したのは、3世紀中頃。
帰服というか、協力関係であり、祭祀連合だろうね
奴国、投馬国、邪馬台国(+吉備、日向)の協力関係が
倭国の全体構造を規定していたのだろう >>730
>元々、魏志の行程に書かれた里数記載の、一部を取り出して、
>その出発地点や到着地点を誤魔化し解釈して、
>里数記載として安定した長距離里数記載を恣意的に抹殺したデータでの計算であるから、
>詐術的な計算であり、
>「類スレ主」は、ペテン師。
そう思うのなら、ザラコクなりの比定地とその間の距離を明確に示して、
詐欺的ではない正しい統計処理をして、推定値(信頼区間)を示せばいい
そして、双方の計算数値が出揃ったら、初めて同じレベルで議論ができる
論争は「同じレベルの間」でしか、できないんだよ
現状、九州説のレベルが低すぎて論争にならない
「お話にならない」ってやつだww
九州説側の、推定値が出てくるまでは、
117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ
反論は、「具体的な数値と計算」で示してくれ
それができなければ「ごまめの歯軋り」以下だ >>731
>纏向政権は、北部九州の倭國を併合した。
>そして、その事実をタブー化した。
これが既に論理矛盾してるんだよなw
どこの歴史でも、外部勢力を倒したという征服譚は、誇るべきものであって
隠したりタブー化したりするものではない
記紀も四道将軍、景行天皇、ヤマトタケル、仲哀・神功皇后の征服譚を
誇らしげに書いてるじゃないか
端から、ご都合主義の言い訳でしかないんだよ
大和が小国で九州の邪馬台国を倒したなんていうのはww 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>766
>「南→東」などの嘘つき騙しのような、嘘にウソを重ねる大和説が大嫌いだし軽蔑してる
ウソだウソだってzarakokuが言い張ってるだけで、なんの証拠も無いんだろ?
それに実際には嘘にウソを重ねてるのはzarakokuでしょ
いくら証拠を突き付けられても臨海郡が江蘇省とか平然とウソ言い張ってるし
まともな人はきっとそんなzarakokuが大嫌いだし軽蔑してる >>749
テンプレ読んだけど
>このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 <
学会の定説では無いし 畿内説内での通説としか言いようがない
また、今日か強化の過程は?
テンプレも所かまわずの貼り付けや引用だけじゃ支離滅裂となるよ キュウリの葉、葱の華・・・・?
河童の三平、げげげ・・・の作者も生まれていない頃の写真だと言っていたり、
それにしても、なぜ知っている人達がいるんだろう? >>786=>>1
24時間張り付いてるのもよいが
ネット情報だけでは乗り遅れる
だから、過去の畿内説の話しかできない
今は畿内説の学者さえ纒向から距離を置いてる現実を知らないの 畿内の3世紀ごろの互助組織の歴史はわかったよ 各地域歴史はあるから
>
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 『分福茶釜 天津』
河童の三平?同じようなコンセプトだしな・・・w
どういう事なんだろう 箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。
https://mainichi.jp/articles/20180430/ddn/041/040/004000c
定型化した最古の大型前方後円墳で卑弥呼の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、3世紀中ごろ〜後半)の後円部から出土した葬送儀礼用の土器「特殊器台」と「特殊壺(つぼ)」が、
岡山・吉備地方から完成品として持ち込まれた可能性が高いことが、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)の研究者の分析で分かった。土器表面の土と岡山県総社市周辺の土の特徴が酷似するという。
葬送儀礼に特殊器台・壺を用いる吉備地方の大きな勢力が、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことを示している。
ということは、もし卑弥呼の冢なら、卑弥呼は吉備の女王だったのか?
もし、台与の死後、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷・天皇家によって、卑弥呼の冢の真上に築かれた>>364なら、天皇家の出自は吉備王だったことになる。 >>91
>九州説は比定地が皆違う<
九州説は、個人の自由で史料事実からの帰納的推論をしているから、「大同小異」。
大和説は、「南→東」な度の嘘つき騙しの大和説学者に
支配され隷従しているだけだから、全員×。 後ね
畿内説はどちらを採用してるのかな?
「當在會稽東治之東」
倭人伝・・・「治」
後漢書・・・「冶」
他説攻撃のため使い分けていないですか?
九州説は倭人伝に基き「治」で統一されてます 天津神・国津神?
どういう事なんだろう、誰にもわからない? >>793
>天皇家の出自は吉備王だったことになる。
天皇家の出自は、践祚大嘗祭で最重要の麁布を調進する、倭国(阿波)なんだよ。 @阿波 >>94
>可耕地に乏しい九州は小国家が分立して当時から争いの絶えない修羅の国だったそうだから
奈良の大国である邪馬台国の傘下に入って調停してもらったのだろうな <
邪馬台国なんて存在しないし、
大和は、九州倭国の別種分家の旧小国であったんだから、×。 >>794
>吉備の土器は出雲の西谷にも運ばれたからな
そりゃ、「忌部はん」 同志なんだから。 @阿波 >>790
あんたが有名な嘘つきオクムラでしょ
それで、どのように最近「通説が強化された」の >>787
読んだんなら
どこが支離滅裂なんだか
具体的に言ってもらおうか >>801
〇オクヤマ
✖オクムラ
橿考の奥山誠義に気を使ってるようだが別人 >>796
後漢書のほう
現在見れる魏志倭人伝は12世紀の復刻で誤字が多い >>776
都市部だけで水田の17倍の面積があったんだよ
吉野ケ里遺跡の17分の1の水田で何人養えるんだw
自分のバガさに気付かないの? >>803
オクムラでなくオクヤマ=キナイコシ=>>1=スレ主
昔ね
スレ主氏が
#okuyamaのトリ解析されてしまい 冷や汗かいたのだよ
名無しでも特定可能なのにネ >>756
じゃあ吉野ヶ里の住民は何を食べていたんだよ。
バカだろ。
今も昔もまわりは田んぼだよ。 >>793
逆に考えると。天皇家が吉備の王じゃなかったら、
なぜ、飛鳥時代まで古墳時代300年間もの長きに渡り、箸墓を嚆矢とする前方後円墳で各地の王を従え、序列化していった理由が判らんだろ。
天皇家の出自は箸墓に葬られた吉備王でないと、他人の褌で相撲を取ってるようなもんで、論理的におかしい。
では各地の教育委員会がめぼしい場所は皆掘り尽しているのに未だに見つからない卑弥呼の冢がどこにあるのか?
現在立ち入れない場所、そして立ち入ったとしても、その存在を現在の構築物を破壊しない限り確認できない場所、つまり箸墓の真下にタイムカプセルのように埋まっているとしか考えられない。
まさに映画「ナショナルト・レジャー」の世界w 畿内説では曖昧ではないのかな
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る
皆、倭種といえども女王に属さず 117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ
短里があったことは確実だ >>795
>九州説は、個人の自由で史料事実からの帰納的推論をしているから、「大同小異」。
機能的に推論して、一意解が得られないなら、それは帰納的推論ではないww
個人の自由で比定地が決まらないならそれはデタラメってことだよ
九州説の実態はそんなもんだww >>783
>どこの歴史でも、外部勢力を倒したという征服譚は、誇るべきものであって
外部勢力ではなく、倭国内の政権交替であったから、裏切りと陰謀の経過をそのまま書くわけにはいかなかった。 サルタとか、天津・国津の話があるでしょ、
後の〜と言ってる人がいたり・・・、明治頃に〜とか >>806
吉野ヶ里では水田跡は発掘されていない
これが事実だよww >>793
>箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。
吉備高島宮から大和に入った人物がいたような気がするんですけどねえ。 >>816
あのーー
東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
さらに、一寸千里の法で測った帯方郡からの距離は17500里になり、12000里を遙かに超えて、意味をなさないことから、「会稽東冶」ではない
会稽東治を浙江省紹興市とすると、帯方郡はそこから12000里北になり、黄海北道周辺が正しいことを示しているソウルや広州はあてはまらない 謎の神話があるでしょ、
左目から生まれたという話になっていたり >>815
>短里があったことは確実だ
統計学のとの字も分からないやつが何を言ってもムダ
「117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ 」
これは認めるんだな?ww
95%信頼区間の中のどこに真の値があるか、という点に統計は何も示さない
当然、一里=435メートルもその信頼区間の中である以上、真の値である可能性は否定できない
ただまあ、-225メートルから459メートルという信頼区間から何かが言えると思う方がどうかしてる
というのが統計が分かっている人の通常の解釈だ >>823
>一寸千里の法で測った
地球表面の実際の鉛直方向は傾斜しているから
棒の影で測ったら正確な距離は出ない >>104
「南→東」などの嘘つき騙しを敢えてする大和説者らは、
万世一系皇国史観で人種差別的殺し合い戦争という妄想を連呼する宗教でもある。 >>817
後漢書にはなになに本とか複数の書写バージョンがあって
お互い書いてる事の比較が出来るから誤字などはわかりやすい
例えば後漢書で邪馬台国は邪摩惟国、ヤマユイ国の事であると
書かれた版が一番有名だけど
版によってはそれが邪摩推国や邪摩堆国となっているものがある
北史や隋書では邪馬台国を邪摩堆と呼んでいるので
後漢書にあるヤマユイ国は実は元々は邪摩堆国、
ヤマト国だったのではないかと考える事ができる 『羽衣伝説』?
ほとんど同じでしょ?
浦島、小手子・・・というのも >>793
>箸墓の被葬者は、わざわざ吉備で焼い特殊器台と特殊壺が大和まで運ばれ、後円部に並べられたことから、吉備の首長らしい。
筑紫から吉備高島宮を経て大和に入った人物がいたような気がするんですけどねえ。男性でしたけど。 >>819
>裏切りと陰謀の経過をそのまま書くわけにはいかなかった。
ヤマトタケルのイズモタケル征伐は、もう目も当てられないようなだまし討ちだけれど
誇らしげに書いてあるぞ
ヤマトタケルが兄のオオウスノミコトを殺した場面も凄惨だし、皇統の一族のやってることが
美化されている訳でもない
オオハツセワカタケルノミコも一族内の皇太子イチノベオシハノミコを
裏切りのだまし討ちで殺してるけどそれもそのまま書いてある
>>819はご都合主義の思いつきに過ぎないし、記紀の記述から具体的に否定されるww 佐賀平野東部では、吉野ヶ里遺跡(神埼市・吉野ヶ里町)などの拠点的集落があり、また海に近い低地には本分遺跡(みやき町)、高志神社遺跡(神埼市)など貝塚をもつ集落が分布する。
本行遺跡(鳥栖市)、姉遺跡(神埼市)などでは、青銅器生産が行われた。三津永田遺跡(吉野ヶ里町)、二塚山遺跡(吉野ヶ里町・上峰町)、目達原丘陵の遺跡群(吉野ヶ里町)などでは、青銅器などを副葬した墓地が確認されている。
佐賀平野中央部では、惣座遺跡(佐賀市)、土生遺跡(小城市)などの大きな集落が所在するが、その全体像はまだよくわかっていない。
佐賀平野西部では、椛島山遺跡(武雄市)や釈迦寺遺跡(武雄市)で見つかった甕棺墓・石棺墓などから、青銅器などの副葬品が見つかっている。 >>832
神武天皇の墓なら、そう書くよね。なんで7代孝霊の娘の墓ってことにしたの?>箸墓 >>823
>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、
おいおい、東冶県は臨海郡に属してたんだぞww
適当なことを書いてはいけない
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg >>111
>ある山の両側が一つの国っていう例はないだろ?
山は人の行き来をさえぎる自然国境になる
ご都合主義もここに極まれりだな <
奴國のように、2万戸もあれば、数万の人口であり、
低い丘陵のような峠の両側に広がっている場合は、幾らでも有り得る。 >>828
賛成
「當在會稽東治之東」は東の方でいいと思うよ
現在地図の畿内も九州も阿波も出雲も「當在會稽東治之東」 >>117
「南→東」などのような嘘つき騙しばかりして、
人種差別的ヘイトスピーチばかりして殺し合い戦争を鼓舞扇動するキョクウ人種は、
怒ってばかりして脳が狂ってしまうそうだから、
大和説の人は気を付けろよ。 >>816
あのーー
東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
さらに、一寸千里の法で測った帯方郡からの距離は17500里になり、12000里を遙かに超えて、意味をなさないことから、「会稽東冶」ではない
会稽東治を浙江省紹興市とすると、帯方郡はそこから12000里北になり、黄海北道周辺が正しいことを示しているソウルや広州はあてはまらない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています